« 英賀保配線図 | トップページ | 山科付近の3線区間 »

2011年1月 3日 (月)

大阪配線図

熊谷シリーズの次は大阪周辺に向かいたいと思います。
手始めに大阪駅です。

(1992年の大阪駅はこちら。)

まずは1921年(大正10年)。※

192100
・かなり昔です。高架化前ですので今の大阪駅とはまったく違う駅ですね。
・この時点では北方貨物線・宮原操はすでに完成していますが吹田操も梅田駅も未開業で、大阪駅で貨物の取り扱いが行われています。
・東海道線はもちろん城東線も西成線も非電化で、いったいどのような列車が行き来していたのでしょうか。

続いて1950年(昭和25年)4月。

195004
・高架化が完成して今の大阪駅の形になりました。
・神戸方は複々線ですが、東京方は複線です(茨木以東は複々線)。
・西成線は大阪-福島間が単線です。
・線路の番線表示が1~12番線と記載されているのですが、ちょっと怪しいんです。後年の配線図のとおり、ここでは7番線を「中線」とし、8~12番線を1つづつ繰り上げて7~11番線と呼ぶことにします。
・1番線は両側ホームでしょうか。
・11番線にはホームがありません。
・東京方から2番線に進入できるようになっているのがちょっと不思議です。
・11番線から東京方への出発はできるようですが、神戸方から11番線には進入できません。11番線はどのような使い方がされていたのでしょうか。
・この時点では京都-西明石間が電化されていますが、列車のほうはまだ蒸気機関車牽引だと思います。有効長のところに「給」と書かれている数字は給水用のスポート位置に機関車を止めた場合の有効長でしょうか。

続いて1960年(昭和35年)頃。

196000
・東海道線は全線電化が完成し、山陽線も姫路あたりまで電化されていた頃です。
・東京方は複々線になりました。
・相変わらず東京方から2番線への進路が残されているようですが、渡り線は描かれていませんね。

続いて1966年(昭和41年)3月。

196603
・大阪-福島間が複線化されました。
・0番線が新たに設けられていますが、2番線の使い方がますますわからなくなりました。
・東京方→2番線→神戸方というルートが設けられているかと思えば、全く対向となる福島方→2番線→天満方という環状線の発着にも使用できるようで、実際どのような使われ方をしていたのでしょうか。
・11番線にホームが設けられ、神戸方からの進入も可能になって晴れて一人前になりました。

続いて1969年(昭和44年)5月。

196905
・ほとんど変化はありません。

続いて1972年(昭和47年)1月。

197201
・環状線用に1線増設され、環状線のりばは環状1・2番線となりました。
・この結果1・2番線は完全に東海道線に明け渡しました。
・東海道線下り場内信号機は第1・第2場内に分割されました。

続いて1985年(昭和60年)3月。

198503
・ほとんど変化はありません。

最後に1986年(昭和61年)4月。

198604
・ほとんど変化はないのですが、気になる点がひとつ。1番線から環状線への渡り線。
・1972年や1985年の配線図には記載されていないのですが、単に記載漏れなのか、それとも1985年以降に新たに設けられたものなのか。もし1985年以降に設けられたものであるならば、その理由は何なのでしょうか。

京阪神間の電化は1934年(昭和9年)に始まり、1944年(昭和19年)には電化区間は京都-西明石間に拡大されています。
しかしながら架線の下を走っていたのは電車だけであって、京阪神地区に電気機関車が登場するのは戦後の1956年(昭和31年)のEF15(吹田第二)、EF58(宮原)ということになります。
これに対し京阪神間の複々線化は戦前にほとんど完了(一部は電車線の電化前から)していますので、電車運転開始の際、架線は電車線側だけ張られていたのでしょうか、それとも列車線側にも張られていたのでしょうか。
つまらないことですが、ちょっと気になってしまいます。

昨今大阪駅はかなりの改良が行われたようで、なんでも下りホームが1面廃止されたとか。全体規模の改良は高架化工事以来になるのではないでしょうか。

配線図はT.Mさん及びSYさん(※印)よりご提供いただきました。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
バックナンバーはこちらからどうぞ。

« 英賀保配線図 | トップページ | 山科付近の3線区間 »

