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2010年12月 4日 (土)

浜松・高塚配線図 追加

浜松と高塚の配線図の追加です。いずれも1960年(昭和35年)頃です。

これ以降の配線図はこちらです。→浜松 高塚

まずは浜松駅。

R1960_2
・新幹線開業前で、浜松機関区にはまだ転車台があります。1953年(昭和28年)には名古屋までの電化が完成していますので、もう本線用の大型蒸機が使用することはなくなっていたかもしれませんが。
・1967年(昭和42年)時点ではかろうじて下り本線及び下り1番線から東京方への出発が可能でしたが、この時点ではそれすらもできません。80系電車をホームで折り返しさせるような必要はなかったのでしょうか。ちょっと不思議。

続いて高塚駅。

R1960_3
・どうも私はちょっと勘違いをしていたようです。
・配線図の左下の「専売局専用線」の文字。1972年の配線図にも「専売公社」と書かれていることには気づいていたのですが、「高塚にも専売公社があったんだ」と勝手に理解していました。
・この専用線、確かに配線図上は高塚駅からすぐのところで途切れているのですが、国土変遷アーカイブ空中写真(1962年)を見たら、なんと現在の西浜松駅に接続する日本たばこまで延々つながっているではありませんか。ということは・・・。
 1)1960年頃、遅くとも1962年には高塚駅から現在の西浜松駅付近までの間は東海道線の複線に専売公社専用線が並走する3線区間だった。
 2)1971年に西浜松駅が開業した際に専売公社への専用線は西浜松駅からの分岐に付け替えられ、高塚~西浜松間の専用線は廃止されてこの間は複線のみとなった。(実際にはレールは撤去されず、単に使用を停止しただけかもしれませんが)。
 3)1975年~1983年の間に廃止された線路が復活し、再び3線になった。
というような変遷をたどったということなのでしょうか。

まあ、あくまで推測に過ぎませんが、こんなことを考えるのも楽しいものです。

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

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コメント

はじめまして。
こちらのブログは初めて拝啓しましたがなかなか普段手に届かないような情報が多いので非常に興味深いです。

西浜松駅の記事のコメント欄でも話にあがりましたが高塚駅からの三線区間のうちの一線ですが日本車両で製造された新幹線車両の浜松工場への輸送に用いれれていたのではないでしょうか?

日車からの甲種は700系新幹線の比較的最近まで行われていましたがその時のJR貨物、JR東海の授受駅は高塚駅というふうに記憶してます。

かざんさん、コメントありがとうございます。
西浜松~高塚間の第三の線路については、実は「西浜松配線図」「西浜松 2010/10/16 その1」の記事のコメントで皆様から情報をいただいており、おっしゃる通り日車からの新幹線車両輸送にも使用されていたようです。そのほか浜松工場の入出場にも使用されていたようですが、現在ではレール輸送用のみのようですね。

はじめまして。
最近こちらのブログの存在を知り、楽しく読ませて頂いております。(稲沢の記事あたりからだったと思います)ちょうど私の地元の浜松・高塚の話題が出てきたのでちょっとコメントします。
西浜松から高塚までの区間ですが、私が物ごごろ付いた1976年以降、私が浜松を離れる1991年まで線路は3線間違いなくそろっておりました。レール輸送・新幹線の甲種輸送以外には高塚駅に103系電車がとまっていることもありましたので、工場の入出場に使われていた事もあったと思います。
また、上り貨物列車が西浜松に行く場合には、3番目の線路を通って、地下の通路を通っていたのではないかなと思います。(実際に列車が通過したのを目撃したことはありませんが、地下通路手前の場内信号が黄色現示していたのは昭和60年頃に見たことがありますので、営業列車が通過していたのは間違いないと思います。)今は昔の貨物全盛期と比較すれば、かなり縮小されてしまった感は否めませんが、自分が鉄道に興味を持ったきっかけとなったある意味聖地が、今でも現役で残っているのは非常に嬉しい事です(EF58・EF60をみて育ちました)
いいもの見せて頂いてありがとうございました。

”不夜城” 浜松配線図へ SYさんが記されているお話がまさしくこの追加された昭和35年頃の浜松配線図の姿なのでしょう。
配線図から、真っ先に浜松機関区の不夜城としての姿が思い浮かびました。

