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2010年11月20日 (土)

仁方・広配線図

浜松シリーズ、まだ終わっていないのですが、急遽仁方駅と広駅の配線図を。

以前TOさんからいただいていた宿題です。
TOさんのコメントを手掛かりに想像しながら苦労して作成してみました。

R196704_2
・・・・というのはウソです。
ブログでのコメントのやりとりをご覧いただいていたT.Mさんからありがたいお申し出がありましたので掲載させていただきました。感謝です。

上図は1967年4月です。

・仁方駅には「米田物産」と書かれた専用線があります。省略されているため全体は描かれていませんが、これがつちろんさんのおっしゃるラケット状ループ線の一部でしょうか。
・細かい話になりますが、下り列車は下り本線(2番線)にしか進入できませんが、上り列車は上り本線(1番線)だけでなく下り本線にも進入できます。しかし下り本線からは三原方には進出できませんので、どのような使い方がされていたのか興味深いです。

・広駅にはなんとホームが3本も描かれています。側線も多数あり、想像以上に大きい駅ですね。

続いて1969年4月。

R196904
・仁方駅は変化ありませんが、広駅は第三ホームがなくなりました。想像するに、ホームをつぶしてそこに5番線(電留線)を設けた、って感じですね。

最後に1984年2月。

R198402
・仁方駅の専用線は保守用線路になってしまいました。

・広駅では右上の東洋パルプの専用線の先に突如「軍用側線」の文字が出現しています。
・それにしても左下部の貨物積卸線部分の線路の多さといい、かなりの規模の駅ですね。呉駅を考えなければ転車台等の機関車駐泊設備がないのが不思議なくらいです。

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

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コメント

転車台の丸い印しや、扇形車庫の扇形のマークの無い配線図に私がコメントをさせていただくのは少かったのですが、上野駅の項に記載させていただいた様な理由で、この広駅には思い入れがあります。
機関区の出区線に何両も列を成す蒸気機関車は多々有りましたが、大型蒸気が出発前の客車を引き連れてズラリと並んでいる姿は、この広駅構内特有の光景だったのではないでしょうか。
本項でのf54560zgさんのおっしゃるように、この広駅構内に転車台が設置されていないため、狭軌鉄道の国内での超大型蒸気機関車が広島駅からこの広駅までの約30粁以上もバック運転での運用をこなしていたらしく、近くの呉駅の転車台との関わりも気になります。
それと、ひとやすみ2の項、私の【呉線】の記述にある仁堀航路の事ですが、民間の呉松山フェリーは阿賀港に着岸しており、最寄駅は安芸阿賀駅で私は仁方駅には訪れていません。
記述に間違いがありお詫び申し上げます。
国鉄の連絡船航路の中でも、今だ現役の宮島航路を除けば、この仁堀航路は異彩を放っており、当時の乗り換えの様子なども興味深く、一枚の配線図から様々な想いを巡らす事が出来、TOさんの記述から T.Mさんのご好意にf54560zgさんのご尽力と、呉線シリーズにも感謝いたします。

朝の広駅にC62やC59が長い編成の客車を従えてずらりと並ぶ光景はさぞかし興奮モノだったでしょうね。E10さんおっしゃる通り、他では見られない、広駅特有のものだと思います。
なお、その昔子供のころ、「呉」という地名は知っていたのですが、近くに「広」という駅があるのは知りませんでした。雑誌か何かで「呉~広間」と書かれているのを見て、「広???、なんだ、『呉~広島間』の誤植か」と真剣に思っていました(汗)。