コメント

 種々雑多ご心配頂き申し訳なく思っております。
 大阪駅につきましては、先ずは立地上堂島・中之島等、商業地に近い地点が選ばれました。片や、短命であった、関西鉄道サイドのターミナルである網島駅(京橋・桜宮駅近傍:現東野田交差点近く)は寝屋川に架かる京橋・天満橋(駅名でなく橋の名前)を通じて、軍用施設・府庁等行政施設の入り口でした。ここに名阪間の競争の下地があります。さらに言うなら、京阪も桜宮駅をくぐり、大阪駅を目指し、また現近鉄も、国道2号~府道大阪生駒線を介して一直線大阪駅を目指しました(生駒山地を鉄道でない形で越えようと図った様です)、いずれも結果しませんでしたが。
 次いで大阪駅の高架化については、東海道本線と阪急の高架の入換えがあろうかと思います。一夜にして東海道は高架になり、阪急はその下をくぐり初のターミナルデパートに地平で進入することになりました。小さいときの記憶では、東海道をくぐった阪急線がいきなり急勾配を駆け上った事を覚えています。その後阪急サイドはいずれ北側に西方から神戸線ホームを設け新たなターミナルを築いていきます。
 加えて大阪駅は、東京・名古屋駅といった盛土式の高架ではなく、梅田(=埋め田)という低湿な地盤に建てられ、後に沈下に襲われ、西側神戸・西九条方に向かい3‰で勾配を付けられた形で改良されております。むかし座屈を生じた支柱の粗い写真を見た覚えがあります、現在ならブロック単位の下部工を設けていく所なんでしょうが。
 余り識られていないであろう、与太話でした…あの1番線から環状線への渡りは今以て解けない謎です。

古い配線図の転車台とドッグの文字が気になります。
図内に動力車関係の設備は有していたのでしょうか、それと4線式の短形庫も気になります。
86年の配線図の頃に何度も大阪駅を利用しましたが、神戸方の切欠線(荷6辺り?)に EF58が展示してあったのを思い出しました。(スーパーヒーローと言うヘッドマークを付けていたような‥)
今はビル群になっている福島方左側に空き地があって、鉄道博のような催し物が開催されていて、ちょうどその頃に環状線の電車が車止を突き破り、架線柱辺りが破損していたのを見上げたのを記憶しています。
どの配線図にも表れていないのですが、東海道本線と環状線が分かれた辺りの東京方左側に側線が数本有って、茶色いELが入換をしていたのを見たことがあります。
今はかなり様変わりしてしまいましたが、何年か前まで駅舎内北寄りに地下ではない少し段落ちしたような場所があって風情があり、北陸信州夜行等の待合場所となっていたように思います。

f54560zgさんの西日本での大暴れを期待させていただき、私はSYさんの足手まといにならないように気をつけます。

 環状線~東海道下りとの謎の渡り線について、一応記しておきます。
 当初旧西成線が確か宮原電車区持ちで、大阪市の東部を走る城東線は淀川電車区持ちでした。後に森ノ宮電車区の設置、環状線化等で旧西成線の末端は桜島線になり、主として淀川区持ちになりました。因みに旧西成線と城東線は電車の向きが異なっていました。以降何故撤去されずにいたのか、です。
 なお、小学時環状線の事を「省線」と呼んでいた友達がいました、親の呼び方が伝わったのでしょう。 以上補足です。

SYさん、お久しぶりになりますね。と同時に、いつもながらの重厚な解説に感謝いたします。
私としては関西にお住いのSYさんやE10さんの大暴れを期待しております。

京阪神間複々線の使用方法ですが、初期の頃は今と違い内側線を急行電車(現在の新快速)と蒸機牽引の客車列車、外側線を普通電車と貨物列車が走っていたそうです。「関西電車のある風景今昔Ⅰ」に内側線を走るC59牽引の特急「かもめ」や外側線を走る緩行線普通電車の写真が掲載されています。また内側線を走る急行電車と外側線を走る普通電車の併走写真も見たことがあります。ですので架線は内側線・外側線両方に張られていたみたいです。Wikipediaには『1957年9月25日のダイヤ改正では、急行(急電)も含めて運転面での大きな変化が見られた。茨木駅 - 大阪駅間の旅客線の複々線化に伴い、従来の各駅停車が外側線、急行が内側線の運行形態から、内側線を電車線(大阪鉄道管理局管理)、外側線を列車線(本社管理)として走行線路を各駅停車・急行ともに統一』とあります。