昭和30年代中頃の東海道本線全盛期(=客車全盛期)を支え続けた浜松機関区は、EF58の牙城として君臨しており、その配置数は44両を数え、この浜松駅では昼夜を問わず機関車の付け替えが行われたのでしょう。

浜松機関区へのEL配置は浜松電化の成った昭和24年頃からですが、当時の EF58在籍数の約半数の14両程が沼津機関区から EF55や EF57等と共に大挙押しかけて来たようです。(当時、まだ箱形デッキ付車体)
その後、新製された EF58達が増備を続け、昭和35年頃には1号機から31号機までの連番を含め 東の東京機関区(39両)西の宮原機関区(40両)を抑える両数を誇っていました。
この昭和35年頃には浜松区の EF58が寝台特急専用の20系客車に置き換えられた「あさかぜ」「はやぶさ」の牽引を受け持っており、電源車カニ22のダブルパンタを従えてブルートレインの先頭に立つ姿も見られたようです。

昭和38年には意外な運用として、以前よく話題に上がっていた西の函嶺セノハチの運用にこの浜松機関区の EF58が就いていました。
荷物列車の先頭に立ち広島まで下った EF58が朝の広島駅で切り離され待機した後、昼前に広島駅を発車する鹿児島発の急行さつま東京行きの後部に連結されます。
広島から八本松まで急行さつまを押し上げて八本松駅で停車して切り離し(話題の走行解放ではないようです)一旦瀬野まで戻り待機します。
そして次は博多と大分からの急行筑紫・ぶんごの後部に瀬野駅で連結(EF58どうしのプッシュプル運転)され、今度は西条駅で切り離します。(八本松でないのは列車の停車駅の関係上でしょうか)
身軽になった浜松区の EF58は再び広島まで戻り、来た時と同じく荷物列車を牽引しながら夜の広島駅を後にして大阪まで向かいます。
翌朝、大阪から姫路までの運用をこなして、姫路を午後に出発する運用で浜松区への帰路に着いたようです。
昔はこのような複雑な運用がたくさんありましたね。
他に宮原区の EF58 EF61もセノハチ運用が有りましたが EF59の就役で終わったようです。(浜松区のセノハチ運用は約半年間のみ)

昭和39年になると下関まで電化され、この浜松機関区において EF58の終焉期まで続く東京-下関間のロングラン運用が始まります。

しかしその後、有名なヨンサントウの改正では、宮原区の EF61が全機広島移動したことにより、宮原区へ EF58が集まり宮原区は45両となり、浜松区の配置数は26両となってしまい EF58は少し寂しくなってしまいましたが、EF60が浜松区に20両以上進出して来ており、浜松機関区構内の華やかさは変わらなかったようです。

昭和44年頃ですが、また意外な運用があり、中央西線の名古屋-多治見間の運用でした。中央西線に EF58は珍しいですが、こちらも約1年間の短期間だったようです。

昭和40年代後半に入ると、両数は減らせど円熟味を増して行き、十数ヶ所有った EF58の配置区の中でも、ここ浜松機関区のロングラン運用は他区よりも抜き出ていたようです。

その後、昭和50年代に入ると、新設の寝台特急いなば・紀伊の牽引や、浜松機関区に置ける最後の優等列車運用の急行ちくま牽引など有りましたが、いずれもなくなり、更に昭和58年には、短期間の移動は有ったものの、ずっと浜松機関区を塒にしていた EF58の1号機とファン注目のお召予備機だった60号機が廃車となりました。
そんななか、汐留・横浜羽沢-下関間の荷物列車のロングラン運用は続けていましたが、昭和59年2月に下関区への山男EF62の大量投入で、伝統と栄光を誇る名門浜松機関区の EF58は終焉を迎えたようです…。

SpeedBirdさん、コメントありがとうございます。
浜松工場やレールセンターへの出入りを考えた場合、どうも西浜松の配線は使い勝手が悪そうで、これを補う意味で高塚~西浜松間の第3の線路が利用されていたような感じを受けますね。
ただ上り貨物列車が第3の線路~地下通路経由という可能性は低いように思います。第3の線路、地下通路とも本線ではなく側線ですので、貨物列車が直接乗り入れることはできません。貨物列車としては高塚行き、高塚からは入換扱いで、という可能性もないとは言えませんが。

