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2010年7月14日 (水)

青森配線図

過去の青森駅の記事では配線図をご紹介できませんでしたので改めて。

T.Mさんご提供のもののほか、やはりこのブログにいつも重厚なコメントをいただいているSYさんからもご提供をいただきましたので、ご紹介したいと思います。
(SYさん、ありがとうございます!)

まずは1891年(明治24年・・・!)。※

1891m24

・図に書いてあるとおり、青森駅開業(明治24年9月1日、日本鉄道)当時のものですね。
・いったいどのような列車が運転され、どのような機関車が出入りしていたのでしょうか。

続いて1922年(大正11年)。※

1922t11

・だいぶ構内の線路が賑やかになりました。
・これまた図に書いてあるとおり、連絡船による貨車航送が開始される直前のものですね。
・当然ですが、貨車航送開始前までは、青森で貨車から貨物を降ろし、連絡船に積み替え、函館で連絡船から降ろし、貨車に積み替え・・・・。いやはや、大変な作業ですね。

続いて1926年(大正15年)。※

1926t15

・貨車航送に対応した線路配線になっています。
・旅客ホームは終端側に若干移動したようですね。同時に頭端式になっています。
・この年青森操車場が開設されています。機関区設備はそちらに移動したのでしょうか、簡素なものになっています。

続いて1937年(昭和12年)6月。※

193706

・航送用の桟橋(?)が2か所に増えました。
・その下に、「連絡船内の線路配線図」(!)と思われるものが書かれています。「青函丸型」の連絡船の場合、船内に分岐器があるってこと?

続いて、時期不明ですが・・・。※

194000

・航送用の桟橋が3か所に増えていますが、増えた1か所は旅客ホームの向こう側から回りこんでくる形になっています。
・オマケみたいではありますが津軽線用のホームが新たに設けられ、旅客ホームは合計3面になりました。

続いて1977年(昭和52年)3月。

197703200

・津軽線ホームは延長され、また頭端式が貫通式に変わるなど、旅客ホーム付近に変化が見られます。
・航送用の桟橋は3つとも旅客ホームの手前側からの接続に変わっています。

最後に2000年(平成12年)7月。

200007200

・青函トンネル開通により連絡船との関係がスッパリと断ち切られ、また貨物扱いの廃止により格段にすっきりした(と言いますか、寂しくなったと言いますか)駅になりました。
・それでも終端駅として特殊な配線の駅であることは変わりはありませんが。

実は、貨車の航送についてはあまりよく知らないんです。
●連絡船への貨車の出し入れの際に控車を使用するのはなぜ?
・・・重たい機関車が船内に進入しないようするため、と思っていたんですが、でも実際機関車だって航送しますよね?
●連絡船との接続部分の3本の線路の間隔が狭いのはなぜ?
・・・連絡船側の間口をなるべく小さくし、かつ連絡船内に分岐器を設けないため、と思っていたんですが、前述のとおり船内に分岐器が設けられている場合もあるようですね。
●船内での車両は連結したまま?それとも1両1両バラバラ?
●船内での車両の固定は1両1両?それとも何両かまとめて?
●固定用の金具は全車両に装備されている?それとも碓氷峠通過と同じように限定された車両のみ?
●積車と空車で船内での重量バランスが崩れないの?
●満潮・干潮で貨車の出し入れに影響が出ないの?
などなど、しょーもない疑問がいっぱいあります。
ご存知の方、ぜひ解説をいただきたいですね。

また青森駅付近は信号設備面でも興味深いところがあるのですが、これについては青森操車場や青森運転所を含めて別の機会に。

配線図はT.Mさん及びSYさん(※印)よりご提供いただきました。

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コメント

●控車
可動橋から船に重い機関車が乗ると、船が急激に沈んで、橋と船の接続部分が合わなくなるからではないでしょうか。
実際に機関車を航送するときは慎重にやるってことなんでしょう。

●連絡船との接続部分の3本の線路の間隔が狭いのはなぜ?

青函連絡船は4本じゃなかったでしたっけ?内側2本は分岐器があったと思います。昔の船の規格で3本で作りましたが、その後船の大型化で船内4本化するときに互換性の関係から3本で渡すってことになったのではないでしょうか。
基本的にはたくさん載せたいので、分岐器はあまり船内に作りたくないはずです。

●船内での車両は連結したまま?それとも1両1両バラバラ?
●船内での車両の固定は1両1両?それとも何両かまとめて?
●固定用の金具は全車両に装備されている?それとも碓氷峠通過と同じように限定された車両のみ?

船内の車止めには自動連結器が付いていて、そこに連結します。全部連結状態ですが、昔の10m弱の貨車1両につき4本の金具で止めていたようです(時化は6本)。たしか全車両okだったと思いますが……。金具自体は車両に付いてません。どちらかと言えば引っ掛けるイメージでしょうか。


●積車と空車で船内での重量バランスが崩れないの?

載せている重さが変わろうと船はそれを調節する機能があります。貨車が乗ってくればだんだん重くなって沈んでいくわけで、それらを調節するバランサーがあります。


●満潮・干潮で貨車の出し入れに影響が出ないの?

