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2010年8月 4日 (水)

青森雑記

青森駅周辺の線路配線をもとにあれこれ書いてきましたが、今回はちょっと違った角度から。線路にまつわる話であることに違いはありませんが。

●その1 貨物列車の運転状況
今まで説明に使用した配線図の1977年(昭和52年)や2000年(平成12年)とはちょっとずれますが、1968年(昭和43年)10月と1985年(昭和60年)3月の貨物列車時刻表から、当時の貨物列車の運転状況を見てみましょう。

まず1968年10月です。

・同時刻表によれば東北線下り貨物列車で青森または青森操車場終着となるものは全部で27本(小運転列車を除く)です。うち青森行きが12本、残り15本が青森操車場行きです。
・青森行きの12本はすべて船便に継送されるようで、船便番号も記載されています。
・青森操車場行きでも船便に継送される列車が2本あります。この場合、青森操→青森は小運転列車として列車番号が記載されています。
・奥羽線下り貨物列車の場合は青森行きはなく、すべて青森操車場行きです。全部で13本ですが、連絡船に継送されるものは4本のようです。東北線同様青森操→青森間は小運転列車です。
・よくわからない点その1。この時代、奥羽線からダイレクトに青森の岸壁側の貨物到着線に至るルートはまだ存在していなかったのでしょうか。
・よくわからない点その2。上記の小運転列車についてなのですが、列車番号も記載されており、一人前の列車のように見えるのですが、小運転列車の割には10位の数字が「5」のものがあったり、列車番号が一部ダブっていたり(たとえば秋田操発の651列車というのが21:41に青森操に到着するのですが、これと同じ列車番号で青森操を5:50に出発する青森行きの小運転列車が存在する)など、本当に「列車」なのかちょっと怪しい部分もあります。1977年(昭和52年)時点では青森操~青森間では列車の運転ルートは存在していませんので、1968年(昭和43年)当時は存在していのかもしれませんし、もしくは実は列車ではなく「入換」だった可能性もあるのかな、と思っています。

具体例です。
196810
・東北線と奥羽線の下りのみ、それも23時から11時頃までの間だけですが、貨物時刻表から作図するとこのようになります。
・たとえば新潟操から到着した851列車は小運転851列車(これもヘン?)で青森に向かい、第3岸壁から出航する53便に継送される、といった具合ですね。
・東北線から連絡船に継送される列車はおおむね青森に直行しますが、1155列車のように青森操から小運転651列車を経由して連絡船に継送される列車もあります。
・関西方面から東海道~東北経由で北海道に向かう列車って結構多いんですね。

次に1985年3月です。

・東北線下り貨物列車はすべて青森に直行です(というより、東北線のページには「青森操」という停車場の記載自体がなくなっているんです)。
・奥羽線から連絡船に継送される貨物列車は全部で6本ですが、うち青森直行は2本だけ、残り4本は青森操経由です。奥羽線からの貨物列車が青森に向かう場合、到着線が上り2番線1線しかないこと、かつそれが第3岸壁専用であることが関係しているのでしょうか。
・青森操→青森の小運転列車については記載がないので、おそらく入換なんだと思います。
・また航送とは関係ありませんが、時刻表には東北線←→奥羽線を直通する貨物列車が掲載されています。盛岡貨(タ)発百済行き4079~4078列車など計4往復あるのですが、1977年時点での青森操車場は東北線→奥羽線方向の列車の直通はできない構造になっていました(奥羽線→東北線はOK)。その後直通できるように変更されたか、あるいは入換を挟んだのかはよくわかりません。

具体例です。
198503
・第3岸壁から出航する船に継送される奥羽線貨物列車は青森駅に直行します。
・新宿からの5161列車は紙の返空でしょうか。
・基本的に貨物列車と船便は1対1に対応しているように見えるのですが、貨物の量の多少により2個以上の列車から1つの船へ、もしくは1個列車を2つの船に分けて、というケースはないのでしょうか。