E10さん、とにかく浜松といえばEF58ですね、それは間違いないと思います。(浜松のEF58と沼津のEF60というのが個人的には妙に印象深いのですが。)
浜松のEF58のセノハチ補機運用、初めて知りました。なんでまた家から遠く離れた場所でそんなお手伝いを・・・。それを含めて知られざる浜松機関区とEF58の歴史、ありがとうございます。

前出の私のコメントに、急行さつまの行き先が東京となっていますが、この時点での行き先は名古屋でした。
記載に間違いがあり申し訳ありません。
これまでの私のコメントを精査していけば数々の記載ミス等があると思いますが、間違いや疑問などご指摘して頂きますと幸いです。
いつもお騒がせしてすみません。

E10さん、わかりました。これからはE10さんのコメントについては法と証拠に基づいて適切に対応していくことにします。

・・・かなりきびしいことになってしまいました。
これも身から出た錆び、自業自得であると反省の念を深めております。

皆さんも実行されているかと思いますが、f54560zgさんの記事のタイトルに類似した語具でネット検索をしてみる時があります。
「浜松機関区」で検索したところ、地元のエンターテイナーの方のブログ(まつちよねっとさん)内に、浜松電化後から本項で掲示されています配線図の頃であろう写真と図面が数枚見受けられます。

その内容から、扇形車庫は20番線級を擁していたようですが、名古屋電化後と推察される写真では、取り払われた扇形庫跡かと思われる千鳥線に多数の架線が蜘蛛の巣状に張られ、ELの留置線として活用されています。
配線図と、それら他の扇形車庫健在時の写真から、浜松機関区はその車両配置規模の割に、かなり手狭な敷地だったと推察されます。(別項でコスモスさんがご教示されていた、渡らずの鉄橋の存在に納得です。)
古い趣味誌で扇形庫内に架線が張られてEF58が入線している姿を見たような記憶もあり、浜松電化から名古屋電化辺りの浜松機関区の様子の変化も興味深いですね。
また、転車台の一部分も写っており、亀山機関区の転車台のように桁上が補強されていて、C62や D52などの超大型SLの重量対策を施されたのではないかと推察されます。
他に地図からの抜粋のような図面には扇状の扇形庫が示されており、庫内で線路が長く取ってある検修線部分の扇形庫背面の飛び出し部分が扇状の片側端部に寄り切っておらず、珍しい形状の扇形車庫だったようです。

f54560zgさんのブログを介して新たな情報に触れられることもあり、f54560zgさんのブログに出会えたことと皆さんの御尽力に感謝しております。

電化により蒸機区から電機区に変わる場合、一般的には扇形庫をはじめとした蒸機関係設備を放棄して別の場所に電機関係の設備を設けると思うのですが、浜松の場合は蒸機関係の設備に架線を張ってそのまま電機設備に衣替え、という感じですね。E10さんおっしゃる通り手狭な敷地ゆえ新たに電機関係の設備を設けることができなかったのかもしれませんね。
扇形庫の飛び出しや転車台の補強など、細部まで注意を注がれるE10さんらしいコメントですね。

 1960年浜松駅構内配線図で思い出した事が有ります子供の頃一年二回親に連れられて東海道本線を利用して居りました(当然新幹線は開通して居ません)浜松駅まで来ると先ず馬込川を渡り浜松駅構内に入るのですが其の直前馬込川海側に川の途中迄しか架かっていない橋梁が有りました 未だ鉄道事情を知らない子供の頭では理解出来ないものでした 普通橋は必ず川を越えて対岸に繋がる筈それなのに途中で切れている何故
 浜松機関区上り入区線の先端が丁度馬込川に引係るので橋梁を架けた唯完全のに渡りきると人が渡る危険が有るので途中迄にしたものと思います

y yoshikawaさん、「渡らずの橋」ですね。でも車止めを突き破って川に落下することを考えたらとりあえず対岸まで渡した方がよいようにも思うのですが。

y yoshikawaさん、「渡らずの橋」ですね。でも車止めを突き破って川に落下することを考えたらとりあえず対岸まで渡した方がよいようにも思うのですが。

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