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2011年1月 5日 (水)

山科付近の3線区間

以前雑誌で、山科付近のカーブした築堤上を走るC59かC62の引く列車の写真を見た記憶があります。EH10もあったかもしれません。

列車の写真としてはそれはそれでカッコイイ写真なのですが、私の目を釘付けにしたのは足元の線路でした。3線あるんです。
「え? 何で3線? これって駅の構内? それにしては構内広すぎ!?」と思ったものでした。

その後、やはり雑誌か何かで、勾配対策のため上り坂となる側だけ2線にしたとか、そのような記事を読んだ記憶もあり、今回はそのあたりの一部をご紹介します。

まずは1950年(昭和25年)4月。

195004
・山科~京都間だけですが、しっかり3線あります。下りが1線、上りが2線ですね。
・Wikipediaによれば3線化が行われたのは1944年(昭和19年)、膳所~京都間のようです。
・京都から東京方に出発できるのは1、2、4、9、10番線であり、それぞれ外側・内側のいずれの線路にも進出できるようになっています。

続いて1960年(昭和35年)頃。

196000
・普通の複線区間に戻っています。電化完成の頃に1線が撤去されたのでしょうか。
・下のほうの勾配の図を見ると、東山トンネルを抜けたあたりから逢坂山トンネルを抜けるまで、山科駅の構内を除いて10‰の勾配が続いているのがわかります。これが3線化の理由ということですね。

続いて1966年(昭和41年)3月。

196603
・3線復活? しかしよく見ると線はつながっていません。
・つながっていない線路が描かれた配線図は初めて見ました。

最後に1972年(昭和47年)1月。

197201
・1970年(昭和45年)に複々線化が完成したのちの姿です。
・かつての第三の線路はきっと有効に利用されたのではないでしょうか。

この上り線の2線、実際の運転上はどのように取り扱われていたのでしょうか。
勾配対策ということから考えると旅客と貨物という使い分けでしょうか。
もしそうであれば、外側線が主要な本線のようですので、D51やD52が長大編成の貨物列車を引いて内側線をゆっくりと登っていく脇をC59やC62が客車を牽引して軽やかに追い抜いて行く、そんな光景があったのでしょうか。
当時のダイヤがあったらぜひ見たいものですね。

それにしても上り勾配による輸送上のネックの解消のために腹付で線増した例というのはここだけではないでしょうか。一般的には勾配を緩和した別線を建設しますから。
ただ、そもそも東山トンネル・逢坂山トンネルを経由するルート自体が大谷経由の25‰勾配を解消するために建設された別線ですので、緩和したはずの10‰勾配でさえもネックになりうるのかという疑問は感じますが、戦時中という環境下での特殊な対応事例ということでしょうね。

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

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コメント

山科の大カーブを行く列車の写真は有名なのですが、私は長い間、東海道本線の旧線のカーブの部分で撮られたものかと思い込んでいました。後年、山科の大カーブの場所を通過した時、この場所がそうだったのかと気が付き思い直したのですが、そのこともいつの間にか忘れてしまっていたようです。今回、山科の配線図を掲げていただき、やっと正しく認識出来たようで、相変わらずの間抜けぶりです。
禁断の先回りをさせていただければ、京都駅東部の転車台に俄然注目が行ってしまいます。戦前から、たぶん梅小路機関区京都東派出所なる名称の機関車駐泊設備が京都駅東部の東海道本線と奈良線の分岐点辺りの河川西側に在って、東海道新幹線を利用するとその部分だった場所が見え、いつも気になっていました。
京都東派出所に C53等がたむろしている古い写真を趣味誌で見たことがあり、配線図の転車台の辺りが確答部分なのでしょうか、気になるところです。

E10さん、私も山科のナゾについてはT.Mさんの配線図でようやく理解できたところです。
京都・梅小路関係は少しお待ちください。昔の京都駅の複雑さに少々驚いています。

