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2010年4月 4日 (日)

尾久・田端操車場配線図

両駅とも1975年頃のものを過去記事にしましたが(尾久田端操車場)、ちょっとあやしいところもありました。その後T.Mさんよりちゃんとした配線図をご提供いただきましたので、それらをまとめて再度記事にします。

(1984年以降の配線図はこちら)

まずは1951年8月の尾久。

195108

すごいですね、転車台が3つもあり、中央の「機関区」の転車台のところには扇形庫もあります。
右側の転車台は「検車区」(この当時はまだ客車区ではなかったのでしょうか)のところにあります。客車用の転車台でしょうか。
左側の「電気機関車庫」(遷車台もあり!)のあたりは尾久機関区?それとも田端機関区?
恥ずかしながら尾久機関区と田端機関区の位置づけがよく理解できていません・・・。
ホームの青森方には渡り線と入換信号機(標識?)が設けられており、入換による入出区ができるようになっています。

続いて1957年3月の尾久。

195703

向きが逆です。
線路名称や信号機の進路などが見やすいのですが、青森方の渡り線や田端操への連絡線などが一部描かれていないようです。
場内信号機の「進継点示機付」とは何のことでしょうか。

続いて1958年3月の尾久。

195803

検車区は「尾久客車区」に変わっており、転車台のところには「客車転向台」と書かれています。
電機庫の遷車台はなくなっています。

続いて1961年3月の田端操車場と尾久。

1961031

1961032

196103

以前E10さんからコメントいただいたとおり、田端操車場・尾久合わせて何と5個もの転車台があります。
田端操車場の下の方、尾久と接するあたりに車庫らしきものが描かれているのですが、これは多分貨車区ですよね?
王子への貨物支線には場内・出発信号機が設けられていますので、「列車」としての運転形態のようです。

続いて1967年3月の尾久。

1967031

1967032

扇形庫は転車台もろとも消え去りました。左側の転車台もなくなり、客車区の転車台だけが残っています。
電気機関車庫のところには「田端機関区」という文字が見えます。
先ほども「尾久機関区と田端機関区の位置づけがよくわからない」と書きましたが、、「蒸機の尾久機関区」が廃止され、代わって「電機・ディーゼル機の田端機関区」が新たに設けられたということなのでしょうか、それとも尾久機関区廃止以前から田端機関区は存在していたのでしょうか、こんなことすらよく知りません・・・。

続いて1969年3月の田端操車場と尾久。

1969031

1969032

1969031_2

1969032_2

田端操車場の山手機留線付近の転車台がなくなりました。
田端操車場の配線図で、尾久に接する付近に「田端機関区」と書かれているのですが、これは本当?尾久の配線図にも「田端機関区」の文字が見えますので、田端操車場のほうは先ほども書いたとおり貨車区ではないかと思うのですが・・・。
尾久に関しては、高架線と地平線の振り分けが尾久で行なわれるようになり、また青森方に対しても、ホームと並んでいる線路が東北着発線という本線となり、直接列車として発着できるようになっています。

続いて1972年2月の田端操車場と尾久。

1972021

1972022

197202

田端操車場の尾久に接するあたりには「田端貨車区」という文字が見えます。これが正しいのかな、と思います。
王子への貨物線は入換信号機に変わりました。構内運転になったということですね。
尾久は継電化されたようで、たくさんあった信号扱所が2つくらいに統合されています。

最後に1980年3月の田端操車場と尾久。

1980031

1980032

198003

田端操車場から日暮里に向かう貨物線はちょん切られてしまいました。
一部の線路が点線で描かれており、使用が停止されているのでしょうか。

以上、田端操車場と尾久をまとめて整理しました。
これらに関してよくわからない点が2つあり、ひとつは前述の通り尾久機関区と田端機関区の関係です。
・それぞれの役割は?
・配置車両は?
・所在地は?
過去の記事で以下のような写真を掲げたのですが、これはいったいどこ?
(自分で撮影していながら全く覚えていません、お恥ずかしい・・・。)
どうも1969年の田端操車場の配線図で「田端機関区」と書かれたあたりではないかと思うのですが、そうすると田端機関区は連絡線を挟んで尾久側と田端側に分断されていたってことでしょうか?

