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2010年7月11日 (日)

三河島配線図

かつての大事故でその名が有名になってしまいました。
時刻表で見る限りは一中間駅ですが、実際には結構複雑な、そして個性的な配線の駅です。

1969年(昭和44年)の配線図だけですが・・・。

196903

・下り方向は岩沼方面と隅田川方面、上り方向は日暮里方面と田端操方面と、それぞれ2つづつの方面に向かう線路が絡み合っています。
・日暮里→隅田川だけは進路がありませんが、それ以外の日暮里→岩沼、田端操→岩沼、田端操→隅田川はOKです。
・但し隅田川方面は単線であり、いろいろと競合は多そうです。
・隅田川→日暮里というルートはどんな列車が使うのでしょう?
・43-10貨物時刻表(復刻版)を見てみたら、72レ「第1北たから」、74レ「第3北たから」というのが青森発常磐線・隅田川経由で秋葉原行きとして設定されており、少なくともこれらの列車は隅田川→日暮里というルートを進んだと思われます。
・話がそれますが、時刻表を見ていたら4284レ「第3ひたち」高萩発門司行きという列車があり、なんと「東京・品川経由」と書いてあります。深夜の時間帯なのですが、こんな列車もあったんですね。
・田端操や隅田川といった大規模な貨物取扱駅が両隣にありながら、ささやかに貨物営業も行われていました。
・上り1番線は常磐線をくぐったあとはすぐに上り勾配になりますので、貨物用の着発線の配置に苦労したらしく、専用の発着線が設けられています。
・小さい頃、ここを通るたびに高架の常磐線電車の窓から地平の貨物側線を見下ろしていた記憶があります。残念ながら貨車の姿を見かけた記憶はありませんが。

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

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コメント

子供の頃、母方の実家に行くのに常磐線でこのあたりの貨物専用線を見るのが楽しみでした。
隅田川の大きな貨物駅より、ここの貨物取扱い線(町工場の専用線のように見えました)の方が気になって仕方なかったですね(笑)

今も町工場らしきものはありますが、線路の跡はどうしても分からず・・・

>隅田川→日暮里というルートはどんな列車が使う
>のでしょう?

昭和54年10月改正まで、隅田川~品川間の荷物列車(荷2935レ)とかも、このルートを使っていたようです。ただし、その逆ルートの列車は、山手貨物線経由ですが。

いつの頃からか、このルートのための渡り線もなくなってしまいましたね。

>隅田川→日暮里というルートはどんな列車が使う
>のでしょう?

客車の頃の「はつかり」の方転を兼ねた回送もこのルートだったかと。
なるほど日暮里→隅田川が不可だったので、出発時だったのですね。
(何となく到着時に方転を済ませておいた方が良い様なイメージでいたので、何でだろうと思っておりましたので・・・)

LUNさん、なぜか私もここの貨物線が妙に脳裏に焼きついているんです。小さな貨物駅を上から見下ろせるようなところが他にあまりなかったせいかも?
専用線好きさん、 IDI さん、情報ありがとうございます。いろいろ使い道があったんですね(そうでなければ設けませんよね)。でも、もう渡り線、なくなっちゃったんですか・・・。
また、私もよく知らないのですが、昔は田端操方から常磐上り線を平面交差で横切って隅田川に進入していたようで、もしそうであれば日暮里方から隅田川への進入も可能だったのかも知れません。但し客車はつかりの運転時期との関係は全くわかりません、スミマセン。

そうでうね。
「はつかり」は三河島事故前ですから、まだ平面交差の頃ですね。

またやってしまった。(反省

三河島事故についてですが、もしD51のカモレが停車していれば勾配なので逆走して最悪後続のカモレと衝突ということも考えられたわけです。

いやいや、IDIさん、やってしまったとは限りません。とにかく平面交差解消の時期がよくわかりませんので・・・。
d55さん、コメントありがとうございます。
D51の機関士さんは失神して信号を冒進したわけではなさそうなので、退行することはなかったのではないかと・・・。ただ、その気になって進入してくる列車に対しては「安全側線」も無力なのは残念ですね。

三河島まで足をのばす機会があり、俄然興味が出て検索してみました。
ネット上でわかる範囲でですが、だいぶ納得できましたのでコメントしてみます。

M38.4.1の日暮里~三河島短絡線開業に際し三河島駅開業。
S11.12.11の松戸電化の時に高架化され、現在の高架駅と上り方の立体交差が完成。
この時の形で三河島事故に至ったのだろうと思います。
改良の詳細が、土木建築工事画報、Vol.11 No.5(土木学会図書館)にありました。
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/11-05/11-05-2147.pdf
(この記事データベースは貴重で興味深いですね。)
それぞれ複線の貨物線と電車線が、三河島駅下り方で一旦複線にまとまっています。隅田川駅には改めて三ノ輪付近で分岐(平面交差で)していたのでしょう。
改良当時の風景が松戸在住の方のホームページにありました。
http://omotenouchi.jp/CCP156.htm
上野・松戸間電車開通記念の古絵葉書、末尾近くにある「三河島高架線」に写っています。