E10さんが「茶色いELが入換をしていたのを見たことがあります。」とコメントされていますが、おそらくそれは吹田第二機関区のEF14だと思います。後にDD13に換わりました。また「何年か前まで駅舎内北寄りに地下ではない少し段落ちしたような場所があって風情があり、北陸信州夜行等の待合場所となっていたように思います。」と記されていますが、私は昭和50年3月北海道へ蒸機の撮影に行った時に、客車時代の急行「きたぐに」の自由席に乗車のためにそこを利用しました。2日前に先発した仲間を見送りに行った時に、座れるどころか通勤電車並みの混雑でデッキまで満員だったのを見ていましたので、そこで夕方5時ごろから並んで待っていました。
その「きたぐに」は旧11番ホームからの発車でした。その旧11番ホームが今回の改装で無くなったと思っていたのですが、最近「ほぼ当時の雰囲気のまま立体駐車場への連絡通路として利用されている。」と報道されていました。大変嬉しいです。


なるほど、だから架線は内外両方に張られていたわけですね。普通電車と貨物列車は速度が遅いから同じ線路を走らせた方が都合が良かったのでしょうか。ただ、高槻とか尼崎などで普通電車が折り返す場合は折り返し線が内側にありますのでちょっと面倒だったのではないでしょうか。
EF14は私も記憶にあります。大阪駅を通るといつも見かけたように思います。ただし動いていることはなく、11番線付近に止まっているだけでしたが。

「鉄道ピクトリアル」1957(昭和32)年10月号に記事がありました。
『大阪付近東海道・山陽線電車の内側線集中運転  
この区間は現在京都~神戸間の急行電車は内側線、緩行線電車や客車列車は内側または外側線、貨物列車は外側線という4線方向別運転を行っているが、今度の改正を機会に、急行電車を混雑時5両編成20分間隔を6両編成15分時隔に増やし、緩行線電車も7両10分時隔を、7両7.5分時隔に縮める為、電車を内側に集中し、外側線は客車列車・貨物列車及び米原以遠及び姫路方面に直通する電車列車の専用にして線路容量を確保することになった。高槻・芦屋両駅に待避線設備が完成し、4線運転ができる』
急行電車は内側線ですが、緩行線電車は外側だけでなく内側を走るものもあったようです。「関西国電略年誌」などによると、高槻駅電車引き上げ線新設・使用開始は1937(昭和12)年8月、神崎(現尼崎)・住吉・鷹取駅の小運転電車折り返し用引き上げ線の完成は同年10月で、吹田~尼崎間や住吉~鷹取間の小運転電車はラッシュ時に4・5本運転されていたそうです。それらは内側線を走っていたのではないでしょうか? 折り返し線使用開始間もない同年11月15日に、住吉駅構内にて下り急行電車と折り返し小運転電車の接触事故が発生したとの記述もあります。また、小運転電車は1957年10月の電車内側線集中時に廃止されたとも記されています。(後に復活)

ところで、この1957年10月の電車内側線集中で、緩行線電車が高槻と芦屋で急行(後に快速)電車待避となったことで、不都合もあったと思います。私の知ることでは、新快速が登場しまだ内側線を走っていた頃、高槻駅で緩行線普通電車は快速と新快速両方を待避するダイヤが組まれていた時があり、11分程も停車していました。そのため、高槻駅を挟んで普通電車しか停車しない駅同士の行き来が大変不便でした。当時は内側線を走る新快速と外側線を走る特急や急行との並走・競走が見られ面白かったですけど。
「鉄道ファン」に連載されていた宇田賢吉氏の「870000㎞の軌跡」(「鉄路100万キロ走行記」として単行本化されました)に、新快速登場前の話ですが、複々線区間における宇田さんの運転する外側線の153系急行と内側線を走る113系快速の並走の様子が記されています。中に『西ノ宮のポイント制限は外側線が95㎞/h、内側線は制限なし、なんで急行がブレーキを使って快速がそのまま通過するのかと、うらめしい。複々線の建設当時には内側線を高速列車が使用し、外側線は低速列車用であったという。建設意図と現在の使用法が異なっているわけだ。』という箇所があります。

JR化後、新快速は外側線に移りましたが、現在は新幹線からの乗り換え客の便宜を図り普通・快速と同じ新大阪駅内側線ホーム使用に変更、新大阪~大阪間は内側線を走ります。その為先日私の乗った新快速が、先行普通電車の遅れにより大阪駅に3分延着しました。

