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2010年11月25日 (木)

徳山・新南陽(周防富田))配線図

以前つちろんさんから徳山~新南陽間に関するコメントをいただきましたので、この間の配線図をご紹介します(もちろんT.Mさんからのご好意によるものですが(汗))。

まずは1967年4月。

R196704
・徳山駅は上下本線のほか、上下共用の待避線、それに貨物用のホームのない待避線が上下に各1線、合計5本の本線があります。
・車両基地としては柳井機関区徳山支区・徳山客貨車区が設けられています。機関支区は転車台の付近だと思うのですが、客貨車区はホームに並列の海側でしょうか。

・周防富田駅の本線関係も似たようなものですが、上りの貨物待避線がありません。

続いて1969年4月。

R196904
・徳山駅はほとんど変化がありません。
・この頃の徳山客貨車区にはオハ35系を中心に39両の客車が配置されていました。

・周防富田駅は貨物側線が増強されています。
・上り場内信号機の61LEがナゾです。

続いて1976年4月。

R197604
・徳山駅ではホームが1面増設されていますが本線関係に変化はありません。従って6番線はホームに面していますが本線ではありません。
・右上にA-A’から先の部分が描かれており、「客貨車区」の文字が見えますが客貨車区は省略されています。新幹線の関係で客貨車区の移転が行われたのでしょうか。
・昔の国土画像情報カラー空中写真を見ると、客貨車区の先にデルタ線の痕跡が確認できるのも興味をそそられます。

・周防富田駅は本線として新たに下り2番線が設けられています。この下り2番線は下り列車に対しては到着専用ですが、神戸方への上り列車の出発ができるようです。
・1969年時点で増設されていた 12~15番線がなくなり、代わりに16~23番線が設けられています。
・やはり61LEがナゾです。

続いて1984年12月。

R198412
・徳山客貨車区から先に伸びる線路が新南陽駅までつながっています。コスモスさんのコメントの通りですね。
・この頃の徳山客貨車区の営業用客車(50系)の配置はわずかに7両ですが、おそらく民営化までこの状態が続いたのではないでしょうか。
・徳山機関支区は1977年頃に徳山機関区に格上げされています。もちろん車両の配置はありませんが。
・転車台は撤去されました。

・周防富田改め新南陽駅は飛躍的な変貌を遂げました。
・本屋に面したホームは撤去され、旅客ホームは島式1面だけになりました。
・貨物関係では門司方に中線が設けられたほか、着発線や側線がかなり増強されています。スゴイ変貌ぶりですね。

最後に1997年4月。

R199704
・徳山駅自体はさほど変化はありませんが、客貨車区の線路が一部撤去されています。

・新南陽駅は仕訳線の多くが門司方で車止めになるなどの変化が見られますが、全体としては相変わらずの規模を維持しています。

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

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バックナンバーはこちらからどうぞ。

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コメント

周防富田の61LEについてですが、
終点方→上り1番線の場内信号機だと思います。
周防富田駅の継電連動化に伴い、111号の渡りを新設して、
直接上り1番線に進入できるようにしたようですね。
でも出発信号機(2L)の外方に分岐を設けていることになり、ちょっとイレギュラーですね。
少なくとも今日の基準では省令抵触のみなし設備となるはずです。

↑すみません、名前欄入れ忘れました。

なるほど。新南陽駅の島式ホームののりば番号が1・2番ではなくて2・3番である理由もよくわかりました。貨物設備増強のため、本屋側1番のりばが旅客扱いを廃止したんですね。

名無し信通区さん、ありがとうございます。
すみません、出発信号機4Lを見落としていました。上り1番線は本線なんですね(1967年時点でも出発専用ですが本線ですね)。ただ確かにちょっと違和感のある分岐の仕方です。
つちろんさん、新南陽駅は貨物のために旅客が隅に追いやられてしまっていますね。

