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2010年12月25日 (土)

籠原 2010/9/26 その2

今回は籠原駅の高崎寄り、電車区付近が中心です。

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高崎寄りの跨線橋から。

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振り返って高崎方です。

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日本鋼管の専用線、レールが一部残っていますね。

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電車区の真上にかかる跨線橋に移動しました。
大宮方です。

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高崎方です。

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専用線跡です、多分。
結構間近で電車が見れます

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こんなのもよく見えます。

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電車区の終端付近です。

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この道が専用線跡だと思うのですが、正面は電留線ですのでこの道路の右端あたりを通っていないとうまく線路がつながらないですね。

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振り返ります。いかにも、といったカーブですね。

ついでに籠原駅についての思い出を。ひょっとしたらすでにどこかで書いたかもしれませんが。

子供の頃、春休みや夏休みに祖父母のところへ遊びに行くのに高崎線の2321(321)列車をいつも利用していました。
EF58牽引のこの列車、高崎までは荷物・郵便車を含めて13両ぐらいという結構長大編成でした。早朝6時20分頃に上野を発車しますので、基本的にはラッシュとは逆方向で、上野を出る時点では乗客はまばらです。
ところがだんだんだんだん混んでくるんです。熊谷が近づいてくると立っている人も増えてきます。熊谷が大きい町であることは知っていましたので、多分熊谷で降りるんだろう、と思っていたらとんでもない、さらに増えるんです。
それらの乗客がどっと降りるのが籠原でした。「何でここでそんなに降りるの?」と不思議に思ったものです。秩父セメントや日本鋼管にお勤めの方だったのでしょうか。
客車列車ですから乗降に時間がかかり、結構長い時間停車していたように記憶しています。
籠原を過ぎると車内はいままでの混雑がウソのようにひっそりして、列車は高崎を目指すのでした。

ついでにもう一つ。この列車は高崎で5~6両を切り離し、7~8両になって信越線に直通するのですが、直通車両が多分尾久の35系だったのに対し高崎で切り離す車両は高崎客車区の61系中心で背板にクッションがなく、子供心にも「ボロい車両」という印象でした。帰りの2322(322)列車は直江津の10系主体で、こちらは「デラックスな車両」という印象でした。

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コメント

2枚目の写真の駐輪場が日本鋼管ライトスチール専用線の跡です。電車区脇は駐車場がかつての専用線です。
下から2枚目の終端部(牧場踏切)の写真では右側に写っている建物が専用線のあとです。道路は側道で、昭和50年代のニュータウン建設で造られた道です。
最後の写真も住宅が線路跡になります。
余談ですが、もう少し進むと、あの「ガリガリ君」の赤城乳業の工場があります。

牧場踏切南側は、昭和40年代末ころまでは一面の桑畑(酪農の放牧場も踏切を南下するとあり)で、民家もほとんどなく、道路も未舗装でした。踏切は高崎線と専用線は別々でした。

ともに第1種でしたが、高崎線は一般的な竹の遮断棒ですが、専用線はワイヤーが下がってくるタイプでした。ワイヤー遮断は手動式ではよく見ましたが、踏切警手のいない自動式で、列車が近付くと警報機が鳴ってワイヤーがするすると下りてきました。
(もし踏切内に車が取り残されたらどうしたんだろう・・・?)

もうすこし工場寄りの県道深谷東松山線の踏切もワイヤータイプ(自動式)でした。

籠原電車区は昭和の終わりころまで柵がなく、それこそ「手の取るように」電車を間近に見られましたが
いまはそのような場所はほとんどないですね。

2321レは朝の通勤通学列車で、たしかに熊谷籠原間の乗客は多かったかも・・・。高校生がデッキからぶら下がっていたことも・・・。
オハ35に比べると10系客車は大きい窓なので明るかった印象は一緒です。

昭和48年10月10日の2322レの編成を知人が残していますので参考まで。

(上野方)
EF58-135 高二
マニ60-2613 北スミ
オユ10-2004
ナハフ11-2023 北オク
ナハ11-2070
ナハ11-2028
オハ35-2938
オハフ33-2356 高タカ
オハフ33-2270
オハフ33-2272
オハフ33-2452
オハフ33-2032
スハフ42-2261

1両少ない12両編成(なぜかオハフがたくさん)


丸印と扇マークは分かっていましたが、気がついたら苦手な関東圏へのコメントをしていました。

近隣に全く土地勘などはなく、高崎線は夜間に利用しただけでしたが 2325レさんの風情あるお話を興味深く拝見させていただいております。
編成の2000番台が面白いですね。
子供の頃の私なら2000両以上あるのかと舞い上がっていたでしょう。
オハ35は3000両規模かと想像していたに違いありません。

元日の初夢にはまだ早いですが、いつかはf54560zgさんの神秘のベールを脱いでいただく時が来れば楽しいですね。
例えば、ブログの1000回項目記念に何かを…。
読者に配線図以上の夢を膨らまさせて下さいね。

あれ?2322レの基本(?)編成は尾久でしたっけ?確か「新ナオ」の表記を見た記憶があるのですが、勘違いだったかも。北スミのマニ60も意外です。私の記憶では尾久のマニ36とオユ10がペアになっていましたね(尾久と隅田川の荷物車の使い分けも私にとってはナゾです)。
対抗して1977年(昭和52年)12月14日の小諸での322レです。
EF6234・オユ102033・マニ362101・オユ102555・スハフ422004・ナハフ112019・ナハ112071・オハ462537・スハフ422202、年末のためかオユ10が1両多いです。
E10さん、9600とか8620の番号のつけ方も最初はわからなかったですね。特に8620は番号を見ても、それが8620の何号機なのかさっぱりわからない・・・。
最近、ワンマン対応のためでしょうか、ホームの端のほうに鏡を設ける場合があるようで、これは要注意ですね。うっかりすると自分の姿が写りこんでいる場合があります。アブナイ、アブナイ。

私の記憶でも、荷物車、郵便車は北オクでしたので配置表を見たらやっぱり「北オク」でした。
また、オハフ33-2356も北オクで、オハフ33-2270からが高タカです。

私も荷物車はマニ36(マニ37もたまにあり)しか見たことはなく、マニ60が連結されているのを見たことはありません。

碓氷峠越え編成の車輌の所属は記録がないのでなんとも言えませんが、昭和50年代中ごろは北オクだったと記憶しています。

旧型客車は一人で出かけるようになってからは旅行時には好んで乗りましたが、小さい頃は大嫌いで、親につれられ乗った時は連結部の幌と、車輌間のダイヤモンド型の渡り板の激しい揺れに恐怖を感じ、「なんで電車じゃないんだろう~」と思っていました(もっとも古い鉄道の記憶のひとつです)。

小さい頃に日常的に利用するのは常磐線とか山手線、京浜東北線の電車でしたので、客車に乗れる祖父母宅への帰省は大きな楽しみでした。普通なら「信州」や「妙高」を利用するのでしょうが、客車鈍行に固執する私は親にとっては安上がりで助かったかも。
私にとっての客車列車の恐怖は手動ドアでしたね。恐怖でもあり、ちょっぴり冒険心をくすぐられたり。

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