« 転車台 その8 | トップページ | 王子配線図 »

2010年5月18日 (火)

沼津配線図

確か以前リクエストをいただいていた沼津駅です。
T.Mさんのご配慮により掲載いたします。

まずは1935年3月。

1935031

1935032

いやはや広い、そして長い構内です。
・御殿場線は複線で、東海道線は沼津より先は非電化です。
・ほんの3ヶ月前までは御殿場線がメインルートだったわけですが、線路配線を見る限り御殿場線が主役であったことを思わせるものはほとんどありません。
・御殿場線関係の線路名称が「山○○」になっています。山北の山?
・山下り1番線と東海道の下り1番線・2番線はホーム部と直列に配置された着発線になっています。
・下り1番線と2番線、上り1番線と2番線の間にはホームらしきものが描かれています。
・神戸方から進入できるのは上り本線と上り1~3番線です。上り本線も上り1番線も神戸方には出発できませんので、仮に上りの沼津行きの旅客列車があってもそのまま折り返し、というわけにはいきません。

ちょっと飛びますが、続いて1965年1月。

1965011

1965012

・東海道線は全線電化され、御殿場線は単線化されました。
・下り1番線が新たに設けられ、本屋とつながっていたと思われる下り本線の片側ホームが島式となりました。
・上りホームと御殿場線ホームの間の通路線も「本線」に昇格したようです。
・下り1番線の新設に伴い、ホームと直列の下り1番線・2番線はそれぞれ下り2番線・3番線に改称されています。
・新設された下り1番線の有効長は771m、これと直列の下り3番線の有効長は693m、合わせると1.5km近い長さになっています。
・御殿場線関係の線路名称は「御殿場○○」に変わっています。
・下り2番線と3番線、上り1番線と2番線の間のホームらしきものには「貨物中継ホーム」と書かれています。どのような使い方がされていたのでしょうか。言ってみれば「着発線荷役」なのでしょうか。

続いて1967年1月。

1967011

1967012

・細かいところまではわかりませんが、大きくは変わっていないようです。
・転車台右側の側線群に「客貨車区○」と書かれています。1965年では「工場○番」と書かれており、1974年以降も再び「工場○」です。それでもここが客貨車区?

続いて1974年1月。

1974011

1974012

・御殿場線が電化されました。
・御殿場線に御殿場下り2番線ができました。やはりホームとは直列配置です。

続いて1978年3月。

1978031

1978032

・沼津港線は1974年9月に廃止されたようです。
・転車台が描かれていませんが・・・・

最後に1984年9月。

1984091

1984092

・大きくは変わっていないようです。
・消えた転車台が復活しています。但し線路はつながっていないかも・・・。
・上り貨物中継ホームの下あたりに突然「伊豆急貨物側線」という文字が現れましたが、1978年の配線図には「伊豆貨物急送」と書かれています。伊豆急とは関係なさそうですね。

オマケの沼津港線です。1965年1月です。

196501

沼津機関区といえば個人的にはEF60、というイメージなのですが、もちろんかつては蒸機も配置されていましたし、その後のDE11、そして御殿場線用の電車、富士から移管された身延線用の電車も沼津機関区配置でした。
機関区のほか沼津客貨車区も設けられており、一般の旧型客車がなくなった後も14系座席車やお座敷客車が配置されていました。
勝手に想像しますと、客貨車区は転車台右側、機関車関係は転車台・扇形庫付近、電車関係は御殿場線沿いの洗1~12番線あたりがそのねぐらでしょうか。

また、東海道線の列車は上下とも沼津始発・終着となる列車が多く設定されてきたようですが、東京方に対しては直接ホームで折り返せるのは中線のみ、神戸方にいたっては直接折り返しが不可能というのもちょっと不思議な感じがします。

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
バックナンバーはこちらからどうぞ。

« 転車台 その8 | トップページ | 王子配線図 »

