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2011年2月 5日 (土)

紀和配線図 補足

昨日紀和駅の記事を書いていたらずいぶんと時間がかかってしまいました。
「まあ、こんなものかな?」というところで公開したのですが、後になってもう少し書きたいことが思い浮かんできてしまいましたので、補足の記事を書きます。

 

1.列車の運転状況
1972年(昭和47年)4月の時刻表を眺めてみますと、紀和駅を通る列車の運転状況は以下のようです。
1)和歌山→和歌山市方面
 ・季節列車を含めて全部で29本。
 ・南海線に直通する急行「きのくに」が4本、紀勢線方面からのローカル列車は14本、和歌山始発が10本。このほかに紀和始発和歌山市行きが1本。
 ・ローカル列車は15本が気動車列車、10本が客車列車。
 ・特筆は、串本発紀和行き121列車と前述の紀和始発和歌山市行きの227列車。121列車は紀和到着10:49、227列車は紀和発10:54。同一車両が列車番号だけ変えて直通、って可能性は低そうです。紀和で車両の入れ替えを行っていた、ということでしょうか。
 ・それと名古屋発和歌山市行きの921列車。名古屋発は5:55、和歌山市着は21:12です。
2)和歌山市→和歌山方面
 ・同様に季節列車を含めて全部で30本。
 ・「きのくに」4本、紀勢線直通ローカル17本、和歌山止まりが9本。
 ・特筆は和歌山市発23:21の4924列車。和歌山で天王寺からの924列車に併結され、名古屋には13:10の到着です。
客車列車が多数運転され、紀和駅始発・終着となる列車も設定されているなど、かなり興味深い運転が行われていたように感じます。
これらに加え、回送列車や和歌山機関区との間の入換車両の行き来など、考えただけでもゾクゾクしてきます。

 

2.和歌山市駅と貨物列車
1968年(昭和43年)の貨物時刻表を眺めていますと、和歌山操~和歌山市間には3往復の貨物列車が設定されています(うち1往復は季節列車)。
直前の1968年9月に和歌山操が開業し、同時に和歌山駅と紀和駅は貨物取り扱いが廃止されています。
和歌山市駅はおそらく当初から貨物営業を行っていないと思われますので、これらは和歌山市駅を介して南海線に直通する貨物輸送ということでしょうか。これらの貨物列車はいつ頃まで運転されていたのでしょうか。

 

3.和歌山客貨車区のこと
今まで和歌山機関区のことはいっぱい書いてきましたが、和歌山にはもうひとつの車両基地、和歌山客貨車区があることを忘れていました。
鉄道図書刊行会の車両配置表によれば、1973年(昭和48年)3月時点で天王寺鉄道管理局管内には4つの客貨車区が記載されており、亀山、竜華、新宮、そしてこの和歌山です。和歌山客貨車区には和歌山操支区も設けられています。
配置車両はオハ35系を中心に55両となっています。
翌1974年(昭和49年)3月時点では和歌山客貨車区の名前は消滅し、代わって和歌山貨車区が誕生しています。おそらく和歌山操支区が貨車区として独立したものと思われます。
詳細がわからないのですが、想像するに紀和駅の裏1~9番線あたり、例の洗滌台が設けられていたあたりの線路が客貨車区だったのではないかと思います。
1951年(昭和26年)以前は紀和駅構内に機関区と客貨車区が存在し、機関区が移転したのちも客貨車区だけが構内に残り、そして1973年度に廃止された、ということでしょうか。
以前の紀和駅の記事で、「何で30年も前の遺構が残っているの?」と書きましたが、これは機関区ではなくて7年前の客貨車区の遺構、ということですね。

 

