汐留配線図 追加
公開し忘れていた1961年より以前の汐留駅の配線図です。
(1961年以降の配線図はこちら。但し1967年の配線図はこちら。)
まずは1935年3月。
・電車線、旅客線関係の信号機は色灯式ですが、汐留線は腕木式のようです。
・配線図左上の中央市場付近に小さな円がいくつも描かれています。貨車用の転車台(?)でしょうか。
・新橋~浜松町間の電車線・列車線を横切る「大井工場線」というのも気になります。
続いて1951年8月。
・信号機関係は芝浦支線も含めて色灯化されました。
続いて1957年3月。
・貨車用の転車台らしきものは姿を消してしまいました。
以下はこちらに続きます。
配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。
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旧新橋駅は工場設備を有していたのですが、図は1935年ですから、震災時の火災を蒙った後の、昭和9年後半から貨物駅(即ち汐留駅)へと変貌し始めた瞬間を切り取った貴重な図面と拝しました。現在の車両センターである大井工場は大正半ばに設置され(無論全施設完全竣工ではないでしょう)、同派出所が浜離宮寄り南南東側にこの敷地内にあり、早くから検修の研修を行っていたことが窺えます。北北東方にある転車台群は貨物用ではなく、工場施設のままで(径は不明、台車単位か車体単位なのか)、かつて器械や挽木の職場があった辺りです。さらに図中「大井工場線」は高架線部と地平部を考えると、高架線部に桁が架かっていた部分に恐らく引越し用のトロッコ線が設けられたのでしょう、転用可能な旧資材を日比谷通りへと送るような…。後年の他の図を見ると、手小荷物到着ホームから同積出しホームへ連絡部分がこの部分と思えます。
なおこれらの図の含みには、首都圏が電化されていく土壌へと変容し始めたことがあるとも言えるかもしれません(横柄ですが)。
ともかく、汐留駅の揺籃期を掲げていただき、お二方に心底深く謝したいと思います。
投稿: SY | 2010年6月 7日 (月) 21時59分
あの小さな転車台のように見えるものは昔の工場の名残ですか!
そしてまた「大井工場線」とは、資材搬出用のトロッコですか。
いつもながらSYさんの博識にはただただ脱帽ですね。ありがとうございます。
投稿: f54560zg | 2010年6月 8日 (火) 22時50分
こんばんは、新橋駅の転車台について調べていたら、ここで言及されている貨車用(?)の転車台の写真が載っているブログを見つけました。
http://blog.livedoor.jp/netatowako/archives/50727164.html
すでにご存じでしたらすいません
投稿: oomatipalk | 2012年6月 4日 (月) 00時43分
oomatipalkさん、おお~、コレですか。情報ありがとうございます。知りませんでした。ところで何で転車台上の線路は十文字なんでしょう? 普通の転車台のように一文字でもいいような気が・・・。
投稿: f54560zg | 2012年6月 4日 (月) 23時15分
転車台が十字なのは連続して転車するときに車両を迎えに回転させる手間を省くことができるからです。配線を十字に交差させることとセットで実現します。港で手押しのトロを扱うところにも沢山ありました。
投稿: ena | 2014年4月12日 (土) 09時45分
enaさん、なるほど、そういうわけですか、ありがとうございます。
投稿: | 2014年4月13日 (日) 20時29分
すみません、上記コメントは私です。
投稿: f54560zg | 2014年4月13日 (日) 20時32分
大崎駅でコメントさせてもらった件と若干重複する内容になりますが、そもそも'16年に廃止された山手西南線が存続理由の一つは、この大井工場線と呼ばれるトロッコと関係しているのではないでしょうか?
