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2010年8月 8日 (日)

名古屋配線図

青森から大きく飛んで、今回は名古屋です。
過去の記事も合わせてご覧ください。

まずは1931年(昭和6年)10月。※

1931101600
・昔の名古屋ってこんな感じだったんですねぇ。
・中央線は山側に頭端ホーム、そのため東海道上り線ホームは異様な長さです(縦列で止めてたりしてたんでしょうか)。
・東京方は4線で、海側から臨港線、東海道上下線、中央線です。
・機関区には2基の転車台・扇形庫が。

次は高架化の計画図。※

1600
・名古屋駅は1937年(昭和12年)2月に高架化のうえ移転を行っています。この図はその計画段階の図ですね。これだけの駅を丸ごと移転させることが可能なほど当時は用地確保に余裕があったんですね。
・ホームは3面6線から4面8線になるようです。
・中央線は東海道線をオーバークロスして海側へ移りますが、まだ単線です。その後複線化の際に臨港線を利用して山王(信)で分岐する形態になったんでしょうね。
・現在の名古屋駅の8番線と10番線の間にホームのない「臨港本線」という線路があります。「何で臨港本線なの?」って思っていたのですが、臨港線が単独で名古屋駅を通っていたこの頃に名づけられた名前が今も引き継がれているということなんだと思います。

だいぶ飛びますが、1965年(昭和40年)2月頃。

196502
・この図だけ右側が東京方になっていますのでご注意を。
・ホームは6面12線になり、中央線は複線化されています。

次に1967年(昭和42年)1月。

196701
・東上本→東上4、東上1→東上3、東上3→東上1、東上4→東上本と名称が変更されています。
・東上4(旧東上本)は東京方で行き止まりになっています。
・入出区線付近の223R、224L、客1、客2が普通の信号機の形態で描かれているのが?です。1965年時点ではいずれも入換信号機なので。

続いて1972年(昭和47年)4月。

197204
・関上2→関上1、関上1→関上本、関上本→関下本、関下本→中上1、東上4→東下2に名称が変更されました。
・行き止まりだった東下2(旧東上4)は貫通になりました。
・この関係も含めて東京方の配線が変更され、中央線・関西線からの進路が増えました。
・出発信号機5Rが新設され、今までホームに面していながら側線だった東上1が本線になりました。ただし本線といっても東京方への出発ができるだけの半人前です。荷物列車の出発用でしょうか。
・東京方のみ選別押しボタンの番号が変更になっています。
・入出区線付近の223R、224Lなどは入信の記号にもどりました。多分1967年の図の間違いかと思います。
・図の右上のほうに
  204L 関上本-神戸方
  205L 関下本-神戸方
  213L 関上1-神戸方
と記載されているのですが、これはおそらく
  204L 関下本-神戸方
  205L 中上1-神戸方
  213L 関上本-神戸方
の間違いではないかと思います。
・注目は入出区線の神戸方の220LZ。これって誘導信号機ですよね。入換信号機に誘導信号機、ってことですか。う~~ん、無いとは言えませんが、見たことはありません。笹島方の稲沢線との立体交差付近にも同じようなものが描かれているのですが、こちらには番号が記載されていません。

続いて1985年(昭和60年)3月。

198503
・神戸方の機1・2番線が整理され、神戸方から東上1に進入可能になりました。半人前だった東上1、やっと一人前ですね。

続いて1990年(平成2年)8月。

199008
・中央線の場内信号機に第2場内信号機16Lが設けられました。
・0、1番線が1、2番線に変更され、ホームのない東上2は番線名がなくなりました。
・東京方から東上3へのルート(3LA3)が追加されています。

続いて1992年(平成4年)1月。

199201
・1990年には東京方から東上3へのルートが追加されていましたが、今度は逆に東京方から東下1へのルート(3LA5)が廃止されています。このあたりの微妙な調整はいったい何?