●その2 青森操車場での入換作業
1977年の配線図をもとに、SYさんや青森居住歴有さん、KASAさんなどのコメントを踏まえて、勝手に想像してみました。

・東北線下り到着~分解
東北下本・下2に到着→奥羽線方面は主に上り仕訳線、北海道方面は主に下り仕訳線で分解。

・奥羽線下り到着~分解
奥羽下本・下2に到着→東北線方面は主に上り仕訳線、北海道方面は主に下り仕訳線で分解。

・東北線上り組成~出発
上り仕訳線から上仕19等で組成→東北上本・上2から出発
東北下本・下2から出発も考えられますが、仕訳19の東京方に入換標識等が見当たらないため可能性は低いかな?

・奥羽線上り組成~出発
上り仕訳線から奥羽上本・上2・抑(?)1等で組成→出発

・東北線下り~航送直行
東北下本・下2に到着→奥羽下本・下2→西通路→東北下貨経由の入換で青森へ

・航送~東北上り直行
東北上貨経由の入換→東北上本・上2→出発

・奥羽線下り~航送直行
奥羽下本・下2に到着→西通路→東北下貨経由の入換で青森へ。
東北上本・上2に到着→東北下貨というルートもありますが、青森方に入換標識しかないため可能性は低いかな?

・航送~奥羽線上り直行
東北上貨経由の入換→奥羽上本・上2→出発
抑(?)1には車両停止標識がないので入れないような。

・青森操組成~航送
奥羽下本・下2等で組成→西通路→東北下貨経由の入換で青森へ

・航送~青森操分解
東北上貨経由の入換→奥羽上本・上2→上り仕訳線で分解

青森操~青森間の構内運転を考えた場合、入換信号機や車両停止標識の配置を見ると結構ルートが少ないように思います。
青森から到着する場合は東北上本・上2・奥羽上本・上2ぐらい、青森操から出発する場合は奥羽下本・下2ぐらいしかないのではないでしょうか。

●その3 廃線跡
配線ではなく廃線ですね。
SYさんや青森居住歴有さんからはすでにご紹介いただいていますが、国土交通省国土画像(カラー空中写真)の昭和50年度弘前地区を編集の上改めて。000
・東北線の旧線・旧旧線、そして奥羽線の旧線がよくわかります。
・東北線から奥羽線に向かう短絡線は一直線です。
・旧線時代の青森操車場の特異な配置もよくわかりますね。

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コメント

 正直「雑感」と言うより、総括に値すると思います。
 現在、ホームの辺りにだけ線路を残し、大半が消え、その上をスマートな「青森ベイブリッジ」が架けられております。その傍らにはメモリアルシップが接岸しております。
 さて青森地区シリーズを通し、立派な橋が架かりました。無論駅の中心部を抜け、無数の線路を跨ぐものです。橋からは線路一本一本の姿・機能・意味を眺め得、“KJ”さんのコメントを手懸かりにすれば、車両甲板の様子ものぞき込めます。遠目では運転所も見え、片や特異な操車場の線路群も見えます。その姿形を目に焼き付けておこうと一旦瞑目し、目を開けると重要度が増した青森信号所の線路が見てとれます。矢張り立派な橋です。
 ありがとうございました。
 今夜は開通式のパーティーでもしようと思っています。

