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2010年7月19日 (月)

青森操車場配線図 追加

おかげさまでどうにか復活しました。

さて、先日の青森操車場の記事の後、SYさんより追加でご提供いただいたものがありますので改めご紹介いたします。

まずは1926年(大正15年)10月。

1926

・東北線の青森延伸が1891年(明治24年)9月、奥羽線の青森延伸が1894年(明治27年)12月、そしてこの1926年(大正15年)の青森操車場と滝内信号場の開設でデルタ線が完成したことになります。
・同時に青森駅構内にあった機関車と客車基地が青森操車場構内に移転してきたようですね。
・東京方は旅客と貨物の単線並列になっています。

続いて1936年(昭和11年)7月。

1936_2

・仕訳線群が増強されており既存の上り仕訳線とは背中合わせの位置に下り仕訳線群が設けられています。

続いては・・・・

1940

・これは「改良案」の図らしいです。破線部分を改修する、という意味の図面でしょうか。
・ これだけを見ると、転車台及び扇形庫は増設するのか場所をずらすのか、ちょっとあいまいです。
・東京方の客貨の単線並列は浦町駅から続いていたんですね。
・下りの仕訳線群がまだ描かれていませんので、もう少し古い時点での図面かも知れません。

再掲になりますが、この次がこれになるわけです。1944年(昭和19年)です。

1944

・仕訳線群がかなり成長しました。
・転車台と扇形庫は2つに増強されました。
・開業当初のころは規模も小さかったためかさほど違和感を感じませんでしたが、ここまで規模が大きくなると東北線や奥羽線と仕訳線群の位置関係にちょっと妙なものを感じてしまいます。

続きはこちらです。

配線図はSYさんよりご提供いただきました。

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コメント

【青森】
以前の、青森 1978/10/2の記事と、真夏日街道まっしぐらだった本年7月頃の青森配線図から青森雑記までの記事に、それら青森シリーズのステージに立たれたコメンテーターの皆さんのお話を含めて大変興味深く拝見させていただいておりました。
実は私もコメントを書いていたのですが、投稿ボタンを押さずに一読者のままでおりました。
なぜならそれは、改めてこの青森シリーズを振り返ってみすと、並み居る鉄道趣味誌群を凌駕するような記事内容と皆さんのコメント内容を目の当たりにして、自身のコメントを投稿するのに尻込みをしてしまったようです。

これまでの皆さんのコメントに、いろいろと青森の様子を知り得、とても勉強になり感謝しておりますなか、蛇足ながら私の見た青森機関区の印象などをお話しさせていただきたいと思います。

ここ青森機関区へとたどり着くまでの始まりは、大阪駅から夜行列車で発ち、新潟駅から羽越本線の特急列車に乗り換えて酒田機関区を目指したと思います。
直接酒田駅まで行くなら、便利な寝台特急日本海を利用したのですが、途中の新津機関区に坂町機関区と村上駅の転車台や、古い時刻表で見ていた機関車牽引列車の停泊駅だと思われる鼠ヶ関駅の転車台の有無を車窓から見たかった為、夜明けから車窓が見れる行程にしたと思います。
そして酒田機関区訪問後は、余目の項での清川駅の転車台に関しての話しもこの時だったと思います。

青森機関区を含めた北東北の機関区を主眼とした行程は、これより数ヶ月前の南東北の機関区探訪時にお世話になった、山形機関区の助役さんに御礼の再訪をしたかったのと、大失敗した長町機関区(福島の項へのコメント最後の部分)への再訪問のためなどもあり、北東北の機関区探訪は陸羽西線を皮切りに日本海側から太平洋側へと、ジグザクの行程を交えながら上記の他、新庄、小牛田、一ノ関、横手などの各機関区を訪ね、その後、奥羽本線の各地を巡っての青森入りとなりました。(青森の後は、八戸、盛岡、釜石、宮古、その後に北海道へと続きました)

青森駅に到着すると、奥羽本線側や青森駅構内に機関区のそれらしい様子など見受けられず所在地が分からなかったので、以前ひとやすみの項でお話しさせていただいたようにタクシーで道案内をしてもらいました。
タクシーの運転手さんに行き先を青森の機関区までと告げると、青森機関区か青森運転所なのかが判らなかったようで、それぞれの所在地の地名を私に聞いてきましたが、その時が青森駅の改札口から初めて出たも同然の私に判る筈もなく、さらに運転手さんが機関車がいる方なのか、客車や電車がいる方なのかを聞いてきて、私が機関車の方ですと答えて場所の察しがついたようでそちらへと向かいました。