三河島事故後の平面交差の解消については、日付だけ探しあたりました。S42.1.15のようです。
ご掲載のS44と上記S11を比較しますと、三河島駅下り方~隅田川への分岐点まで本線南側に単線が増設されて、複単線となった形ですね。
他にも貨物側線で引き上げ線周り・末端のポイントの順番が変わっています。
(但し引き上げ線周りは上記絵葉書ではどちらの図とも違っていますね。絵葉書に見られるものが一番合理的に思えますが。)
どちらかの改良の時に隅田川まで複々線にして、かつ平面交差も解消できていれば理想的だったのでしょうが、困難があったのでしょうか。

上記文献にもありますが、三河島は(延伸前のホームの範囲では)4線とも鋼橋の上に乗っているのですね。非常に珍しいのではないでしょうか。
地盤の弱さゆえの構造なのでしょうが、線路脇に何もないのが風景を特徴づけていますね。
実見しますと、この鋼桁も上り方立体交差の鋼橋も、鋲頭が多数見えるいかにも戦前の橋で、S11以来そのままのようです。
35年くらい前初めて下を通った時には、なんだかよくわからない、殺風景で変わった駅だと思いましたが、戦前からそのままと思うと愛着もわきます。
なお、貨物側線の跡は大部分が線路沿いの公園になっていました。

度々失礼いたします。
自分でもいろいろと調べてみましたが、
三河島-隅田川間の平面交差の解消はS42.1.15で間違いない様で、
上野駅の大改良に伴う小荷物の取扱いの上野駅→隅田川駅への移管の為、田端操-隅田川間の列車数増大というのが直接の要因の様です。
また解消前の隅田川側の平面交差が、隅田川駅構内の三ノ輪信号扱所で、こちらでもS26.4.3に三河島事故と同じ様な信号冒進事故が起きている様です。

複々線化は日光街道との交差部を除き、一応側道がありますが、かなり住居が密集しておりますので、実際の工事となると・・・
また武蔵野線(東京外環状線)の着工がS39頃の様で、首都圏貨物輸送全体から見た位置付けというのもあったのかも知れませんね。

6181さん、IDIさん、情報ありがとうございます。
6181さんのリンク先の資料や鋼橋の話を聞くと、昔の記憶が思い起こされます。おっしゃる通りで、「鉄橋」上の駅に止まった上り電車から、鉄橋の通過音を発しながら上半身しか見えない下り貨物列車が坂道を登っていくのをよく見かけました。
昔のまんまの三河島駅、ぜひ行ってみたいですね。

IDIさん、はじめまして。ご教示ありがとうございます。改良の背景、納得いたしました。
複単線でよいのかという点では、JR貨物が「機関車回送により線路容量が逼迫」(隅田川改良計画資料)としているのを見て、当方オーバーに考えてしまったようです。
この場所が1km程度単線でも決定的な支障はならないですよね…。

さて今日も三河島駅でコンテナ列車を見てきました。気づいてみると定尺レールのままで(鉄橋の上だからでしょうか?)、豪快なジョイント音にしばし陶然となりました。
ほんとうに、印象に残る駅ですね。

 6181さんの添付資料土木建築工事画報と上野松戸電化記念絵葉書 とても参考になりました電化と同時に日暮里から隅田川の橋梁迄の間を高架及び築堤により立体化当時としては思い切った工事だと思います 戦前鐡道省が行ったと市内土木工事としては常磐線電化立体工事 城東線の高架電化工事 東海道本線神戸高架化工事名古屋駅改良工事等戦前の白眉と思います
 以前より三河島の貨物駅の配線は興味が有りました 土木建築工事画報に工事中の状況写真と平面図から地平時代の配線のまま再利用された様です 常磐線の電化時投入した電車は半流モハ41とクハ55クハニ67クハユニ69等当時最新鋭の車両を投入した事からも力を入れて居た事が伺える モハ41は車番の奇数偶数関係無しに全車北向きで南向きはクハ又はクハニかクハユニがg連結されていました 当時山手京浜中央各線は既に最長7~8連が当たり前の頃未だ常磐沿線は田舎でしたからラッシュ時でも最大3連後の時代にゲタ電で最長の15両編成組む様になろうとは此の工事の時には考えても居なかったのでは

国鉄の貨物駅の中には通常運用で貨車を送り込めない駅が多々存在してました三河島駅もそんな駅の一つでした 通常の貨物列車で来ても勾配を下った所で貨物駅からの線路と合流する 貨物扱いの為の列車退避の側線も無い スイッチバックするにも駅有効長が短い駅でしたでは如何したのか
田端操車場で三河島駅向け列車を仕立てて三河島迄来て駅手前の31イロの渡り線で上り線に進入 三河島貨物駅入口22イのポイントで貨物着発線に到着後機関車を切り離して53のポイントで引き上げ線に進入後バックして53・52イのポイントを通り51のポイントから入れ替え線に引き上げ図には記載が無い入れ替え線から着発線への渡り線で到着列車の後ろに連結し牽引入れ替え線に引き上げ入れ替え後発送貨車を着発線に押し込み列車仕立て後3L信号が青に現示されたら田端操車場へ戻る運用であったのではと思うのですが如何でしょう

yyoshikawaさん、三河島駅での貨物の取扱いはおっしゃる通りではないでしょうか。ただ43-10の貨物時刻表には三河島発着の貨物列車は記載されていませんでした。45-7までは貨物取り扱いが行われていたハズなのですが。