19760314c01

19760314c02

19760314c04

19760314c03

もうひとつは田端操車場構内における貨物列車の移動ルートです。特に山手貨物線←→常磐線間を結ぶ貨物列車がどのような経路で田端操車場構内を移動していたのか、です。

前者についてはどなたかご存知の方、教えてください。
後者については、信号機の配置などから適当に考えて、次の記事で整理したいと思います。

配線図は一部を除きT.Mさんよりご提供いただきました。

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コメント

上野駅-田端・尾久駅間の図を掲げていただき、お二方に深く謝辞を申し上げます。自身は某誌で、東北新幹線用に転用されるための、田端操車場の仕訳線部分の撤去工事からこの辺りの図を集め始めました。上野駅から移った形の尾久機関区、尾久操車場内、機関車仕業線前の転車台等、失った構造を想像的に思い出させて頂き、嘆息です。失った構造が故、愛おしいさも深まります。個人的には図のように有効長が記されてあると、一線々々個々が有する力量を肌で感じ得ます。東海道東京下り口が変容を遂げた現在、尾久は隠れつつ一層重要な構造を有していると言え、その意味で二重にも三重にも感謝申し上げます。ただ、少し懸念が・・・。

SYさん、ずいぶんとご無沙汰になってしまい申し訳ありません。
田端機関区と尾久機関区の関係・役割分担なんてご存知ではありませんか?
そしてまた、「懸念」とは・・・・?

初めて書き込みさせて頂きます。IDIと申します。宜しくお願い致します。
ここは識者の方がお集まりの様なので、私も「尾久機関区と田端機関区の関係」の回答を待っておりましたが、なかなかコメントが付かないようなので、僭越ながら私の知っている範囲で。
というより新たな疑問ですが。

蒸気時代より、
尾久機関区は旅客専業でC57・C62といった配置。常磐線電化以後は配置なし。
田端機関区は貨物専業でD51・9600といった配置。常磐線電化以後はEF80配置、入換関係はDD13等配置。
この他に田端機関区に須賀線用のEB10を配置(時期により所属東京機関区)。
が大まかな役割分担だと思います。

配線自体も王子街道を境に田端操車場側が貨物専業、尾久駅側は旅客専業ですから、本来は田端操側が田端機関区、尾久駅側は尾久機関区だと思われ、
尾久機関区の廃止(?)に伴い無くなった扇形庫周り以外が田端機関区に移管、田端機関区は連絡線を挟んで尾久側と田端側の2ヶ所になったと思われます。
「1961年3月」の」田端側の車庫はレンガ造の機関庫で、
掲載の写真も田端機関区の田端側で、EF58は隅田川発の荷物列車用に田端側で待機している写真だと思われます。

逆によくわからないのが「1951年8月」の尾久側の電気機関車庫です。
大宮までは戦前より電化されていましたが、京浜東北線のみ。
高崎線 大宮-高崎の電化が1952年4月1日で、旅客用機関車は高崎第二機関区配置
東北本線 大宮-宇都宮の電化が1958年4月14日で、旅客用機関車は宇都宮機関区配置
常磐線 取手-勝田の電化が1961年6月1日で、ここからEF80を田端機関区配置
で、結局常磐線電化までは、配置された電気機関車は田端のEB10 2両と尾久のED46 1両のみのようです。

だとすると「1951年8月」以降の尾久側の電気機関車庫は他所属機の仕業検査あるいは交番検査の為の建屋で、尾久機関区のもの、(尾久機関区が電気機関車無配置で検査のみを担当?)
それが常磐線電化に伴い、尾久機関区が廃止になり田端機関区に移管という流れなのでしょうか。
あるいは当初より田端機関区のものだったのでしょうか。
「1961年3月」までは、ただ「電気機関車庫」で、「1967年3月」より「交検1-5」の表記のあるのも気になります。
尾久機関区の廃止時期(常磐線電化時か?あるいは乗務員区として残っていたのか?)や、1967年以前の田端機関区の庁舎の位置等も関係しそうですが、資料がなくよくわかりません。