コメント

 広大な国鉄浜松工場(現JR東海浜松工場)は、大正元年に沼津工場全部、新橋工場の一部を移して設けられ、蒸機修繕を担当し、以降戦前にはD51等の新製も行ったとか。ぼんやり図の「工場」と付された部分を眺め、この辺りに沼津工場が在ったのやもと、航空写真を探してみました。古い長野・盛岡工場のイメージに引きずられて、はたしてこれだけのスペースで?と疑問を持った次第です。本屋の西にあった上下1・2番のあの低いホームも疑問で、高校時分は丹那トンネル開通以前の列車ホームでは?と思っていました(もう現在は撤去済みになっており…)。まあ配線図をよく見て考え直してみます。また沼津駅は貨車の取り扱い数も東海道線内でも有数で、しかも牽引機の交換があり、その様を図上から再現してみたいと思います。加えて絶対見ることが出来ない蛇松駅も拝し得、万謝を致します。
 とあれ運輸区の線群を残し大方はがされ、車両基地は片浜、貨物はコンテナーターミナルとして原西地区に移転して、御殿場線が東海道上り線をオーバークロスする形で高架化される運びなのですが。

【沼津】 とうとう箱根を越えてきましたね。 電化後の姿ですので丹那トンネルを抜けて沼津駅に到着のようです。
福島の項でも触れたのですが、沼津機関区100年史と言う本が1986年頃発刊されており、バブル期前の当時でも価格が五千円くらいだったと思います。今思えば亀山機関区で入手しておけばと悔やまれるところです。
ただRM誌の厚本に沼津機関区100年史の一部が抜粋されており、そちらの1936年配線図によると、T.Mさんご提供の1935年配線図の扇形庫東京方の4線式電機庫本線寄りにある三角形空白部分に2基目の転車台が見受けられます。
東海道本線電化の西端となり、電機と蒸機の付け替え作業が頻繁で、もし扇形庫側の転車台が故障でもすれば、たちまち大動脈の交通に差し障りが出ては…との配慮で増設されたのでしょうか。
転車台から電機庫へ繋がる配線がされていますね。当時の新鋭機 EF55型(1936年落成)の方向転換用に備えて準備されたものでしょうか。
沼津機関区の扇形庫(大正3年設)ですが、多くの扇形庫は検修線の部分の線路が長く取ってあり、その分、扇形庫背面が飛び出た形状ですが(長岡機関区の項、長岡機関区配線略図参照)この沼津機関区の扇形庫は実物も配線図通りで、神戸方の1番線から東京方16番線まで綺麗な扇状の建物だったようです。
16番線中、10番線辺りから16番線迄が検修線で、11番線と13番線に検修用の車体ジャッキが備えてあり、17番線部分は機械室で、転車台からの線路は建物の手前で止まっていたようです。
明治期の開通後(明19)は、駅本屋神戸方向ホームから下り線、上り線に東京方向ホーム。その東京方向ホームに3番線は授けられず東京方で行き止まりの側線が2線。その向こう3線目に転車台があり、転車台から折り返す形で神戸方に2線式煉瓦製短形庫があり、後に本線側に増設され(明23)4線式となったようです。
SYさんのおっしゃる低いホームが開通時の物なら、駅舎や機関区が、ごっそり東京方に移転したことになりますがどうなのでしょうか、謎のホーム、興味深いですね。
昭和初期には箱根越えマレー機9800型に初の1D1ミカド9700型が合わせて30両以上の配置。更にD50型。超特急「燕」用の C51型と補機用 C53型。 戦後は御殿場線用の D52型と入換と小運転用 C50型。 その間、電化時には ED54型 EF52型 EF53型で始まり、以降20〜30両以上の推移で EF54型 EF55型 EF56型 EF57型と続き、戦後は EF58型が加わり50両規模となり、各形式の減車転出を経て昭和34年から EF15型とEF58型、昭和40年前後から EF60型のみが30両以上での活躍が続きます。
この沼津機関区は、初の超特急「燕」の運転に深くかかわっており、各時代の新鋭機が真っ先に配置されていたことが名門機関区の証なのでしょう。それと、沼津機関区の乗務区間に沼津ー尾久があり、話題の尾久機関区の電機庫の存在感が強まります。
国鉄時代末期の民営化直前の頃、遠江二俣機関区を訪問後この沼津機関区に訪問したくて、まだ当時はSLブームの名残の「現業機関への問い合わせ」を機関区事務所にしてみました。扇形車庫や転車台と、EF60型に変わり多数配置されていたEF65型の若番(特にEF65-4号機)を見たかったのですが、扇形車庫は既に無く少しの差でEF65型は居なくなっていて、国鉄時代の内に高山機関区を訪問したかったこともあり、向きを反対に取り沼津機関区訪問を諦めたことが、この何枚もの配線図を見て更に悔やまれます。
ところで、沼津区さんのお名前を拝見してから気になっていたのですが、お名前のご由来はこの沼津機関区と関連されているのでしょうか?
私の名前は小学生の頃、最初に好きになったSLがE10だったからなのですが…。

