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2011年1月14日 (金)

宮原操車場配線図

青森操車場、吹田操車場、長岡操車場など、「操車場」という文字のつく停車場はいくつかあります(ありました)が、貨物操車場でないのはここ宮原操車場だけではないでしょうか。

最初に宮原操車場付近の概略を。※

R
・宮原操車場付近の線路網の形成過程がよくわかります。
・大阪駅の高架化が昭和9年6月1日、電車運転の開始が昭和9年7月20日ですから、このあたりの整備は高架化に伴う車両基地の移転、電車運転開始に伴う電車基地の新設といった一大プロジェクトの一環、ということになるのでしょうか。
・宮原操車場開設直後は塚本側の短絡線はまだ完成していなかったんですね。半年程度の短い期間ではありますが、大阪駅で機回しを行ったりしていたのでしょうか。

さらに、以前の宮原の記事でいただいたSYさんのコメントのとおり、宮原操車場が完成するまでの間、一時的に吹田操車場の片隅に客操設備を配置していたこともあるようです。

これがその図。※

193200r
・ちょっとわかりづらいかもしれませんが、中央やや左の上の方の線群が客操設備です。

次に1950年(昭和25年)4月。

195004r
・おおよそは現在の姿と変わらないのではないでしょうか。

続いて1953年(昭和28年)。※

195300r
・いろいろと細かい様子が描かれています。
・蒸機基地ではありますが扇形庫が設けられていないのがちょっと不思議な感じもします。

続いて1960年(昭和35年)頃。

196000r
・機関車基地は電化に対応して電機基地へ姿を変えたように見えます。
・転車台は片隅に追いやられてしまいました。

続いて1969年(昭和44年)5月。

196905r
・新幹線が開業し、新大阪駅が設けられました。
・宮原操への分岐部分は従来は宮原操の構内だったようですが、新大阪駅開設によって新大阪駅の構内となったようです。

続いて1972年(昭和47年)1月。

197201r
・細かいところですが、北機走線が北0番線という本線になっています。

最後に1986年(昭和61年)4月。

198604r
・大きな変化はないようです。
・ところで宮原操車場の本屋って、あんなところにあったんですね。

宮原機関区、宮原客車区、宮原電車区といえば名門中の名門と思っているのですが、電車の車窓からはその様子をうかがい知ることができないゆえ、個人的には神秘的な車両基地でした。

配線図はT.Mさん及びSYさん(※印)よりご提供いただきました。

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コメント

やはりしばらく宮原機関区は謎めいた機関区でした。新大阪から新幹線で下ると左手車窓に全景が見渡せるのですが、当時はそんな機会などなかなかなく、たった数秒間でもその機会に巡り会えた時は気持ちが高ぶったものでした。
旧転車台の下側位にある4本の側線部分が北陸筋の EF81の指定席で、「つるぎ」「日本海1・3号」「トワイライトエクスプレス」の牽引機達でした。
また、何年か前、新幹線高架横の収容線辺りに突如建物が出現し、どうやらそれは撮影用のロケセットだったようで、撮影終了後は姿を消していました。

扇形庫でなかったのは電化を見越してでしょうか、それとも後発区であるのと、明石機関区(5線式短形庫)を模して結果的にその機能を転じる構想だったのでしょうか。
電化後移設された転車台周辺も、それなりに配線が施され、ちょっとしたSL設備が残留していたのでしょうか。

宮原機関区発足後は当時の重幹線用のエース C53を筆頭に、C51 C55(流線型含む)C57が投入され、その後 C59。戦後は C62による「つばめ」(編成は宮原)「はと」(編成は品川)の牽引でSL最盛期を向かえます。(終戦直後は福知山機関区集中配置前のC54も3両在籍)
東海道本線全線電化直前の宮原機関区は、C62がトップナンバーを筆頭に10両(渡道前の 2 30 42 含む)C59が18両(梅小路機関区は同 3 27 32 44 を含む13両 C59も13両、姫路第二機関区は C59が23両)の陣容で東海道山陽区間を駆け巡っていたようです。
東海道本線全線電化完成時にEL区に衣更えし、山陽方面へのSL仕業は梅小路機関区や姫路第二機関区等のSLが担当し、宮原機関区の EF58の歴史が始まります。
後に新鋭機 EF61の出現で一時期その勢力を落としたものの、浜松機関区と同じく EF58の住家として40両以上の規模で「宮」の区名札と共に君臨し続けました。