さらに蛇足になってしまいますが、
1955年頃から1963年頃まで、田端機関区にキハ17・55・58系
1963年頃から1975年頃まで、尾久(客車区?)にキハ82・181系
が配置されています。
この整備点検は(特に前者)何処で行われていたのでしょうか。

ご存知の方がいらっしゃれば、ご教授頂ければ幸いです。

長文な上に憶測・疑問提示になってしまい大変恐縮です。
また皆様と同じく、この様な資料が出てくる事にこれ以上ない驚きと感謝の念に堪えません。
改めて御礼申しあげます。

こんにちは。

尾久機関区の廃止時期を直接示す資料ではないのですが、Rail Magazine誌 300号、301号特別付録のCD版「機関車表」(沖田祐作さん編)で「尾久」を検索すると、

尾久機関区に配置されていた機関車は、1962年後半から64年4月までに他の機関区(田端を含む)へ移動しています。

また、64年4月以降に機関車が配置されたという記録は検索できませんでした。

ただし、東京機関区のEF58-124を尾久が、

1967年9月8日付け借入、同16日付け返却

そして、宇都宮機関区のEF56-3とEF59-22を尾久が、

1960年8月31日付けで借入、(その後「返却」の記録はなく、)ともに1972年7月30日付けで瀬野へ移動

という記録があり、(12年間も借りていた?)それが「尾久」で検索してでてくる最後の日付けでした。

やはり、配置がなくなり、乗務員区だけ残ったのだろうか?と思いました。

“IDI”さんのコメントを拝し、自らの不注意、無知浅薄さを憶えました。さて、RP誌のアーカイブ集の「特急基地をたずねて 尾久客車区」(’62-6)という記事(自身は後年の「運転所を訪ねて」が物心ついた頃に触れ始めたのですが)に、
 「尾久客車区は従来からも田端機関区配置の気動車保守分担として、上回り・電気装置・清掃を担当していたが、1960年…、客車で構成されていた特急列車『はつかり』が気動車特急に置換えられるとともに、はじめてこの区で機関を含むすべての検修・整備を行うようになり、続いて1962年…『白鳥』『つばさ』が運転され、不定期特急『ひばり』が運転されることになった」と記され、田端に配された急行形は動力周り以外、尾久側が担当していたと知れます。特急DCが配されて初めて、胸を張って動力部にも手を着け得たのでしょう。記事にはあの「はつかり」に合わせてピットの拡張、客車区検修庫の上屋の延長などが記されております(小生は本来向日町区の人間で…)。
 なお、尾久サイドの電機庫ですが、昭和4年・14年でも描かれており、また米軍の地図(21年頃?)にも記され、米軍の航空写真でも23年には確然と認識でき、、位置的な特異性ないし優位性をもった施設だったと思えます。脇にはUeno Transportation Office(小石川図版)が位置しています(どの程度のことを意味しているのか…)。トラバーサ-と言い、この庫の役割の重要性や多重性があったのやも知れません。
まずは用件にて。

