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2010年7月16日 (金)

青森操車場配線図

青森付近第二弾は青森操車場です。
以前に青森居住暦ありさんやSYさんからいただいたコメントを改めて読み返さないといけませんね。

まずは1944年(昭和19年)。※

1944

・貨物操車場としてはかなり変わった線路配線のように思います。
・東北線、奥羽線のそれぞれについて、到着から分解、組成、出発がどのような流れで行われていたのか正直よくわかりません・・・。難解です。
・それにしても2つの転車台、扇形庫が目を引きます。

続いて1977年(昭和52年)3月。

197703200

・東北線の付け替えでだいぶ普通のカタチに近づいたような感じですね。
・それでも青森駅方、奥羽線福島方との関係が複雑そうです。

最後に2000年(平成12年)7月。

200007200

・この時点では操車場ではなく信号場になっていました。
・大半が機関区設備ですね。

信号設備から見た列車の運転経路についてはまた後ほど。

配線図はT.Mさん及びSYさん(※印)よりご提供いただきました。

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コメント

いつ扇形庫が一つになってしまったのでしょうか

1089さん、申し訳ありませんがちょっと不明です。SYさん、ご存じないですか?

電機が入線したときに電機の庫の敷地を作るために取り壊したのかもしれませんし、空襲などで被害を受けたのかもわかりません。

 《同操車場 追加》並びに《青森駅》をもまず参照して下さい。
 画像がモノクロで粗いため確然とはしませんが、二基目の転車台辺りには古くは建物がなく、62年(S37年)には存在しております。多分3~6線程度でしょう。さらに米軍が撮影した写真では南東方の引上げ線と同庫周辺に白く変色した円形が見られます(自身の識別能にも陰りがあるのですが)。 
 S20年1月、米軍は第8師団が置かれていた弘前の近郊で、津軽海峡という要衝を統括していた青森市街に空爆をかけ、市民は同操車場脇の浦町駅へと避難しました(これが東北本線線形改良後に設けられた、現在の平和公園の由来)。無論線を絶つため、青函連絡船も攻撃対象になり、多数の船舶が沈没や座礁とあいなりました。この空襲は米国にとって焼夷弾の実験で、木造が大半の中大都市への空襲の以後のスタイルを決めたと思えます。
 そこで第二扇形庫なんですが、推察上、被弾したかもしれず、消失したかもしれず、と言うのが自身の答えです。《川崎新町駅》でリンク先を呈した米軍の地図には、青森地区もあり、他に大都市地区において陥落すべき対象としての橋梁の材質が付されています。いやな表現ですが、「戦争の経済学」といった感じで、線を絶ち、本質を灰燼させず、占領して復興させるにも、本質をゼロから建ち起こさずに済む、費用を掛けないような攻撃のスタイルを米国は、考えていたフシがあります…傷むのは周辺部で。
 電機庫等の設備はお分かりかと思いますが、旧青森客車区並びに同機関区気動車部門が統合されて、昭和42年7月に青森市石江三好地区へと移転しており、その旧客車区施設跡に設けられ、よって一部は先に着工されていたかもしれませんが、内郷・長町・盛岡区と並んだ青森区の本格的な施設着工はそれ以降と言えましょう。第二扇形庫は地理院のS50年の航空写真で見る限り、白く残遺しており、その数年前に解体されたと思えます。70年過ぎくらいまでは二基目の転車台もあったようで。尤も手元に確かな資料がなく個人的な推察でしか他ならないのですが。

 米国人の太平洋無着陸飛行を受け容れ、返礼に米国からリンゴの種木(和種でなく、疫学的な問題があり)を贈呈してもらったほどの青森です。リンゴの木箱を満載した貨車が秋口には操車場内を埋めていたんだな、とぼんやり思ってしまう次第です。