スミノエさん、大変貴重な情報ありがとうございます。私の時代では外側線は長距離旅客と貨物、内側線は普通・快速・新快速なのですが、そうなる前には意外な歴史があったのですね。島式ホームを2本設けておけばどうにでもできる、まさに方向別複々線の強みですね。

環状線と1番線の渡り線について私の推測ですが、保守用車(マルチブルタイタンパー=マルタイ)の為のものではないかと思います。
モーターカーは各保線支区ごとに、それなりの両数が有ったので東海道線は大阪保線支区、環状線は森之宮支区でそれぞれ保有していましたが、マルタイは大阪保線区で1両だったと思います。
マルタイは保線区の中でも機械グループと言って、別グループだったのであまり詳しくは知りませんでしたのであしからず。
東海道線と環状線の一部は同じ大阪保線区が受け持っていたので(支区は別ですが)マルタイの転線の為ではないかと思います。
国鉄職員だった20年以上前の記憶による推測ですので、あくまでも参考として下さい。

名無しさん、情報ありがとうございます。
ひょっとして床屋のシンサンさん?

すいません。
そのとおりです。
名前入れるの忘れてました。

床屋のシンサンさん、多くは自動的に過去に使った名前が入ってくれるんですが、たまにそうでない場合があるんですよね。

大正10年の配線図にあるドックですが、これは淀川に繋がっており、水運の貨物をやりとりする為のものです。

わずか2年で廃線となった幻の安治川線は、このドックの完成を原因として廃止になりました。

名無しさん、情報ありがとうございます。停車場変遷大事典にも「M10.11.16大阪停車場より曽根崎川に至る水路開○(難しい字(汗))俊成す」とありますね。

しかし、凄いのは幾ら水運の街大阪とはいえ、中心駅の大阪駅までドックを作っていたという点でしょう。
東京の市街地で似たようなドックを持っていたのは地平貨物駅時代の秋葉原駅ですかね。その水路跡の一部は公園として残っています。

大阪駅のドックは大阪駅の高架後は多分梅田駅に引き継がれたのでしょうね。

梅田駅の配線図と比べれば引き継がれているのは自明かと。
名目上は同一駅でしたし。

 関西圏 城東線及び阪神間のフリィーケントサービスは電化前C10 C11が数量の客車牽引で運行されていました プレスアイゼンバーンの西尾克三郎ライカ写真集第一巻に其の模様が残されております 関東圏は早い時代にフリィ―ケントサービスは電車化された為 遅くに電化された常磐線総武線位がSL牽引でした 関東圏でC10 C11が旅客列車牽引したのはローカル線其れ以外は貨物運用が主でした

 C10 C11形蒸気機関車は動輪直径1520φ
8620 C50形は動輪直径1600φ D50 D51は
動輪直径1400φ丁度貨物専用機関車と貨客両用機関車の間を取った動輪径の近代型タンク機関車で当初阪神間や城東線等にフリィーケントサービス用に導入されたのでしょう

 SY様へ東京駅は当初より煉瓦積高架橋で開業しております決して盛り土では有りません

 1950年4月と1960年頃について。
 11番線は「こだま」の運転開始(1958)当時、折り返し時間不足のため宮原操まで回送せず、11番線に留置して折り返し整備を行っていました。
 「つばめ」「はと」が電車化されて「こだま」と共通運用となって(1960)から宮原操へ回送という基本バターンとなりました。

 1972年の下り場内の分割について。
 場内信号機が1基だったとき、下り列車から見て信号機の背後にあるビルの壁面に大きなネオンが設置されました。
 このネオンに埋もれて信号確認に支障が出ました。ジャンボなので信号機の背板ではカバーできません。
 国鉄とビルで交渉が持たれましたが、大阪商人相手でネオン撤去費用の話し合いが付くはずはなく、結局鉄道サイドが場内信号機を分割移設することで逃げることになりました。
 新設の第2場内は見通しが悪く、外側・内側の区別が紛らわしく今でも要注信号機となっています。

C6217さん、第2場内の新設の陰にそのような秘話があったとは・・・。でもなんでC6217さんはそのようなことをご存知?