 自身の上述を受け、また自らが記すのは至って恐縮ですが、『「東工」90年のあゆみ』という図版が無い資料によると、「昭和4.6完成尾久操車場と改称…その後施設の狭あいに加えて東京駅の拡張工事に当り、東海道列車の一部を尾久操に収容する必要が生じ、昭和10第二期改良工事に着手、同12.6完成、主要施設は出発線12本、到着線4本、留置線31本、洗滌線11本その他組立検査線6本、蒸汽機関車庫、検査車庫等である…客操計画当初案における東海道列車は尾久へ東北方面列車は品川へという考え方が変更されたのは、縦貫列車の運転の管轄が新橋、上野両運輸事務所にまたがること、冬期東北方面列車がダイヤの乱れで東海道列車が影響を受けること、東北線の電化計画がおくれていること等の理由であって、東海道は品川、東北は尾久に変更されたのである」と軽くまとめられております。確かに東北方から上ってくる列車によって、東京駅前の「宮城前を黒煙でうめられては畏れ多い」、という巷説も読んだ記憶があります。
 上野~東京駅間開業が大正14年です。帝都の玄関に全てを送り込め、などと思っていたかも知れません(設備上直ちに窮屈になりそうです)。以上から尾久サイドの電機庫が東海道サイドの受け入れを前提にして設計された可能性として有り、蒸汽留置線(現仕業庫辺り)と(尾久機関区の)転車台とが配線上直列に機能的に結ばれていない理由があるかと思えます。電機庫として非電化の周囲から突出しており、確かに図を見るに電機の方がやや機能的な配線です。電機庫は東海道方からの受け入れを前提にし、臨修庫の役目も負った準工場的色彩を有していたのでしょう。当時大井は盛土用の土砂を搬出した地域だったと思いますし、大宮と言えば、です。しかし庫の周囲には工場で見られるような、鍛造等の職場施設もなく、他方上野から移ったとおぼしき事務関係の建物が有り…
 ともかく、尾久を考えるためには、東海道方東京駅・品川駅を考慮せねば、と迫られた次第です。「田端運転所と言えば、一体的なもの」と、固定観念を有して自分が知れます。
 文面から板谷峠を登る181系の姿を思い出させて頂きつつ、相変わらずの底の浅さを自覚した次第です。

す、すごい~~!!
IDIさん、専用線好きさん、SYさん、皆さん色々な角度からの情報ありがとうございます。
総合すると、
●尾久機関区
・もともと旅客用の蒸機基地。
・高崎・東北・常磐電化においては電機は尾久には配置されず、1964年には車両配置がなくなる。
・1967年ではまだ乗務員区として残る。
・RP車両配置表によると1969年3月時点では乗務員区としても存在していない。
・電気機関車庫はもともと他区所、特に東海道方面の電機用として設置。車両配置がなくなる前後に田端機関区に移管。
●田端機関区
・もともとは貨物専業。
・1961年の常磐電化の際に電機が配置されこの時点から旅客も担当するようになる。
・尾久機関区に車両配置がなくなる1964年前後に尾久機関区の電気機関車庫付近まで領土拡大。
といったところでしょうか。実によくわかりました。感謝・感謝です。

コメントをいただいて私もちょっと調べてみましたら、1962年10~11月にC57140(室蘭へ)、C627~11、19、20、22、23、38、39(いずれも水戸へ)が尾久から転出した記録がありました。また、1962年2月にはC59110とC6221が尾久で廃車(C6221は事故)になっており、さらに1963年2月にC593が廃車になっていました。いずれも常磐線電化以降は保留車状態だったものでしょうか。

その際見つけた記録として、C5771、77、134が1965年3月に田端→佐倉という記録があったのですが、これは何でしょう?もともと尾久にいて、1962年前後に尾久から田端へ移動した機関車でしょうか?それとも以前から田端にいた機関車でしょうか。後者だとすると常磐線電化以前から田端でも旅客列車を担当していたことになってしまう(C57に貨物を引っ張らせていたかもしれませんが)ので、前者ではないかとは思うのですが。

また、ED46は、私の記録では新製配置が1959年8月宇都宮、途中が抜けてED92として1975年5月田端で廃車になっているのですが、宇都宮→尾久→田端という移動履歴があるのでしょうか。

かつてない長文になってしまい、大変失礼しました。

尾久サイドの電機庫 昭和4年からあったのですか。正に赤面の至りです。
ネット上でも調べて見ましたが
土木学会図書館 土木建築工事画報 昭和5年12月号 尾久客車操車場工事概要
(ネットでこんなものが簡単に見れるのですから凄い世の中になったと改めて感じます)
にも、記載があり、戦前よりあったのは間違いないようです。
GOO地図の戦後すぐの昭和22年の航空写真でも明瞭に確認でき、またこの写真では、上野からの回送線・操車場内の発着線に架線柱らしきものも確認できます。
SY様の書き込みや、上記資料からも間違いなくこの電機庫は「東海道線」用に計画・建設されたものの様ですね。
ですので、先の自分のコメントの「尾久機関区の建屋で他所属機の検査」云々は全くの勘違いですね。
改めて訂正させて頂きます。

