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2010年10月 3日 (日)

稲沢配線図

wikipediaで稲沢操車場を調べてみたら、「稲沢操車場」という停車場は存在しない(しなかった)のだそうですね。知りませんでした。
「停車場変遷大事典」を見ても、確かに大宮操、田端操、吹田操などはそれぞれ大宮、田端、吹田の各駅と並んで停車場として記載されているのですが、稲沢は稲沢駅が記載されているだけで「稲沢操」という停車場は見当たりません。
東京起点375km付近から380.8km付近までの約5.8kmの間に広がる広大な線路群は「稲沢駅」ということですね。
ハンプヤードは全国で合計13か所ほど存在したようで、大半は「○×操車場」という独立した停車場なのですが、この稲沢のほかには門司と鳥栖が旅客停車場と同一組織になっていました。

まず最初に年代不詳の図。※

S
・これはいつ頃でしょうか。大正末期から戦前くらいかな?
・神戸方に到着線があり、そこから東京方に向かってハンプ→方向別仕訳線→駅別仕訳線→出発線という貨車の流れになっているのがわかります。
・現在の稲沢線に相当すると思われる線路は「小運転線」という名称の単線の線路です。
・東京方→貨物下り到着線及び貨物下り出発線→神戸方はいずれも東海道上り線と平面で交差しています。
・この「小運転線」の東京方がどうなっているのかわかりませんが、図を見る限り小運転線→東京方及び東京方→小運転線という折り返しは想定されていないように思われます。
・転車台が3基。機関庫に2基と東京方の出発線付近に1基です。

続いて1965年(昭和40年)2月頃。

196502s
・この図のみ方向が逆で、右が東京方です。
・一部仕訳線群が省略されています。
・稲沢線は複線となり、下り出発貨物は東海道上り線を立体で越えるようになりました。

続いて1967年(昭和42年)1月。

196701s
・これでは図が小さすぎてわかりづらいと思いますので拡大版を。

1967011

1967012

1967013

1967014

1967015
・神戸方→東京方という貨車の流れは変わっていませんが、仕訳線群はかなり成長しましたね。
・東京方→稲沢線及び稲沢線→東京方の折り返しは出発線で行われるようです。

続いて1972年(昭和47年)2月。

197204s
・大きな変化はないようです。

続いて1973年(昭和48年)4月。

197304s
・2基あった転車台のうち東京方の転車台が撤去され、DL用の検修庫らしきものに姿を変えました。

続いて1975年(昭和50年)1月。

197501s
・廃止されたはずの転車台が「復活」しています。

続いて1983年(昭和58年)4月。

198304s
・大きくは変わっていませんが、この頃が操車場としては最末期ということになると思います。
・転車台はあいかわらず2基描かれています。国土情報ウェブマッピングシステムの1975年の空中写真を見るとすでに転車台は1基しかありませんので、昔の古い図がメンテされずにそのまま流用されてしまっている感じですね。

続いて1990年(平成2年)8月。

199008s
・神戸方の到着線~ハンプ~方向別仕訳線の分岐部分及び駅別仕訳線の一部がごっそり消えました。

続いて1992年(平成4年)1月。

199201s
・残っていた駅別仕訳線群がすべて消えました。
・方向別仕訳線群の残骸もさらに縮小されています。

続いて1997年(平成9年)3月。

199703s
・図の様式が変わったので比較しづらいですが、かなり変わったように見えます。
・旧稲沢第一機関区と第二機関区が一緒になって、東京方に位置を変えたのでしょうか。
・機関区と東京方の出発線の間に、東京方が行き止まりの「留置線」が大量に設けられています。

最後に2006年(平成18年)4月。

200604s
・大きくは変わっていないようです。
・最後ですのでこれも拡大版を掲げましょう。

2006041

2006042

2006043

2006044

稲沢(操車場)は規模は大きいですが基本的には「中間駅」ですので、比較的シンプルにまとまっているような気がします。

操車機能が廃止されて着発線のみになってしまった操車場もありますが、たくさんの留置線群が設けられているところが稲沢の特徴でしょうか(用途はよくわかりませんが・・・(汗))。

配線図はT.Mさん及びSYさん(※印)よりご提供いただきました。

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コメント

【稲沢】
私の鉄道趣味での最高のバイブルである、キネマ旬報社の「蒸気機関車」誌に長年連載され、それを加筆単行本化した、元中部鉄道学園講師の長谷川宗雄さんによる”動輪の響き”と言う名著書があり、その中にこんな記述があります。
「昭和15年当時、稲沢機関区の機関車は、D51を始め、D50、C58、C51、C50、9600、6760、6250、それにB6と呼ばれる2400と2120など、合わせて100両に近く、ことにD51は1号から5号まで揃っていた。十六番線の扇形車庫を二つも擁して、従業員は八百人を越えた。文字通り、日本一を誇り、マンモス機関区と呼ばれた。そのかたわらが稲沢操車場で、東の新鶴見、西の吹田とともに、三大操車場といわれた。大きな構内は幅500メートル、長さ六キロで仕分ける貨車は一日3500両にもおよんだ。」(ほぼ原文ママ。長谷川宗雄さんは稲沢機関区で戦時中から長年に渡り機関士をされていました)

