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2010年6月29日 (火)

大宮操車場配線図

新鶴見と並んで首都圏を代表する操車場、大宮操車場の配線図です。

まずは1958年3月。

1958031

1958032

・一般的には大宮「操車場」なのですが、配線図上方に貨物ホーム等の積卸設備が描かれているとおり営業窓口としての「駅」になっていますので、大宮「操駅」というのが正式な名称のようです。
・もっとも大宮操駅の開業は1961年ですので、この時点ではまだ大宮駅の一部ということですね。配線図にも「大宮操車場」といったような文字は見当たりません。
・上下本線の内側に対称的に着発線や仕訳線群が整然と配置されています。
・貨物操車場内での貨車の流れはあまりよく知らないのですが、この図を見ていると、到着線→押上線→方向別仕訳線→駅別仕訳線→出発線という流れがなんとなくわかるような気になってきます。
・上り・下りとも到着線からハンプ押上線への移動は入換ですね。
・また、着発線と機関区間の機関車の走行経路もよくわかります。
・下りの入出区は下り本線と平面交差ですが、上りはハンプと下り本線の下をくぐります。
・ハンプは上下を並行して分解ができるようです。
・与野駅付近には旅客線と貨物線間の渡り線があります。

続いて1969年3月。

1969031

1969032

・大宮駅から分離独立し、「大宮操車場」の文字が見えます。
・上り関係はさほど変わっていませんが、下り側はちょっとした変化がありました。
・まず、下り貨物列車が直接ハンプ押上線に到着できるようになっています(「下町到着線」)。
・また、下り着発線の青森方には立体交差が設けられ、下り到着と下り出発及び下り列車と下り入出区機関車の競合が解消されています。
・下り本線の上側に「上落合着発線」というのが設けられていますが、これの用途がちょっとわかりません。

続いて1972年2月。

1972021

1972032

・「あれっ???」と思ったのが、下町到着線に下り貨物が直接到着できなくなってしまっていること。すなわち着発線から押上線までは入換による移動に逆戻りのようです。せっかく作った立体交差の意味が半減してしまったような気がしてなりません。
・東京方では早くも武蔵野線の準備が行われているようです。

続いて1978年3月。

1978031

1978032

・武蔵野線が開業していますが、さほど大きな変更にはなっていません。

続いて1980年3月。

1980031

1980032

・特に大きな変化はありません。

続いて1984年3月。

1984031

1984032

・一応「1984年3月」なのですが、実際にはもう少し時間がたった頃ですね。すでに仕訳線群が取り払われ、下り線が上り線側に移設されています。
・実態は「大宮信号場」ですが、高崎操と同様、「大宮操」を名乗っています。大宮駅との区別の関係?
・着発線の配置は高崎操のように上下本線間で着発線を抱き込む形ではなく、下りの着発線は下り本線の外側に配置されています。上下の機関車走行の競合防止のためでしょうか。

最後に1993年3月。

199303

・大きな変化はないようです。

高崎操の跡地はまだまだ空き地状態ですが、さすがにこちらはほとんど再開発されてしまっているようです。かつてはここに大操車場があったことなど、あっという間に忘れ去られてしまいそうな勢いで・・・。

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

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コメント

有りそうで無かったのが、大宮操車場の歴代配線図なのでしょうか。
幼少期に見ていた交通図鑑に大宮操車場の紹介ページが有ったのを思い出しました。
鉄道知識が少し深まった頃には、操車場と言えば吹田 稲沢 新鶴見で、富山 郡山 北上 武蔵野 等のヤード名を聞くにつれ、私の貨物操車場の原点である大宮操車場の存在感が薄れて行き、実際は違っていても、東北新幹線開業で大宮操車場に終止符が打たれたのだろうと、自身の中ではピリオドを打っていました…。
また、大宮機関区に関しては、ヤード入換と川越線の キューロクこと9600型ですが、貨物機D51は勿論、D52やC50なども多数配置されていたようです。
大宮機関区の3線式短形庫を並べた6線式の短形庫は、奥中山の三重連にも匹敵するくらい著名で(ニセコ重連や布原三重連は別格として)キューロク等のSLが大宮機関区の短形庫前に佇む姿はSLファンの中では忘れられないシーンの一つでしょう。
ただ私の中では、片運転台が特徴的な試作ディーゼル機の DD41(DD90)が大宮操車場構内で地道に活躍していた姿が今でも印象的で、それはこれからもずっと変わらないでしょう…。

回顧感と想いを再認識させていただけるお二方のご尽力に、ただただ感謝です。

 “E10”さんの仰せの通り、変遷を描いたものを得難いのが、ここ大宮操車場であるかもしれません。恐らく基本構造は変わっていないままで…東京・東海道方対東北・高崎という単純な一方通行の動線しかなく、よって線対称構造の略図でもいいや、と満足しておりました。
 同操車場は狭隘を極めていた田端操車場の救済を目的に1925~27年に完成。’54年三枝分岐器とカーリターダー(レール上散転してくる貨車の車輪のフランジをサイドから圧搾空気等で機械的に締め付け、制動を与える装置)設置の改良。この改良で一気に一日取扱車両6,500両まで倍増しました。S40年には東北・高崎線のやっとの平面交差解消、同時期に赤羽~大宮駅間3複線化、ヨン・サン・トオに備えて、図にも見られるように貨物の操車場への入出の平滑化や東大宮客操への取り付け、そして武蔵野線への連絡等。比較的中規模な改良が加えられてきた言えましょう。そして大規模な改良として新幹線と埼京線。
 驚きはハンプの頭に下り貨物が到着可能だった時期がさほどでなかったのことを知ったことです…一大改良でずっと存続していたと思っておりました。
 機関区の転車台は古い図でもあの位置にあり、加えて同操車場の西部の地名に由来する着発線は、多分同駅での貨物積卸し用のもので、特別ではないのでは?
 ともかく、重ね重ね深謝申し上げます。

