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2010年3月31日 (水)

上野配線図

上野駅の配線図につきましては、1967年3月時点のものを過去記事にしていますが、その後T.Mさんよりそれ以外の年代のものをご提供いただきましたので、それらをまとめて再度記事にします。

(1984年以降の配線図はこちら)

まずは1951年8月。

195108

・電車線は複線のみで1・2番線ですが、鶯谷駅のホームはすでに2面になっています。
・列車用高架ホームは3~8番線ですが、ホームのない「秋葉原線」という線路があります。貨物列車の通路でしょうか。
・地平ホームは9~15番線で、荷物用のホームがたくさんあります。
・留置線のところには転車台もあります。
・高架と地平を結ぶ連絡線があるのですが、車両停止標識を見る限り本線引上げで入換が行なわれていたようですね。

続いて1958年3月。

195803

・電車線は複々線化され、1~4番線となりました。おそらく列車線の3・4番線ホームが電車線に転用されたものと思われます。
・これに伴い、秋葉原線がつぶされて新たに9・10番線ホームが設けられました。10番線は高架ホームでは唯一の行き止まりで、常磐線電車用でしょうか。
・9・10番線の名前が高架ホームにとられてしまいましたので、地平ホームの名称は番号が2つ繰り上がって11~17番線になりました。

続いて1961年3月。

196103

・大きくは変わっていないですね。転車台も健在です。

続いて1967年3月。

196703

・これは以前ご紹介したヤツですね。
・やはり大きくは変わっていませんが、9・10番線高架下の地平線路が整理され、転車台も姿を消しました。

続いて1969年3月。

196903

・10番線の下側に新しいホームが設けられるようです。まだ点線で描かれていて未完成のようですが、11・12番線の名称はこれのために確保されているようで欠番になっています。
・これに加えて荷物扱い用と思われる線路をつぶして地平13番線が新たに設けられたため、地平ホームの名称は番号が3つ繰り上がって13~20番線になりました。「20番線」の名称はこのとき誕生したんですね。
・常磐線から地平ホームに至るルートも完成していますが、高架と地平を結ぶ連絡線は撤去されました。

次に1972年2月。

197202

・11・12番線が完成しています。常磐線電車用ですね。

最後に1980年3月。

198003

・大きな変化はありません。
・1951年には15番線までだったものが1980年には20番線にまで増えたわけですが、増えた5線分は高架を地平の上に覆いかぶせることで4線分、地平を高架下にもぐりこませることで1線分確保したわけですね。

配線図は一部を除きT.Mさんよりご提供いただきました。

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コメント

こんにちは、kk35powerです。
いつも楽しく拝見させていただいております。
私はこの間、1980年8月版のJTB時刻表を買ってきまして、
当時の列車や駅等をながめ思い出していましたが、
1980年8月の時点で、この時刻表に記載されている
「主な駅のご案内」ページには上野駅は19番線までしか
ありませんでした。
20番線は、1980年代のいつごろまで存在していたのでしょうか。もし分かりましたら教えていただけますでしょうか。よろしくお願い致します。

kk35powerさん、鋭い質問ですね(汗)。
私もよく知らないのでちょっと調べてみたいのですが、1週間くらいかかりそうです。
どなたか詳しい方いらっしゃいましたらその前にコメント下さい。
なお、手元の1980年3月の時刻表では20番線は生きていますが、その代わり「17番線は工事中」になっています。
また、1979年7月11日時点では19番線が工事中です。20番線は生きています。