新南陽駅の線路といえば、ハンプさんの存在じゃないでしょうか?
つい最近まで、とりあえず残っていました。
使っているの見てみたかったです・・・

ひとやすみの項でのコスモスさんの記述に「旧徳山機関区」の文字を拝見したとき、視線がくぎ付けになったのと、淡い昔の思い出が甦ってきました。
それはいつの頃だったでしょう、当時、社宅住まいの小さな部屋の押し入れの中で、たぶん交通公社発行の昭和34年の小型時刻表を見つけました。
父親が下呂温泉へ慰安旅行に行く時に購入したようで、高山本線の頁に赤鉛筆で乗車する列車に印しが付けてありました。
価格は50円だったと思います。
その時刻表を食い入る様に見続けていた幼い頃のそんな私を見ていた母親が時刻表を買い与えてくれました。
これまで何度かお話していた昭和46年5月号の大型時刻表です。田沢湖線を走る キハ58型急行列車の表紙が印象的な時刻表でした。(当時260円)
ちょうどSLブームの頂点の様な時期も相まって、小学生の私にもSLの話題は日常茶飯事のことで、小学校の用品納入業者が、当時有名な伯備線の D51三重連のパネル状の写真を校庭内で小学校の生徒を相手に売りに来ていた程でした。
そんな頃に正月かお盆休みかお祭りの季節だったのでしょう、親戚中が母親の実家に集まり話しをしていたら、SLを見たくてしかたがない子供の私が酒の肴になり、「蒸気機関車が見たかったら機関区に行ったらええぞ。いっぱいSLがおるぞ」の叔父の一言。
姫路第一機関区や新見機関区等にSLたくさんがいると教えられました。
叔父のその一言で子供の頃の私は機関区に対する想いが募って行き、当時は唯一の鉄道図書で有った時刻表を見ながら、全国の機関区の場所を捜し求めていました。
やはり、姫路駅や新見駅などの鉄道分岐点に機関区があるのだと想像し、当時流行していたジャポニカの百科事典が自宅にもあり、国鉄の機関区関係は最盛期には160ヶ所以上在ったと記載されており、この徳山駅にも機関区が在ったのかと想像していました。
それから歳月は過ぎ、山陽筋の機関区は鷹取 明石 姫路第一 姫路第二 岡山 福山 糸崎 瀬野 広島第一 広島第二 廿日市 岩国(麻理布) 柳井 徳山 三田尻(防府)小郡 厚狭 幡生 下関などだと判ってきました。
しかしながら、福山とこの徳山は鉄道分岐点に有りながら入換用の車両が配置されていたに過ぎないような機関区であったと知り、時刻表を見ながら徳山機関区に幹線用の大型SLが配置されていたのかと想像していた気持ちが落胆したのを覚えています。
その後、山陽本線西部の機関区を訪れるため、新幹線で広島入りしたのですが、岩国機関区、柳井機関区に防府駅の三田尻機関区跡を見るのには新幹線は役立たずで、広島駅から在来線でひたすら下関駅まで下りました。
柳井駅構内で柳井機関区跡の敷地を見てから徳山駅、防府駅を目指したのですが、徳山駅構内には目を見張るものはありませんでした。(防府駅構内は三田尻機関区跡の敷地であったであろう駅舎ホーム南側に空き地がありました)
しかしながら新南陽駅構内では、LUNさんのおっしゃる パンプで、押し上げの DE10が淡い黒煙を残し、貨車がパンプのスロープを下って行く様子が、たまたま通り掛かった車内から目撃出来たのを記憶していましたので(当時、操車場機能全廃後で、ここではまだこんなことをしているのかと印象的でした)それは幸運だったのかも知れません。

T.Mさんからのご好意による両駅の配線図に徳山機関区の転車台を見受けられることができ、その昔、おそらく岩徳線などで使用された大型SLがこの転車台で方向転換していたのだろうと想いを巡らせています。

長年の想いを叶えていただける皆さんのご尽力にひたすら感謝です。

LUNさん、新南陽のハンプ、すっかり忘れていました。配線図にもそれらしき記載はなかったですね。ひょっとしたら日本で最後に作られたハンプだったりして。
E10さん、徳山機関区(支区)って、なんであんなに徳山駅から離れた場所にあるんでしょうか。それとその先にあるデルタ線。このあたりの経緯をご存知の方いらっしゃいましたら是非教えてください。