こんにちは。呉線仁方駅の配線図、感動しました。お示しいただいた「米田物産」専用線は、国土交通省Web航空写真や、私がかつて見て興味をもった市販の地図(たしか昭文社)に描かれていたラケット状ループ線として矛盾ないと思います。航空写真ではループに囲まれた区域はそういえば貯木場のようにも見えます。木材関係の会社だったのかもしれませんね。東京の国立駅の鉄道総研へ向かうループ線を地図で見たことがあるくらいで、ほかにループ状の引込線を知りませんでしたので、市販の地図で描かれているのを初めてみたときは「何だこの線路は?」とびっくりして詳しく知りたいと思ったことを懐かしく思い出します。ちなみに、その線路、10年くらい前までは、「保材線」に該当する部分だけが残っていましたが、いまではあとかたもありません。上り列車が下り本線にも進入できる配線とのこと。現在もそうなのかは未確認ですが、営業列車で仁方折り返し便はなかったはずです。広駅からの距離も近いですし、どんな目的でそのような信号配置になっていたのか(orいるのか)興味がありますよね。貴重な配線図情報ありがとうございました。楽しく見させていただきました。

”広ー広島”の錯綜。
鉄道少年のだれもが通る道ですね。
f54560zgさんと同じく私も同様の思い込みを経験しました。
時刻表に比べ高尚な位置であった鉄道趣味誌に”広駅”の文字を発見した時は、こんな書物に間違いを発見出来たことに小躍りして、自分自身の観察力に酔いしれた気分を感じたことは幼い時の人生で初めての快挙でした。
しかしながら、僅かな時間を置いて時刻表の呉線に”広駅”の存在を現認した時、鉄道少年の心は大きな落胆感に包み込まれました…。

つちろんさんのおっしゃる仁方駅の「ラケット状ループ線」。そんなに稀な存在感を誇示していたのですね。
レギュラーコメンテーターのお一人である、専用線好きさんをはじめ、その道の方々のご見解はいかがでしょうか?
私個人としてはナローゲージや森林鉄道等の路線にラケット状ループ線を見かけたことはありましたが、日本国有鉄道の路線にこのような形状の線路が存在したとは初耳でした。
素人考えですが、貨車の片側からの荷役をスムーズにするため、車両の方向転換をして両方からの荷役で労力を軽減させるための配慮かと想像しています。
貨物列車の向きを転換させる要因が何故なのか‥。興味が注がれます。

広駅にかつてあった東洋パルプ(現;王子製紙)・在日米軍黄幡弾薬庫専用線も興味深い引込線です。この線路は駅南西側で広島県道279号と交差していますが、この県道は1967年12月に廃止された呉市交通局の路面電車が南北に走っていました。東洋パルプ専用線と路面電車の軌道は平面交差していたとの話を小耳に挟んだことがありますが、正確なところは不明です。ちなみに現在の広駅は3番線南側には5線ほど側線が現存し電車留置などに使用されています。この5線のうち、中間の3線は今は確か東側で車止めになっているはずです。また下り引上線も現存しています。駅東側では図の中の「電留1、2」に該当する行き止まり線路は現存しています。また駅北東側では上り引上線と1番線からの渡り線が現存しており、やはり電車留置に使用されています。北東の貨物ヤードはマンション、家電量販店、そしてJR貨物広オフレールステーションになっていますが、当然ながらオフレールステーション内を含め線路は撤去されています。呉駅が2面3線のホームと西側引上線のみの単純な配線となった現在、広駅は呉線内で最も側線が多く存在し、かつ活用されている駅、ということになると思います。

ラケット状のループ線、国土変遷アーカイブ空中写真1962年
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MCG629&courseno=C19A&photono=5
を見ると、ループ線だけでなくループの内側に入り込む線路もあるように見え、かなりおもしろそうですね。詳しい方がいらっしゃいましたら是非お伺いしたいです。
広駅の呉市電との平面交差についても、同様に国土変遷アーカイブ空中写真1947年
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=M282&photono=41
を見ると平面交差っぽいですね。写真の左上には市電らしきものも写っています。
今では呉駅よりも規模の大きい広駅、それを「広島の誤植」とは、いやはやお恥ずかしい限りで・・・。