 東北新幹線上野駅は、17番線から駅東側に沿った都道452号に亘って拡がっており、一線ずつ仮受けしながら開削し、一つの大きなコンクリートの箱を地下に造っていったと、まず御理解下さい。
 最初に20番線を使用停止にし、それを仮受する構築物を造り、順次線路を停止し仮受け、17番線まで広げ、地下空間を造り、その17番線停止時期に上野広小路側の台地からの圧力を支える壁の構築という工事が一つのピークとなりました。 “f54560zg”さんが引かれておられる時期がまさしく基礎工事の山場で、後に仮受けされた17番を再び活線にして、20番線は以降工事通路・作業帯としつぶされ、地下駅本体の躯体工事が本格化したと思えます。同構造物には両大師橋や構造的に古い地下鉄銀座線の仮受け工事といったものもあり、地下構造物の建設はイメージしがたいのです相当厄介です、例えばビルの杭を仮受けた後切断することもあります。多分20番線の完全な廃止は17番線の活線化がなった時期でしょう。ただ申し訳ないのですが、工程表を有しておらず、明瞭に年月日を呈しえません、悪しからず。

なるほど、そういった建設工事の進め方があったのですね。私も建築出身でして、マンションを施工管理していた経験がありますが、地下の建設の大変さは想像を絶するものだと思います。かなり厄介でしょうね。それにしてもこんなに当時の事が詳しく分かったので本当に良かったです。ありがとうございました。私が全力でこの時期を思い出しても、お盆の帰省で19番線から寝台特急ゆうづるに乗車した時の事までしかさかのぼれませんでした。白い仮囲いが少し印象に残っているくらいで、あの時は何の工事をしているのかすら分かりませんでしたから。私が幼年期の頃の出来事です。本当に懐かしいですが、あの時の上野駅の姿は消えつつありますね…。

若干タイミングを逸した感がありますが(汗)。
・鉄道ピクトリアル1979年2月号TopicPhotoに記事があり、53-10改正で20番線の列車発着がなくなり、10月24日時点では20番線のレールがすでに撤去されています。
・その後の手持ちの時刻表を確認しますと、
1979年7月・・・19番線欠
1980年3月・・・17番線欠
1980年10月・・20番線欠
1981年4月・・・20番線欠
1982年3月・・・20番線欠
1983年1月・・・20番線欠
1984年6月・・・19、20番線欠
といった状況で、1984年6月時点では一応の完成を見たように思います。
上野駅の20番線は片面ホームのせいか妙にうらぶれた雰囲気があって個人的には大好きでした。

「鉄道と街・上野駅」(大正出版,1985)の巻末に年表が載っていましたので(三宅俊彦さんの編)線路・信号関連の記載を抜粋してみます(簡略化の上一部補記しています)。
長文ご容赦ください。

S24.6.1---常磐線取手電化
S26.4.1---高架地平連絡線使用開始
S27.4.1---高崎線高崎電化。上野-高崎間電気運転開始
S27.11.29-地平信号扱い所第1種継電連動化
S29.4.15--東京-秋葉原5線,秋葉原-上野4線として使用開始,
       内2線を電気運転開始,高架第5乗降場使用開始,
       常磐線電車の有楽町乗り入れ
S31.7.1---地平信号所火災焼失
S31.7.1---山手・京浜東北分離運転に伴い事務室を移転,
       電車第2ホームとして使用開始
S31.11.19-東京-上野6線,上野-日暮里10線,
       日暮里-田端を4線として使用開始。
       山手・京浜東北線電車の分離運転開始。
       常磐線電車の有楽町乗り入れ廃止。
S33.4.14--東北本線宇都宮電化
S36.6.1---常磐線勝田電化
S39.10.1--小荷物取扱いの一部を残して隅田川駅に移転
S41.4.1---京浜東北線8両→10両運転開始
S41.10.1--常磐線上野-取手間8両→10両運転開始,
       駅舎改良工事開始
S42.12.15-地平0番線の小荷物ホームを改良,
       客扱いホームとして使用開始
S43.9-----信号扱い所を総合庁舎に移転
S43.10.1--構内日暮里方で常磐線の立体交差化完成,
       地平ホームの呼称方変更(13~20番線)
S44.10.1--高架第3,4,5ホームの延伸工事完了,
       東北高崎線一部で15両運転開始
S45.9.30--高架第6ホーム増設,使用開始(11~12番線)
S45.10.1--高架第5ホーム改良のため10,13番線の使用を停止
S45.12.20-大連絡橋完成
S46.12.20-10,13番線ホーム改良工事完了,使用開始
S48.3.31--高架電留線を新設(局境変更)
S48.4.1---東京駅乗り入れの東北・上信越特急を上野発に変更
S53.5.28--東北新幹線上野付近地下ルートの鍬入れ式挙行
S53.6.16--電留8,9番線使用開始
S53.8.23--高架電留2~6番線使用開始
S53.9.22--地平電留1~3番線線路切り替え,
       入換信号機15機使用開始
S53.10.24-上野地下駅工事起工式
S53.12.21-東北上越新幹線日暮里付近起工
S55.5.31--20番線廃止