宮原も国鉄末期の訪問でしたが、SLのいた雰囲気は薄れていても、やはり西日本でもトップクラスの伝統の車両基地だったので気持ちが高ぶりました。
当日は EF81のトップナンバーが寝台特急日本海の仕業に就いており高揚感もピークに達したのですが、ちょうど竜華機関区から DD51に引かれ回送されてきた EF5899号が構内で入換作業中で、その姿を捕らえようと夢中になっていた私は不覚にも DD51が EF58に連結してくる反対側の線路内で EF5899号の正面写真を撮影していたら、入換誘導の職員の方に睨まれた苦い経験がありました。
もしも連結器がゲンコツのままや DD51の勢いがつきすぎれていれば恐ろしい結果になっていたかも知れませんので、今だにそのことは時々思い出してしまいます。

あと、ちょっと余談になるのですが、鉄道少年時代より宮原のことを「みやはら」と読まず「みはら」と教えられていました。このあたりの事情をご存知の方はいらっしゃいませんでしょうか?
三厩のように読み方が変わっただけなのか、当時の私の周辺がそう言っていただけなのか、ずっと疑問だったのですが…。

関西在住のE10さんでさえも宮原は謎めいた機関区とお感じになられるのであれば、関東の私にはなおさらですね。初めて訪れたのが(といっても今のところ後にも先にもこれ1回だけですが)平成4年、しかも外から眺めただけですのでその全貌はいまだわかっておりません。
宮原電車区もナゾなんですよね。なんで113系が配置されていたんでしょう。高槻と網干だけではダメなの?っていつも思っていました。
「みはら」は初耳ですね。SYさんあたりがご存知?

お父さんが国鉄宮原機関区に勤めておられた私の中学時代の同級生も、宮原機関区は「みはら」と読むと言ってました。
配置車両も「大ミハ」と表記しているので、私もそうなのかなと思っていました。

スミノエさん、ありがとうございます。
長年のモヤモヤが解消されて、霧が晴れた清々しい気分です。
開設以来の記述がある現時点でのネット辞書でも「みやはら」と記載されており読み方に関する記載も無く、現場の方からの証言をご披露していただき感謝しております。

前回のコメント後、当時の写真が一部出てきました。
ネガの続きで見て見ますと、当日は86年1月28日に竜華機関区、奈良機関区などを巡り、新大阪駅からてくてく歩いて夕刻の日没30分くらい前に宮原機関区(当時は運転所?)に到着した可能性が有りそうです。
直前に乗換で利用したかもしれない大阪駅の11番線ホーム西端切欠ホームに EF58150(当時は青色)が展示してあり、大阪駅の項でのコメントはこの時だったのかもしれません。(写真で検証すると両端のヘッドマークのデザインや形が違っています)
当日の日本海1号の牽引機は EF811であると既にお話しましたが、日本海3号は EF81113(1と共に富山第二機関区)で、新潟行きの、寝台特急つるぎは EF81103です。更にヘッドマークの着いていない EF8174(こちらは長岡の区名札。長岡第一機関区と長岡第二機関区は統合後?)が、足回りに付いた雪が落ちてレールを埋めつくす姿で側線にいます。
更に直流機は新鶴見機関区の EF651098と EF651112で共に仕業札は9-13が入っています。どんな意味なのでしょう。
そして次は驚きの EF6230(関)です。側面ナンバーの下に「東洋電機 昭和41年 汽車會社」とあります。あと、同じく下関機関区の EF651093の姿も見えます。
また、DLは EF5899を牽引してきた吹田機関区の DD51828に、その EF5899を構内で入換していた福知山機関区の DD511124(出場したてのピカピカ塗装)とDD511178に米子機関区の DD51767。そしてこちらも少し驚きの吹田機関区の DE10901も構内でブルトレの入換に従事していました。
既に宮原所属機は転出後だったのでしょうか「宮」の区名札が見られなかったのは残念でした。
他にはボンネットタイプも含む485系雷鳥や新快速色の117系など、宮原機関区を訪れた気持ちの高ぶりで車両ばかりを写していて、設備関係はあまり記録していないようです。ただ、ネガの続きがまだ有りそうですので、捜し出せればまたその様子をお伝え出来るかもしれません。
しかしなんと言っても宮原の第一印象は f54560zgさんの記事や写真にあるように、ひしめき合う青い客車群達でした。
それと、新幹線が頻繁に高架上をゆっくり走っていて、EF811や EF5899の姿と0系新幹線の姿を同じ写真内に収められたことは、鉄道ファンの端くれとしては嬉しかった出来事でした。