つまり新橋工場の資材を京浜電車線脇にトロッコで運び、夜間運転のない京浜電車線を利して大井町駅に、さらには試運転線に乗り入れ大井工場に運び入れる目的があった…あくまでも推測の域を出ませんが。
投稿: オーイナル野焼き | 2014年5月23日 (金) 16時51分
オーイナル野焼きさん、yyoshikawaさんのコメントをいただきたいですね(汗)。
投稿: f54560zg | 2014年5月25日 (日) 22時28分
上記の配線図ではその記載を確認できませんが、トワイライトゾーンという本の中に昭和28年度版全国専用線一覧?の複写の記載があり、この中の芝浦駅の項目において<作業㌔0.3㌔・駐留軍接収中>と注記のある専用線の存在が確認できます。これは現在も当地で盛業中の冷凍倉庫と芝浦駅構内を結ぶ側線でした。戦後すぐGHQにより接収され、海岸地区の芝浦駅構内線に強引に90度折り曲げて接続したものです。10年ほど前にその線路跡と思われる、一般道路脇の片側のみに存在する植え込みと不自然に広い歩道を確認しています。
投稿: オーイナル野焼き | 2014年5月26日 (月) 15時13分
1935年版汐留配線図に大井工場線に関しては気付きませんでした 1935年時点では既に新橋工場の施設の全ては大井工場へ移転が済んでいた筈ですので謎です
投稿: yyoshikawa | 2014年6月12日 (木) 22時25分
貨車用ターンテーブルは本来直角方向の側線に貨車を押し込む為の設備です 機関車の方向転換の為のターンテーブルと性質が違うのです 貨車を押し込んだ後戻さないで済む用直角交差した状態に線路を引いて有るのです
汐留駅の並んだターンテーブルは汐留川から艀貨物を貨車に積み替える側線の為の設備です
1904年頃撮影の新橋駅上空俯瞰写真や1911年版の新橋駅配線図等に本来の側線と直交する汐留川沿い側線が引かれており13個の貨車用ターンテーブルが設地されてます 其れが1951年頃迄残っていたのです 尚1911年版配線図の新橋工場構内には小型ターンテーブルが15個と普通のターンテーブル1個設地されて居ました 此の時代既に新橋駅構内は蟻の這い出る隙間もない状態で中央ステーション構想と大井移転構想が持ち上るのも当然の話でしょう
大井工場線と云う線仮に新橋工場設備移転の為のトロッコ線にしても新橋工場は新橋駅の海側 間には新橋駅が有る1935年版に記載の大井工場線の位置からだと新橋駅構内を横断する状態と判断するのか或は新橋駅構内を迂回していたのか?其れより設備の移転は通常の貨車で運び建屋移転の為の運搬軌道ではないでしょうか 以前の大井工場の建屋は殆ど煉瓦造りでした 明治村の旧新橋工場建屋も大井工場から移転しております 今と違い使える物は大事に使う時代 建屋も破壊せずばらして運び再建したのでは 建物部材を陸路で搬送する為も依りの道路へ運び出す軌道と云う考えは如何でしょうか
投稿: yyoshikawa | 2014年6月14日 (土) 11時00分
以前新橋ー浜松町間には京浜電車線と繋がる保線車両留置の為の短い側線がありましたが、その側線と隣接する形で「東日本電気エンジニアリング」という、大正から昭和のかけて作られた省線変電所然とした建造物が現存します。さらにはその敷地と近接して、ここと汐留側を結ぶような小ガードも存在します。私はこれと大井工場線なる謎の軌道線らしきものとの関係を疑っています。
投稿: オーイナル野焼き | 2014年6月14日 (土) 17時03分
小ガードについての補足なのですが、件の敷地の新橋寄り、浜松町寄り、どちらにも存在するのですが、汐留側の再開発のせいもあり、現在地図上でその表記を確認することはできせん。
私が怪しいと睨んでいるのは新橋寄りに存在する小ガードの方です。
投稿: オーイナル野焼き | 2014年6月14日 (土) 17時20分
大正2(1913)年現在の「新橋停車場平面図」が、鉄道省『日本鐵道史・下巻』180ページ以下にあります[国立国会図書館・近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2127183/110
(土木学会付属図書館所蔵 http://library.jsce.or.jp/Image_DB/s_book/jsce100/htm/081.htm からPDFをダウンロードしたもののほうが見やすいかもしれません)]。
