友部・水戸・勝田配線図
タイミングを逸しないよう、若干流れを断ち切りますが友部と水戸と勝田の配線図です。
いずれも1958年(昭和33年)3月時点のものだけですがご容赦ください。
(1985年(昭和60年)の水戸と勝田の様子はこちら。)
まずは友部。
・話題の三角線です。
・目的は転車台と同じく機関車の転向だと思うのですが、転車台にするか三角線にするかの選択の基準はどこにあるのでしょうか。
・素人考えでは三角線のほうが建設費が少なくて済みそうなので、「用地に余裕があれば三角線」というような気もするのですが、そうであればもう少し三角線の実例が多くてもよさそうに思いますのでそんな単純なものではないのかもしれません。
・皆さんからの情報等では、網干・肥前山口・徳山・友部など。
・そうかと思えば秋田には転車台と三角線の両方が存在していました。(1962年)
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MTO628&courseno=C22&photono=8
こうなると使い分けの基準がますますわからなくなりますね。
2024年11月13日追加です。最近の前面展望動画やGoogle マップをもとに私が作成したものです。
続いて水戸。
・ちゃんと転車台が2つあります。
・同様に転車台が2つ並んで設置されていたところといえば、青森、鳥栖、小郡、稲沢、水戸など・・・・・・直方はちょっと微妙かな?
・水郡線の右側にある、水郡線と平行に右上方向に向かう線路が那珂川への貨物線でしょうか。
・岩沼方の信号扱所のみ継電化されているように見えます。
最後に勝田。
・常磐線の取手~勝田間が電化されたのはこれから約3年後のことです。
・ですのでこの時点では電車とは無縁の勝田駅、普通の中間駅のようですね。
配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。
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三年近くに渡り数百ヶ所もの項目に及んだブログ内でも、三角線は初お目見えではないでしょうか。
列車ごと通すようなデルタ線は小山、梅小路等の項で話題になっていましたが、友部のような機関車だけを方向転換させる設備は稀有なのでしょう。
配線図を注視してみますと、三角線の頂点になる部分の有効長20は素人目に見てきつそうでが、手慣れた機関士さんにしてみれば、D51を数センチ動かすのは我々が自転車を数センチ動かすのと同じ感覚だと言いますので、水戸線のC58クラスなら余裕だったのでしょう。
英賀保の三角線は田畑の中に敷かれていて、駅舎改札口からホーム側線を越えた向こうの真正面が三角線の頂点部分だったみたいで、曲線部分の三角線内側は田畑のままだったようです。
いかにも戦時急造の雰囲気だったみたいですね。
また、肥前山口の三角線も機関車用だったようですが、構内地盤の関係上、転車台が設置出来ず三角線の設置に至ったようです。
こうしていろいろ見てみますと、まだまだ埋もれた機関車用三角線があったのでしょうね。
でもこれも古い趣味誌等の記事であっさりと解明されているのかも知れませんが、鉄道趣味に於いての知識や知恵の探究は興味が尽きません。
投稿: E10 | 2010年12月10日 (金) 22時18分
三角線は戦時中 爆撃等で転車台が破壊された時の予備として設置されたものも多かったと聞いたことがあります。
吹田機関区にも昭和23年の空中写真を見ると確認できますヽ(⌒〇⌒)ノ
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=M31-1&photono=73
投稿: メジロのめ次郎 | 2010年12月11日 (土) 12時10分
E10さん、雑誌か何かでどこかのナローゲージの鉄道の三角線を見たような記憶があるのですが、それはあくまでナローゲージ、国鉄では転向=転車台と思い込んでおりましたので、国鉄にも三角線が存在したことを知った時はちょっとしたショックでした。転車台に比べ早い段階で消滅してしまったようですので現物を見ることができなくて残念です。実際、何か所ぐらいに設けられていたんでしょうね。
メジロのめ次郎さん、お久しぶりです。
吹田にも三角線があったとは! 貴重な情報ありがとうございます。
投稿: f54560zg | 2010年12月12日 (日) 14時21分
メジロのめ次郎さんのお話のような戦時理由を含めた機関車用三角線の全貌を解明するのは至難の業なのでしょうか…。