高さは可動橋と船のバランサーで調整します。

 自身の、シコタマ惰眠を貪っていた資料に言を付すのは甚だ恐縮ですが、時系列で整理された図からは、大正末年頃の線路変更が読み取り得ます。現国道7号(羽州街道、図では上下方向)を軸にすれば急曲線がその前後でとれているのが判るかと思います。
 東北本線側は有名で、廃線跡は「旧線路通り」と今でも名付けられているようですが、奥羽本線側は知られず、三内丸山地区から流れる沖館川の支流(放水路?)の架橋付近から南にふる形で線形が変わり、中途滝内信号所が設けられ、片やカーブで青森駅に入り、片や直線で青森操車場へ向かう、という形になりました。同駅が南北に謂わば拡がったと言えます。制限が減縮し自由度が増した構造になりました。
 さらに時期不明の図ですが、恐らく戦後間もなくで、青森方第3桟橋が貨車航走専用で、S19年に出来た五稜郭駅西の有川(現コンテナ扱い)駅へと至ったものなのでしょう。貨車航走を、戦時下という緊迫した時代は確かに要求しました。
 さらに社会は成長し、ヨンサントオ前に国鉄の常務会か理事会で旅客線の高架が、謂わば重役命令で決まり、小運転線がそこをくぐり、駅東側に貨物航走は集められたのですが、“KJ”さんが具体的に明確に描かれておられるところからもイメージを浮かべうるように、 航走輸送のもつ性質は限界線にあり続けたと言えると思います。
 最後の図から現在を見れば超合理的なんでしょうが、さらに新幹線が…ホームが減ることだけはないように、だけです。

KJさん、コメント並びに解説ありがとうございます。
大変勉強になります。
質問が今一つで申し訳ありません。
●線路の間隔について
青森の記事
http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/1978102_db54.html
の6枚めの写真、右側に控車が写っていますが、このあたりの3線の間隔が狭いのが不思議だったのです。船との接続部分の3つの線路の開き角度の関係?
●船内の重量バランス
船の右側に積車、左側に空車が偏って、左右のバランスが崩れて船が傾いたりするようなことは・・・?

船の車止めに連結するとは初めて知りました。

SYさん、私には青森駅についての解説はちょっと難しいので、フォローよろしくお願いします(汗)。

前回は曖昧な知識で書いてしまったので、色々調べなおしました。
ちなみに、私自身は青函連絡船に乗っていません。乗ってみたかったです。


●控車

 可動橋から船に重い機関車が乗ると、船が急激に沈むのは事実です。
 たとえば、ただ乗せる、ただ降ろすということであれば、ヒーリング装置で調整するのは楽ですが、重い機関車が何度も出入りするというのは調整するのが大変ということであると思われます。
 船内という屋内で、あまり蒸気機関車やディーゼル機関車を運用するのもこもってしまうので大変という理由もありそうです。


●連絡船との接続部分の3本の線路の間隔が狭いのはなぜ?

 元々、大正14年の車両航送の開始から、この規格が続いていると思われます。
 船の形には詳しくないのですが、なるべく連絡船の開口部分を少なくしたいなおかつ分岐器を作りたくないこと、当時の連絡船の幅とのバランス等も理由にあったと思われます。ですので、推測した理由は合っていることになります。
 その後、大型化しても各船の互換性を保つために、船内に分岐器を設けて4線となったものです。この分岐器により、その分積載車両が減ってしまっています。

●船内での車両は連結したまま?それとも1両1両バラバラ?
●船内での車両の固定は1両1両?それとも何両かまとめて?
●固定用の金具は全車両に装備されている?それとも碓氷峠通過と同じように限定された車両のみ?

 船内の車止めには自動連結器が付いていて、そこに連結します。なおかつ、開口部側に車端用緊締具と呼ばれるワイヤーを付けて、つねに編成が引っ張られた状態で固定されました。なおかつ、ブレーキ管を接続し、つねにブレーキがかかった状態で固定されていたようです。

 1両ずつ固定していた金具は(少なくとも貨車の)全ての車両に対応していたようです。


●積車と空車で船内での重量バランスが崩れないの?

 左右のタンクの中に水を入れることで傾きを変える、ヒーリングという装置が付いていました。これにより出し入れするときはヒーリングにより極端に傾かないようにしていました。なおかつ、これらは航行中も使用可能で、多少のバランスはこのヒーリング装置によって調整していたと思われます。
 ただ、なるべくバランスが取れるように最初から載せてたでしょうね。


重複する部分もあると思いますが、補足させていただきました。

KJさん、さらなる詳しい説明ありがとうございます。
車両を船に乗せる設備というのは大変珍しいものだと思いますし、また私も連絡船には乗ったことがないものですから、いろいろ興味津々なのです。
ほかにも「意外と知られていない車両航送の技術」などありましたら是非教えてください。