この東海道線の尾久回送というのは、実際にどの程度行われたのでしょうか?
基本的には頓挫してしまった計画と認識していたのですが、この様に電機庫・操車場の架線等を突きつけられるとある程度は・・とも思えてきます。
SY様のおっしゃる通り、東京・品川との関連をもっと調べないといけなさそうです。勉強になります。

ただ上記の航空写真では発着線の架線柱は明瞭ですが、何故か電機庫の回りには見当たらず、庫付近には蒸機が止まっているようです。
さらにネット上で見つけたの「田端機関区 キハ60」の写真が、この電機庫を田端機関区所属のDC用に用いている様にも見えます。
再びの誤りを恐れずに邪推すれば、この電機庫は「東海道線」用に建てられるも計画中止により浮いた形になり、田端機関区・尾久機関区というよりは、尾久客車操車場の一部として弾力的に使用。
常磐線電化により田端機関区となるという感じなのでしょうか。

管理人様コメントのC59は、常磐線のC62の予備機として、尾久に配置されていたもので、常磐線電化で転属先も無く廃車。
C57は常磐線電化後も残った成田線直通運用のもので、田端の前は尾久機関区配置です。
常磐線電化により尾久機関区として残った運用(蒸気の客レ)が、この成田線運用のみで、結局、機関車だけでなく乗務員運用からも組織として機関区としては成り立たなく、田端機関区に統合されてしまったのではないしょうか。
専用線好き様のコメントの借入は謎ですが。
ED46は宇都宮新製配置の後、尾久に転属(年月日不明)で、1960/61年頃の配置表では上記のC57と共に載っているようです。
逆にこの当時はEB10も東京機関区配置で田端機関区の電機配置はなしで、田端に配置する意味もなさそうです。

時間が無く、明確な資料も示せず大変恐縮です。一介の趣味人で限度もありますが、もう少し時間を掛けて調べて行ければと思っております。
それにしても貨車操車場に客車操車場・2つのハンプに5台の転車台・扇形庫にレンガ矩形庫・2つの機関区に電機庫・DC配置の客車区と声も出ないほど密度の濃い一帯ですね。改めて驚かされます。

度々の長文大変失礼しました。

 RF誌(’73-5)『東京-上野回送線』で吉江氏が記すところでは、「むかしから東海道→尾久、東北方面→品川の相互の回送はわずかながら行われてい」て、「『品川行』のサボをつけた初詣、節分列車は私もこの目で見た.成田線の定期列車の延長と,臨時列車の増発であった」(松戸までは戦前に電化化、おそらくそこまでは電機の牽引)。戦後すぐ急増する通勤客のさばくため「新橋行」が設けられ、そのまま品川客操へ回送されたという(電車レベル)。昭和30年代初頭の話は小生、何処かで記したのですが。
 また電機庫に関しては、RP誌(’10-3:機関区特集)の『東海道の電機運転と東京機関区』に関連しうる記事があるかと思います。昭和3年という同時期の田町機関車庫平面図では、類比的に考え得る遷車台を擁した同区が描かれています。『新橋駅の考古学』(雄山閣)には工場施設が掲げられていましたが、電機牽引の草創期である昭和初頭期には覚しきものを見付け得られず、昭和9年を期に一気に変貌し始めています。他方、尾久機関区扇形庫と同客車区の間に長方形2棟が、蓄電池修繕場、発電機修繕場で、客車区より機関区寄りで、goo地図の空撮にも見えます。
 加えて二点。東北線沿いに昭和4年の図に変電所が記されています(現東日本王子変電所)。尾久機関区との位置関係は示唆的です。次に区長がおられた建物を探してみたのですが、助役室に目は止まっても…でした。国鉄の齣々とした建物故に、いささか難渋しても、でした。
 まったく不十分な答えと言うしかなりません。悪しからず。