やはりP誌やF誌等の記事に発表されていてもおかしくないような話題性があると思うのですが、よくよく考えてみると、5〜600基は有った転車台や、100棟以上は建てられていたであろう扇形車庫でさえ決定版的な文献は無く、戦後から繰り返されてきた鉄道ブームには無縁の分野なのでしょうか。
配線図にまつわる信号や標識等、施設分野の詳しい文献は多々有るようですが、建築設備としての転車台や扇形車庫に代表される機関区設備の詳しい文献は今だに見かけたことがありません。
有ったとしても、それは隅々まで網羅されていない、いずれも中途半端な内容で、昨今の駅や路線、車両や列車名などを網羅した書物のように、すべての詳細を記した形での転車台や扇形庫、短形庫、給炭台、給水塔などの機関区設備の詳細な内容を満載した鉄道図書が今回の鉄道ブームの時期に是非とも出現してほしいと切に願うところです。
水戸機関区の2基の転車台についてですが、水戸・勝田 1985/1/2の項での f54560zgさんの記述のように、65年(S40)迄には旧来の転車台は廃止され、それは37年の勝田電化、高萩電化と翌38年の平電化が関わっているようです。
以前、尾久関連の項で f54560zgさんが記されていたと思うのですが、この時期、尾久機関区の C62が水戸機関区へ大量に転属しており、その後、平電化でほとんどが水戸機関区から平機関区へ転出したようで、その時期にSLからELへのバトンタッチが行われたと思われます。
常磐線の全線電化が成る42年迄の間、田端の EF80(50両)と勝田に配された ED75(32両)の仕業の一部(主に水戸-平間)で、この水戸駅構内にて EF80と ED75の付換え仕業がなされたのでしょう。
そのためELの留置線確保で水戸機関区の配線改良がなされ、明治期からの3線式短形庫と転車台は撤去されたものと推察されます。
明治期の水戸機関区には国内初の1D1軸配置のミカド型 9700が配置されて常磐線の石炭輸送等に活躍したようです。
その後、歴代の新鋭機が配され昭和初期には C51 D50 9600が30両程と古典急客機改造タンク機等15両程で45両規模。
戦前は少数派 C54も居たようですが C55を経て新製と同時(12年)に C57-1が配置され、以降電化の進捗する37年頃まで C57の配置は続きます。(一時期、新橋や品川まで入線していました)
戦後、ハドソン登場前は D51と C57が約40両(C57-1は既に転出し、若番は3号機)、C10 2120等約10両で50両規模。
この時期、常磐線関係の機関区(尾久 水戸 平 原ノ町 仙台)に C57は50両以上配置されていて、常磐線を謳歌していたようです。
24年には、その後の常磐線のイメージとなるハドソンがこの水戸機関区に登場します。
C62が5両と C61が4両。
しかしこの時はわずか半年程で白河機関区や平機関区に転出し、C57が盛り返します。
30年代に入ると気動車が登場します。キハ55系を中心に30両規模です。
後年、水戸地区の話題性の一つとなる荷物用気動車も配置されています。(キハユニ15、後にキニ56、キニ58等)
更にこの頃には借入れ試作機として有名な DF90が配置されて急行「北上」「いわて」の先頭に立っていた姿も忘れてはいけないでしょう。
また、この30年代中頃には追加改造された C60が登場(5両)し、C57は数を減らして(4両)いきますが、D51は大所帯の40両を数えており、水戸機関区は貨物色の色合いが強い機関区だったようです。(8620の5両を含め合計54両配置)
37年になると電化の煽りで尾久機関区の C62が転入し、水戸機関区構内は一気に華やぎますが C60は九州に旅立ち、C57-1の新製配置から続いた水戸機関区の C57の歴史も遂に終わります。
しかし、せっかく移ってきた C62も水戸機関区は安住の地ではなかったようで、翌38年の平電化で仙台機関区や平機関区に去って行きます。
平電化後、40年代当初も貨物仕業は若干残ったようで、常磐線全線電化まで D51は10両程残留しており、加えて水戸線用でしょうか C58が5両規模で配置されています。(入換用8620の5両は健在)
この頃の気動車は80両規模になり客貨車区には普通客車が170両規模の配置で、水戸駅構内に煙りは減れど、架線が張られた下でも活況を呈していたのではないでしょうか。
簡単ですが、こうして水戸機関区の変遷を見ていきますと、やはり関東圏の重要な機関区だったと気付かされます。
余談ですが、水戸機関区、宇都宮機関区、高崎機関区、甲府機関区、沼津機関区と、重要な機関区が帝都東京を中心に手の平を広げたように展開しており、関西圏の奈良機関区、米原機関区、福知山機関区、姫路機関区で対抗したいのですが、指先が一本足りませんね。