 1891年配線図日本鐡道が北へ線路を伸ばして本州の北迄到達終着駅を構えた頃の配線図 如何にも明治時代の終着駅然としたさつぱりした配線ですねロコ用ターンテーブルの脇に多分煉瓦製の三線機関庫が建てられております 此の時代客車も編成ごと保管出来る客車庫を建てる筈ですが未だ建設されて無かったのでしょう貨車用ターンテーブルも有り方向を変えて桟橋に横付けして北海道向け貨物を船積したのでしょう 1922年配線図では未だ航送設備が有りません当時内地は螺旋連環連結器北海道は既に自動連結器を使ってましたので当然航送は未だ出来ません(当時北海道の自連は今より低い位置に取り付けいましたので後に通常の高さに上げました)1925年8月世界的に例の無い内地の全車両の連結器交換を完了航送可能になり1926年構内配線に航送設備が記載されたのです 青函航路の連絡船は外洋航海仕様の船です 宇高航路と関門航路の連絡船は内航航路仕様の船でした 青函航路の場合公海に出ますので外洋航路の客船並の設備が整ていました 宇高航路は内航航路でしたので船内の設備等は其れ程立派では有りませんでした 関門航路は大き目の艀状の船に船首船尾何方からも航送車両が積める構造でした これは航送距離が短かかった為でした 航送用可動橋上の線路間隔が狭いのは連絡船の特殊な構造の為です船の喫水線の直ぐ上に航送甲板が有る為出来るだけ開口部を少なくして海水進入を防止する為でした 航送甲板に線路三線型の連絡船と四線型の連絡船が有り四線型の船は船内にYポイントが有りました1937年配線図には連絡船の模式図も記載されております 航送車両は航送甲板奥の船備え付けの連結器に連結させ前後に移動しない状態にしてあとワイヤーで固定して左右の揺れに対処し航送されました 私は一度四国へ行くのに宇高連絡船に乗船しました航送車両積終わると可動橋が上がり出港しました其の時何とも言えぬ感動が有りました

y yoshikawaさん、私は青函も宇高も結局乗れずじまいでした。乗ったことがあるのは久里浜~金谷ぐらいかな?

 すでにコメントで回答の出ているものもありますが、重複を承知で記します。

●でも実際機関車だって航送しますよね?
▼そのとおりです。要するに貨車5両を一気に搭載するわけで、慎重に行えば支障はありません。

●連絡船との接続部分の3本の線路の間隔が狭いのはなぜ?
・・・連絡船側の間口をなるべく小さくし、かつ連絡船内に分岐器を設けないため、と思っていたんですが、前述のとおり船内に分岐器が設けられている場合もあるようですね。
▼宇高航路ではポイントはなく、単に狭まっています。もちろんこの部分の中央線は積載箇所ではありません。
 青函航路では4線で中央の2線が船内ポイントで合流していたと聞いています。線間の狭いところは当然搭載不可です。

●船内での車両は連結したまま?それとも1両1両バラバラ?
●船内での車両の固定は1両1両?それとも何両かまとめて?
●固定用の金具は全車両に装備されている?それとも碓氷峠通過と同じように限定された車両のみ?
▼この3問は回答すみですね。

●積車と空車で船内での重量バランスが崩れないの?
▼回答のように船内のバランス用タンクに水を出し入れしてバランスをとります。
 積載のとき、ある1線のみが船首または船尾から重くなるので、船内のバランス作業用のポンプが作業進行に合わせてフル稼働します。
 条件が悪いときはポンプが追いつかず作業中止の緊急合図が出ます。宇野桟橋で実見しました。
 このように積み下ろしのときのブリッジは航行中よりももっと緊張しています。

●満潮・干潮で貨車の出し入れに影響が出ないの?
▼陸・桟橋・船の三者はそれぞれ高さが食い違って来ます。

 潮の干満による変位は陸と桟橋を結ぶ橋で調整します。調整といっても単に勾配で接続するものです。
 潮の干満は瀬戸内海でも4mに達することがあり、桟橋と陸には2mの差が発生します。橋長を50mとすると勾配は1/25、つまり40‰になります。
 入換機にとっては急勾配作業で、この勾配を押し上げて船内の連結器に貨車を連結したり、下り勾配を入換機のブレーキだけで船内にソフト連結したり、航送作業(積み卸しのこと)はまさに全員の職人仕事です。

 桟橋と船の高低差は、どちらも海面に浮いているので潮の干満は関係ありません。
 問題は貨車の積み下ろしによる船の喫水変動です。しかも前後左右アンバランスに対する調整ですから、船内のポンプが対応します。
 満載と空船では高さが異なってきますが、桟橋と陸に対するものに比較すると問題ではありません。船内のタンクとポンプは専らバランス調整です。
 タンクの水は航行中どうするのか聞き漏らしました。少しでも軽くしたいし、バランス上は重い方がいいだろうし、セウォル号の船長も悩んだと思います。

 連絡船の貨車搭載両数は貨物列車の単位から定められました。幹線の1000トン列車は約50両になります。
 青函航路はこの列車1本を1隻に搭載するよう7000トン台の大きさになりました。宇高航路はこれを2分割して1隻に25両を搭載する設計ですので3000トン台の船です。

 もうひとつ、1本の列車を3本または4本に分割する作業を岸壁で行っていたはずです。揚陸のときは連結組成ですね。
 青森岸壁へ直接到着か、操車場経由かの違いはこの作業の関係ではありませんか?
 分割した1本を載せ終わると、入換機が逃げるのと入れ違いに次の1本が押し込まれて行くダイナミックな作業振りのレポートをとこかで読んだ遠くがあります。