尾久機関区・田端機関区についての深い知識と鋭い観察、ただただオドロキと感謝です。もとはといえばIDIさんのコメントが発端ですね。SYさんもそれほどよくご存知ならば最初にコメントしてくれればいいのに・・・・・って、失礼しました(汗)。
ED46は、尾久機関区に配置された唯一の電機ということですね。
最初の計画とその挫折、実に興味深いです。

私の記憶が正しければ1980年頃の田端操車場はかなりの部分で線路上に枕木がおかれたりと使用停止が発生してます。

確か新幹線建設に絡んだもののはずです。

1980年以降の新幹線工事による田端操車場の変化、すごく興味がありますね。ただ残念ながら情報がありませんで・・・。

ここにきちんと書かれてますね。
他所に余計な事かいちゃったかも。。
佐倉のSL田端でよく見かけました。
C5771、形式番号入りのナンバーでした。
みなさんご存知のように房総方面の旅客の始点は両国でした。
これは秋葉原の高架が重量制限のため機関車が通れなかったためと聞いたことがあります。
なもんで、遠回りして??田端に来てた様に思います。
田端からSLが消えた(はず?の)かなり後も夜中に田端方面から汽笛が聞こえてました。
佐倉のSLが回送される時も田端経由でした。
今頃、長々とすみません。

caruさん、小学校の遠足で我孫子から乗った成田線客車列車がSL牽引で驚いた記憶があります。

1958年尾久生まれです。父が尾久客車区に勤務しており、銭湯替わりに国鉄職員のお風呂に職員に混じって入ってたのは遠い思い出です。鉄道自体にはあまり興味がありませんでした。自宅が近い為、はつかりの故障や事故の際は夜間でも駆り出されていたようです。ちなみに父の同僚にアナーキーのボーカル、仲野茂の父がいたのを記憶しています。仲野氏は父の影響でナッパ服を着て歌っていたものと思われます。どうでもいい情報でした。

エバポリタンさん、コメントありがとうございます。尾久・田端界隈にお住みの方はいやでも鉄道に関する思い出を叩き込まれてしまっているのではないでしょうか(笑)。

エバポリタンさん、尾久がそんなに近しい存在とは羨ましいです。 私は2012年の鉄道フェスティバルに行き、初めて尾久車両センター内を歩けたり、DE11の転車実演を目の前で見れただけで、興奮し夜発熱してしまいました。

猫OGさん、お医者さんから尾久・田端界隈禁止のドクターストップがかかるかも知れませんね(笑)。

1957年3月の場内信号機付近の「進継点示機付」というのは何か?というご質問についてですが、これは旧字体がそのように見えるということではないでしょうか。新字体では「進路表示機付」ということになると思います。

そうですよね、信号機の記号等と照らし合わせると「進路表示機付」しか考えられませんよね。ただ図面には間違いなく新字体で「進継点示機付」と書いてあるんです・・・。

田端と尾久の機関区について。
二つの区に分離した経由は知りません。。門司や岡山のようなマンモス区もあったのですから。一方が他から移転して来たのならうなづけます。
担当は田端区が田端操に着発する貨物列車、尾久区が尾久操に着発する旅客列車でした。
平面図でみると道路が境界に見えますが、田端区の半分は道路の尾久側にありました。
1961-3の図は田端・尾久機関区の境界でなく道路で区分されています。尾久側にある5線の矩形車庫は田端区の修繕庫です。これは1933年に将来の電機庫を予想して設置されました。改修されて電機庫となっています。また田端区の事務所なども道路の尾久側にありました。
田端側にある5線の矩形庫はレンガ造りのもので、古い写真に登場するのはこれです。電化のとき取り壊されて跡地が現在の電機留置線です。したがって田端区には扇形庫はありませんでした。
尾久側の扇形庫が尾久区の車庫です。これも今はありません。尾久区に2基の転車台がありますが南部のものは他区機の折り返し用です。電機留置線は蒸機のころと同じ場所です。
配線図で見るかぎり田端区・尾久区の境界はからみあって不明です。おそらく管理上の区分で現場の線路は共通使用があったものと思います。
この両区は統合されて田端機関区となりました。1961年ころ? 車両の配置表で推測できるかも知れません。