負け惜しみですが関西には梅小路がありますけど‥。それと千葉機関区、和歌山機関区ファンの方々、すみません。
投稿: E10 | 2010年12月14日 (火) 13時00分
消え去る蒸気機関車には皆が注目しましたが、同時に消えていった蒸気機関車のための設備はほとんど注目されませんでした。脇役ではありますが、結構重要な脇役だったと思います。
かつては東北本線よりも重要な位置に置かれていた常磐線だけに、水戸機関区は花形機関車の宝庫ですね。43-10で立場が逆転しましたが、新幹線開業後の在来線の華やかさとしては常磐線が再度逆転ですね。
投稿: f54560zg | 2010年12月16日 (木) 23時29分
はじめまして。戦後すぐの航空写真には水戸駅南側にも桜川付近まで伸びるデルタ線が確認できます。空襲対策なのか、空襲後の応急的なものか更に別の理由があったのかは不明ですが、農耕地と思しいところに作られており戦時中から戦後すぐに緊急施設として作られたように思います。
投稿: よしくん | 2015年7月27日 (月) 00時42分
よしくんさん、はじめまして。
空中写真、見ました。田畑の中に見事に作られていますね。転車台が2つもあるのに、それでもデルタ線が必要とは、よっぽどの事情だったんでしょうね。
投稿: f54560zg | 2015年8月 1日 (土) 20時29分
よしくんさんのような補追コメントは有り難いですね。この分野の先駆者のおひとりである、メジロのめ次郎さんのサイトにも三角線に関する話題は豊富なのですが、以前の私のコメントの継続になるのですが、ここ数年で扇形庫、転車台などに関しては、タクトワン、イカロスなどの趣味誌にてかなりの解明が進んだようですが、車両単位での三角線は、まだまだ謎めいた分野の感は否めないようです。
三角線に限らず、記事内で初期より f54560zgさんやコメントをされた方々が航空写真のURLを示されていたのですが、国土交通省内のURLが変更されてしまい数々の航空写真が水泡に帰してしまったのは残念でした。しかしその後、それらの悔しさをバネに暇を見つけては国鉄主要駅における戦後すぐの米軍等による航空写真を検索してみたのですが、三角線に関しては、米原駅の三角線が圧巻でした。また、広島駅の山側や岩国駅にも三角線が見受けられ、下関駅にも三角線が有りました。 秋田、平、水戸、友部、吹田、英賀保、肥前山口などを含め、10ヵ所以上もの三角線(各所で確実に軌道が敷かれていたかは不明ですが)を興味深く知り得たことは、f54560zgさんのblogと配線図やコメントでご協力された皆様のおかげさまだと感謝しております。
少し余談になりますが、f54560zgさんのblogをきっかけに、そう遠くない将来、趣味誌上にて三角線の決定版的な記事が出現することを切に願っています。
投稿: E10 | 2015年8月 9日 (日) 00時18分
E10さん、
>車両単位での三角線は、まだまだ謎めいた分野
全く同感ですね。建設の背景や建設・廃止時期など、未解明な部分が多々あるように思いますね。
>趣味誌上にて三角線の決定版的な記事
私も期待しちゃいます。
三角線の空中写真のURLについては一度改めて整理してみたいですね(確かに米原はスゴイ・・・)。
投稿: f54560zg | 2015年8月 9日 (日) 21時07分
水戸機関区の庫と転車台について
私が調べたところでは、水戸機関区の旧転車台(第1転車台)に面した扇形庫(10線?)と3線矩形庫は昭和20年の水戸大空襲で焼失したものと思われます。
戦後に新しい扇形庫(10線?)と転車台(第2転車台)を建築し、昭和38年(上野方旅客無煙化後)頃に旧転車台(第1転車台)を廃止、昭和45年(水戸局内無煙化後)頃に扇形庫を4線に縮小したと思われます。
記録がないため詳細は不明です。
ご存じの方がいらっしゃいましたらご教示をお願いいたします。
投稿: taira.c6233 | 2020年9月 6日 (日) 15時32分
本題から外れますが、水戸機関区のD51はストーカー(自動給炭機)を装備していました。担当するのが常磐炭鉱からの石炭列車であり、乗務員の作業軽減が目的です。石炭列車が重いのは想像出来ますね。
当時は一勤務(水戸~田端の往復)の石炭消費量が4トンを超えており、機関助士の労務問題となっていました。その救済のためと推定します。
地元の常磐炭はカロリーが低く、それを機関車に使用すれば石炭使用量はさらに増えます。
投稿: C6217 | 2020年9月 8日 (火) 01時18分