ただこの機関区がある宮原町は「ミヤハラチョウ」ですし、ウィキペディアの「宮原総合運転所」の項によると、配置車両に記される「ミハ」というのは宮原の電報略号ということなので、正式にはやはり「ミヤハラ」で、現場の方が便宜上「ミハラ」と言っていたのではないでしょうか。どちらが正式なのかは解りません。
中途半端なコメントで、かえって混乱をまねき申し訳ございません。

スミノエさん、補追のコメントありがとうございます。私も、やはり国鉄内の業界用語だと思います。
嬉しさのあまり、言葉足らずで申し訳ありませんでした。
当時からよくある鉄道ファンの、鉄道業界用語を使ってみたくなる習性の一部だったようですね。
スミノエさんのお話に、当時の国鉄職員の方々からお聞きしたいろんな想い出が過ぎりました。
北海道の機関区訪問では9600型のことを「内地ではキューロクだけど北海道ではクンロクって呼んでるんだよ」それに DD51を「デーデー」 DE10を「デーイー」と呼ぶと教えられたり、小樽築港機関区は「ちっこう」、長万部機関区は「まんべ」と呼ばれていました。
また、米子機関区では、伯備線の生山駅(しょうやま)を、「きやま」とよんでいたり、大きな機関区の扇形車庫の反対側にある留置線を「チドリ線」と呼んだり、柳ヶ浦機関区の二線式短形庫では海側を「海線」山側を「山線」と呼んでいたと聞いた記憶が甦りました。
更に当時、姫路第一機関区を訪問した時、ディーゼル検修庫に何処かのイベント帰りだったのか、夜間にC622号機が滞泊していて、案内の職員の方にいろいろお話をお聞きしていると、宮原のことも、「みはら」と呼んでいたことを思い出しました。
当時、ちゃんと現場職員の方から宮原のお話も聞いていたようです。
スミノエさんのお話に、様々な記憶を辿れて嬉しく思います。

放出(ハナテン)のスミノエさんのコメントですが、片町線の貨物は戦後は奈良機関区の C11が担当していたようですが、位置的なことやスミノエさんのご記憶を考えると、竜華機関区の C58か吹田機関区の D51だった可能性が高いかもしれません。答えが出るか分かりませんが少し調べてみます。

特にこだわりがあるわけではありませんが、「みやはら」では違和感を感じ、やはり「みはら」がしっくりくるのは、関西在住の鉄道ファンの性と言うものなのでしょうか。
以前、阪神タイガースのことを 頑なに阪神タイガーズと実況していたアナウンサーがいました。皆さんご存知のように現今そんな呼び方はあまり耳にしません。

そして時はうつろい、やがて「みはら」も「みやはら」になり、私もそのアナウンサーの境地にたどり着く時がくるのでしょう。
ある意味、鉄道ファンとは辛くもあり哀しくもあり、これも時の流れなのでしょう…。

E10さん、そうそう、いろいろありましたね、国鉄内部のギョーカイ用語。私も各地を訪れて、現場の方のお話をお伺いすることが何度もあったのですが、残念ながら具体的にはほとんど思い出せません。お話を聞いて、一瞬、「ん?」と思って、少し間をおいて「・・そうか、今のは○○のことだったのか」という状況が多々あったことは記憶にあるのですが。
はっきりと覚えているのはひとつだけ。
駅員さんが電話か何かで「○△列車、定時ゲンパツ」
私「ゲンパツって何ですか?」
駅員さん「現在発車ってことだよ」
私「はぁ・・」