追記:田端区と尾久区の統合は乗務員も含みます。
電車化が進むと今までの実績から田端区も電車を担当することになり、「ひばり」などに郡山まで乗務したのは田端機関区上野派出所の運転士でした。

C6217さん、情報ありがとうございます。お詳しいですね。これからもよろしくお願いします。

 品川尾久間車両回送用に戦後先ずEE製EF50形が使用され其の後EF53が其れに替り使用されておりました 運用意外の時はよく東京駅の外れに停車しておりました 其の後はEF58等使用しておりました上野東京間の連絡線(東北本線)が切られてからは山貨経由でEF65あたりが使用されてました 

yyoshikawaさん、品川~尾久間はそれ用の列車を設定するほど回送の需要があったのですね。

 すいません転換ミスが有りました運用意外でなく
運用以外でした
 今朝仕事の帰り久々に尾久に行きました 品川で籠原行に乗車尾久に付く直前尾久に居る筈の無い205系南武線編成が留置されてました
 更に交直特急電車481系485系混成6輌編成が停車しており鉄ちゃんがぞろぞろ居りました 下車してみました ふと彼方に目をやると怪しげな車両がぞろぞろ留置されてました 北斗星用電車改造食堂車二輌寝台車数量他にサロンエクスプレス東京用改造展望車試験車14系か24系用食堂車(まだそんな車両が残っているとは意外です)先程の481系形式写真撮影しました 上野方からクロハ481‐1029+モハ484‐1082+モハ485‐1082+モハ484‐1074+モハ485-1074+クハ481-1508(屋根上ヘッドライトは二目)でした ホーム脇にダブルスリップが有りますね 上野寄りまで撮影兼ねて移動ホーム末端は客車時代の低い高さです中央部分は電車用に嵩上されており両端部はスロープ状になっております都内旅客駅で嵩上ホームが残っているのは尾久位ではないでしょうか 上野側末端で見て居ると北斗星の回送が尾久に戻って来るのが見えましたが件の鉄ちゃん連中は気付いてませんでした(皆さんズームや望遠レンズ付きのカメラなのに)私はフジX100S高角特化カメラですので撮影はしました 尾久駅ホーム南端から尾久南端の立体交差部迄1000m位有るのでしょうか車両がそんなに留置されて無いため良く見えたのでしょう

yyoshikawaさん、開業当初の新橋駅の話題から尾久駅での撮影まで、ホントに幅が広いですね。

 1958年10月1日ダイヤ改正で初めて東北方面行特別急行列車はつかり号が運行されました スハニ35スハ44ナロ10等で編成されておりました御承知の如く特急仕様のスハ44シリーズは一方向きの固定シート車です つばめはと同様必ず方向転換が必要でした 田端尾久間の連絡線を使い尾久操車場から田端操車場へ其の後墨田川迄向折り返し上野へ回送常磐線経由青森へ向かいました
 つばねはとは到着時方向転換してました

yyoshikawaさん、隅田川→上野は推進ではなく機関車牽引で、上野で機回しでしょうか?

田端貨車区に1970-1979まで配置されていたソ99号と救援車について調べていまして、お写真2枚目(EF81)以降の撮影場所は、田端駅から見て田端貨車区(背景の検修庫)裏の機留線6線と思われます。機関区は撮影位置の道を挟んで反対側(尾久側)になります。すでに解決済みの際にはご容赦下さい。

kokifu50000さん、ありがとうございます。どうもこのあたりの位置関係がよく把握できていませんもので(汗)。

毎度失礼します。今回は28年前の乗車について紹介させて頂きます。

1989年に開催された横浜博の期間中、関連の臨時列車が多数運転され、私も8/20に臨時快速「横浜博アドベンチャー号」に乗車しました。
この列車の運転区間は、日立~横浜間(新宿経由)というもの。今ではちょっと考えられませんが、常磐~田端操(折返)~山貨~品鶴というルートで、横浜では横須賀線ホーム発着でした。
もちろん、乗車の狙いは「常磐~田端操~山貨」の部分なのですが、常磐線内の最も都心寄りの客扱停車駅が土浦だったため、仕方なく一旦土浦まで行き、土浦(7:45発)から当該列車(9472M~9473M)に乗車。田端操では、上中里駅ホームの少し手前で約1分停車後すぐに発車し、上中里駅ホームの少し北側で約14分停車して折り返し、新宿(9:23着)で下車しました。