続いて1997年(平成9年)3月。

199703
・山側のホーム1面が撤去され、東上本、東上1、東上2がなくなりました。これに伴い、東下2→東上1、東上3→東上本に名称が変更されました。
・中央線に続いて東海道下り線にも第2場内信号機が設けられました。この結果、再び東京方から東下1に進入が可能になりましたので、1992年時点での廃止の意味が・・・。
・東海道上り線にも第2場内が設けられ、同時に選別押しボタンの番号が変更されてようやく上下で共通になりました。
・入換信号機に併設された誘導信号機は見当たらなくなってしまいました。
・臨港線の下り出発信号機207Lに3LE(臨港本-東京方?)という番号が併記されているのですが、これの意味がわかりません。

続いて2000年3月。

200003
・撤去されていた東上本、東上1が復活し、これに伴い 東上本→東上中、東上1→東上中に名称変更されました。ずいぶんと何度も線路の名称が変更されてきたんですね。
・貨物上り本線からの出発ルートはいままで中下本と臨港本でしたが、関下本と臨港本に変更されています。
・中下本の上り出発信号機11Rが変な位置に描かれていますね。

最後に2006年(平成18年)4月。

2006041
・あおなみ線が開業し、稲沢線上にホームが設けられました。
・先に記した入出区線の神戸方に誘導信号機261LZが復活です。これは注目ですね。

以上、時系列的に名古屋駅の変化を書いてきましたが、よくわからないことがいくつか。
・関西線ホームと稲沢線との間に入区線・出区線各1線が設けられているのですが、これはどのような使われ方をしているんでしょうか。思いつくのは、車両基地からの出区車両をいったん神戸方に引き上げてから所定の番線に据え付ける(入区の場合はこの逆)、なのですが、車両基地と名古屋駅ホームの各番線は駅の東京方でそれなりに接続されていますので、わざわざそのようなことをする必要もないのではないのかな、とも思います。
・臨港本線の主たる用途は中央線貨物列車の通過用だと思っているのですが、上下ともこの臨港本線を通過するのでしょうか。
・その臨港本線と接続する神戸方の貨物上下本線。これの用途もナゾですね。何で上下に分かれているんでしょうか。しかも右側通行ですし。何もここですれ違いさせる必要はないような・・・。

南方貨物線が頓挫してしまいましたので、東京や横浜、大阪などと違って名古屋駅では貨物列車がフツーにホームを駆け抜けていきます。名古屋貨物ターミナルの位置も列車の運転面からみれば中途半端になってしまったような気がします。
道路事情などもあるのでしょうが、素人的には稲沢操跡に貨物基地を設けたほうがスッキリしますね。

配線図はT.Mさん及びSYさん(※印)よりご提供いただきました。

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コメント

東海道本線の沼津から静岡、浜松、豊橋等を通過して名古屋に到着ですね。(私にとってはサプライズでした)
戦前の超特急燕同様、水槽車ミキ20形タイプを伴って名古屋駅への入構のようです。

昭和時代戦前高架化前の名古屋駅付近の姿を目の当たりにして、大動脈としての重要幹線の、正しく要衝と呼ぶに相応しい配線図には驚愕を隠せません。

いびつな関西本線のホームに構内3基目の転車台。図面通りの拡がりなら20番線級の2棟の扇形車庫。高架化による車両基地の移転や構内配線の変更等々が大変興味深く、我が儘を承知で、SYさん、皆さんの解説をお願いしたいです。

いつも時刻表の路線図を見慣れているせいか、図の左手が西方で右手が東方に感じてしまいますが、配線図の形態が後の名古屋第一機関区の位置を暗示していたのでしょうか。

最初の配線図の昭和6年頃の名古屋機関区(当時は機関庫)には C51 C52 C53が合わせて30両以上、8620 C50 C10は合わせて30両、明治の古典機が7型式30両以上の、合計90両以上のSLを擁していたようで、旅客と入換小運転仕業が主だった当時の名古屋機関区の規模が伺えます。(稲沢機関区は60両規模。浜松機関区は50両規模。)
なお、当時の機関区の位置は笹島ですが、昭和10年に現在地に移転したようです。

今回、名古屋駅付近の配線図に触れ、全国的に見ても比類なきその姿に気付かされ、改めて名古屋の重要性を感じます。

今回も、御三方の御尽力に感謝しております。

E10さん、お久しぶりです。
行き当たりばったりの展開で申し訳ありません。
東海道線電化前の名古屋は本線旅客用機関車で賑わっていたんですね。私が物心ついた時点では関西線用のC57に入換機が少々といった寂しい感じで、またその位置関係から、どうも名古屋機関区・名古屋客貨車区というと「関西線の車両基地」というイメージが・・・(汗)。