43-10の貨物時刻表に記載がないのは、不思議ですね。貨車の発着が事実上なかったのでしょうか・・・。

配線図では、昭和47年1月現在の図面には、まだ貨物駅部分の線路が、信号機ともども記載されているようです。

KASAさん、そうですか、47/1ではまだ線路は残っていたんですね。私の記憶でも、線路はあるけれど貨車の姿は思い浮かびません。書類上は貨物扱いが行われていても実質的には結構前に廃止されてしまっていたのかもしれませんね。

貨物列車の時刻などではないのですが、三河島貨物駅の貴重な記述が以下のサイトに出ていました。

地元の運送会社のサイトのようです。すでにご覧になったかもしれません。

http://www.ozawaunsou.co.jp/newly.htm

(上記サイトの一番下の部分です。)

隅田川駅の補助的役割を担い、一時は、貨物駅としてたいへん活気にあふれていたようですね。

私も43‐10時刻改正版貨物時刻表で三河島野状況を見ましたが何もありませんでした と云うとやはりこれ
以前に営業休止したのでは憶測ですが
此の時刻表では東海道本線大森蒲田川崎鶴見のワンウエー貨物列車は京浜線と記載されてました余談ですが

KASAさんのサイト最新判に田端操車場常磐線関係及び三河島駅のS36 S42 S47 S56の配線図が新たにアップされました 
思いますに三河島駅扱いの貨物は田端操車場発着の小運転扱いではと思うのですが 三河島着発線有効長が147m 入れ替え用引き上げ線有効長が138m それから考えられるのは本線貨物列車では最低でも300m必要です三河島駅の上り貨物線有効長は462m有りますが下り勾配中ですので此処に本線貨物列車を止めて入れ替えするのは不可能ですやはり機関車1輌貨車単車12輌位の小運転扱いの列車で貨物扱いしていたのではと思います 平塚 鴨宮等の構外側線への貨物は小運転扱いでしたし川口の貨物扱いはやはり大宮操車場からの小運転扱でした

 重箱の隅つつきで恐縮ですが、「小運転」の意味が拡がり過ぎています。
 単純目的の本線列車運転なのか、入換信号機による移動なのか、整理した方がよいと思います。管理人さま、どうぞよろしく。

KASAさん、情報ありがとうございます。大型クレーンや石炭置き場まであったのですね。
yyoshikawaさん、おっしゃる通り三河島駅に発着する貨車のために田端操~三河島間に貨物列車が設定されていたように思います。
C6217さん、「小運転」というと個人的には「短区間の列車の運転」であって「入換」ではないように感じますが、言葉の明確な定義づけはされていないように思いますので、そう厳密に考えなくてもよいのでは?(笑)

鉄道に興味を持ち出してから半世紀弱。幼少期に接した鉄道入門書で入換の文字は多型式の機関車で垣間見れましたが、小運転の文字は C50型の解説文で近郊区間や小運転の列車などで活躍した旨に接した事だったでしょうか。
素人ながら、入換は駅などの構内での仕業。小運転は駅など構内から外への仕業。このような違いではないかと感じるのですがどうなんでしょう。
機関区や機関車関係、懐かしい思い出話しをコメントしていれば良いだけの私ですが、場違いなコメントご容赦下さい。

E10さん、私もそう感じます。
「場違い」なんてとんでもありません。これからもいろいろコメントをお願いします。
なお、若干本筋からは外れますが、「小運転線」と名付けられた線路が確認できるものとして博多~竹下間及び上沼垂~新潟操間の線路がありますね。いずれも「本線」であって「側線」ではありません。

荷物列車の話から、隅田川の配線を色々資料を漁っていたら、三ノ輪で平面交差していた頃の配線と運転扱いが、昭和53年刊行「停車場の配線を診断する」吉江一雄著/日本鉄道技術協会に掲載されていました。

昭和42年以前の平面交差時代は、三ノ輪で隅田川着の貨物列車が常磐上りを横断している時は、常磐上りでは、三ノ輪場内が停止現示、南千住の出発が警戒現示を表示だそうです。

常磐上りと隅田川着の列車の事故は起こってなかったようですが、昭和26年にIDIさんが書かれている、事故が起こっています。
これは、隅田川発の単行機関車が本線に進出する第二出発信号機の停止現示で止まらずに進出し、上り電車と接触して、電車3輌脱線、負傷者10名を出しました。

この結果、第二出発信号機のところに安全側線を設置して、第二出発が進行現示にならないと第一出発に進行が現示できないよう連動させた、とあります。

北東航21さん
ATS施行前のような人間の注意力のみが頼りの時代は相当な緊張が必要なポイントだったのでしょうね(ATS施行後でも事故は起きますが)。

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