E10さん、SYさん
大宮という地は私にとっては比較的身近なところではあったのですが、なにせ駅自体が大きい上に操車場あり機関区あり客貨車区あり、おまけに工場まであるというなんとも強大な「敵」過ぎて、勝負を避けていました。結果、身近な割にはあまりよく知りません(汗)。
高崎線の列車の車窓からはよく眺めたのですが、大宮操車場の下り着発線付近は旅客線の車窓からはちょっと遠すぎ、工場付近もアンダークロスのためよく見えず、といった感じでしたね。
私の知る時代では機関区は入換用DL専用になっており、ちょっと地味な印象でした。
ともあれ、かつてを知る人にとってはこの変貌ぶりは信じがたいことtだと思います。

大宮操車場は広島、岡山、門司と比べると配線が非常に整然としていて驚きました。しかしながら異常のある車両は当然貨車区へ送るわけですが配線からするとわざわざ列車本数の多い本線から移送線を通り、客貨車区へ向かうのはなぜ派出か何かでも、操車場の近くにせめて本線に影響のないあたりに作らなかったのか不思議に思いました。

C63さん、鋭い指摘ありがとうございます。
おっしゃる通りと思います。

大宮操車場ですか懐かしいですね。
京浜東北や高崎線の車内からいつも眺めておりました。
操車場、在来線からみて端側に高架線があったのをご存知でしょうか?
武蔵野貨物線を経由して来た、下りの旅客列車のみが使用していた高架線です。与野を過ぎて道路橋を潜ると何本もの渡り線を越えて高架橋に達します。右手に広大な大宮操車場を眺めつつ大宮駅に到着します。
当時は武蔵野貨物線を通る旅客列車じたいが少なく、私も85年の「つくば万博」の臨時列車(14系客車)で体験したのみでした。
今ではその高架線も解体され「埼玉新都心」のビル軍となり跡形も無くなってしまいました。

私もその高架線のことは記憶にあります。JR化後すぐだったと思うのですが、池袋始発の高崎線の中距離電車がこの高架線(貨物下り本線だと思います。)を通り、いつもとは反対側から見る風景に感動した覚えがあります。ただ、その頃はもうすでにほとんどの線路が撤去されていて、高架橋のみポツンと取り残されている状態だったと思います。

457系さん、KASAさん、大宮操車場の大宮寄りで機関区への入出区線などをまたぐ高架橋のことですね。今となっては貴重な体験ですね。うらやましい限りです。
たぶん1984年から赤羽まで貨物線を定期的に電車が走るようになったはずなのですが、私は残念ながら乗車したことはなく、旅客線側からの大宮操車場の景色しか記憶にありません。
反対側からの大宮操車場、それもできれば操車場が現役バリバリの頃に見たかったですね。

昭和49年7月から60年3月まで大宮操車場で勤務していました。構内配線図など懐かしく拝見させていただきました。貴重な資料ありがとうございます。

大宮客貨車区の立地について

>派出か何かでも、操車場の近くにせめて本線に
>影響のないあたりに作らなかったのか不思議に
>思いました。

かつては北部運転(大宮工場への入出場運転など担当)の近くにあったのですが、到着検査と列車掛(緩急車)の乗務を受け持つようになり西部運転に隣接した位置に移動したと記憶しています。

大宮操 輸送(下り)さん、コメントありがとうございます。床屋のシンサンさんさんに続いてまたも元国鉄マンさんですね。当時のお話をお聞かせいただけるとありがたいですね。
今後ともよろしくお願いします。

私の祖母の家が与野の引き上げ線の近くにあり、
幼少の頃は仕分けされる貨車がディーゼル機関車に引かれては、戻っていく音を聞いていました。

ガンガンガンガンガンと貨車の車輪が音を立てて引き上げられ、
その後、非常に大きなガチャンという音の後、機関車もエンジンを噴かして戻っていったものです。

残念なことにその場面を目撃していないので、どの様に行われていたのかはわかりません。

視覚ではなく聴覚による思い出ですね(笑)。今ではそんな入換の音は聞けなくなってしまいましたので、忘れずにいて下さいね。

こんばんは。
今日も大変興味深く拝見させて頂きました。
さいたま新都心駅で撮った写真があり、この駅の場所の過去の様子を知りたいと思い、こちらの記事を参照させて頂きました。
今ではもう、完全に過去の痕跡は消えてしまいましたね。貨車を個別に仕分けして列車に仕立てる、鉄道貨物の大きな労働集約された拠点があったことを、誰も気付かないのではないでしょうか。
時代と共に鉄道のあり方も変わるのは避けられないと思いますが、見ようによっては、鉄道の規模感に合うだけの大量の貨物が纏まる拠点間を直送する以外に、より小口で細かに行先の混在した状態の運輸ができない状態に退化してしまったとも言えるかと思います。
ごく一部の事例ですが、トラックによる輸送から、鉄道にシフトした嵐電のような事例も出てきている今の時代、適正なコストで鉄道ができることはまだたくさんあるのではないか、とも感じています。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/

風旅記さん、ヤード系の貨物輸送が非効率だというのは理解できるのですが、でも・・・、面白かったなぁ・・・。

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