突如の「仁方」「広」駅の出現にびっくりしました。広駅のあまりにも正確な再現に「さすが」と思いながら読み進めていくうちに・・・・・・思わず笑いました。(こういうのって好きです)
あんな断片的な条件で、想像図を要求してすみませんでした。
でも、ご想像以上に大きな駅だったと思います。
当時の、しかも変遷までが見れて感激しています。
第三ホーム、初めて知りました。何度も通っているのですが、全く記憶にありませんでした。

【昭和47、48年頃】
広駅午後6時10分発糸崎行普通列車(広島始発)は6時頃3番ホームに入ります。
通常上り列車(図の左方向仁方方面行き)は、1番ホームに入るのですが、ここで後ろ2両を切り離すのと、1番ホームに既に貨物列車が入線しているからでもです。
切り離しを終えた列車が発車するのと同時に、1番ホームに停車中の貨物列車も同じ方向に動き出します。図の下側、仁方方面に延びる線路がありますが、貨物列車はそこを行くのです。扇状の線路での貨物の入れ替えの為です。
3番ホームから発車した列車は、貨物列車目掛けて鋭角に切り込んで行きますが、尖閣のようにはならず、ポイントのところでガチャガチャとポイントの音を響かせ、そして、ガクンとくっと揺れ本線上に方向を変え貨物列車と併走します。
一瞬ひやっとします。このスリル感、私の密かな楽しみでした。

牽引の貨物列車の機関車は茶色の電気機関車で、九州鉄道記念館に展示してあるものと同じだったと思います。
なお、貨物の入れ替えは、勿論南側(図上側)でも行なわれていましたが、こちら側には独立した線路がないので本線上を利用していたのではないかと思われます。(若しくは、先ほどの側線を利用し本線とクロスさせて?)
糸崎行き普通列車は、遥か昔山手線で走っていたような黄緑色の対面式の電車でした。湘南電車は似合いましたが、この電車は呉線には似合わなかったですね。

今回も相変わらず TOさんらしい描写力で、いつもながらの文面に読みごたえがあります。

列車並走時に多くの方々が経験される、本線上へのポイント通過をする時に感じるあのヒヤリハット感‥。
当時の電車は二枚窓の 80系(確か三枚窓タイプもありましたね)で、貨物列車は EF15形の牽引だったのでしょうか。
たぶん趣味誌上などでも注目度の薄い呉線電化後の貨物列車の姿が垣間見ることも出来てうれしく感じます。
広駅を思い浮かべる時、私の中では固定観念として広島方の列車しかなく、今回初めて三原方の列車に触れられたことに、私は別の角度から、はっ!とさせられました。


f54560zgさんが機動力を駆使して掲げていただいたラケット状ループ線ですが、それまで私は、ラケット状ループ線の首部になるような周回線の分岐接合点辺りから、ほぼ楕円形の周回する線路が見渡せるような姿を想像していたのですが、私の思い描いていたようなナローゲージ等のものとは全く違い、その姿は国鉄の線路に直接繋がる専用線としての規模を有していたようですね。
航空写真を目の当たりにして、前出の私の荷役云々の素人考えなど当たり前のごとく吹き飛んでしまいました。
それでもしつこく次の素人考えですが、航空写真を見た時感じたのは、機回し線の省略か、その手間を省くためにあのようなラケット状ループ線になったのか、それとも元々は二股に伸びていただけの専用線を、片方の途中と他方の先端部とを半円状の線路で繋いだのでは‥?とも思いました。
でも、いつかラケット状ループ線の謎が解けた時、やはり私のこの素人考えも何処かに吹き飛んでしまうことになるのでしょう‥。

列車並走時のヒヤリ感、全く同感ですね。
今日熊谷の記事を書いたのですが、私の場合はこの熊谷で味わえるスリルがたまりませんでした。
どこかの記事に書いたような気もするのですが、まあご勘弁いただいてあとで熊谷の記事に追記しちゃいます。
ラケット状ループ線のナゾはそう簡単には解けないような気がします。真実はどうであれ、あれやこれやいろいろな想像をめぐらせるのも楽しいですし、またいろいろな想像をしたくなるカタチの線路ってスバラシイ!