 さらにもうひとつ。青操~青森の旅客線と第1・第2岩壁ルートとの立体交差はいつの完成でしょう。1968-10には出来上がっていました。
 作業量を考えると、ここの平面交差でよくダイヤがさばけたものと感心します。


 ついでにもうひとつ(血中のアルコール濃度のせい)。
 貨車の仕訳は受取り主義が基本です。青森の場合、北海道から受取った貨車は行先を整理しますが、北海道へ行く貨車は未整理で送り出して五稜郭に任せます。
 したがって青森操の仕訳線が同じ位の規模なのがうなづけません。ここだけ特殊な事情があったのか?
 こういう事情は多くあり、特に首都圏の負担を減らすために地方の操車場が負担することがありました。

 熱にうなされたような書き方でお騒がせしました。

 追記です。
 宇高航路の場合、3本に分けた貨車群の積み降ろしを30分の折返し時間で済ませていました。
 つまり、3本を降ろし3本を積み込むのに30分、1本あたりの作業時間は5分です。船だから悠長な作業だと想像していると、とてもとても・・・・・。

 追記の追記。

 船内終端の連結器に貨車を連結しますが、このときの衝撃が大きいと船を押して岸壁から引き離すことがあります。
 宇高でも、貨車9両の積車なら200トンあまり、この重量が激突すれば3000トンの船は動きます。桟橋との線路を引きちぎりながら。

 アルコールが消えての追記。

 船が岸壁から離れると言うのは誇大広告でした。現実にはあり得ませんが、200トンのウェイトの衝撃は事実です。

 青森の立体交差のことは既にSYさんが述べられていました。赤面。

 二日酔い追記。

 積み降ろしのとき、船の傾斜が限度を超えると作業中止すると述べましたが、これは担当がブリッジで傾斜表示を注視しています。
 傾斜を見ながらのポンプ操配は担当の判断によります。なおタンクの水は相互に移送するのみで、海水の注入・排出は緊急時と最終調整のみです。

 岸壁で編成を3~4区分する作業は事前に行います。入換機が1列車分の50両を持って船内入換を担当するのは事実上不可能です。
 青森の場合も、4分割したそれぞれ(最大15両?)を入換機が受け持つので最小でも入換機が2両必要です。効率化をねらえば3両ですね。
 ダイヤを読むと第1~第3の岸壁での並行作業も考えられ、6~9両の入換機が同時に動いていたことになります。
 分割と組成は50両を切って引き上げ、別線に押し込む作業を3回くりかえす必要があります。突放作業は論外ですから。

 昨日から体内燃料の勢いを借りて暴走してしまいました。お恥ずかしいことです。
 少し嬉しいことがありましたのでご海容ください。

C6217さん、大作ですね(笑)。後日改めてご返事書きます。
うれしいことがあって何よりです。

 連絡船の真面目な追記です。

 連絡船へ貨車の積み降ろしのとき、傾斜限度は3°とされていたそうです。
 先に述べたように、時間に追われて作業をするとポンプによるバランス補正が間にあわず作業中止となりますが、その合図は赤色灯とサイレンでした。
 航行中は補正タンクの水を排水すれば軽くなりますが、実測すると省エネ効果が認められず取りやめとなりました。重心が高くなるので安定の問題があったのかもしれません。
 排水・給水をすると海水を使用することになりますが、封じ込めなら真水を使用できます。ポンプや配管のメンテが大違いです。

 以上は経験者からの聞き書きです。 

 また連絡船の追記。(いい加減にしなさい)

 宇野では、陸と桟橋を結ぶ橋は「可動橋」と呼んでいました。桟橋と船を結ぶものは長さは3mほどで「エプロン」と呼びます。

C6217さん、大作のコメントありがとうございます。
なかなか一般には知られていないような航送にかかわる技術情報のご提供、本当に感謝いたします。「船」というと、おっしゃる通り少しのんびりしたイメージをついつい感じてしまうのですが、その裏では関係される方々の激しい緊張があったんですね。
呉線といい青函航路といい、C6217さんの幅広い知識に脱帽です。
ところで呉線と青函航路と言えば、呉線電化時にC6215と16が連絡船に載ってはるばる北海道に渡りましたね。C6217は保存されましたが。

青森の配線図、興味深く拝見しました。大変勉強になりました。
きわめて遅いコメントですが、ご容赦ください。

航送車両の緊締ですが、船首側はカプラー(自動連結器)で固定し、ブレーキホースをつなげてブレーキをかけます。船尾側をつなげて固定するような記述がありますが、そのような固定はしません。各車両、各番線の横にある緊締用レールに、「甲種緊締具」という、ターンバックルのようなもの(一部の船だけ、船首側のみチェンブロック型)で固定します。時化のときは増し掛けといって通常は前、後ろの3車、掛ける数を増やします。ワイヤなどで貨車を固定することはありません。ワイヤは若干の伸縮性があるため、貨車の緊締には不向きです。

控車は、排気を出し、高温で発火源となりうるような稼働中の機関車が船内に入るのを防ぐこと、可動橋の荷重負担を軽減するためにつなげていたもので、機関車を航送するときは重量があるため、船内の中線に搭載することになっていました。この場合、機関車は火を落としてあることはいうまでもありません。貨物としての搭載です(もちろん、自走して乗り降りするようなことはありません)。