徳山機関支区の転車台に俄然興味が注られます。
それに掲示されている三角線跡の様な部分にもです。
勝手な想像で誠に恐縮ですが、この徳山機関支区の転車台は、重幹線規格の駅構内に設置された転車台の割には長さが短く、大型SLの車軸間有効長がはみ出てしまい使用出来なかった可能性があったとは考えられないでしょうか?
呉機関区支区の転車台と呉線内の C62 C59等による超大型SLの バック運転での運用にも同様の理由が考えられ、広駅から呉駅までの距離なら広駅に到着後 バック運転で呉駅まで戻り、転車台で方向転換してから広駅まで往復しても出来なくはない距離感です。
それと何故、徳山機関支区で徳山機関区ではなかったのか?
遥か昔の鉄道黎明期、山陽鉄道により神戸から下関(馬関)へ向けて西進して来た鉄路がこの徳山まで辿り着いたのですが、当時の徳山を位置的な感覚で見ますと、山陽鉄道全通時には広島機関庫から下関機関庫までの間に柳井機関庫(当時柳井津)と三田尻機関庫(現防府)が設置されています。(当時はいづれも名称は機関庫)
これは糸崎機関区同様、山陽鉄道全通当時の明治期における輸入蒸気機関車群の性能による距離的な要因により、それらの位置に機関区設備が設置されたのではないでしょうか。
もしそれらの機関車達がもう少し高性能なら、広島駅と下関駅のほぼ中間点にあたる徳山駅に大規模な機関区が設置されていたのかも知れません。
上記の疑問、徳山機関支区になっている理由として考えられることが岩徳線の存在です。
岩徳線が開通した後の昭和10年頃は、たとえ山陽本線西部とは言え、大正生まれの C51は勿論、重幹線用の3シリンダー機 C53が大活躍しており、それらの大型SL達にとって徳山駅は単なる給水のための途中駅だったのでしょうが、それまでの岩徳線の建設延進により岩国駅と徳山駅にも小規模な車両基地の必要に迫られたのかも知れません。
後年に岩国機関区への気動車の配置(50両規模)と、この徳山貨客区に客車の配置(こちらもオハ35を主に50両規模)があり岩徳線を中心に使用されていたようです。
ここで話しを三角線跡に移します。
岩徳線開通後はこちらを山陽本線の短絡線として使用したため、岩徳線は山陽本線となり大型SL達の通り道となりました。
しかしながら、しばらくしてから山陽本線複線化のため線形的に有利な柳井経由の本来の路線が複線化されたために岩徳線は支線に格下げとなりました。
しかし、たとえ支線とは言え高規格線路が残り、使用された機関車は C53から重幹線用主力機関車の座を引き継いだ超大型SLグループに属する C59(SLでは国内最長の全長を誇ります)や D52と、戦後は C62 等がそのまま運用されていたのではないでしょうか。
そうだとすれば、然るに徳山機関支区の転車台が注目されるのですが、徳山のSL設備が幹線用規格に設置されたものでなく、前出の理由で、それらの大型SL達を方向転換させるために敷地的に余裕があったため三角線が敷かれたのかな?とも想像しています。(英賀保駅構内三角線のような戦時理由も考えられます)
この辺りは徳山の転車台に乗る大型SLの写真などが趣味誌やネット上で発見出来れば疑問が一発解消されるのですが‥。
ただ、徳山駅構内の敷地規模からして、明治期には何等かのSL設備が有ったと考えられるのかもしれませんが、徳山機関支区の前身である広島機関区徳山駐泊所の開設が昭和7年(機関支区格上げは戦後の昭和23年、柳井機関区徳山機関支区に改編)ですので、先程の岩徳線の経緯があり、当時の徳山駅構内に貨客車区の設置を優先したためと、近隣の周防富田駅の存在(構内入換)が、掲げられている配線図の位置に転車台等のSL設備を設置した理由でしょうか…?