仁方駅の引き込み線。ラケット状のループ線。
謎解きしたいですね。
自分の頭の中で仁方について第一に想起するのは今でも「鑢」です。駅の南側に何々ヤスリと多くの看板がありました。
高校の時、冬になると、仁方駅南から航空写真左下側に見える街並み辺り(写真に映っていないもっと先だったかも知れませんが)の神社を中間点としたマラソン大会が毎年ありました。
このスタートライン辺りに、確かにその引き込み線を見ています。
道路と分離したものではなく、道路上にです。
それがループになっていたかどうかは、分かりません。ああ、こんなところに引き込み線があるんだな、くらいの感覚でした。
あの頃もっと興味を持っていたら少なくとも、どこに繋がっていたかくらいは分かっていたのに(ここで披露できたのに)と思うと残念でなりません。
謎解きはできないかも知れませんが、機会があれば調べてみようと思います。

TOさんの記述の「遥か昔山手線で走っていたような黄緑色の対面式の電車‥」の部分に関してですが、私は前出のコメントで早合点と勘違いをしており、これは80系電車ではないですね。
80系に対面式のロングシートはなかったと思いますので、おそらく車内にロングシートを有していた72系等の電車ではないかと思われます。
記述に間違いがあり申し訳ありませんでした。

E10さんの「広ー広島」の錯綜。
分かります。面白いです。
この錯綜の意味あいとは違いますが、以前下関から乗車した時、私も「広」駅の錯綜が頭を掠めたことがあります。
それは、改札を入り、ホームに上がる途中の壁に掲げてある、上り列車の発車時刻表を見た時です。
「新山口」行きとか「広島」行き等ここから乗車する人は誰でも分かる駅名の中に、マイナーな「広」行きを見た時です。
「下関ー広」間の列車は実際にあるので、書かれてあって当然なのですが、「あっ、あった!!、あった!!!。ある!、ある!!。」と嬉しくなりほくそ笑みました。しかし、下関から乗車する人(下関以東の駅から乗車する「広」を知らない人もそうだと思います)のことを考えた時、これを見た人は、ひょっとして広島行きの間違い?誤植?と首を傾げるのではないだろうか?という思いが頭を掠めたわけです。
幸い、広島行きと勘違いして乗車しても目的は達せられるわけで支障はないのですが・・・・・・。
JRもこれを見越して広行きを設定しても大丈夫と考えたのでしょうか?(そんなわけない!か)
まあ、こんなことが頭をよぎるのは「準鉄」の私くらいでしょうね。

さて、もう一つついでに「準鉄」くらい?の発想をご披露します。ちょっと恥ずかしいですが・・・・・。
他県の人が見ておや?と思うような「広ー広島」に似た運行区間は、他にあるのかと考えたことがあります。
ありました。
実際運行されていたかどうか確認をしなかったところが「準」たる由縁なのですが、有り得た区間として「盛ー盛岡」(「もりーもりおか」でなく、「さかりーもりおか」)です。
今の時刻表を見る限りでは、「盛ー盛岡」運行区間の列車はありませんでした。

E10さん、呉線電化時には72系と80系の両方が投入されていますからあながち間違いではないかと。
RJ1970年11月号の中に以下のような記述があります。
『10時20分、広島駅3番ホームに駆けつけると、すでに3両編成の試運転電車が入線している。かなりくたびれた72系だが、色はあざやかなウグイス色----、電化してもロングシートの古い72系が入るのではサービスダウンになるのでは?という意地悪な質問に、いや、粧いを新たにしますから・・・・というのが国鉄さんの答えだった。ナルホド!老婆の厚化粧、といった感じがしないではないけれど・・・・。』

TOさん、
>広島行きと勘違いして乗車しても目的は達せられる
まさにフェイルセーフの考え方ですね。
盛-盛岡、座布団3枚です。なぜ「準」がつくのか理解しかねますが。