4.田井ノ瀬~紀和間の線路
田井ノ瀬~和歌山(当時東和歌山)間の短絡線は1961年(昭和36年)に開通し、団臨や一部の準急のみが使用する特例的な扱いののち、1963年(昭和38年)からは貨物列車の運転が開始されました。
1968年の貨物時刻表では、和歌山線の貨物列車はこの短絡線を経由して和歌山操発着となっています。
短絡線での正式な旅客営業開始は1972年(昭和47年)3月で、1972年4月の時刻表を見てみますと和歌山線の列車はすべて短絡線経由で和歌山発着になっています。
従って、1972年以降は田井ノ瀬~紀和間の線路には旅客列車も貨物列車も設定されていないはずなのですが、この区間の廃止は1972年ではなく2年後の1974年です。1972年以降はどのような使われ方をしていたのでしょうか。
個人的には回送列車や入換の通路的な使われ方ではなかったかと思っており、和歌山客貨車区の廃止が1973年度ですので、これによって回送線としての使命にも終止符が打たれたのではないでしょうか。
また、1972年以前、和歌山線列車が紀和駅方面から発着していたころの運転状況にも興味が湧きますね。

 

紀和駅、今はさびしい中間駅のようですが、歴史的には大変おもしろい駅ですね。
そんなことを感じさせていただいた堤さん、KASAさんに感謝します。

 

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コメント

f54560zgさん、こんばんは。

紀和駅について新たに記事にしていただき光栄です。以前の記事とあわせて興味深く拝読させていただきました。あまり差し出がましいことをしてはと迷ったのですが、手許の配線図の画像をお送りしてよかったです。

ところで、南海線・和歌山口の貨物輸送ですが、最後まで残っていたのは、住友金属和歌山工場関連の輸送で、加太線・東松江~和歌山市間(国・社分界点経由で国鉄に接続し和歌山操経由)に貨物列車が1984年(昭和59年)2月まで設定されていたようです。

和歌山市経由の貨物列車はずいぶんと遅くまで残っていたんですね。ちょっとびっくりです。
牽引機はDD13でしょうか。和歌山市で機関車交換をしていたんでしょうか。

鉄道ファン1979年1月号163ページにある「紀勢本線電化余話」(和田康之/彰さんの記事)によれば、和歌山操の入れ換えと和歌山操ー和歌山市間の貨物列車小運転は竜華のDD13との記述があります。

ウィキペディアでみますと、この区間の電化は1984年(昭和59年)10月1日だとのことです。ただし、和歌山市駅構内のJRと南海の渡り線は現在でも非電化のようです。

補足です。前述の鉄道ファンの記事ですが、 f54560zg さんが和歌山市駅の記事の中で触れられている121レと128レの牽引機を紹介する文章の中で記述されているものです。失礼しました。

ありがとう御座います! 震えながらPCの画面に釘付けになっていました。長年の疑問が全て解決出来ました。 小学2年頃、橋本から乗ったC58221牽引の市駅行き列車が紀和(旧和歌山)で、1番線に到着後、缶が離れて引き上げ線に待機していたC5768が逆機で市駅まで引っ張り、その列車が今度は紀勢本線の列車になっていた事を記憶の彼方から鮮やかに思い出せました。どうお礼をしていいのかわかりません。本当に感謝しています。 堤

追伸、、灯台元暗しとはよく言うもので、私が住んでる南海高野線の橋本駅も時代に逆行してる?(しかたがないのか、、)構内運転をしています。すごくややこしいので、2008年8月の鉄道ピクトリアル増刊を参照して頂ければ判りやすいと思います。合理化が進んでいる電鉄業界の中で、入れ換え専門の職員が居るほどです。信号もややこしいし(自分が解らないだけ),あれだけの本数をたった2線でよくカバー出来る物かと感心しています。DVDにしたら売れるんじゃないかと(不謹慎ですが、、)真剣に思っています。  余計な追伸ですみませんでした。

DD13の引く客車列車だって結構スゴイと思うんですが、和歌山線下り列車が紀和駅で逆向き機関車に付け替え、和歌山市駅で機回して紀勢線上り列車に・・・、これは強烈。いろいろ興味深いとは書きましたが想像以上ですね。
和歌山市駅と紀和駅は2つで1セット、といった感じなのかもしれませんね。

和歌山市駅発着の貨物列車の件、昭和59年のヤード系輸送終了後も、南海の車輌の冷改や新製時の甲種車両輸送が扱いとして残っていました。少なくともラピートはこのルートで南海入りしています。
また理由と始めた時期が判りませんが、到着駅を水軒とし”水軒行きの甲種輸送を市駅で打ち切る”という措置を取っていると本で読みました。