SYさん、「工場」と名の付く線群はその昔の工場の名残り? 沼津に工場があったとは知りませんでした。しかし上下1・2番のホームから高架化まで、長い時間に渡っての知識に感服します。
E10さん、沼津機関区についてのこれ以上ないぐらいの完璧なご説明ありがとうございます。私個人としては、失礼ながら「EF60のみの貨物専業の地味な機関区」という印象なのですが、歴史的には名門ですね。
それにしても2つめの転車台、沼津電化後の増設ということになるのですよね?大動脈での電・蒸の付け替え、確かに予備は必要ですね。
(逆に言うと、通常の転車台1基の基地で、転車台のトラブルによる混乱ってなかったのでしょうか?)
おっしゃるとおり、沼津区さんはきっと何か深いご関係がおありになるんでしょうね。おそらくそのうちそのあたりのいきさつのコメントがいただけるのでは?

こんばんは。ついに出てしまったんですね。話題?の名前は安易すぎたかなと少し後悔しています。以前にも書かれていたSY先生の高架化と車両基地新設の事業内容やE10さんの辞典のような知識。やはりこのブログの二大巨頭ですね。沼津に生まれ育ち、御殿場線のSLを微かながら記憶にある最後のほうの世代として思い出すままに記述します。山○○の「山」は単に山の中を行く路線から御殿場線のことを山線と呼んでいたにすぎません(函館本線のことも同じように山線と言っていたはずです)また工場とあるのは位置的に客貨車の検収庫があった場所だと思います。昭和50年代に入って間もなく、一部残っていた扇形庫と転車台は撤去され、職員の駐車場になりました。石炭台だけはしばらく残っていました。前後しますが、昭和48年にD52136号機が市内高沢公園に保存のため五稜郭から回送されたさい、図の石炭線に留置されていたのを小学生当時ホームから見てびっくりしました。また79年、下関からEF65500番台が移動してきた時もこの石炭線に一時、留置されていました。北集灰坑線は炭台の下に撒き砂置き場があったのでDE11がズラリ並んで壮観でした。沼津機関区が最後に輝いたのは86年の開設100年イベントでしょう。週代わりに多彩な車両が来区、EF55の里帰り(沼津に転車台がなかったのでと遠江二俣機関区で方転するという奇跡的なスジもありました)やC56まで登場し大勢のファンや市民が沸いた約1ケ月でした。民営化後、あれだけの施設が一切合財、地上から消えてしまったのが嘘のようです。更地になってしばらくして沼津市教育委員会により、なんと扇形庫跡の発掘調査が行われました。ピット跡が扇状に平成の空の下に現れたのは何とも不思議でした。
私の居住していた地区は沼津機関区は生活圏の一部のような普通の存在でした。区内の食堂も制限はなく利用でき、私自身、高校時代まで区内の床屋に通っていました。小学校低学年の頃、機関区で写生大会があり職員の方たちは非常に親切で機関車に乗せていただいたのもいい思い出です。とりとめのない長い文章ですみませんでした。なお現在は沼津市民ではありませんが、永遠の沼津機関区ファンです。

沼津区さん、お待ちしておりました。
そして期待以上(もともとの期待が小さかったという意味では決してありません・・・(汗))のコメントありがとうございます。
床屋や食堂の記憶、そしてそれらが姿を消してしまうなどということはさぞかし信じがたいことであったんでしょうね。
私も子供の頃は線路のそばに住んではいたんですが、近くに駅や車両基地などがあったわけではありません。沼津区さんのような特別な思い出、私も持ちたかったなあ・・・・・。