早速の座布団3枚ありがとうございました。

「準」。好きなんです。
「快速」より「準急」の方が威厳がありませんか?
「純」にも通じますしね。
昔は「準急」から「急行」に格上げ、といったこともしばしばあったような気がします。
上を虎視眈々と狙う二番手。勢いを感じます。
尤も、私の場合ただのモラトリアム人間ですがね。

ー反省ー
「仁方」駅「広」駅に気をよくして、ちょっと一休みのところで書くようなことばかり続けてしまいました。
反省しています。

あっ、そういうことですね。「準」というよりはむしろ「純」、ナルホド。

72系、80系と言われても「準」な私には???ですが、文面から察するに、72系は「遥か昔山手線で走っていた黄緑色」と表現した車両のことで、80系は「湘南電車」と記述したもののことでしょうか。
電化された最初の頃は、あの黄緑色、高貴で色鮮やかなあのウグイス色〔額(正面上)は橙色で塗装されていました。)〕の電車が来る度に、ホームにいる人達から「ちぇっ」という落胆の溜め息が感じられ、声無き声がはっきりと聞こえました。勿論私も落胆し、声無き声を発しています。
入口近くに、満員になったらこれを掴めとばかりに銀色のポールがある(ないものもありましたが)いかにも都会で使い古された感のある通勤電車でした。
粧いを施されても、やはりサービス低下は歴然たるものだったと思います。1回か2回、この電車が来ると思っていたところ、さらに古い、昭和20年代〜30年代を彷彿させるようなチョコレート色の車両の電車が来たことがあります。(何だったんでしょうね。)
ローカル線に対面式のものはいけませんね。
車両は古く、ガタついていても一人になれる、一人になり得る可能性のある空間が確保されているクロスシートでなければなりませんね。
しかし、今走っている2両編成の白地にピンクとブルーの線を施した車両(どこのお古なのでしょうか?)と比較した時、あの黄緑色の電車でさえ常時6両編成で、時には8両編成での運行もあって、それなりに風格があったかなと懐かしく思えます。
もう一つの湘南電車の方は、山陽本線でも使われており違和感はありませんでした。
ウグイス色通勤型列車・湘南型列車、どちらも区間快速での運行がなされるものがありました。「広ー広島間快速・広ー三原間普通」とその逆「広ー広島間普通・広ー三原間快速」。三原(糸崎)ー広島間を通しての快速はありませんでした。
呉線は、通常1時間間隔の運行ダイヤですが、その当時快速が走る時間帯は、40分前後(前か後ろどちらか)に普通列車があり、それなりに通過駅の乗客への配慮がなされていたと思います。
以上が当時呉線で走っていた車両の思い出(電車となってしまった急行「安芸」、蒸汽機関車牽引から電機機関車牽引に代わった寝台急行「音戸」は別として)ですが、客車も午前5時半頃糸崎始発の広島行き一番列車と、午後6時頃の広島始発糸崎行きが朝夕1列車ありました。(広以東)

広ー広島間は上記に加え、通勤・通学の時間帯には(たぶん)今まで蒸汽機関車に牽かれていた客車がそのまま使われていたと思います。
早朝の糸崎始発広島行き一番列車は、広始発の客車が出払った後、客車の「とり」として広島へ向かっていたことになりますか。
3台もの蒸汽機関車が立ち並ぶ広駅の写真は確かに有名で、蒸汽機関車ファンの気持ちはよく分かりますが、電機機関車に牽かれた客車の立ち並ぶ姿も見たかったですね。全国でもこういった風景が間近に見れるところは、広駅以外にはなかったのではないでしょうか?
これまた高校の頃のことで恐縮ですが、文化祭か何かで夜遅くなった時、電機機関車に牽かれた客車(一列車)が4番線か5番線にひっそりと留置され、後続の(広島発)広止めの仲間を待ちつつ、明日の始発に備えていたのを思い出しました。