田端操の1980年以降の配線図がないので、実際どの線路を走ったのか、あるいは、どこかで入換を挟んでいたのか等、確認できないのが残念ですが、三河島分岐から田端操までの間はワクワクしながら車窓を眺めていた記憶があります。
ちなみに、同日の逆方向の列車(9474M~9475M)にも横浜(18:30発)から土浦(20:40着)まで乗車。さすがに田端操は暗い時間帯だったため風景はよく見えませんでしたが、貨物線の複線上下線双方に乗ったことになり、自己満足に浸ったものです。

今なら上野東京ライン経由でしょうから、もう二度と味わえない貴重な乗車体験となりました。

my2000さんと同様の体験をしています。
時期については記憶があいまいです。m(__)m
取手発鎌倉行きの「ホリデー快速ときわ鎌倉」で三河島から常磐貨物線経由田端操内でスイッチバックして山手貨物線を走りました。田町区の
167系8両編成でした。田端操の常磐上り線に到着し、操車掛が運転台に乗りこんできました。入換え運転で構内をゆっくり移動して北部入換え線に入りました。ここでエンド交換をしてから、山手貨物線を池袋方面に進出しました。

名前が抜けました。m(__)m
コスモスです。

>コスモスさん
お仲間でしたか(笑)
おそらく、田端操の前後の走行経路は同じでしょうね。ということは、私が書いた「上中里駅ホーム手前」までが常磐貨の「列車」、そこから「上中里駅ホーム北側」までが「入換」、ということになりそうです。詳しい動きを教えていただき、ありがとうございます。
ちなみに、私が乗ったのは、415・403系で当時唯一の混結7両(水カツK903編成)でした。

my2000さん、
勝田区のK903編成でしたか。オールセミクロス編成でしたね。
はい、田端操から山手貨物線に進出する場合、折返し線である北部入換え線までは車両の移動(入換え)という扱いのようですね。
私が乗ったときも、この折返し線での待機時間が結構あったと覚えています。
上野東京ラインが開通した現在は、このルートでの旅客列車は設定されないでしょうね。

my2000さん、コスモスさん、貴重な経験をされていますね。おっしゃる通り今後はこのようなルートの一般客向けの列車は運転されないでしょうが、マニア向けの「貨物線の旅」のような企画列車でも運転してくれないかしら・・・。

f54560zgさん、こんばんは。

運転されるようですよ(笑)。

http://www.club-t.com/special/japan/freightline/?link_id=news_j_1023

KASAさん、情報ありがとうございます。同じようなことを期待する方々がいっぱいいらっしゃるんですね(笑)。

KASAさん、ツアーの情報ありがとうございます。
マニアックなツアーですね。
お値段22000円出しても乗りたいところですが、もう7月15、22日ともに満席でキャンセル待ちだそうです。

コスモスさん、残念な情報ありがとうございます(汗)。
個人的には金町折り返しにしてほしかったですね。

金町折返しなら稀な体験になりますが、松戸での折返しは運転士の交替などの事情かもしれませんね。新金線は通常旅客列車が走りませんので、どちらの運転士が担当するにしても、事前の線見などが実車を使って走るか、貨物列車に便乗しておこなわれるのか興味深いです。あ、ここはJR東の工臨列車がわりと定期的に走っているところですから機関車、電車両方運転できる方なら対応できそうですね。
貨物列車では10年ぐらい前でしたが、隅田川貨物から金町で列車分割して、編成の前半分は武蔵野線方向へ、後ろ半分は折り返して新金線に進むものがありました。

すみません、また名前が抜けました。
コスモスです。

コスモスさん、単に車両の運用だけでなく乗務員さんの運用も考えないといけないわけですから、このような列車の運転は大変なんでしょうね、きっと。

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