天鉄ヲタさん、コメントありがとうございます。
一般の貨物のほかに甲種車両輸送もあったわけですね。いやはやこの一帯、ホントにバラエティ豊かな路線ですね。

昭和54年から55年まで和歌山に住んでいました。 当時121列車にはまっておりました。 自分のサイトではありませんが、自分がとった記録をご覧いただければ幸いです。 4924列車は亀山のオハフ33 1やナハフ10 1、そしてオハフ33 1527が運用されていました。

http://hasekasuga.sakura.ne.jp/tetsudo/kansai/06a_0017hensei.html

とらやんさん、コメントありがとうございます。
そしてリンク先の貴重な資料ありがとうございます。
和歌山を出るとき機関車の次位に連結されているハフが紀和で切り離されるわけですね。
ちょっと質問があるのですが、
1)128レは和歌山では機関車の次位にマニが連結されていますが、これは和歌山で増結されるのでしょうか。
2)もしそうであればマニは和歌山までどうやってやってくるのでしょうか。
3)真冬のDD13牽引列車は寒くなかったのでしょうか。

こちらこそ貴重な資料を拝見し恐縮しています。
自分も「紀和駅の裏1~9番線あたり、例の洗滌台が設けられていたあたりの線路が客貨車区だったのではないかと思います。」あたりは確認しています。 「裏」番線という表現が独特の言い回しですね。 本来は「客貨車○○番線」と表示されるべきでしょう。 また設備らしきものも見当たらないので「客貨車区」としての機能は実際にあったのかどうか疑問に思います。 西舞鶴も「客貨車○○番線」と表記されている線路はあるものの、設備を確認できませんでした。
このように思うのは、実際に出雲市(客車の設備)や香椎(貨車の設備)を実際に確認しているので、保守は竜華か新宮でやってて「常備駅」のような存在だったのかもしれません。

ご質問にお答えします。
①マニは和歌山で連結されます。
②憶測ですが、阪和線からの貨物列車に荷物車が連結されており、そこから引き継がれると思います。 多分、竜華→杉本町→和歌山操のルートと思います。 末期はマニ50だったかも知れません。
③和歌山までEF58から送気していますので余熱はあったと思いますが、和歌山で機関車の付け替えや紀和での入れ替えで時間を食ってますので、当然市駅に着いているころは冷え切ってます。 温暖な紀の国でも寒いときは寒く、泉南山脈からの冷気もあってたまりませんでした。

現状、非公開の状態ですが当方のブログで紀和駅の周囲で撮影した写真を公開しています。 公開できるようになりましたら、連絡します。

パソコンが復旧しましたのでブログを公開しています。 「思い出の和歌山 鉄道と模型」でご覧ください。 父の赴任の関係で、和歌山から引越しすることになり、あわてて撮影した写真なので、あまり参考になりませんが、ご覧いただければ幸いです。 当時の紀和駅の配線を再現したいので2月5日の画像を拝借いただければ幸いです。 当時、夜の22時頃は紀和駅で客車の入換をしてました。

すみません、「どらやん」さんと書いてしまっていましたので直しました。失礼しました。
私からの質問に対してのご返事ありがとうございます。
おっしゃる通り和歌山客貨車区については検修庫等が確認できていないのですが、実際に配置されていた客車が存在する以上検査や修繕は行っていたはずで(そうでないと配置車両とは言えない)、そのためどこかに検修庫は設けられていたはず、と思います。配線図を見ますと裏1~3番線の有効長が短いため、このあたりがクサいような気がするのですが。
西舞鶴の記事をご覧いただくとわかりますが、検修庫は存在しました。但し記事の時点では客車の配置はすでになく、貨車の検修のみが行われていたようですが。
ブログ拝見しました。ホームにぽつんと1両だけのナハフ10、珍しい光景ですね。
「2月5日の画像を拝借」とは?

http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/02/04/12r.jpg

上記の画像で昭和55年前後の紀和駅の配線を検証したいと思います。 恥ずかしながら16番で紀和駅を再現したいと30年間思い続けていました。 やっと踏み切れます。

とらやんさん、私のほうで何かしないといけない、ということではないのですね?
画像についてはKASAさんからご提供いただいたものですので、お礼申し上げたいと思います。
16番ですと結構大きいモノになりますね。完成したら公開お願いします。