初めまして。
・入出区線の使われ方は、おっしゃる通り、名古屋車両区からの出入庫を一旦神戸寄りに逃がすためにあります。武豊線直通の気動車は東海道線ホームに直接入線できませんし、名古屋着の「ひだ」も東海道線ホームに到着し、ここを使うことが多いようです。
・臨港本線は中央線の貨物が使うことが多いです。ただ、神戸寄りの貨物上下本線は貨物の合間は引上線として使われていることが多いようです。Google mapの航空写真で見たら、まさしくその通りに使われていました。

 明治40年頃の素描図を見ると、駅北西部の転車台の北に3線の矩形庫、それがおそらく武豊駅から延びた当時の庫で、その北、神戸方に5線の客留施設が描かれております。関西線サイドは明治28年に下りホームを借りた形で名古屋駅に乗り入れ、翌年ターミナルとして愛知駅を設けております(よって後の国有化時、広がりをもった用地を利用し得、また図の「関西踏切」は愛知駅へ至る当時の呼称の名残と判断されます)。この愛知駅は図の「愛知入換」や扇形庫付近にあり、他方大阪には環状線桜宮駅近傍に網島駅をターミナルとして設置、奈良を通らず、木津駅のすぐ北、関西~片町線間に短絡線を設け、官鉄対関西鉄道との間で名阪間急行の客取りサービスを繰り広げたと言います。国有化以後、関西線との入換えが増加し、転車台をつぶさない形でのホームの増設(明治40年頃?)・貨物用の東海道「下り入換」の設置がなされたように図からは推測されます。
 図中、洗滌台が3カ所に見られ、分散している貨物の入換え線も同様で、それらの整理統合は急務であった様が窺えます。

名無しさん、コメントありがとうございます。
>入出区線
そうですね、気動車=関西線ではありませんものね。失礼いたしました(汗)。
>貨物上下本線
Google map見ました。上下本線とも旅客車が止まっていますね(笑)。

SYさん、相変わらずの重厚な解説、感謝いたします。

 “E10”さんの慧眼通り、名古屋機関区の扇形庫はその規模を有していたようです。設立時期は、恐らく笹島貨物駅開設時期と重なると思います(状況証拠と図だけですが)。中~大規模な一つの庫がかかえうる蒸機の数が40~50輌が限界なんだと正直逆に教えられた次第です…浜松区が一つの限界を示しているんだ…。
 さて、名古屋駅の高架化ですが、近年の大分駅高架化工事のように一線ずつ高架化する形態をとらず3線同時並行で行われ、昭和12年2月1日一夜にして高架になったようです。盛土が大半でしたが、東西に繋がるコンコース(丸の内側だけに顔を向けた東京駅と異なる点)を有している点が画期的でした、人的動線を配慮した形です(曽ての東京駅の複雑さを考えれば)。
 翌13年近鉄(狭軌)が国鉄の高架下に開業。よって高架化工事と同時並行的に躯体工事が為されていたのでしょう。新名古屋駅の開業後、旧線は幅員のある名駅通り等に使用され、後に19年の名鉄新名古屋トンネルになりました(戦時下用材不足に悩まされたことでしょう)。名鉄の西線については、かつては枇杷島付近から押切駅(現西区役所付近)を経て、市電に乗入れ、旧名古屋駅前の柳橋に至る運行を行っておりました。郊外線が市電に乗入れる形です。名駅の高架化工事の完成に伴い、私鉄も系をやっと成しえたと思えます。狭軌だった近鉄と名鉄サイドには一時的に連絡線が地下内で設置され、団体用の電車が走ったこともあると言います。
 なお.“ f54560zg ”さんがご指摘の神戸方、引上げ線や臨港・中央貨物貨物上下線ですが、古い配線図と比較すれば、駅、列車の動線をダイナミックに確保し、同時に駅として弾性を保つか、その設計思想だと思えます。逆に言えば、どれほど旧駅が窮屈で支障をきたす場面を数多く経験してきたか、という一語に尽きると思います。

SYさん、ありがとうございます。
名古屋周辺が続きますので今後もフォローよろしくお願いします。

 高架化工事の最中の名古屋駅の姿をとらえた国土変遷のアーカイブから見付けました。
 若いときなら、こういった資料や文献があった筈だとすぐに思い起こせたのですが、思いつくまでに時間がかかり…。
 2連庫のあった位置や、旧駅の構造、稲沢線の関西線乗越し架橋の様が、粗いモノクロから読み取れると思います。
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=B23&courseno=C3&photono=54
 以上、遅ればせです。
 

SYさん、貴重な情報ありがとうございます。まさに工事中ですね。扇形庫の一方はすでに撤去されてしまったのかな?