そんな経緯で青森機関区を訪問したのは国鉄民営化の直前(87・3)の時期でした。
それまで見ていたSL時代の動力車配置表などから、かなりの規模を期待していた目当ての扇形庫は、青森寄りの検修線の部分を4線程だけ残して既に解体されていて、その勇姿は望めませんでした。
その扇形庫の大部分が解体撤去された理由として、ヤードを跨ぐ陸橋を作るために扇形庫の一部を解体したと聞きました。(私の聞き間違いで、配線図から無くなっている東京寄りの一見収容線ばかりの扇形庫の事かも知れませんが)
しかし、不思議と陸橋すれすれに建っていた、古くからと思われる給水塔がそのまま残っているにも関わらず、給水塔より陸橋から離れて建っていた感じの、青森寄りの立派な扇形庫が規模を縮小してしまっていたのは残念でしたが、しかしながら転車台を取り巻く放射状のレールは、ほぼ360度全周に渡り残っており、一部は雪が被っていましたが壮観な眺めでした。
(配線図から想像しますと、2棟の扇形庫の青森寄りは17番線規模、東京寄りは20番線規模くらいだったのでしょうか)
また、ヤード内側にそびえ立つように感じて見えたたEL庫は、それまでに見ていた新鶴見機関区や宮原機関区の巨大な10線級の超大型短形庫などよりも、ここ青森機関区の5線式短形庫がなぜか最も巨大に見えて印象深く残っていて、おそらく庫内には ED75クラスなら20両以上は収容出来たのではないでしょうか。

この時、構内を案内していただいた国鉄職員の方から、ヤード内に建築中の建屋の用途について見当がつくかどうか質問されました。
答えは連絡船廃止に関係があるとヒントをいただきましたが、私がその質問の答えをとんちんかんに答えていたのは言うまでもありませんが、正解は津軽海峡線用に新たに増備された ED79が入区した時の仕業庫でした。

扇形庫とEL庫辺りの見学が終わった頃、少し吹雪になってきたのでこれ以上の見学を諦め構内から機関区事務所に戻ると、見学許可を頂いた助役さんと、案内していただいた若手職員の方々が挨拶を交わしておられ、数日後、新たに発足するJR貨物会社へ一緒に所属する旨の展望をお話をされていました。
それと、各地の機関区構内の見学許可を頂く時に、見学者の記載ノートに住所氏名等を書く事がよくあるのですが、この青森機関区の見学者ノートに、以前、広島運転所訪問時に偶然御一緒したことがあった、写真家の広田尚敬さんの名刺がさりげなく添付されていたのが強く印象に残っています。
更に、この見学ノートに記載した私の住所を見て、関西からの来訪と分かり助役さんからもひとつ質問を受けました。
それはこの青森機関区にも長らく在籍したことがあり、今は梅小路蒸気機関車館に保存されている D51のトップナンバーについてでした。
それまで梅小路には何度か足を運んでいましたので、開館当初の動態保存から静態保存になってしまった事などお答えしましたが、その D51-1が青森機関区から浜田機関区に転属となった時の整備に、この助役さんが携わられたそうで、その D51-1が、遥か山陰西部の浜田機関区へと旅立つために青森機関区構内から出発する時、「”D51の1号機”が浜田へ出区して行く姿を見送った時は涙が出たよ‥」と、懐かしそうに語られていた姿も非常に印象的でした…。

本日12月4日は、元祖東北特急はつかり誕生から約半世紀を経て実現した、念願の東北新幹線 東京ー新青森間全線開通に於ける祝賀記念気運も手伝いコメントさせていただきましたが、青森シリーズ内の、どの項にコメントをすればいいのか少し迷いました。
でもやはり、機関区の姿と、転車台に扇形車庫の配線図がいっぱい掲示されている本項にコメントをさせていただきました。

最後に余談ですが、一連の青森シリーズ内に掲示されている配線図と同じ配線図が、近刊の趣味誌にも掲載されているようですが、鉄道趣味誌を周回遅れにしている事象を感じながら f54560zgさんのblogを拝見させていただくのは、ちょっぴり気分が良いものです。

 東北・奥羽両線の着発線にある牛馬用水道の記載に気づかれたでしょうか、放牧地である北海道・東北の火山の雄大な山麓や北上・阿武隈の高地を思い浮かべ、貨車内の空になった飼い葉桶に水道水を入れて貰い、喉を潤してい馬や牛ののどかな姿が想像できます。
 因みに名古屋機関区の延長で、RP誌によるS38年の45輌以上の蒸機配置区は、小樽築港(52輌)、岩見沢(48輌、電化以前)、青森(56輌)、盛岡(63輌)、水戸(52輌)、平(51輌)、稲沢第一(56輌)、金沢(50輌)、広島(65輌、別に広島運転17輌、瀬野に16輌)、門司(49輌)、直方(55輌)、でした。
 そこで水戸の第二の転車台や、盛岡の存在の可能性が窺えるかと思え、また“E10”さんの数字の提示は示唆深いものであると思っております。

SYさんからのご指摘のとおり、蒸気機関車時代の水戸駅には、転車台が2台ありました。1台は機関区の扇庫を付帯したもので、もう1台は庫が付かないものでした。入庫しない隣接他区(尾久、田端、新小岩、平、小山)の機関車はこちらで方向転換をしていたのでしょうね。鉄道ピクトリアル誌の1998年6月号の常磐線特集には昭和38年当時の水戸駅の構内配線図が載っていまして、2台の転車台が表示されています。国土交通省が公開している昭和49年撮影の航空写真では、扇庫付帯の1台だけになっています。無くした転車台のあたりは電気機関車の留置線に転換されたようです。