京都~山科~大津の3線化にはもっと切実な理由があります。
列車密度を上げるには信号機間隔を短縮すれば当面は可能です。山陽本線の瀬野~八本松の信号機間隔は平均700mを割っています。
ここで東山と逢坂山のトンネルが障害となってきます。蒸気区間ではトンネル内に信号機を設置できません。煙による見通し障害のためです。
この理由により2300mの逢坂山トンネルを挟む区間では信号機間隔を短くできません。前後を400mに設定しても信号機3区間で3000mを超えます。貨物列車が20km/hで走れば所要時間は9分以上、計算上ですから現実には15分が精一杯です。
すなわち列車間隔を15分より短くできません。戦時輸送の最中でしたが上り線のみ線増工事が行われました。
代わりに補機2両を連結してD52×3で運転すれば速度向上により列車間隔を短縮できますがずいぶん不経済な方式となります。
以上、昔話で恐縮です。

京都~大津の3線化コメントつづき。
上り線のみ2線となって列車回数はひと息つきました。高速列車を1線に集中すれば列車密度は2倍よりはるかに高く設定できます。
1956年の電化によってトンネル内に信号機の増設が可能となり、しばらく2線のみが使用されました。私は確認できませんが、ひょっとして複々線工事開始までのそのままだったかもしれません。

電化後の山科付近のことですが、西野保行鉄道写真集28・29ページに写真と記述があります。
上り電車を撮影されているのですが、キャプションに、「かつての3線が架線を張られただけのように見えるが、いちばん奥といちばん手前が上り、下りの各本線で、真中の線はこの時点では使用されていなかった。」と記述されています。撮影は昭和40年8月3日です。
1960年(昭和35年)頃の図で複線に書かれていますが、実際の線路は3線のままではないかと思われます。
自分の撮影した1967年(昭和42年)の写真ですが、東山トンネルへ入る寸前の写真で、真中の線路用のトンネル直前にある信号機が横を向いています。ということは真ん中の線路は使われていなかった可能性が高いですね。線路と架線はあっても、信号機が横を向いていたのでは運行できないと思われます。
しかし1966年の図では山側(図では下側)の2線を使っているように書いています。電化から複々線化までの期間、3線をどのように使っていたか、興味あります。

C6217さん、ヤマさん、いろいろと興味深いコメントありがとうございます。
勾配だけでなくトンネルの存在が輸送力に大きく影響を及ぼすんですね。
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一点だけ質問です。1860mの東山トンネルの場合はトンネル内に信号機を設置できるのでしょうか。1950年の配線図を見ると確かに上り線には信号機はないのですが、下り線の第一閉そくはトンネル内のように描かれているのですが・・・。
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ヤマさんの写真も貴重ですね。確かにそっぽを向いた信号機が写っていますね。
複々線化の際は線路の移設を何段階かに分けて行っていたのかもしれませんね。

下り線は下り勾配なので、絶気運転であまり煙は出ないため、信号機への影響が少ないのではないか…という想像です。

f54560zgさま ヤマさま
蒸機区間の下り勾配は信号機の見通しに支障はありません。
トンネル内の実例は知りませんがトンネル内から信号機を確認する実例はいくつもあります。

ヤマさん、C6217さん、ありがとうございます。複線区間だからこそ、でしょうか。

蒸機時代のトンネル内の信号機のこと。
東山トンネルは完全に惰行運転であり、万一停止しても下り勾配で自然発車が可能です。煙が滞留する恐れはありません。
この図に逢坂山トンネルがありませんが、大津を出発した後にトンネル内まで力行するのでトンネル内に煙が残ります。信号機があったのかどうか興味があります。

電化後の3線のこと。
2線運転をしていた時代に東山・逢坂山トンネルの大改修が行われました。1線を休止して工事を行ったので使用線が順次切り換えられています。どの線を休止していたのか、時期によって変わっているはずです。

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