青森は1985年が最後ですから、かれこれ25年が経ちますね。さすがに青森は遠いですが、もう一度訪れてみたいと思います。

 標題に便乗して雑記をお許しください。

 国鉄として発足した直後の1950年に組織改正が行われ、鉄道管理局が設置されました。
 青森は有力候補だったのに置かれず、隣接して盛岡局と秋田局が置かれました。さらに青森1駅のみ青函局(場所は函館)の所属となりました。輸送の一貫性からいえば道理にかなっています。
 青函局は青森に隣接する盛岡・秋田と業務の折衝をすればよいわけです。
 ところが青森を函館から管理する不便さが目立つため、青森(鉄道のみ、連絡船をのぞく)を盛岡局へ移管することになりました。たしかに盛岡へ秋田へ運用する機関車の管理を函館で行うのは不自然です。
 そうすると別の弊害が出てきます。連絡船を降りた貨車は盛岡局へ移り、青森を出発すると奥羽本線の列車は秋田局へ移ります。つまり1駅だけ盛岡局を通ります。
 ダイヤが混乱すると、青函局は列車の遅れを盛岡局へ問い合わせる、盛岡局は奥羽線ダイヤは秋田局に聞かないと判らない。青函が秋田に尋ねる越権行為は出来ないし、三者の列車指令は大変なストレスだったと想像します。
 この状況は国鉄最後まで続きました。情報力の向上でしのいで来たわけです。

 そこで青森に管理局を設置していれば・・・・に戻ります。
 連絡船を降りた貨車を青函局から受け取った青森局は東北・奥羽の列車として仕立てて出発させ、次の境界で盛岡局・秋田局へ引き継げばよいことになります。
 もしかすると盛岡・秋田に局は設置されず、青森局は仙台・新潟と接する大きな組織として存在したかも知れません。
 そうすれば客車・貨車に表記される局名の「青」が広く運用されたことでしょう。

 蛇足ながら、この局名を表す漢字は、青函局が「青」でした。北海道の局なのにおかしいという声が高まって「函」に変更されたエピソードがあります。

 同じような指令のストレス話は米原でもありました。米原は名古屋局なので北陸本線から大阪方面へ行く列車は米原1駅のみ名古屋局を通ります。
 ダイヤ混乱時に大阪局は北陸線の状況を名古屋へ尋ねることになり、隔靴掻痒の日々だったと聞いています。

 お呼びでない話を長々とすみません。

C6217さん
興味深いお話をありがとうございます。
国鉄時代には各局のナワバリ意識が各所で摩擦を生じさせていたのでしょうね。今でもJR各社間でいろいろとあるのかもしれませんが。
個人的には「青森局」は同感です。少なくとも青森~津軽新城間に局界って・・・。

木に登って組織論をもう少し。

 1950年の局設置は、予想されながら外れた個所がいくつもあります。
 まず宇都宮です。東京周辺は放射状に千葉・水戸・高崎と揃っているのに東北本線のみが外れました。白河機関区が高崎から管理されるという不自然な形です。東北本線のダイヤを高崎の指令がうまくさばけるのでしょうか。
 次は下関。ここはあまり不自然さが感じられないので設置に至らなかったのでしょう。でも関門トンネルが開通したので下関も門司も輸送の切れ目ではなくなりました。門司が山陽線西部を担当してもおかしくありません。
 最後に鳥栖。九州の鉄道網の半分以上を門司局が受持ち、残りを熊本・大分・鹿児島が分け合っています。門司は分割して当然で、鳥栖が選ばれたのでしょう。現在なら文句なしに博多ですが。

 組織論に興味のない方、ごめんなさい。

2/27・3/1の組織論、興味深く拝見しました。

桁違いに規模の小さい例ですが、上越線の水上は新潟と高崎の局堺で、駅は高崎・機関区は新潟という変則でした。
機関区の運用が山越えの新潟側だけでしたから、合理的な配置だったと思います。

翻って青森を考えると、港湾(積み下ろしまで)と本土側の鉄道運行(駅・機関区・列車運用・・・)に分離すれば、不自然さも幾分減少できたように思えます。

C6217さん(多分)、ねこまるさん
宇都宮や水上など、興味深い情報をありがとうございます。

ねこまる さま。上越線が開通したとき、水上は機関区も含めて東京局で、雪を知らない東京局が石打までの電気機関車の運用を担当して混乱しています。
そのために機関区のみが東京局から新潟局へ移管されています。仰るとおりの合理化になりました。
仙山線の開通のとき、奥羽本線の電化のとき、この教訓は継がれずに機関区は作並と福島に置かれました。仙台局は雪を知っているからでしょう。.機関区が山寺・米沢にあったらどう変わっていたでしょうか。

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