呉線が電化された際に投入された厚化粧の対面式シートの電車は約半分が常磐線から移ってきたもので、それ以外は京阪神、仙石線、京浜東北線、総武線、南武線などから少しずつ集められたものでした。出身は結構広範囲ですね。
逆に不要となった蒸気機関車の一部ははるばる北海道に送られており、呉線電化の際には車両があっちへ行ったりこっちに来たりしているわけですね。

 おはようございます、今日は広駅をアップしました。専用線に特化していますが(笑)。明日は仁方駅アップ予定ですがラケット線路はよくわかりませんでした・・住宅地になってます・・

奥野君さん、ラケット線路、現役時代を見たかったですね。

 蛇足です。

 広駅の第3ホームは枕木を組み上げただけの簡素構造でした。嵩上げに土砂の代わりに石炭ガラを用いていた記憶があります。
 屋根もベンチもなし、もちろん陸橋もなし、なにせ1日に1往復の終着始発が使用するのみの線路ですから。始発と言ってもここでは回送同然でした。

 DD11の導入は、現地では米軍の弾薬輸送のためだと説明されていました。

へえーっ!C6217さん、すごく面白いお話ありがとうございます。また呉線関係で楽しいお話ありましたらよろしくお願いします。

 TOさんのコメントで山手線の中古車の話しに付いてコメント致します
 丁度呉線が電化された頃 首都圏の通勤ラッシュ対策に新性能電車(カルダン車)化の真最中の時代 特に103系大量投入其れに伴う旧性能電車(吊り掛け車)の地方転出が盛んに行われていました 後に103系も更なる高性能通勤電車投入により同じ轍を踏んでおります
 呉線電化の頃同じく電化された千葉県内の総武成田外房内房各線及び御殿場線に首都圏から放出された73形旧形電車を集中投入しました 国鉄と言う単一組織の時代ですので玉突き転出でした当然電化で不用になったSL DL DCも非電化線に
玉突き転出されます 流石に首都圏の中古通勤電車を其の侭投入するには後ろ目たい其処で車内を更新73形名物の三段窓をアルミサッシ二段窓化 塗装もウグイス色に変更しました 
 丁度山手線に投入された103系の塗装であるウグイス色を採用した ですので山手線の中古車ではなく塗装のみ採用したのです 既に此の時代山手線は新性能車化が終了していた 山手線から旧形電車が消滅したのは1962年頃まだ旧形通勤車標準色ブドウ色二号の塗装に時代でした
 丁度呉線等が電化された頃 首都圏で長編成旧形通勤電車運用線区は京浜東北線常磐線」の二線でした此の二線に103系を投入新性能化により玉突き転出された車両が地方線区に再投入されました 一部の寒冷線区では迷惑な車両です
 何せ通勤特化された車両ですから寒冷地に不向きな構造です 単一組織の良い面と悪い面が如実に現れた事例だと思います 
 又配線図の話しから脱線 いやポイントを切り違えました申し訳ありません

C6217さん、yyoshikawaさん、何でそんなことまでご存知なのか不思議ですが(汗)、情報ありがとうございます。

 呉線電化で72系が投入されたとき、地元では大きな反発が起きています。
 理由は電化資金の一部をを地元が負担(融資)したからです。資金不足の国鉄が電化促進のため地元から融資を受けることは珍しくありませんでした。
 問題はその中に車両新製費が含まれていたことです。私も記憶がありますが、103系を○両新製と明記されています。
 我々の資金で作った新製車を東京に投入して、玉突きの古い車を地元に回すのかという憤激です。地元の政治家も同じ立場です。
 困り果てた広島局が山陽本線の80系電車の運用と絡ませて、呉線の電車の1/2ほどを80系とすることで地元をなだめています。
 このため山陽本線に72系の運用が入り、通勤型がセノハチを走る光景が一時的ながらみられました。

C6217さん、新製車を都会に投入してお古を地方に、というのはよく行われていたパターンでしたからね。
ちなみにこれは機関車についても言えることで、呉線電化用の名目で新製された機関車はEF651000が9両、これが玉突きされて、結果として実際に呉線に投入されたのはEF15が5両とEF58が4両でした。

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