徳山と関連して三田尻機関庫と柳井機関区についてですが、三田尻機関庫は山口線全通と山陽本線の輸送増などにおける小郡機関区の整備で三田尻の設備が小郡に集約され廃止(黒松内機関庫や山北機関庫の消滅経緯と似ているかも知れません)されたようですが、柳井機関区は反対で、小郡機関区の様に成り得なかった徳山駅の構内立地や地形的理由と岩徳線の経緯的な理由が相まったのと、柳井機関区が大規模機関区設備(煉瓦製4線式大型短形庫、三田尻は2線式?)を有していたので、そのまま生き残ったのかもしれません。

ここまで長々と下手な能書きを垂れてすみませんでしたが、伝統ある趣味誌の鉄道ピクトリアル等の記事や、鉄道友の会中国支部の会報、地元校の鉄研等でこの徳山における鉄道の詳細が発表されているのかも知れません。
ただ、やはり現場に携わった方々や地元で日常を目撃されていた人々の証言もお聞きしてみたいものです。

それと以前 f54560zgさんが小山の項で疑問を呈されていた柳井機関区の C50ですが、山陽本線電化前は柳井機関区は D52の専業機関区みたいな感じで昭和36年の時点では C50の配置はありませんでした。
その頃の徳山機関支区には C50が2両配置されていて、山陽本線電化の頃にSL設備集約のため徳山機関支区から柳井機関区に転属し、柳井機関区を拠点に徳山地区等で入換仕業に従事したものと思われます。

E10さん、ありがとうございます。
おっしゃる通り、機関支区が徳山駅から異様に離れている理由を考えたとき、周防富田との関係は考えてしまいますよね。ただ、1947年(昭和22年)の空中写真を見たとき、
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=R515-2&photono=116
三角線は明瞭に確認できるのですが、徳山曹達専用線とはつながっているようには見えないんです。さらに、転車台等の駐泊設備もちょっと見当たらないような・・・。機関支区格上げが1948年(昭和23年)とのことですので、順番からすると先に三角線、あとから転車台、なのでしょうか。

なるほどそうですね。
配線図の転車台等の位置にそれらしき設備が航空写真の22年には見受けられませんので23年以降に転車台が設置されたと考えられますね。
航空写真の徳山駅構内があまり鮮明でなく判りづらいのですが、まだ岩徳線が岩国まで通じてない時期に駐泊所が徳山駅構内に開設されので、これは明らかに全通前の岩徳西線への運用目的だと考えられ、その規模からして転車台は不要かと思われますが、やはり徳山の転車台は謎ですね。
そもそも徳山駅ほどの規模で構内に転車台を有していないのは不思議でもあり、明治期から徳山駅に始発終着列車がなかったとは考えにくく、機関区設備ではなくとも転向給水所としての設備程度なら有ったと考えるのが自然だと思います。
さらに想像を膨らませますと、明治期からの転車台が戦時中に失われ(米軍の爆撃、若しくは金属供出等の理由?)その対処として三角線が設置されたのかも知れません。
徳山駅構内は敷地的に余裕がなく、航空写真の位置に設置されたのではないのかとも想像しています。
でもやはり、徳山駅構内には最初から転車台がなく、戦時需要等の理由で機関車運用を対応させるために三角線の設置に至ったのかも知れませんね。
配線図の転車台ですが、戦後復興期のなか、岩徳線や山陽本線の機関車運用と、専用線を含む近隣の入換仕業の活発化で必要となり設置されたのではないかとも思っています。

末尾になりましたが、f54560zgさんのブログを通じて、今回の転車台や三角線の考察に、以前の項目での二連の転車台や二棟の扇形車庫の発見、各地機関区などの過去の様子を含め、これまで得難いものを知り得ることができ、皆さんのご尽力に対して多大な感謝をしております。

それと、仁方・広配線図への f54560zgさんのコメントからですが、もっと”スバラシイ!”のは f54560zgさんが幼い頃から持ち続けられている”探究心”だと思います。
読者の皆さん、そうですよね!

E10さんおっしゃる通り、徳山ほどの規模の駅で転車台がないのは不思議ですよね。
個人的には、
>明治期からの転車台が戦時中に失われ(米軍の爆撃、若しくは金属供出等の理由?)その対処として三角線が設置されたのかも知れません。
に1票です。

ご無沙汰しております。みなさんの意欲的なコメントに感服しています。RM誌1月号にローカル私鉄を中心に精力的に執筆している、寺田裕一さんが「外野に惑わされず本当に好きなことを見続ける強さが大事」だと語っていました。共感と納得です。<ちょっと脇道>欄で海外出張時の収穫があったら是非見たいです。

沼津区さん、お久しぶりです。
海外出張時、線路は見ました。架線も見ました。タイフォンも聞きました。けれど肝心の車両は木に隠れて見れずじまいでした・・・・残念!