その画像を見ると、浜松町方の架道橋(新銭座町:画像右方)から烏森(2代目新橋)方の架道橋(汐留橋:画像下方)まで新線が通じ、それによって新橋停車場構内と鉄道院官舎(画像右下方の三角地帯)とが分断されたため、新線をくぐる連絡通路らしきものが汐留橋架道橋に近い位置に設けられているように見えます。
大正3(1914)年の鉄道院東京改良事務所『東京市街高架鐡道建築概要』と照らし合わせると[国立国会図書館・近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914851/66
]、ここは径間 11.60(尺)≒3.5mの暗渠という扱いになっていますが、断面図を見ますと、水路ではなく、空頭を確保した連絡通路(人道)と考えられます。
大正3(1914)年末に列車線を新線にゆずって、汐留貨物駅として再出発した際には、不要設備の撤去・搬出や、必要資材の搬入などに貨車を用いても何ら不都合はなかったと思われます。
昭和9(1934)年からの大規模改築については、土木学会誌・昭和10(1935)年第9号の『汐留駅改築工事に就て』[土木学会付属図書館所蔵 http://www.jsce.or.jp/library/open/proc/maglist2/00034/21-09.html のPDF]に詳しく述べられております(改築直前の線路配置や数次にわたる線路切替などの図版が極端に荒れているのが難点ですが)。
この工事では、貨物営業を支障しないよう、配線変更と業務移動を繰り返しながら全く新しい駅を作り上げる必要があり、現場の中に工事拠点を設けることができなかったようですので、推測ですが、官舎の規模縮小で空地が確保できたであろう三角地帯を搬入資材、搬出廃材、再利用材などの置き場とし、構内現場との間に上記の連絡通路を利用した「大井工場線」が敷設されたものだろうと思います。
昭和11(1936)年の空中写真http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=689600
でも、有ると思って見ると連絡通路が見えるような気がいたします。
なお、グーグルマップのストリートビューにて、鉄骨補強されたらしい連絡通路の現在の姿を垣間見ることができます。経緯度は 35.66274,139.758412
(ググテツ)
投稿: ググテツ | 2014年7月 8日 (火) 02時16分
上記、リンク範囲を上手に区切ることができませんでした。見苦しくてゴメンナサイ。(ググテツ)
投稿: ググテツ | 2014年7月 8日 (火) 02時20分
ググテツ様、空中写真確認致しました。確かに当該位置に鉄道線をくぐるような小道らしきものが確認できますね。
投稿: オーイナル野焼き | 2014年7月 9日 (水) 22時33分
う~~ん、おっしゃる通り、その気になればそのような通路があるようにも・・・・
投稿: f54560zg | 2014年7月13日 (日) 20時49分
こんばんわ!!
初めてコメントさせて頂きます!!
汐留貨物駅って言うと、貨物・物流の東西間輸送の歴史を感じます!!
投稿: HIDE | 2015年2月19日 (木) 01時11分
HIDEさん、はじめまして。
あれほどの貨物駅がなくなっちゃうんですから、時代の変化ってスゴイですね。
投稿: f54560zg | 2015年2月22日 (日) 16時10分
この数日、メディアではダイアナ妃やメイ首相の情報が踊っており、日本国と英国の繋がりを再認識させられているのですが、それらにつられて鉄道の観点からでは、やはり、この旧新橋駅を連想してしまいました。今の汐留地区が転車台、扇形車庫の発祥地と言っても過言てはないかとも思われますが、現存する手宮の存在感が新橋駅の存在を薄めているのでしょう。
少年の頃迄は、もし日本以外に生まれ変わればイギリスがいいなと漠然と思っていましたが、やはりそれは、「小さな恋のメロディー」や歴史上の 日英同盟 SLマラート号のスピード記録などが影響していたのかもしれません。
ググテツさんの列挙されている情報群を拝見いたしますと、神戸駅との関連性も垣間見れ興味深く、やはり公的機関の情報を隈なく精査掘り起こしを進めていけば、延べ数概算で機関区設備は約160ヶ所、転車台は約600基以上、扇形車庫は約100棟以上と思われる鉄道設備の概要を少しずつでも明らかに出来そうな可能性がありそうですが、もぅすでに自身にはそのネット情報などをを掘り起こす能力はなく、そして最大限の気力も注げなさそうなのが残念至極です。