貨車を船体に固定する金物は、特殊なものを除き、すべての車両についていました。津軽丸型就航の際に原則すべての貨車、車両に取り付けられ、新造の車両にも原則としてすべて取り付けられました。北海道で使用することなどないであろう首都圏の国電などにもついていたのは、お役所仕事というか、お笑いですね。貨車はアイプレートのような穴のあいた板状のものが多く、電車では、車両両端などについている逆T字型のものがそれです。

貨車の重量の船への影響は、貨車の積みおろしのとき(貨車作業という)に最も大きく作用します。連絡船には、ヒーリング装置という、左右両舷の水タンクの間を移水するポンプがついており、これでタンク内の水を移水することで左右の傾斜が発生しないようにします。昔は別として、タンクの中は真水で、海水ではありませんでした。ドックのときにはタンクの水を排水してメンテしますが、ドックから出るときに必要な量の真水を積んで出渠しました。ヒーリングタンクの水の船外への注排水はしません。貨車作業が終わったときには船は水平になっていますので、この状態でバルブを閉め左右のタンクの水の量を固定し、出港しました。
当時の青函連絡船の写真などを見ていただけると、船尾上に小部屋がついているのがわかると思いますが、これが「ポンプ操縦室」というところで、ここでヒーリングポンプの操作をします。操作といっても、自動で傾斜補正するようにできていました(手動で操作する人もいましたが)。船の側の貨車作業は特別緊張するような作業ではありませんが、ヒーリングポンプによる移水の重量移動が、貨車の積みおろしによる重量移動とバランスしないと(貨車の重量移動がポンプの移水能力を上回ると)船が傾斜しますので、陸上の機関車の貨車作業の際の速度は厳しく制限されていました。それでも、早い速度で積みおろしする輩はいましたが。船体の傾斜が規程より大きくなった場合、または、ポンプ操縦室の当直者(航海掛)がボタンを押した場合は、停止信号が出て貨車作業は中止となります。ポンプ操縦室の船尾側下部には信号がつけられていました。陸上のことはあまりくわしくありませんが、貨車作業をする際の機関車は、2台使用だったはずです。1台使用か、2台使用かで連絡船のダイヤを組む際の作業時間が異なって決められていました(あくまで船側のダイヤです・・・55分折り返しは2台使用)。55分の折り返し時間でしたが、実際には30分程度で貨車作業は終わっていました。
また、航行中にヒーリング操作をすることはありません。きわめて危険な行為です。

船首側のカプラーには衝撃緩衝機能があり、連結の際の衝撃を吸収するようになっていました。しかし、貨車作業の際に機関車がへまをして停止を誤り、衝撃吸収の能力を上回ると、船首側のカプラーが壊れます。過大な場合、カプラーが甲板から引きはがされて持ち上げられた事例も何例かありましたが、機関車によって船が可動橋から離されたような事例は聞いたことがありません。可動橋は船体と嵌合するような構造になっていましたから。

潮汐などにより、さん橋(陸上)と船の高低差は発生します。青函連絡船の場合、貨車が満載のときと空船のときの喫水差は最大で50cm位で、それプラス潮汐によるさん橋(陸上)と船との高低差を補うために、可動橋は全長40mを越える長さがあり、それでも傾斜を補正する必要がある場合には船尾タンク(トリミングタンク)に海水を注水、排水して補正していました。しかし、トリミングタンクへの注排水は毎回必要があったわけではありません。
船体の船尾部分が狭くなっているのは、水陸連絡設備の関係もあるかもしれませんが、元々船というものは水線下部分は流線型でなければなりません(船速、ひいては燃料消費に著しく影響します)。そのため、船尾部分の形状は絞る必要があります。水線上で横幅をはみ出させる方法もありますが、着岸時に岸壁とあたる部分なので、青函連絡船の場合得策ではないでしょう(船首着けで平水区間、船速も早くない宇高連絡船はそのようになっていましたが)。青函連絡船は沿海(遠洋ではない)で、船速もそこそこ出さなければならない船だったので、船型には相当苦労のあとが偲ばれます。

可動橋の線路間の幅が狭くてもいいのは、同時に複数の番線で貨車の積みおろしをすることがないこと、可動橋を船尾部分の幅に合わせる必要があることによります。船の船尾部の幅の理由については、上記の通りです。

連絡船は、端的に言って鉄道ではなく「船」なので、船特有のものが多く、なかなかわかりにくいところがあります。船内で使用する用語も船のもので、鉄道用語などはあまり使用しませんでした。一方で、船の中でも極めて特殊なもので、普通の船とは異なるものであるとも言えます。このあたりが、むしろ興味のつきないところだと思います。

線路配線図とはちょっと脱線の内容ですが、ご参考になれば幸いです。
長文で失礼しました。

船の人さん、コメントありがとうございます。大変勉強になります。真水のヒーリングタンクと海水のトリミングタンクという2つのタンクを備えているのも興味深いですね。
一点教えて下さい。連絡船に載せる貨車は貨物列車単位なのでしょうか。複数の貨物列車を1つの船に載せたりとか、逆に1本の貨物列車を複数の船に分割して載せたりとか・・・、スミマセン、これは陸上の話かもしれませんね(汗)。

