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2010年11月22日 (月)

安芸阿賀・呉配線図

前回に続いて呉線です。今回は安芸阿賀~呉です。

まずは1967年4月。

R196704
・呉も大きい駅ですね。
・広と違うのは、呉には車両基地施設が設けられていることでしょうか。
・安芸阿賀~呉間の休山のトンネルの名称は正式には「呉トンネル」だそうです。

続いて1969年4月。

R196904
・広島運転所の発足時期がよくわからないのですが、少なくとも1969年3月時点での呉の車両基地は広島運転所呉支所という名称でした。
・7番線が撤去されて以降の番線名が繰り下がるなど、微妙な変化があります。

最後に1984年2月。

R198402
・転車台は撤去され、車両基地関連の線路は保守車両や貨車の留置線に転用されてしまったようです。

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

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コメント

呉線安芸阿賀駅南側の2線の側線ですが、外側のものは第3種車止めがありましたが、内側のものは東側で草に埋もれる形で途切れていました。これらの側線にはは工事用車両がたまに留置されていました。2000年頃だったでしょうか、一度2線とも撤去され、1線に敷設され直した経緯があります。しかし、ほどなくこの駅は橋上駅舎化され、その際に側線は撤去されましたので、1線のみ側線が存在した時代はごく短期間であり、ある意味貴重なのかもしれません。また、この駅東には現在マンションが建っていますが、ここは以前は駅本屋に向かって開くような形のほうき形の駐車場が長らくありまして、いかにも貨物扱いの線路でもあったかのような様相を呈していましたが、お示しいただいた図によれば1967年時点で既にそのような施設はないようですね。以上雑談失礼しました。

つちろんさん、TOさんからバトンを引き継いでいただき、ありがとうございます(笑)。
国土変遷アーカイブ空中写真1947年
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=M283&photono=141
によれば、「駅本屋に向かって開くような形のほうき形の駐車場」とは、呉市電の車庫の跡ではないでしょうか。

f54560zgさん、コメントありがとうございます。この航空写真は初めて拝見しました。ご指摘の南東に開くほうきのような線路がある用地は確かに、呉市電の車庫に一致しております。ただ、私が先のコメントで述べましたのは、安芸阿賀駅本屋すぐ東の用地のことです。不正確な表現で失礼しました。お示しくださった航空写真では、貨車のようなものが停まっているようにも見えますが・・、ごく小規模な貨物扱い線でしょうかね。

この呉駅構内に在った呉機関区支区の特長として、少数派の車両であった DD11型が配置されていました。
この DD11型は呉機関区支区の他、室蘭機関区(千歳空港)や久里浜機関区支区(横須賀港)に、よく話題に上る早岐機関区(佐世保港)等にも配置があったようです。
その役割としては火気厳禁の液体燃料輸送に携わっていたようで、なるほど、軍港や空港近くの車両基地に配置されていましたね。
終戦直後は、米軍が持ち込んだ DD12型という変わり種車両が在籍したようですが、まだ国内に数える程しか存在しなかった”ディーゼル機関車”がこの呉駅を中心に活躍していたのは、道行く人々の目を引いたことでしょう。
また、廃止された呉市電に関しては RM誌の薄本に「呉市電の足跡」として発刊されていて、当時の様子などが詳しく解るようです。

つちろんさん、実は私も内心「ひょっとしたら違うかも?」と思いつつ書いてしまいました。
貨物の積卸線だと思うのですが、上記の空中写真の時点ですでに一部線路が撤去されているような感じも受けますね。
DD11!久々に聞いた名前ですね。1969年時点では呉には4~6の3台が配置されていたようです。DD11誕生当時は当然DD13もDD51もなく、おっしゃる通り物珍しい機関車だったと思います。

呉駅の側線群(4番線以南)が一気に撤去され、貨物ヤード跡地の再開発が大きく進んだ2000年前後は、旅客線の3番線も早朝、深夜のわずかな始発、終着便と回送列車を除き使用頻度がきわめて少ない時期がありました。利用客は多いですが、列車運行上は呉線内の単なる途中駅、という感じでした。今は広島方面からの折り返し便や、当駅折り返しの臨時快速瀬戸内マリンビュー号の設定もあり、旅客線は3線ともフル活用され、それなりに運用上の風格が漂っているようにみえます。なぜか下り引き上げ線のみは唯一の側線として残されておりますが、実際にこれが使用されているかどうかは不明です。

安芸阿賀駅の南側に側線が有ったのですね。私が呉松山フェリーを下船して港から安芸阿賀駅までの連絡乗合タクシーから降り立った場所がまさしくその場所だったのかもしれません。
安芸阿賀駅南側に駅前ロータリーのような雰囲気の整備がなされた降車場に降りて乗り換えた覚えがあります。
フェリーを降りて、港からの駅前までの僅かな時間でしたが、整備された港湾地区から港町の雰囲気の町並みに至り、連絡船から鉄道に乗り換える希有なる気分に、安芸阿賀駅の旅情を味わえたと感じています。

呉駅に関しては、上野駅の項でお話させていただいた通りですが、昨今は、橋上の改札口を出て、街の規模に相応しい広がりのコンコースとでも言うのでしょうか、その空間から右手に向かう通路に手洗い所を見て駅舎外に出ると、呉の町並みの東側が視界に開けてきます。
通路を進むと右手に折れ、呉駅の線路を跨ぎます。
左手には短い橋梁が望めたでしょうか、そして左手には呉駅構内が望めます。
呉駅構内南側には全面に小高いビルが建ち、昔の側線群はその下敷きになってしまっています。
ただ、確かな記憶として、その側線群に向かうように3番線の線路辺りから分岐点があり、それはレールの最初の継ぎ目で途切れていました。
たぶん今では改良されていて見られないでしょうが、かつての側線群を証言しているかように途切れていたのが印象的でした。
更に通路をもっと南下すると商業ビル内を抜け、今や呉地区の観光名所となった「大和ミュージアム」と海上自衛隊の潜水艦をそのまま陸揚げした「てつのくじら館」が偉容を誇っています。
TOさんや、つちろんさんのお話のように、今は3本の線路しかなくなってしまった呉駅構内ですが、かつての側線群や引込線が、今はそれらの施設に発展的解消したように思えてなりません…。

運転上の拠点を広駅に託して、呉駅は旅客ターミナルとしての発展のためにかつての鉄道用地を提供したわけですね。昔は大きい(線路がいっぱいある)駅だったのに今では簡素な駅、乗降客が多いにもかかわらず、という駅は他にもけっこうありそうですね。

 おはようございます。専用線日記の奥野君です。
 呉線は怪しい駅が多いですね。もう一年前の報告になってしまいましたが、いずれじっくり回りたいところです。
 ではでは。

奥野君さん、呉線各駅の記事、楽しく拝見させていただいています。

私も、奥野君さんの記事の大ファンです。

 広島運転所の発足は1962-6-01です。そのときに呉支所となりました。

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