E10様、どうもありがとうございます。
放出の項に記した貨物列車については、大変ありがたいことに、管理人様が急遽予定を変更してまで大阪環状線の配線図を掲げてくださいましたので、そちらの方にもう少し詳しくコメントいたします。
宮原については、歩道橋上からDD13の入れ替え風景の撮影をしたことがありました。それから、大阪へ乗り入れていた福知山線のDD54がいよいよ一往復だけになっていた1977年夏に、一度訪ねました。道路から撮影しやすい場所でその停泊する姿を見れたのですが、ちょうど来られていた同好の方とともに機関区の方のご厚意で構内に入れていただき、より近くで撮影しました。隣にはそのDD54と先に大阪から姿を消していたDF50を廃車に追い込んだ、憎きDD51も停泊していて合わせて撮影しました。過渡期にはこの3機種が混在していて面白かったのですが、あの時はDD51は憎たらしかった。
配線図とは話がそれますが、この3機種について一度大阪駅でDF50の撮影をした時に機関士の方に話を伺ったところ、「DD51の方が運転はしやすい。でも、センターキャブで運転室の前後にエンジンがあるので熱いんや。その点は箱型のDD54やDF50の方が良い」と言っておられました。
宮原についてショックなのは、ウィキペディアによると、保存されていたEF60 503号機が廃車解体された事です。今まで全く知りませんでした。1ファンの私が無理は言えませんが、残念です。EF60 500番台は、EF58とEF65 500番台の間のわずかな期間ブルートレインの牽引に当たった機関車。他所では保存されているとは言え、ぜひとも、近々京都の梅小路に出来るという鉄道博物館に展示していただきたかったです。

国鉄本線用DL3形式を大阪地区でご経験されたスミノエさんはうらやましい限りです。他には山陰地区の一部でしか不可能だったのではないかと思います。宮原機関区と言えば東海道筋のイメージなのですが、福知山線山陰本線筋の機関車も当然入区していた訳で、SL後の宮原機関区風景も見てみたかった衝動に駆られました。

保存車両の解体については、西の鉄道事業者は、いつかの一件以来変わってしまった印象は否めません。
一人の若者の操作不良が、ある業界の飯の種にされ、企業風土として矢面に立たされ続けています。
他項でのLUNさんのご意見のように、線路の責任などではなく、年間数千人規模の遭難者が出る他の交通機関や、ここ何年間も3万人規模で失われて逝く他の事象では、ある業界の飯の種になりにくいのでしょう。
223系が時速130㌔で突っ走る新快速の前面展望に乗車するまでもなく、その車窓からでも本能として危険性は感じるものです。公共交通機関においてはそれなりのある覚悟が必要なのでしょう。平和が常態化している日本だからではないでしょうが、人物の移動には、如何なる状況に於いても危険性が伴うことを忘れてはいけないと言う教訓を学ばなければならず、昨今の西の鉄道事業者の姿勢に、これからも旅人はそのことを忘れてはならないのでしょう。
意図する一部コメント内容と項目に不釣り合いがあり申し訳ございません。

南福岡の投稿から1か月。こんなところにやってきました。
ここに投稿するからには、半ばお察しとは思いますが、2009年に乗車したブルトレ「はやぶさ」(熊本→東京)は、北方貨物線を経由したのです。

当時、大阪駅の改築工事が佳境を迎えており、深夜に大阪駅を経由する列車は、曜日によって北方貨物線経由に変更されており、上り「はやぶさ・富士(併結)」も例外ではありませんでした。
(下りの同列車は深夜帯にかからないため、上り列車のみの迂回措置でした。)
ただ、時期によっては、西明石~塚本信で電車線を走行したり、尼崎で運転停車したり、そもそも迂回しない日もあったりして、かなり頻繁に運転方法の変更が行われており、正直、どのパターンなのかわからないまま乗車。そのため、この区間の走行確認は必須であり、深夜ですが眠ることはできません。

西明石からは通常どおり列車線を走行し、尼崎も通過したので、半ば諦めていたところ、塚本信の手前で減速。左へ分岐して北方貨物線に入り、吹田信で運転停車後、本線に戻りました。

なお、北方貨物線は、過去に下り線にも乗っているのですが、その時は深夜ではないものの、やはり夜間。宮原の線路群を日中に眺めるのは、難しいですね。

my2000さん、相変わらずスゴイですね。北方貨物線に進入したときは、深夜の寝台列車内で歓声を上げたのでは?

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