タンクの水については、厳密に言うと以下のようになります。
・ヒーリングタンクは第1、第2の二組があります。
・ヒーリングタンク、トリミングタンクともにドック出しのときは真水(船では清水・・・せいすい、と言う)を積みます。
・ヒーリングタンクは左右間の水の移動、トリミングタンクは船外との水の出し入れで使います。したがって、トリミングタンクの清水には、だんだん海水が混じっていきます。
・第1ヒーリングタンクの系統は独立していますが、第2ヒーリングタンクとトリミングタンクは、ポンプと配管を一部共用しているので、第2ヒーリングタンクの水にも、少量ですが共用部に残った海水が混じります。
・ヒーリングタンクは左右の傾斜補正、トリミングタンクは船尾の喫水(浮き沈み)を調整するのに使用するものです。前信の通り、潮汐や積載物の重量で変わる船の車両甲板と、陸上であるさん橋のレベル(可動橋の傾斜)を一定以内に合わせるために使います。
・可動橋の傾斜が貨車を積み下ろす際に障害になることもありますが、陸上と可動橋の接合部、可動橋の変節部や可動橋と船の車両甲板の接合部は、傾斜によっては山(「へ」の字の頂点状)になることがあり、そこでボギー車(コキ)が腹を擦った事例がありました。とくに潮汐が大きくなる大潮のときは、気をつかいました。
と、こまかく言うとこんな感じです。
搭載する貨車ですが、連絡船の晩年は、ほとんど直送のコンテナでした。陸上の貨物列車の輸送が拠点間の直送になったためと船では聞いていました。出航後に一等航海士が船長にする報告も、「オールコキ17両」と言っていることが多かった。陸上のコンテナ列車の両数はどうなっていたのか知りませんが、分割はあまりなかったのではないでしょうか?1本で来たものに、余裕があるときに五稜郭止まりの車をつなげていたような印象があります。爆薬や危険な薬品類などの危険物は、おそらく分割して載せる例で、50番台の便の貨物便で運んでいおり(客便には乗せられない)、このような貨物は船内での搭載場所も指定されていましたので、貨車作業前に編成作業が必要だったと思います。
連絡船では、貨車作業にかかわるさん橋関係者以外の人を、「操車の人」と呼んでいました。青森では、さん橋関係者は青函局の人ですが、操車の人は盛岡局(だと思う)の人です。操車の人とは、あまり交流はなかったと思います。
最後の頃の連絡船各便の搭載列車と青森、函館を発着する旅客列車、貨物列車を記載した運航表(ダイヤ)が、小さくて見にくいのですが、交通新聞社新書の「青函連絡船物語」に掲載されています。
ご参考まで。

連絡船に載せる貨車は貨物列車単位なのでしょうか、について。

輸送の合理化から両者を揃えます。函館本線の列車は貨車50両程度なので、青函連絡船はこれを1隻に載せるよう7000トン台の大きさになりました。貨車数から船の大きさが決まった訳です。
宇野線も貨車50両程度であり、四国はもっと短く約半分です。このために宇高連絡船は半分の25両程度を1隻に積むよう3000トン台の大きさになっています。
なおここでいう貨車とは2軸貨車のことで、自重10トン満載時25トン程度です。コンテナばかりの現在では通用しないかも知れません。年齢がバレますね。

船の人さん、タンクについての詳細な解説ありがとうございます。
C6217さんのおっしゃる通り連絡船に載せる貨車は貨物列車単位のほうが効率的でしょうね。貨車数から船の大きさが決まるという流れも頷けますが、貨物輸送の形態が変化してしまうと、逆に船の大きさで貨物列車の連結両数が決まったりして・・・。

青函連絡船の場合、港湾設備の関係でおのずから最大の大きさが決まってきます。
とくにネックになるのは、入港の際に船を180度回頭させる水面が確保できるかということ(青森)と、隣接する岸壁に2隻停泊した場合に操船の支障になるケース(「山越し」と言う)で、昭和57年に従来の客貨船より船体の長い石狩丸、檜山丸が貨物船から客貨船に改造されて就航した際には、防波堤の一部撤去や岸壁の延長工事などがありました(従来の津軽丸型・・・132m、ワム換算48両搭載、石狩丸・檜山丸を含む渡島丸型・・・144.6m、ワム換算55両搭載 津軽丸型以前の連絡船(貨物船)の貨車搭載量はワム換算42~44両)。
このように、連絡船の大きさを決めるにあたっては、貨物列車1編成をそのまま載せるのが理想的ではありますが、それを一番の理由に船の大きさが決められていたわけではなく、むしろ港湾設備面の制約のほうが大きかったと言えると思います。
宇高連絡船の場合も、おそらくは、港内で180度回頭しなければならず、防波堤で囲まれていた高松港の水面による制約、水深が浅く、幅の狭い直島水道の制約などがあったはずです。