イゴマルさん、SYさん、ありがとうございます。

青森運転所のついでに、こちらにもコメントします。
青森信号場に隣接する青い森鉄道の運輸管理所には、2014/10/19の公開日に臨時列車(往復乗車)で行ってきました。
往路(構501M)は、青森駅の東北下本から、入換信号52Lの進行現示と着線表示「18」により発車。回送線を走行し、奥羽貨物線との合流手前で着線表示「6」を確認。北機1で一旦停車後、収容2を通過し、交検2で乗客降車でした。
復路(構9574M)は、交検1から発車し、往路と同じ線路を戻ったのですが、北機1発車時の着線表示は、青森駅の東北下本を表す「P」でした。
(運転時刻表には、「青森信号場」ではなく「運輸管理所」と記載。その時刻は北機1(往路は到着、復路は発車)の時刻で、北機1~交検1・2の間は時刻設定なし。)
収容1・5は撤去されており、収容2~4には新設らしき3線分のみの収容庫と、収容2の東側に洗浄設備を確認。収容2~交検1・2の線路がつながっていることから、近年かなり変化しているようです。転車台はありませんでした。
(3セク化したので当然ですが・・・)
ところで、往路の着線表示のうち、「6」は着発1~4の連番で北機1が6に相当するのではないかと思いますが、青森駅での表示「18」の意味がわかりません。推測でも構いませんので、アドバイス頂けないでしょうか?

my2000さん、スミマセン、「18」表示についてはよくわからないのですが、二点だけ教えて下さい。
1)青森駅東北下本から回送線へのルートは、①奥羽本線(NK)②中2(NL2)③中3(NL3)④東北線(NM)のいずれを経由したのでしょうか?
2)復路の北機1→東北下本では、入信129L→入信33Lで進路が確保されると思いますので、入信129Lでの着線表示Pは33Lまでを示すのではないかと思うのですが。33Lの着線表示はどうなっていたかわかりますか?

ご質問について
まず1)ですが、結論から言うとNMでした。
駅構内の配線は2000年から変わっており、ホーム部直近の東北下本と中線との間のシーサスは撤去されていて現存しませんので、248イロ・249イロの分岐はありません。また、NQ(機待線)も、231イからホーム方向へ向かった途中で途切れて行き止まりになっているので、235ロの分岐はありません。
したがって、東北下本からNKやNL2(中2)への進入は物理的に不可能です。
なお、NL3(中3)は、実質的に青い森鉄道(701・703系2連)の引上線として使用されており、在線していない時でも通過走行はない模様です。
次に2)ですが、動画撮影はしていないので見落としました・・・と書こうとしてデジカメの画像を再確認したら、161の分岐手前で撮った写真にたまたま写っていました。33Lの着線表示は「8」です。
ということは、青森駅の東北下本を表すのが「8」ということなのでしょうか?
だとしたら、129Lの「P」は何を意味するのでしょうか?
素人の質問で申し訳ありませんが、ご教示頂ければ幸いです。

my2000さん、私も素人ですのでとても「ご教示」などできる立場ではないのですが、とりあえず思うところは、
●往路
1)東北下本から回送線122R手前まで
  →40R着線表示「18」
2)回送線122R手前から北機1まで
  →122R着線表示「6」
●復路
1)北機1から回送線33L手前まで
  →129L着線表示「P」
2)回送線33L手前から東北下本まで
  →33L着線表示「8」
ではないでしょうか。つまり129Lの着線表示「P」は北機1から回送線33L手前までの進路、33Lの着線表示「8」は回送線33L手前から東北下本までの進路をそれぞれ表示しているものと思います。
入換信号機の進路表示はいろいろなケースがあるようで、たとえば糸魚川駅の上り機待1番線からの入換信号機113Lの進路とその表示は
・上機待1→上機待2 「Y」
・上機待1→中2    「7」
・上機待1→中3    「8」
・上機待1→上本   「0」
・上機待1→上1    「1」
・上機待1→J2T    「U」
などとなっていて、着線とそれに対する表示の間に一定の規則性があるのかどうかサッパリわかっていません(汗)。

◆ 着線と表示の間に一定の規則性があるのか・・・?

 表示は地元に一任されるように思えます。できれば1文字・1ケタに抑えたいのは判ります。岡山駅の例では
  K:機関区ルート(貨物操車場を含む)
  数字1桁:客車留置線ルート
  U:運転区ルート(電車基地)
等となっています。
 行先の日本語イニシャルをとったものでそれなりに明快です。他の地区ではどうなのでしょう?

 前稿は私です。暑さボケ?

なるほど。着線表示は、実際の線番や記号と必ずしも一致する(または一定の規則性がある)のではないのですね。理解しました。
(本コメントに対する返信は不要です。)
次は、このお隣の県の某駅にコメントいたします。

C6217さん、岡山駅はそんな感じなんですか。全国レベルである程度ルールを決めた方がミスや混乱を防止できるのではないかと思うのですが・・・。

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