この名古屋駅は鉄道黎明期の古くから私鉄との係わりが続いているのですね。
SYさんの解説で、関西鉄道が浮き彫りにされたように感じ、当時の日本鉄道や山陽鉄道とは違う位置付けだった関西鉄道に思いが馳せられました。

名古屋第一機関区は名古屋駅から関西本線沿いに直角に曲がった位置に在りますが、京都駅と梅小路機関区の関係に少し似ていますね。
ひとつ気掛かりなのが、二棟の扇形車庫を潰して、収容能力を半減させてまでの短形庫への移行はどんな理由があったのでしょうか?
昭和10年頃なら弾丸列車計画には早過ぎる気もしますが、もし電化計画を見越していたとしても結果的にはディーゼル関係の車両基地となっており、興味深いところで、戦前迄の車両基地にもロマンが満ちあふれていますね。

今年はT.Mさんシリーズの充実に、いつもながらの SYさんの重厚な解説とお話が続き、その労に感謝いたします。
そして、今年も f54560zgさんはあちらこちらに脚を延ばされお疲れ様でした。
きたる年もブログのご健筆と鉄道配線旅師としてのますますのご活躍を期待しております。
よいお年を。

二棟の扇形庫から短形庫への移行、確かに不思議ですね。結果としての気動車基地としてはなんら違和感を感じないだけに。
E10さん、今年もよろしくお願いいたします。
最近SYさんからのコメントがないのが少々気がかりですが。

 関西鉄道が名古屋へ達した折 愛知停車場を開設したのは御承知の如くです さてこの愛知停車場立派な駅舎では有りますがホームは一面のみあくまで仮設の駅として設地したのでは此の時代様子は明治三十一年発行の日本鐡道紀要に写真が掲載されています 
 話は変わりますが地上時代と高架化後の名古屋駅の位置関係ですが高架工事中の航空写真がネット画像に有りました 其れによると鉄筋コンクリート製の新駅舎は未だ骨組のみホームは略完成状態で線路も敷設済みで新線側を通過する列車も写つています 新駅竣工前に既に新線を通過する列車が存在していた様です 旧駅位置は今の名鉄百貨店から笹島ガード当たりまでが構内だった様です 新駅舎が完成しても新線切り替え迄の間 後で駅前広場に成る所を列車が通過する様は異様な雰囲気です 名古屋駅は中京圏最大の都市で尚且つ東海道本線の中核を成す駅ですので鉄道省も可也力を入れてたのでしょう 私が子供の頃名古屋に行くと駅前広場に出るとスカイラインの揃った駅前ビル群の均整のとれた姿に美を感じたものです 戦前の一番良かった時代の最高結作が名古屋駅だったのではと思います

大正6年の名古屋市街全図(国会図書館請求記号19−663によると名古屋電鉄終点柳橋駅と官営鉄道東海道線の間に連絡線が記載されていますが、貨物のためか新車搬入のためかもしれませんが、ご存命の方がおおられれば、連絡して下さい。

湯山洋三さん、申し訳ありませんが私は存じ上げません。どなたかお詳しい方いらっしゃいましたらコメントお願いします。

以前鉄道ピクトリアル名鉄特集で柳橋と名古屋駅との間に連絡線が・・と云う記事がありました
1931年配線図及び1937年計画図の頃平面時代の名古屋駅 1931年版の旧貸切到着貨物扱い場と旧貸切貨物発送扱い場との間から伸びてる側線が存在してます 1937年計画図には其の側線の名称が名古屋倉庫専用線と記載されてます
ピクトリアルの記事では此の専用線が名鉄柳橋駅のすぐそば迄伸びておると記載されておりました
私は名古屋駅と柳橋駅の位置関係がはっきりして無かったのでネットで名古屋古地図と検索した所名古屋の古写真のサイトを見付け中を見ると昭和初期の余り正確でない地図が掲載されており確かに名古屋駅のすぐ側に柳橋駅が有る事が理解出来ました其のサイトに新駅移行時代の名古屋駅空撮写真が有り駅構内北側の貨物駅からカーブして伸びる側線が有りましたただ此の時代には恐らく配線になっていたのではと思います
此の名古屋倉庫専用線が柳橋駅付近迄来ていた事は確かでした

yyoshikawaさん、「鉄道ピクトリアル名鉄特集」ということで、鉄道ピクトリアル1971年1月号を見てみましたが・・・、スミマセン、よくわかりませんでした(汗)。

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