 おはようございます、やっと『懐かしい駅の風景』様のテリトリーに戻ってきた奥野君です。
 かなり前の訪問ですが、6回にわたって新南陽、徳山の報告が続きますです。明日の最後に廃止されたとkろは休止線らしく線路がそのまま〜〜
 ではでは。

奥野君さん、お久しぶりです。
徳山とか新南陽とかの専用線めぐりって、考えただけでも背筋が冷たくなるんですが・・・。

今、徳山駅近くのホテルに泊まってますが駅改修工事の影響なのか、5・6番の島式ホームが無くなってるように見えます。5番線は現在下り列車(貨物列車等)の待避線みたいになってますね。

そのせいか、山口県有数の「工業都市」であるにもかかわらず新山口や岩国よりも小さな駅といった風情になったような気がします。

電話番さん、情報ありがとうございます。
およそ40年前の状況に戻ったような感じですね。

徳山駅の5番ホームは2年ほど前にはすでに無かったと思います。
この5番ホームは島式ホームと言うより対向式に近い構造で、6番線側には柵があり線路とは少し幅がありました。
5番ホームは広島方面から来た徳山止まりの列車と連絡する徳山始発の下関(小郡)行きの列車が使っていた記憶があります。徳山始発の列車が減ったので、撤去されたのだと思います。
子供のころは祖母の家に遊びに行く時にこの駅を利用していました。
国鉄の香りが色濃く残る徳山駅、貨物ヤードにハンプがある新南陽駅、謎の留置線のある福川駅、周りには何もないのに妙に大きい戸田駅、あちこちにのびていく線路。
電車に乗ると必ず海側の窓にへばりついて、地元の片町線や京阪電車とは全く違う雰囲気を楽しく眺めていました。
配線に興味を持ったのもここがきっかけでした。
子供の頃(とは言っても10数年程前ですが)の夏の思い出です。

moldyさん、私も祖父母のところに遊びに行くことがきっかけで線路配線に興味を持つようになりました。おじいちゃんおばあちゃんと線路配線には何らかの関係があるのかも。

 山陽本線の機関車基地は広島~柳井~小郡~下関と適切な間隔で並んでいました。柳井は当時の山口県では大都市でした。
 1934年に現在の岩徳線が全通して山陽本線になると柳井は基地として不適当な位置です。そのために旅客列車乗務員の基地として徳山支区を設け、また一部は岩国へ移転して岩国機関区となりました。
 本線から外れても貨物列車は勾配の少ない柳井経由のものが多く柳井は貨物列車の機関車基地として残りました。
 徳山に車両基地としての性格が薄いのはこのためと思われます。機関区支区の設備が貧弱ですが、となりに柳井・小郡の大基地があって運用上の不便はなかったはずです。
 また旅客列車乗務員は広島~徳山~下関の運用となって合理化となりました。これは柳井経由が再び山陽本線となってもそのまま継続しており、広島~徳山は110kmという長い乗務が基本となっています。
 電化により柳井機関区は基地の使命を終え、現在の貨物列車乗務員は広島~下関(幡生操)の230kmを乗務しています。

C6217さん、個人的には柳井機関区ってかなり地味な存在なのですが、蒸機全盛時代には重要な基地だったんですね。車両の配置だけを見れば出水とか柳ヶ浦などと同様、蒸機と運命を共にした車両基地ですね。