そうです、KASA様にお礼をお願いします。

おかげさまで、30年前の思い出とともに古い記憶がよみがえってきました。

最初に
http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/1980313-353d.html
の記事で配線図がなかったので残念に思っていましたが、ここまで解明されるとは夢にも思っていませんでした。 また、この記事の画像の客車は妻板が折れてますのでオハフ33 1527と思います。 この時期に自分も紀和駅の観察を開始した頃です。

以降、自分のブログで発表しますが、当時の紀和駅では、4924になる客車を含めて複雑な入れ換えをやってました。 垣間見た程度ですので正確さにかけますがいずれ発表したいと思います。

模型の方はモデルワークスから3線用の跨線橋が発売されたので、購入しその気になったのですが、いつになるやらです。

この度はありがとうございました.。 ブログ主と資料提供者とコメント投稿者に心からお礼申し上げます。

とらやんさん、紀和駅での客車の入れ換え、期待しています。

ご無沙汰してます。
昭和47年3月31日の配置表を見つけました。
オハ35(16)・オハ41(5)・オハ61(5)・オハフ33(17)・オハフ61(12)・オハユ61(1)・オハユニ61(3)・オエ70(1)・スエ71(20)、の61両の所帯で、天鉄局では竜華(134両)に次ぐ配置でした。 紀勢線のローカル列車をほとんど和歌山で受け持っていたと思われます。 珍車オハユ61は1両だけでどのような運用をしてたのか、それともオハユニ61と共通運用だったのか、興味はつきません。
因みにオハフ33はトップナンバーも配置されていました。

塗装済みキットのスユニ61を作っていますが尾灯をどうするか悩んでいます。

とらやんさん、お久しぶりです。
オハ41も珍車ですね(多分ロングシート?)。

はじめまして。
子どもの頃、紀和駅の最寄に住んでおりました。紀和駅の思い出は結構ありまして、1979年頃、小学1年だった私は友達らと紀和駅に列車を見に行くのが日課でして、駅員さんも沢山いらっしゃいました。駅本屋のホーム側に棚があり、紺色に白文字のサボがわんさと積まれていました。発着する列車は殆どが気動車で、主にキハ35や36の2連やキハ58と28の2連。ラッシュ時はそれらを組合わせた4連以上の列車もありました。キハ58と35の2連もザラです。客レや貨物列車はDD51やDD13牽引が殆どですが、紀勢本線直通の客レはDF50だったときもありました。晩年はDE10オンリーでしたね。一度だけ、①にDD13の貨物列車・②と③に上下の南海きのくにがそれぞれ停車しているという強烈な場面を目の当たりにしたことがあります。お昼頃、新宮方面から来た客レ牽引のDD13が、連結している客車を一両だけつまんで、駅裏の側線に留置し、また客レに戻って連結し和歌山市に向かいました。留置された客車には亀山行きのサボがささってました。当時、朝には無くなっていたので謎でしたが、文献によると南海直通客車廃止後に和歌山市〜和歌山のスジを引き継いだようです。裏の洗車線の辺りでも遊びましたね。すでに線路が剥がされていましたが、洗車台は残っていました。1983年頃の市営紀和団地建設により完全撤去になったように思います。1984年の電化前後に客車は12系化されました。電化されたのでEF58がそのまま来るかと期待しましたが来ませんでした。

あきにゅうさん、コメントありがとうございます。
和歌山~和歌山市間は、距離が短い割には歴史的な関係から複雑な興味深い運転が行われていたんですね。

大昔、船戸ー現在の紀和駅間に和歌山県内 初めての鉄道が走った。(山の中のトロッコ索道までは調べていないが)昭和45年には紀和を下車すると、ターミナル的な形を思わせるマーケットが駅前にあった。また、また大昔、たま電鉄が貴志駅から(和歌山駅阪和紀勢は無い)紀和駅まで伸びていたそうな。

音さん、たま電鉄がその昔紀和駅まで伸びていたとは知りませんでした。空中写真を見てみましたが、ほとんど痕跡はなさそうですね。

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