 梅雨前で午後から実家の水回りのコーキング作業をする予定で、体力を蕩尽しない前に投稿です。
 いつも通りの寸足らずで、修飾を書き加えます。
 蛇松線は資材・燃料・車両の陸揚げ用として設けられ、昔の横浜、神戸、直江津、武豊、金ヶ崎、手宮、境港等と同様でしょう(ここで、山手線がまだ繋がっていなかった頃の、高崎・東北線の当初の搬入路を識らないことに気付かされました)。よって沼津工場は官営神戸工場と近似的で、車両の整備はもとより、「点」を「線」にするべく、東西両方へと伸びる前線基地だったのでしょう。前述においてここまでは最低言い及んでおくべきでした。湖東地域を除き東海道が全通、即ち「線」となり、役割が低下し、工場機能を浜松に移し、“E10”さんが記されておられるところを参考にして、生じたであろう工場の空地や遊休地に扇形庫等をもしかすると移転設置したのでは?と考え直されました。また貴重な図から学んだ点として、蛇松線の取り付け位置から、旧三島駅方向へと向かう想像しうる直線が、おそらく設計の中心基準線であったのでは(御殿場方へのグランドデザインは決定済みだったのでしょう)。だとすれば、現運輸区はいまでもその設計精神に「沿って」奮闘していると言えるかも知れません。また、そうした事態は、線路が繋がっていなかった九州新幹線にも言え、川内港で陸揚げ、陸送され、川内新幹線車両センターで一旦整備され、いずれ熊本総合車両基地が全検・台検を担当するのにも似ています(同基地では8月下旬に一般向けの見学会が催されるとか)。今も昔も変わらずです。
 末尾で「運びなのですが」という語で濁した部分は、国土交通省のなにがしかの指定を受けつつも、実際土地収用も進まず、しかも先に知事もかわり、貨タ無用という声もあり、どうも高架化も遅延しそうで、そう表現しました。例えば県内港湾施設と言えば、漁港を除けば、清水港か田子の浦港で、駿東地区に貨タが設けられないとなると…静岡空港・第二東名という問題もあり、この貨物施設の成り行きは、県内の交通インフラ全般という相を変えた形で、包括的に議論が為されるであろうと予感しております…ちと修飾が誇大になりました。
 “沼津区”という大劇場で、幾多のアイドルやスターを始め、脇役、その舞台の袖・舞台裏をも肌で知っておられる様を“沼津区”さんの文から感得し、そういう壮観な舞台なら足繁く通いたいと思った次第です。沼津は清らかな水の湧出地故、小生なら例えば「おっちゃん、水の入って行くとこ、見たい」とおねだりし、さらに「このきれいな水が力の源になるんでしょ」と再確認を迫ったに違いありません(こってりした水や空気で育って来たが故に起こりうる願望が反映しています。なお「先生」という語は「先」に「生まれ」落ちたという意味ですよね)。
 ともかく情景が彷彿として浮かび、やはり“沼津区”さんは名実ともに絶対“沼津区”さんだ、と心底思いました。

SY先生、コーキング作業、あまり無理をなさらぬよう・・・って、もう終わってしまっていますね。
鉄道の創成期から高架化とそれにまつわる情勢まで、時間的そして社会的な視野の広さに圧倒されます。やっぱり「先生」ですね。
水といえば、夏などで、テンダーの下半分だけ水滴が付着していたのが思い出されます。

【沼津随想】
沼津区さんのお話に、SYさん、f54560zgさんのコメントと、実は私もコメントを考えていたのですが、御三方のコメントがとても素晴らしく、その余韻冷め在らぬ内にコメントはどうかと思いながら時期を過ごしていました。

SYさんのおっしゃるように(お言葉をお借りすれば)、沼津区さんのお話は素晴らしく、ともかく“情景が彷彿として”浮かぶのです。

沼津区さんの後藤寺へのお話ですが、何年か前にテレビドラマでリメイク作品が放映されていました。
ドラマの内容はもとより、エンディングのサラ・ブライトマンによる「青い影」(プルコム・ハルム A Whiter Shade of Paleのカバー曲)が流れるなか、筑豊の“情景が彷彿として”浮かび、沼津区さんのおっしゃる筑豊のイメージと重なり、それは今や私の中では大きく印象付けられています。