今年の年始は久しぶりに、SL津和野稲荷号と潮騒みすず号に乗りに行ってきたのですが、(両号共々、近々車両新製を迎えるそうです)帰路の新幹線が帰省ラッシュの影響で若干の遅れがあり、この徳山駅付近では減速運転となり、昨今ブームの工場夜景を山陽新幹線の左手車内からでも垣間見れました。
国鉄時代末期の関西から九州行は、行きはブルトレ夜行、帰路は山陽新幹線のを多用しました。
九州の機関区巡りで時間を有効活用すれば、やはり、往復夜行ブルトレが効率的に勝るのでしょうが、帰路の山陽新幹線での夕暮れ後の車窓から、ここ徳山の幻想的なコンビナート夜景を見たくて、敢えて山陽新幹線を利用していたように思います。
ただ、国鉄時代の機関区巡りが終わった民営化後の九州行は、山陽新幹線を多用する機会が増え、やはり、昼間の車窓は敢えて三列の左手側の車窓で、姫路を出ると、岡山機関区、東福山、旧広島第二機関区、そしてここ徳山機関支区、と(小郡機関区と厚狭機関区は右手側で、反対側の空席か乗降口の窓からになりますが、如何せん下り線側で車窓は期待薄になりますが)国鉄時代の名残を車窓から眺める楽しみがありました。
話しは変わりますが、徳山駅構内の転車台なのですけど、まぁ、転車台好きの願望を含んだ私の眼の錯覚なのでしょうけど、終戦後の米軍による空中写真を見ると、徳山駅の側線部分に不鮮明ながら転車台のような白っぽい円形空白部分が見て取れ、やはり明治期の山陽鉄道時代から徳山駅構内で、ネルソンやテンホイラーが転向していたのではないのかと妄想しています。
仮に終戦後に転車台を移設したのならば、戦後の旅客需要増による岩徳線や山陽本線の客車を留置するためなのでしょうか、もし研究者の方々がいらっしゃるなら、是非解明していただきたいのですが‥。
前出の C6217さんのコメントに関してなのですが、国鉄末期に広島機関区を訪問した時、見学許可を得るため機関区事務所を訪れたら、出区時の点呼を受ける機関士さんに出くわしました。
その時に、広島機関区のSL時代の昔話を助役さん達にお聞きしていた話しの輪にその機関士さんも入って下さり、当時のC62やC59、D52などの超重量級SLのお話を聞かせて頂いたのですが、広島機関区の見学を終え、岩国機関区跡を訪れ、さらに柳井機関区跡を訪れ、柳井駅構内をうろうろしていたら、EF66に牽引された貨物列車が柳井駅の側線に停車しました。
もぅ殺風景に近かったような柳井機関区跡でしたので、せっかく来た貨物列車でも写そうかと、その機関車に近づいて行ったら、「もうここまで来られましたか」突然 EF66の運転室窓から機関士さんに話し掛けられ、先ほどの広島機関区で出区点呼を受けていた機関士さんだとわかり、EF66の運転台からと機関車傍から見上げる私との会話が始まりました。(この仕業が広島から下関までの乗務だったのでしょうか)
昔の柳井機関区の4線式矩形庫や炭台、給水塔の位置やSL時代の様子などをお聞きし、いろいろお聞かせ頂いたお礼を言ってからそれらの在った場所へ移動してその場所を撮影した後、しばらく立ちすくみながら柳井機関区跡の地面で遠い昔の往時へ想いを馳せている私に対し、停車していたEF66型の牽引する貨物列車が軽く汽笛を鳴らして柳井駅の側線から出発して行きました…。

E10さん、

>ブルトレと新幹線
確かに往復夜行のほうが効率はよいですよね。昔の周遊券の時代は往路夜行はちょっともたいない気もしましたが。

>徳山駅構内の転車台
錯覚や妄想ではありませんね。私も改めて空中写真を見てみましたが、間違いなく構内に転車台がありますね。おっしゃる通り終戦後に転車台を移設したのでしょう。

>広島機関区の機関士さん
職員さんとの触れ合いはいい思い出ですね。私も各地でお世話になりました。JRとなった今ではそうはいかないでしょうね。マニアは敵視されているかも。

http://www.rs.tusy.ac.jp/shiraishi/gallery1922.html
に小郡機関区移転前の1922年の三田尻機関庫と駅構内の画像があります。現在の高架1面2線からは想像できないかと思います。機関庫の小郡移転には箝口令まで敷いたと資料を調べると書いてあります。防府駅高架も当初2面4線が2面3線になり最終的には1面2線まで規模縮小されています。ちなみに明治頃に人口が比較的集積していたのが旧制中学があることからも山陽筋では下関・岩国・防府と山口になります。柳井は岩国藩の港と商都、三田尻(防府)は天満宮の門前町で萩藩の軍港と萩往還の分岐点であったことや広大な平地や佐波川があり水の確保が容易であったことなどが徳山でなく三田尻に機関庫を設置した理由ではないかと推察されます。明治6年時点で下関1.8万、岩国1.1万、山口9千、防府4千人の人口規模だった模様です。