E10さんは訪問された各区所の方々といろいろと交流を持たれているんですね。私もずいぶんとお世話になりましたが、どんな話をしたのかはほとんど記憶がありません(汗)。ただ、ところどころの写真の片隅に写っていらっしゃる姿を見ると、思わず「お忙しいところありがとうございました」と言ってしまいます。
「牛馬用水道」確かに1936年の青森操に記載されていますね。
水戸の2つの転車台については「水戸・勝田 1985/1/2」の記事の1089さんのコメントで、1965年時点では1つだけになってしまっているようですので、1963年~1965年の間に撤去されたことになるのでしょうか。
徳山のデルタ線が気になっているのですが、友部にもデルタ線があったのですね。

友部駅のデルタ線ですが、電化前の蒸気機関車時代には、ターンテーブルのない友部終着で小山方向へ折り返す水戸線の客車列車の牽引機を方向転換するデルタ線を使っていました。
国土交通省のホームページで古い空中写真を見ることができますが,昭和49年撮影のものではその跡がわかります。
駅構内に広い場所が必要なデルタ線を内蔵していた駅は,そう多くないとおもいます。
長崎本線の肥前山口にもかつてはあったということのようです。

SYさんの記述から、SLに引かれ青森操車場に入構してくる貨物列車に家畜車の姿がイメージされます…。
いつも数字から読み解く力量を持たれている SYさんの視点には脱帽です。
この青森や、田端の項での入換機とヤード扱い数量の列挙に、新たな気付きと高揚感に包まれます。

私は少年期より、機関区への車両配置数や型式の多さ、扇形車庫や短形庫の番線数の多さ等に惹かれているようなところがあり、SYさんの列挙される数字に納得感や魅力感を感じています。

次に青森のエピソードの付け足しになるのですが、構内を案内していただいた方からお聞きした話しです。
青森機関区のSL終焉期の頃、給炭機のホッパー下部にあるの開口部が不調で、SLに給炭をしていて炭水車の石炭がいっぱいになり給炭ホッパーの開口部を閉めようとすると、これがすぐに閉まらなくなる時があり、給炭機のホッパーに満載してあった石炭がすべて線路上に排出されてしまうと言うようなトラブルがよくあったと聞きました。
そんな時は線路上に山盛りになった石炭を職員の方々が総出になり、人海戦術を駆使して後始末をされたそうです。

それと以前お話した青森機関区から青森駅までの帰路のことです。
宿泊していた秋田を朝に出て、東能代、大館、弘前、そして青森だったのですが、3月末とはいえ青森の日暮れは意外と早く、青森機関区の事務所を後にする頃には夕暮れ時を迎え、天候が少し吹雪になってきたこともあり、辺りは薄暗くなっていました。
青森駅から機関区までタクシーでの道のりで歩けなくはない距離感だったのと、付近のバス停なども分からず、徒歩で青森駅まで向かうことにしました。
折りたたみ傘は持っていましたが、風か強くて使う気になれず、ジャンパー姿(コートは着用していませんでした)だったこともあり吹雪の中を歩き始めました。
歩き出して少しすると吹雪が強まり出しました。
横殴りの凍てつくような雪が容赦なく頬に当たり続けます。
この時、東北地方の人々が使われるずぅずぅ弁のわけが理解出来ました。
寒さ冷たさで、頬など顔の皮膚の自由がまったく利きません。
あまりの頬の痛さに傘を取り出し使いましたが、更に吹雪は強まり猛吹雪となり、耐え切れない寒さの中をまともな防寒対策もなく歩き続け、この時ばかりは映画の「八甲田山」を思い浮かべていました。
一瞬ですが猛吹雪か弱まる時があり、なんとか気力と体力が回復します。
帰りもタクシー等の交通機関を利用しなかったことを後悔しつつ、方角だけを頼りに足早に駅を目指します。
猛吹雪で視界も悪いなか、しだいに街明かりが増えてきました。
向こうの方に商店街とおぼしき街角が見えてきました。
「あそこまで行けばなんとかなる…」そう自分に言い聞かせながらいっこうに衰えない猛吹雪のなか気力を振り絞り前進します。
商店街のアーケードが見えてきました。あと少しです。
気力体力が途切れそうになる直前、吹雪で真っ白い姿になった私は、アーケードの屋根の下に滑り込むようにたどり着きました。
駅に向かう足を休めることなく服や傘に着いた雪を払いながら「もうここまで来たら安心だ…」
この時の気分の安堵感は何物にもかえがたいほどに忘れられず、あれから二十数年たった今も私の心の奥底に眠っています…。

コスモスさん、友部配線図の記事にも書きましたが、確かにデルタ線を持つ駅って少ないですよね。でもあえて転車台ではなくデルタ線にしたからには何らかの理由があるのでしょうね。

E10さん、それはそれは大変でしたね。3月末でしたら青森とはいえある程度春の気配も感じられる頃でしょうに。でも、確かにその時はすごく大変な思いをしたのでしょうが、過ぎてしまえばその苦痛も忘れて楽しい(?)思い出になりますよね。

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