沼津区さんの目撃された日々現場の様子は私にとっては新発見の連続で、筑豊のイメージと沼津機関区の日常が、それは人々が日々暮らしている生活の姿でありながらも新鮮に感じました。

f54560zgさんの?についてですが、35年には転車台はなく36年に記載されていますので、おっしゃるとおり電化後の増設だと思います。ですので35年の配線図の公開は貴重です。
それと、転車台のトラブルですが、一般的には回転動力の不具合などが案じられるのですが、現場で一番苦慮していたのは転車台のピット内への車両転落事故です。
扇形庫内や屋外の千鳥線に収容された車両が、何等かの理由で勝手に動き出し、自車の線路と転車台の線路が合っていなければ転落してしまいます。
また、テンダー型SLが後進して転車台に載る時、線路が左カーブしている場合に機関士側からはテンダーが死角になり、転車台の位置がズレているのが判らず後進して行き転落したケースもあります。(いずれも人的ミス、ヒューマンエラーが要因ですが)
このように万が一に備えたことと、作業効率や機能的な理由がニ基の転車台の必要性だったと考えられます。
やはり備え有れば憂い無しですね。

海から線路が陸揚げされ、内陸部へと伸びて行った事に改めて気付かされました。水と線路は密接に関係しているようです。
私は見ることは出来ませんでしたが、夏のテンダーの水滴にロマンを感じます。(なぜか小海線のC56を思い浮かべました)

EF65523。私がカメラに収めた唯一の500番台機です。夕暮れ時の山陽本線でした。
側面に夕焼け色が少しだけ反射して、これから闇を切り裂き目的地へと走り続けて行く躍動感を感じました。(その時のカメラの性能と私の腕前が悪かったのが悔やまれますが…)
後年、黒磯駅構内で同機を車中から見かけたのが感慨深げでした。

(それと、私は巨頭ではなく、キョトンとしているだけですのでお間違えなく)

またどこかの項で沼津区さんの記述にお目にかかれるのを楽しみにしております。

転車台のピットへの転落事故! 素人的には冗談の世界のような話のように思うのですがですが、実際にあったんですね。まあ、人間のすることですから、かならず間違いは起きてしまいますから。程度にもよりますが、結構影響は大きいですよね? 転向できなくなるだけならまだしも、扇形庫内の他の機関車の身動きがとれなくなると大変なことになりそうです。
青森の給炭機の不具合の件といい、E10さんはなかなか表面には現れない現場のトラブルにも詳しいですね。

沼津機関区の扇型庫でSLの燃える罐をのぞいた経験があります。父親の職場だったツテで子供のころに入れてもらったのですが、顔が熱かったことだけ記憶しています。
当時の沼津駅は主要駅だったので駅にあるべきものがひととおり揃っていたように思います。赤帽さんも見かけた記憶があります。

akuninさん、なんとまあうらやましいこと。沼津駅はホントに東海道線を代表する駅の1つでしたね。

 沼津機関区100周年記念の折 父親と出掛けました 沼津駅は此の日初めて下車しました 機関区には100年記念の看板を付けられたDE10が出迎えてました 国鉄が未だ元気な時代でしたので各地から30両ほど色々な車両を集めて居りました特に関門用EF30 瀬野八補機EF53 ワサ2は珍しい車両でした 庫内ではお約束の検査車両分解展示も有りました 一通り見学と写真撮影も済みお腹が空いたので沼津駅前商店街で食堂を探していたら小さな鰻屋を見つけ入り鰻重を頼むと出て来た鰻重が何と上とは別に御飯の間にも鰻が入っていて何か徳した気分で帰宅しましたが行き帰りに何を利用したか思い出せません 多分在来線だと思うのですが