三田尻機関庫さん
箝口令まで敷く機関区移転とは、いったいどのようなものだったのでしょう。

f54560zgさん
あくまでも推察ですが、旧山口市街に山陽線が通過していないため、旧山口市と小郡町は、鉄道産業の大きさに着目し、古来からの陸上海上交通の要所の三田尻(防府)への集中を避けることを考慮し、山口線の分岐駅に昇格し、さしたる産業のない小郡駅を、旧山口市街の玄関口にしようと考えたのではないかと思います。小郡町が山口市を凌ぐ都市にならないだろうという希望的観測があったのではないかと…ちなみに戦時中は小郡町は山口市に編入その後分割し、平成になって再度合併していますが、駅の規模の割に新幹線開業後も人口は2万人程度の町でした。内陸部にあり、山口線の機関区も設置されなかった旧山口市としてはせめて鉄道機関区を近隣に設けることで拠点性を高めようとしたのではないでしょうか。ちなみに山口線開業以前は三田尻が県央部の主要駅でした。私見ですが機関区は移設せずに、小郡にデルタ線を作って山口駅まで山陽線直通列車を乗り入れたほうが県内の鉄道交通はよかったのではないかと思います。

三田尻機関庫さん
詳しい説明ありがとうございます。機関区移転は防府町民の反発を恐れての箝口令でしょうか。
それにしても扇形庫を2つも有する、大規模な小郡機関区でした。

三田尻機関庫移転の経緯についてです。三田尻機関庫は山陽鉄道開業時からの機関庫(山口県内では柳井津、三田尻、馬関)でした。4線で各3両収容、計12両収容可能な当時としては大規模な機関庫でした。1913年2月の山口線の山口小郡駅間開業時に、三田尻機関庫小郡分庫、1922年三田尻機関庫津和野駐泊所、1925年には柳井機関庫が三田尻機関庫柳井津分庫となるほどの、山陽線で中枢の機関庫でした。
陰陽連絡である、山口線の開業を睨んで、小郡町が機関庫誘致のために水源を設置し、20両以上収容可能な扇形機関庫を設置するとのことで、機関庫の誘致を働きかけたために箝口令が敷かれた模様です。
当初、山口線は機関庫のある三田尻側(東側)からの分岐が検討されていた時期もあったようです。当時、三田尻からは防石鉄道が着工されており、陰陽連絡でしのぎを削っていた模様です。
県庁がある山口市を経由し、国鉄による建設を取り付けた山口線が競り勝ち、それに伴い機関庫も移設したように表向きはみえていますが、当時鉄道は一大産業ですので、水面下では、有力な名士による、様々な策略があったようですね。
(参考:小郡黒鐵(くろがね)黄金時代)

歴史にIFはありませんが、機関庫が移転しなかったら?山口線が三田尻分岐だったら?
山口県内の分散都市構造が三田尻中心の中核都市構造になっていた可能性も考えられる興味深い歴史でした。

三田尻さん
おっしゃる通り歴史にIFはありませんが、高架の棒線駅となった防府駅を見ると、これとは違った姿になっていたのかもしれませんね。

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先月、山口県の線路を久々に巡礼した時の記事の補遺です。 山陽本線を、宇部から下松駅まで往復しちゃいました。 海沿いは美しいですね。 でもね、 線路の美学からすると、 特に注目すべきは、 新南陽駅から下松駅までなんです。 山陽本線線路の白眉といって過言ではない区間です。 線路巡礼:山陽本線新南陽駅→徳山駅→櫛ヶ浜駅→下松駅。 一気にまとめてご紹介。 新南陽駅 ここから引上げ線が始まります。豪華に2..... [続きを読む]

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