f54560zgさんや、コメンテーターの皆さんのご教示していただくさまざまな情報やご経験談に、改めて感謝申し上げます。
投稿: E10 | 2017年9月 2日 (土) 22時45分
E10さん、私も自分が生きてきた時代を思い起こす程度で、なかなかそれ以上の領域には踏み込んでいけません。皆様から寄せられるコメントにはただただ感謝申し上げます。
投稿: f54560zg | 2017年9月 3日 (日) 13時33分
品川歴史館特別展広がる品川」臨海部の図録に1933年東京市埋め立て地諸施設計画試案という地図が掲載されてました 其の地図では汐留駅から伸びた東京中央市場(築地)線より月島を横断し晴海に向かう連絡線が記載されてます若し此の計画が実現していたら汐留から越中島迄直接貨物列車がを送り込めるそうすれば東京の外郭を回らず千葉や常磐方面への短絡輸送も可能でした当時の東京市や鐵道省は遠大な計画を検討していたのです
投稿: yyoshikawa | 2020年10月 9日 (金) 15時04分
芝浦線日の出桟橋に以前木造の古い倉庫群が存在してました建てられた当時荷扱い用機械(フォークリフト等)等無い時代ですので荷物運搬する手段はトロッコでした日の出の倉庫群に建物内部に棟方向にトロッコ線路が引かれており建物外にはトロッコサイズのターンテーブル(見に行った時には既にターンテーブル本体は有りませんでした)倉庫から出た線路はターンテーブルで直角方向へ向きを変え港側や臨港線側へトロッコが移動する様になってました此のトロッコ用線路は600~610mmゲージでした比較の為此処へ来る為乗車して来た26吋径自転車を線路に直角に置いて写真を撮影しました 因みに此の倉庫は臨港線の両側に存在してました
投稿: yyoshikawa | 2022年6月10日 (金) 18時19分
yyoshikawaさん
臨港地帯には面白いものがいっぱいあったようですね。私は残念ながら目にする機会はありませんでしたが。
投稿: f54560zg | 2022年6月12日 (日) 19時34分
高輪に物流博物館という小さな博物館があり、10/28から1/21まで「汐留駅にみる貨物鉄道と通運のあゆみ」という特別展をやっていて、今日ようやく見れました。
明治期からの構内配線図が展示されており(図録にも収録されてます)、左上の小円は貨車転車台で、明治末期から昭和9年の改良前までは直交する2線合わせて12個あったようです。
明治43年の写真には目一杯貨車が在線しているところを直交する線路を移動中の貨車が映っていたり、昭和初期の撮影で2連貨車転車台をアップで写したものがありました(いずれも図録にも収録)。残り期間少ないですがオススメです。
投稿: 北東航21 | 2024年1月13日 (土) 23時20分
リンク貼り忘れました
https://www.lmuse.or.jp/exhibition/special/
投稿: 北東航21 | 2024年1月13日 (土) 23時21分
北東航21さん、情報ありがとうございます。
時間のある方は是非!
投稿: f54560zg | 2024年1月14日 (日) 21時03分
北東航21様有難うございます出来れば明日見に行ってみます
投稿: yyoshikawa | 2024年1月17日 (水) 17時30分
今日物博に行きました数々の拡大配線図は参考になるものです明治時代に撮影された高所からの俯瞰写真以前から各書籍に掲載されてた物ですが大判プリントで判明した事もあります遥々官鐵東海道本線を通り新橋の貨物ヒーム迄やって来た山陽鐡道の有蓋車の姿には感激しました
投稿: yyoshikawa | 2024年1月18日 (木) 18時28分
物流博物館の企画展汐留駅にみる貨物鉄道と通運の歩み展のスピンオフ地下1階の通常展示コーナー隅にJR貨物のパネル展示が有りイラストのなかに新幹線用の貨物電車のイラストが有りましたイラストから見ると山形新幹線クラス大きさの車輛に荷物混載の状態で描かれてます実現するかどうかは解りませんが現在新幹線の一般車輛による混載輸送を専用車輛で輸送しようという考えでしょうただ国鉄時代から計画だけで終わった新幹線用荷貨物輸送用の各種車輛の計画図が存在しています其れ等をイラスト化したのでしょう
投稿: yyoshikawa | 2024年1月24日 (水) 17時29分
yyoshikawaさん
楽しそうで何よりです。残念ながら私はちょっと無理でした。
投稿: f54560zg | 2024年1月24日 (水) 19時55分