yyoshikawaさん、1986年ですから今から30年近く前のことですね。行き帰りよりも鰻のほうがインパクトが強かったのですね(笑)。

こんばんは。
御殿場線の三島直通列車のことで
ふと気になったのですが中線(3番線)から御殿場線方面への出発信号機っていつ頃新設されたのでしょうか。

はじめまして。
ここで言っている工場とは、沼津客貨車区のことです。沼津工場は、電気機関車庫があった場所で、沼津機関区の事務室などはこの工場事務室がそのまま使われていました。沼津機関区の扇形庫の建て方がきれいにそろっているのは、この工場跡地に蒸気機関車検修用の庫があったからで、他区のように扇形庫の中で解体検査などをやらずにこちらでやっていたため、扇形庫は交番検査、仕業検査だけで高さも長さも必要なかったからです。沼津駅西方にある低いホームは中継ホームと言って、宅扱い貨物から小口混載貨車への積み替え用のホームで昭和9年に作られたものです。二つ目のターンテーブルは昭和9年の丹那開通に伴う改良工事の際、扇形庫のターンテーブルの増強工事中の為の仮ターンテーブルです。開業時から沼津機関区廃止までについて近々「国鉄沼津機関区の百年」という本を発刊する準備をしています。ここには開業時から廃止までの線路図も載せます。ぜひ、お買い求めください。なお、今年の12月1日が、沼津機関庫創立130年にあたります。

山梨幸夫さん、はじめまして。
沼津機関区に関する詳細な情報ありがとうございます。
「国鉄沼津機関区の百年」誌発行の際はお知らせくださいね。

今頃になって、失礼します。
>御殿場線関係の線路名称が「山○○」になっています。山北の山?
若い頃(御殿場線電化前後)、沼津の学校に通っていました。駅員が、山線と言っていました。又、おやま という言葉も何回か聞きました。発音は、”駿河小山”のおやまではなく、”おやまの大将”のおやまでした。
例 おやまは雪だった?

沼津駅が大きいので、日本で最初に転轍機の電動化が完了したとの新聞記事を、読んだ覚えがあります。(時期は覚えていません)
沼津駅は広大なのは、やはり、東海道線の機関車付け替え、後部補機連結等の業務が理由だったのでしょうか。

余談ですが、御殿場線電化直前、御殿場線の蒸気機関車は、旅客D52、貨物C58でした。
貨物は岩波の自動車工場まで、上りは空荷、下りは積荷なのが理由なのでしょうか。

6BQ5さん、コメントありがとうございます。
>日本で最初の転轍機の電動化完了
情報ありがとうございます。いかに沼津駅が東海道線の最重要駅の一つであったことがわかりますね。

機関車も客車も数多くいたのが沼津駅の印象です。機関車がけん引する臨時列車が沼津駅をよく出発していました。
昭和49年ごろの年末だったと記憶していますが、沼津駅からゆっくり出てきた臨時列車の行先板に、沼津-青森とありました。そんなアホな、目を疑いました。その晩のNHKローカルニュースで事情が判明。この地域のミカン農家の手伝いに来ていた東北の人たちの帰省列車として運行した。ということです。

 私の父親は沼津/東京間の湘南電車運用準備の応援で沼津に赴任していました。その時代(昭和20年代後半)、国鉄職員は女性にモテる職業だったそうで、駅前交番のおまわりさんの紹介で母と結婚したそうです。

私の知る古き沼津駅の風景
1.テルハ
 3面あるホームと駅舎を連絡し、荷物を運搬する備え付けのクレーン設備がありました。これがテルハです。跨線橋と並行する形で西側にありました。昇降部分は現在エレベータ設備のある場所です。
2.特急の通過
 特急こだまは沼津駅を通過でしたが、同型の特急ひびきなどが颯爽と2番線に入り、30秒で発車してゆく姿を、3番線の始発東京行きの車窓から時々見かけました。
3.下りの始発
 大垣行き普通列車を2番線でよくみかけました。本数が多かったのでしょう。
4.伝書鳩
 沼津始発の列車のデッキに鳩の入った籠が積み上げられていました。同行した父親が一言、〔この車両に新聞記者が乗っている〕そんな時代でした。
5.ターレ
 ホーム上を荷物運搬用のターレ(ターレットトラック)が台車を連結して行き来していました。築地市場移転の報道で同じものが紹介されていて懐かしくなりました。
6.弁当の立ち売り
 桃中軒だと思いますが、駅弁などの立ち売りのおじさんをよく見かけました。自分的には冷凍みかんを買ってもらうのが楽しみでした。
7.洗面台
 どのホームにも洗面台が備えつけられていました。東海道線のホームでは2箇所づつ。SL時代の名残だと思いますが、10年ほど前まで残っていました。
8.立ち食いそば屋の2つの釜
 父親からの伝聞です。沼津駅のホームにある立ち食いそば屋には温度の異なる2つの釜がある。ひとつはわざとぬるくしてあって、停車時間で食べきれるための配慮だったとか。社内持ち込み容器の登場で釜はひとつになったとのことです。