 非電化時代の城東線の牽引機 始め山陽鉄道買収機950型機関車が6両位の客車牽引していたそうです其の後1050等明治期急行運用に使われた4‐4‐0改造のタンク機に替わったそうです

 蛇足です。大阪駅東部の東海道下り第1場内と第2場内の間で本線が無用の曲線を描いています。
 原因は、線路工事のため下り側に2線を増設し、順次送って施工したため最終的には上り側の2線が遊部ことになりました。
 順次に元へ戻すと思っていたのに、そのまま放置されて本線の無用曲線は残り、遊んだ2線は保守用車の留置になっています。
 梅田都心部のこの無駄はなぜでしょう。放置していることから工事用の借り用地ではないと推定します。
 どうでもいいことながら気にかかっています。

C6217さん、保守用車の留置線は知っていましたが、「無用曲線」は気づきませんでした。前面展望の動画を見るとよくわかりますね。

客車特急つばめ はと はつかり以外の本州の通常の客車列車は東北本線東海道本線山陽本線では基本西方向に荷物車を繋げていました主要各駅の荷物関係の設備が西側に設置されてた関係です
大阪駅も例外でなく西側に荷物用ホームが有りましたそんな関係で吹田機関区所属のEF14が入れ替えに来ていた 
下り線と上り線間の移動には西側の引き上げ線を使用して転線していたのではと思うのです 何故なら配線図から両線間移動する為と思える通路用分岐が見られます

大阪駅での入れ替え用EF14が吹田機関区より大阪駅へ向かうのに先ず北方貨物線経由宮原操車場へ其れから先ですが仮に宮原操車場から東連絡線経由での回送ですと宮原の構内で四回行き帰せねばならない 西連絡線経由ですとダイレクトに大阪駅西側荷物ホームへ向かえます
何方のルートを経由していたのか?御存知の御方おられますか

東京駅の話で完全に蛇足ですが、東京駅で最初に開業した市街貫通線の「高架橋」部分は盛土なんですよね。

なので、駅構内の拡張のたびに盛土の撤去をしています。

参考↓
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ02HV9_S5A201C1TI1000/

現新橋御茶ノ水間の煉瓦アーチ高架 碓氷峠煉瓦橋等は橋脚部及び外壁アーチ部を煉瓦積で建設空間として残った路盤部に土砂を詰めて施工完成する
以前鉄道博物館特別展東京駅と煉瓦高架展の展示写真に工事中の高架部の写真が展示されてました確かに開口しておる路盤面に土砂を詰めておる様子が写されてました
其れに比べ大阪駅の高架は流石に時代が下っておりコンクリートラーメン構造になってます
名古屋の高架工事では中央通路付近意外は土盛施行
上野は途中迄はコンクリートラーメン構造其の先は上野台地を削って路盤形成されてます

1974年の秋ごろ、金蘭会高校で模擬試験がありました。 教室の窓から12系客車が発電用のエンジンが動き煙をあけていました。 神戸方に留置線がありそこにいたと思います。 おそらく団体列車と思います。 はるか昔の記憶がよみがえりました。 ありがとうございました。

とらやんさん
模擬試験どころではなくなりそうな気が・・・。

大阪駅で特急電車は、サンダーバードぐらいで時間の問題になった。山陰への特急は新車になって、停車駅は国鉄時代の急行と一緒で料金は特急であり、その分スピードは速くなった。
新快速は、長距離運行とは別枠であったが、今は長距離の普通電車である。京阪電車間は国鉄時代の、京都~三宮間は国鉄時代の快速に尼崎が増えた。当時の電車よりスピードは速くなった。長距離列車のホームは福知山線の丹波路快速、223系の普通電車が使用し、大阪環状線のホームは、関西本線、阪和線の乗り入れになり、野田、芦原橋、今宮は電車の構造上駅の間隔が短くて、止められないのかである。大阪環状線の外回りホームで、折り返しが出来ないのと、東海道本線に乗り入れが出来ない、地下ホームが出来ると可能になる。が、多少の距離がある。国鉄時代の長距離路線は新快速が使用し、国鉄法で私鉄への配慮が、今は私鉄からの利用者を取るかのように京阪神間の電車線に、島式ホームが5カ所も出来た。
国鉄と違って、営利目的になった。

訂正➡京阪電車間は、京阪神間
新快速の時間に対して、京阪は以前洛楽みたいに、京橋~七条まで停まらなかった。阪急は十三~大宮まで停まらなかった。今は当時の急行みたいになった。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 大阪配線図:

« 英賀保配線図 | トップページ | 山科付近の3線区間 »

過去の記事

2024年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