連絡船晩年の頃のように、オールコキになってしまえば簡単ですが、それ以前の、さまざまな貨車が混成されているような場合だと、危険品以外にも貨物船にしか積めないとか、船の中でも搭載位置が指定されていたりするものがありましたので、その頃は船に積む前に編成作業をしていたのでしょう。晩年のオールコキの場合だと、ほとんど編成作業なしに積込み、出港です。青森、函館に着いたコキは、到着から出航、入港から発車までそれぞれ1時間ほどしか時間がありませんでしたから(列車にもよりますが)。貨車作業の時間は実質30分程度でしたが、ダイヤ上は約55分で組まれていたので、陸上で細かいことをやっていた時間はなかったと思います。
このほかに、たとえば函館側では、連絡船が気象・海象などにより欠航した際に順次到着する貨物列車を退避させる線が、大沼の手前までの各駅、信号場に用意されていたと聞いています。
このあたり、詳しい方がいらっしゃいましたらぜひ教えて欲しいです。

はじめまして、クモイ103と申します。
線路配置を眺めるのが好きで少し前からチェックさせて頂いていましたが、連絡船も興味の対象なので、船の人さんのお話にも惹きつけられました。
船の人さんのおっしゃる通り、連絡船の大きさは貨物列車の編成を基準に決められたわけではないと思います。なぜなら、もともと貨物列車の原点は「車扱い」方式、つまり拠点拠点で行先別に貨車を組み替えながら走っていくのが基本であり、その拠点のひとつとして青森と五稜郭の操車場があるからです。両操車場では到着した貨物列車から航送すべき車両を選り分け、ここで初めて連絡船の輸送単位に合わせた桟橋駅への小運転編成に仕立てれば良いわけで、本州内や北海道内の貨物列車を連絡船の輸送単位に合わせる必要はもともとありませんでした。おそらくかつて十三本木峠の三重連でファンを虜にした東北本線の貨物列車は、連絡船の収容力を超える貨車を連ねていたのではないでしょうか。
しかし時代は下って直行方式の専用貨物列車が登場すると事情は変わります。コンテナ特急の「北海ライナー」は津軽丸形のコキ車搭載能力である17両編成で運転され、1本の列車がそのまま連絡船1隻で航送されました。ここで初めて、貨物列車の編成長が連絡船の搭載能力の制約を受ける事態が生じたことになります。
青函トンネルが開通し、17両という縛りがなくなった1988年3月改正では、「北海ライナー」の編成は20両(だったかな?)に増強されたという記事を読んだ覚えがあります。

クモイ103さま

 お話の通りかと思います。私は先輩から聞かされて、合理的でスキのない話なのでそのままストレートに信じていました。理系の脳をだますのは簡単なのかも知れません。
 ただし首都圏から北海道へ、また北海道から首都圏へ直行する列車も多くあったと聞いています。そういうときは青森と五稜郭では作業が簡単になるはずです。

船の人さん、詳細な解説ありがとうございます。貨車の航送には素人には見えないいろいろな制約事項があること、まだまだおぼろげですがわかりました。

>船の中でも搭載位置が指定されていたりするものがある
→具体的にはどのようなケースでしょうか?

>貨物列車を退避させる線が、大沼の手前までの各駅、信号場に用意されていた
→これは興味深いですね。私も是非教えていただきたいです。本州側にはなかったのでしょうか?

輸送形態(コンテナ直送化)や時代によって搭載する貨物の内容が変遷していったため、おおまかに以下のようだったとご理解ください。

・まず、危険品貨物を搭載した貨車、動物等で著しく悪臭を発し、または船内を汚損する車両(家畜運搬・・・晩年はほとんどなかった)は、旅客の乗船した船に搭載してはならない。
・危険品の荷役中、搭載中はマストに国際信号旗のB旗(赤1色で、旗をロープにつないでいない側が燕尾状になったもの)を掲揚、夜間は赤灯を点灯。基本的には貨物船に乗せる。
・危険品貨車の搭載位置は、1番線および4番線。ただし、1番線には火薬類、液体塩素以外の高圧ガス、引火性液体、放射性物質は搭載不可。搭載する場合、基本的には船尾に搭載。いざというとき、貨車を海中投棄するため(そのための道具が船尾に用意されていた・・・実戦で使用されたことはない)。
・危険品とは、運輸省令(当時)の危険物船舶運送及び貯蔵規則第20条に定めるもの。

危険品以外の搭載ルールは、
・重量車両(連結面間1mあたり5tを越えるもの)は、客貨船および貨物船の2番線、3番線に相対して搭載。
・特大貨物積載車両は、客貨船および貨物船の2番線の線路有効長(船尾側)の位置から35m以内。
・運転整備をしない(火を落とした)蒸気機関車は、客貨船および貨物船の2番線の船尾に2両以内。これは、他の種類の機関車にも準用されていたと思います。
・客車、荷物車、郵便車で給電、送汽(蒸気、10月~6月)する場合、2番線、3番線に搭載。

これらのものを搭載するか、しないかは船長に権限があり、航路ほぼ中央の焼山沖気象を打電(連絡船-国鉄函館海岸局間の無線電信)するときに次便のとう載制限を通知していました。
・危険品は積まない・・・「キケツマヌ」
・危険品、重量物、荷崩れの恐れのあるもの、動物(馬、家畜)などは積まない・・・「トクカモツマヌ」
・とう載制限はしない・・・「ミナツム」
など、9種類の制限に分けられていた。