akuninさん
貴重な懐かしい沼津駅の情景をありがとうございます。

>臨時列車の行先板に、沼津-青森
すごい列車ですね。出稼ぎご苦労様でした。

>ターレ
あの、破裂するような音、懐かしいです。

蛇松線
 昭和40年代に蛇松線をはしる貨物列車をみたことがります。当時、市内をはしっていた国道1号をゆっくりと横切っていました。先頭は小型のディーゼル機関車で、プワァーンと間抜けな汽笛を鳴らしていました。 私より少し年長の方はSLけん引だっととか。
 沼津港側では、魚市場の一部がプラットホームになっていて、荷物の積込み作業を見かけたことがあります。

5年前にお約束しました
「国鉄沼津機関区の百年」誌
が2021年4月30日から発売開始となりました。
408頁 変A4版 上製 箱入り 5500円税込みです。
開業時から廃止までの線路図も付けてあります。
ご参考に!
お近くの書店かAmazonに申し込んでください。

山梨幸夫さん
ご紹介ありがとうございます。

f54560zg様、皆様、大変ご無沙汰しております。
私は、あの東日本大震災3.11で某地にて被災しました。以後、自分の嗜好が激変し鉄道にもほとんど興味がなくなりました。
この度は山梨幸夫さん出版おめでとうございます。「国鉄沼津機関区の百年」を拝見し、あの頃が甦ってきました。私の稚拙な写真も使用して頂き感謝しています。
今後は徐々に、まあゆっくりコメントしますね。

沼津区さん
何と申し上げたらよいのか・・・。お見舞い申し上げます。
気が向いたときに拙ブログをご覧いただければありがたく思います。

ちょっと教えていただきたいのですが、1965年の機関区構内から暖房線と暖房炭台というのが登場しているのですが、これは東海道線の電化により連結されるようになった暖房車の為の設備なんでしょうか?

床屋のシンさんさん
C6217さんがお詳しそうな気がします(汗)。

床屋のシン様1965年配線図の時代では東海道本線ではSGを積んだEF58が主力機関車ですので 箱根廻りから丹那経由になった1935年版と1965年版との間に設置された設備だと思います 丹那隧道経由となり沼津迄電化されたおりに主体となった電気機関車はED54EF52EF53EF55が運用されており此の時代は未だSGは積まれてませんので当然冬は暖房車が必要でしたで当然の設備ですが1940年代の配線図が発掘されれば記載されてるはずです

床屋のシ ンさま、設置はyyoshikawaさまのお説のとおり1934年の可能性が高いですね。
 以下は推定ですが、蒸機用の給炭設備では大きすぎて不便ですし、電機に付いて帰った暖房車をそこまで入換するのも大変な手間です。
 マヌの炭槽は3t、半分以上使うことは少ないので人力での給炭に踏み切ったものと思われます。1940年ころもこの程度なら人力が普通でした。
 また当時の常識として、使用する石炭も機関車用とは区別していた筈です。機関車用の高カロリー炭は高価でありきびしく管理されていましたが、各方面から垂涎の的でした。

上記はC6217です。ごめんなさい。
1940年は1965年(S40)のミスです。蒸機時代は現在から想像できないほど人力作業が残っていました。
トム1車の石炭(15t)をモッコで担いで降ろすのが、労務職1人1日の仕事、という実例を覚えています。機械化すれば簡単ですが、費用を考えると人力の方が経済的だったのでしょう。
今は機械の価額が驚異的に低くなりました。

yyoshikawa様・C6217様、ご教授ありがとうございます。
やはりSG未搭載の電気機関車に連結する暖房車への給炭施設だったのですね。
蒸気機関車の給炭台だと大きいし、石炭の質も違うという理由で別に作られていたというのも納得です。
それにしても1984年でも給炭線の名称があるのには驚きですね。