昭和初期(6年)の稲沢機関区は D50と9600が共に15両、他 C50 B6やネルソンなどで60両規模でしたが、上記”動輪の響き”内の15年を過ぎた頃には D51が29両(半数以上は初期のナメクジ型)と、当時の新鋭機 C58は27両も在籍し、その100両に近い規模を誇っていました。
戦後の電化が近づいた28年には D51は転出しており、変わって D52が20両と D62が10両、出戻りの D50が14両の他、C58 C50 9600 8620などで70両もの規模を擁していました。
蒸気機関車誌No.54(昭和53年発行)D52・D62特集号で、大橋邦典さんの「東海道本線を行く」という記事に、昭和25年の3月15日に写された稲沢機関区の扇形車庫の一部に2両のマンモス機が写る写真が掲載されており、「いまだ改装にいたらない戦時型のD521と、新鋭機D621が稲沢機関区の車庫に並んだ歴史的瞬間である」と記載されています。
もう60年も前のことながら、長い長い国鉄の歴史の中で、このような“歴史的瞬間”が偶然捉えられたのでしょう。
私にとっては稲沢機関区をイメージ付ける写真の一枚です。

30年代に入ると D52は、五稜郭、吹田第一、岡山、糸崎、広島第一、柳井、小郡、門司へ、D62は一ノ関へと稲沢を離れてしまいましたが、D51が多治見機関区などから戻って来ていて、他に D50 C58 9600など合わせて、ずっと50両規模を維持しています。
この頃、品川機関区や吹田機関区には DD13が配置されて近隣で活躍を始めていましたが、稲沢操車場は 9600がまだ頑張っていたようです。

稲沢電化で開設された稲沢第二機関区には、やはりマンモス機の称号がぴったりの EH10と、それまでの貨物の主力機だった EF15が配置され、30年代中頃には EH10が1〜17を含め32両、EF15は23両の55両を擁し、稲沢第一機関区のSL54両を合わせて100両以上の規模を誇っていました。

40年代に入ると稲沢第一機関区は D51の35両を筆頭にSLは60両規模。
稲沢第二機関区は EF15が去り EF65が約30両と EF60は1号機を含む12両で EH10は半数が吹田第二機関区へ転じ16両となり、そして、稲沢第一機関区に DD13が7両と DD51が3両登場しています。(9600はまだ健在)
同時期、品川機関区は DD13が62両、吹田第一機関区には DD13が51両(DD51は10両)ですので稲沢ヤードの近代化は少し遅かったようです。

その時々の‘現場を踏んだ’経験は何物にもかえがたく、いずれ稿を改め稲沢機関区訪問時(61〜62年頃)の様子などをお伝え出来ればと思います。

あとがきになりますが、この「蒸気機関車」誌の記事や編集内容と、「動輪の響き」の長谷川宗雄さんによる、人の心の襞に触れる記述に、少年期の私は、その心の琴線に触れながら過ごしてゆき、それは壮年期を過ぎようとしている今も、ずっと私の心の中に脈々と流れて続けています。

末尾になりタイミングも逸してしまっていますが、稲沢の配線図ありがとうございます。
また、今年は特に暑かった真夏の名古屋地区へのご訪問、お疲れ様でした。

名古屋の駅へは何度か足を運んだことあるのですが、稲沢へは今年が初めてでした。駅や跨線橋から機関区構内が結構よく見渡せて、比較的観察しやすいように感じました。
E10さんの記された配置車両の変遷のとおりかつてはマンモス機関区だったようですね。現在ではその頃と比べるとかなり規模は小さくなったものの、沼津や浜松、米原などが消滅してしまったことを考えれば重要な基地としての性格は変わっていないようですね。

稲沢の構内側線。
昭和42年の拡大の2枚目の配線図稲沢線の貨上1の突然側線が追加されています。〔国府宮架道橋の神戸方〕その側線が日本石油系統の大森石油の側線です。ここの側線の配線はスイッチバック式の側線で珍しく富士重工のTMC300が使われていて有名でした。大森石油の私有機が神戸方に引き上げDE10がタキ35000を2両押し込み私有機が名古屋方面に押し込むと言う形でした。道路沿いでしたのでバッチリ見えました。その後に輸送が廃止されて私有機は樽見鉄道に引き取られました。運用は汐見町から稲沢でソク入りで後に塩浜に転換されたけど廃止されました。
まだタキ35000の現役時代はJR貨物用の機関車用の燃料輸送も行われていました。

つるたまさん、すごいマニアックな情報ありがとうございます(もっとも私が知らないだけなのかもしれませんが(汗))。

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