晩年にはありませんでしたが、少し前の規程にはこのようなものもありました。
・蜜蜂を載せた貨車は客扱い系統便の客貨船に搭載しない。
・動物など著しい臭気を発し、船内を汚損する車両は客便に搭載しない(これは、規程にも最後まで残っていた)。

そのほか、ご参考までに・・・
・2番線、3番線の転てつ器の操作、船首側のカプラーの取り扱いは、操車(陸上、盛岡局)がやっており、船側では扱いませんでした。船側は、船尾ポンプ操縦室の航海掛(コーターマスターという)がヒーリング操作、船尾扉周辺に甲板諸機掛(セーラー)が車両監視で配置されていました。連絡船内の職名呼称は英語名(と、それが転訛した和製英語名)です。
・貨車作業の際、船体傾斜は3度まで、4度で自動で警報発報、赤信号。
・可動橋のこう配は40/1000以内で、これはさん橋(さん橋は青函局の組織)が操作。
・機関車の速度は4km/h以内、ただし、コキの引き出しのときのみ7km/hまで可。
・機関車は、可動橋の捕桁上に進入してはいけない、と、規程で決められていました(主桁までは入っていました)。

以上、こんな感じです。

ご存じだと思いますが、念のため。
青函連絡船は、岸壁側(左舷側)から船1番線、船2番線、船3番線、船4番線(規定上の呼称)。ただし、船側では「船」はつけずに、単に「1番線」「2番線」のように言っていました。
可動橋は、岸壁側から橋1番線、橋2番線、橋3番線。

退避線は、青森側にもあったのではないでしょうか?詳しい方、ぜひ教えてください。

C6217 さま
確かに直行列車はコンテナ特急だけとは限りませんね。
そういう列車が多数あったというのは認識不足で、特に「北海ライナー」で初めて…というのは勇み足で失礼しました。

なお、津軽丸形の仕様が検討された経緯が「青函連絡船史」(1970年・青函船舶鉄道管理局)に少し記述されていますが、貨車搭載能力48両という数字の根拠は明確には示されていませんでした。
話の経緯から推察するに、設計当時における将来の輸送量の予測値や、運航便数などを考慮して割り出したかの様な印象を受けます。(そう書いてあるわけではなく、あくまで私が読んだ印象です)

船の人さん、航送に関する詳しい情報、本当にありがとうございます。私が知らないだけなのかもしれませんが、これだけの情報、なかなかお目にかかれないような気がします(一冊の本になりそうですね(笑))。これからもいろいろ教えて下さい。
また地上側の情報もご存知の方がいらっしゃいましたらお待ちしています。

ご覧になっていらっしゃる方々が多いと思いますが、下記URL動画に連絡船内部の様子が見られます。カプラーや緊締具が映っています。少しですが当時の映像も挿入されて、興味深いですhttps://www.youtube.com/watch?v=74q5wiv0SVo
38分45秒位からです。

MANTETSUさん、ありがとうございます。ブラタモリ、私も見ました。

ブラタモリでタモリがいじってた緊締具は、甲種緊締具の古いタイプ(はさみ型と言っていた)で、津軽丸型就航以前から使用されていたものです。
津軽丸型就航以前は、貨車に緊締具をかける金具がついていなかったので、貨車のフレームをこのはさみで咥え、反対側のフックをレールの外側にある緊締レールに掛けて、中央のターンバックル状の部分で締めていました(締めると緊締具の長さが短くなっていき、車両が固定される)。
津軽丸型就航時にはすべての貨車に緊締具をかける金物が取り付けられたため、両方がフックとなっている新型が出て、緊締具の重量が軽くなり、作業は容易になりました。
しかし、全部が新型に置き替わったわけではなく、旧型のはさみ型も終航まで広く使われました。はさみ型は、フック掛けのない部分にも緊締具をかけることができるのと、はさみ側を下(緊締レール側)に使うと持ち上げる重量が軽くなるため、当初の逆に使われていました。
そのほかに、摩周丸、羊蹄丸、十和田丸のみ、船首側に限って、チェンブロック型のものも使用されていました。チェンブロックが緊締用レールに取り付けられており(前後に移動できるようになっていました)、チェンの先のフックを貨車にかけて巻き上げていました。チェンブロック型はKITOの製品でした。
緊締作業は、前にも書いたと思いますが、最初におろす番線を船側が外しておき、そのほかの番線は陸上側が外しました。貨車作業終了後、陸上の側が緊締具を取り付けていき、最後に積んだ番線のみ船側が緊締具の取り付けを行いました。
タモリは、羊蹄丸(タモリ倶楽部)、摩周丸(ブラタモリ)と行ったので、次は八甲田丸ですかね?

船の人さん、はさみ型の緊締具は重そうですね。真冬はかなりつらい作業だったのではないでしょうか。

緊締作業は広い車両甲板とはいえ船内の作業なので、真冬の作業で肉体的につらいのはむしろ甲板部の入出港(船外作業となります)や、さん橋の作業(弘済美装に外注でしたが)だと思います。

船の人さん、そうですね、船外作業に比べれば風雪にさらされないだけまだマシ、というわけですね。

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