1930年代東海道本線東京口の湘南列車(客車)は既に電気暖房を装備してました長距離運用の客車とは分けて運用していた 当時電気機関車よりジャンパー線で1500Vを直接各車に送りヒーターを温めていた 戦前の雑誌鐡道に此の客車電気暖房の記事が掲載されてました EF53フロントデッキにジャンパー受けが設けられていました 丹那隧道開通で沼津迄電化されました当初旅客用はED54 EF52 53等が使用されてました冬場は当然暖房車が必ず使われていた 其の後SG搭載のEF56 57が投入されましたが戦時色が濃厚になり折角のSG設備は使用停止してEF56 57も冬場蒸気暖房車を牽引していた此の時代1942年頃冬に蒲田付近で撮影されたEF57牽引の列車には蒸気暖房車が繋がっていた写真が交友社の日本の電気機関車に掲載されてます 東海道本線東京口ではSG搭載の新EF58(流線型車体)が投入された頃が最後だったのでしょう

yyoshikawaさん
1500Vのジャンパの取り扱いは恐怖だったのではないでしょうか。

下り1番線の出発信号機と下り2番・3番の第二場内は同じ場所に並んで建っているんですよね、ここ。

過走防護のためだと思いますが、下り1番に入る列車は場内信号は警戒で入線しますが、この1LAの場内信号、すごい離れたところにあります。おかげで異常に入線に時間がかかるようになっています。時刻表で容易に分かるぐらい三島沼津間の時間のかかる列車は下り1番に入る列車です。

なつ さま

>下り1番線の出発信号機と下り2番・3番の第二場内は同じ場所に並んで建っているんですよね、ここ。

手元の、東海道本線をメインに書かれた線路図をあらためて見ました。鋭い、ご指摘ですね。
下り旅客ホームと、下り貨物中継ホームが直列に配置されている珍しい構造が、件の状況を作っているようです。
さらに、113番、114番のてこは、着点ボタンによって、場内信号機(113LU、114LS、114LU)になったり、出発信号機(113LY、114LY)になったりしてます。
また、東京方ー下り2番線のルートは、「東京方ー下本ー下2」と「東京方ー下1ー下2」の2ルートがあるようです。

稀に見る、着発線直列に原因があるようです。

着発線が直列に配置された駅はいくつか存在しています(いました)ね。宇都宮とか、野木とか韮崎とか西明石とか東成岩とか。韮崎では「本線出発」と「待避場内」が並んでいます。

>着発線が直列に配置された駅

案外、あちこちにあるものなんですね。
宇都宮駅の下1、下2、下3は、現地でも目にしているはずなのですが、貨物の側線かと思ってました。上り出発があるのですね。
今度行ったら、よく見てみます。

中央線の日野も、中線がホームの先にあるのですが、下本1区、下本2区(と中線が並列している)のように区分しているので、同じ位置に建っている3L(下り第2場内)、4L(中線場内)なのかもしれません。上りは、わずかな位置の差で場内ー出発という順序は保っているようです。

>着発線が直列に配置された駅

東北本線小山駅もこの範疇の駅になるかと思われます。旅客ホームの北側(宇都宮側)の上下本線外側(海側)に貨物の発着線が5線あったときもあったようです。今は同駅の貨物拠点機能が失われ、ほとんど使われていないかもしれません。

最近の例だと京急蒲田下り本線がこのパターンです

京急蒲田って、今はこんな風になっているのですね。ちょっとびっくりしました。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 沼津配線図:

» EF53形 電気機関車 [ぱふぅ家のホームページ]
EF53形はEF52形を基本に改良を重ね1932年に製造開始された。性能と信頼性が評価され、1933年にはお召し列車用の機関車に指定された。 [続きを読む]

« 転車台 その8 | トップページ | 王子配線図 »

過去の記事

2025年1月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