新幹線以降についてはほとんど触れられていませんでしたので,別に検索してみました。18番線はもう一度使用停止・改修されていて,この時に17・18番の間の荷物ホームが撤去されたようですね。
S57.6.23--東北新幹線大宮開業
S57.11.15-上越新幹線大宮開業,18番線使用停止
S58.1-----東京-上野間回送線廃止
S58.7.1---18番線使用再開,19番線廃止
S60.3.14--新幹線上野開業
H3.6.20---新幹線東京開業
H4.7.1----山形新幹線開業
H9.10.1---長野新幹線開業
H11.9.11--18番線廃止

S26の「高架地平連絡線使用開始」におどろきました。例のスロープのことだと思いますが,昔からの本線の跡かと思っていましたので。
上記書籍にあるS7.3の図をみますと鶯谷付近で常磐から地平への分岐があります。何らかの理由(電車線複々線化関連?)でそれを切らざるを得なかったために代わりに設置したのでしょうか。

S31.11の山手・京浜東北分離と43-10改正関連が大きな山だったのは薄々知っておりましたが,こうして配線図と照らし合わせてようやく全貌がわかってきたように思えます。掲載ありがとうございます。

6181さん、詳細な年表ありがとうございます。
S45に10・13番線の使用停止もあったんですね。
「鶯谷付近で常磐から地平への分岐」、これって「常磐上りから常磐下り・高架上りの2線を横切って地平上りに合流する線路」ということでしょうか?
勝手な想像ですが、架地平連絡線は本線ではないようですので、機関車かもしくは荷物車の入換用ではないかと思っています。この遺構、今ではどうなっているか知らないのですが、線路はないものの茶色いバラストが敷き詰められたスロープを常磐線の電車から見るのが小さいころの楽しみでした。

いつも楽しく拝見させていただいております、お世話になっております。
SEKKIと申します。
管理人様のUPから、お集まりの皆様の貴重なご意見、拝見させて頂いておりましたが、なかなか御挨拶するタイミングが掴めず悶々としておりました。
日頃より、大変参考にさせていただいております。
つい先日、上野駅周辺を歩いてきました少々の状況を微力ながら当方BBSにてUPしておりますので宜しければ御覧いただければと思います。
新幹線工事に伴う地平ホームの時代考証、また、大連絡橋落成前後のホーム使用状況などには非常に興味を抱いておりますが、資料に乏しくこうした機会に恵まれたこと、誠に感謝致します。
今は情報集めを進めておりますが、将来的にはあの複雑な配線もなんとか再現したいと思っております。
皆様の情報量やご経験には足下にも及びませんが、どうぞ宜しくお願いします。

大連絡橋と10・13番については「あれ,そんなに遅くまで工事してたっけ」と思ったのですが,まとめるうちに記憶が少し戻りました。10番線が今の長さまで伸びたのはそのS46だったように思います。当方東北高崎線でしたのでうろ覚えですが。
S7の図ですが,上記と逆に下り向きで記載しますと,地平留置線からの引上線のうち1本が,先端でそのまま常磐上り線に入り,さらに下り線に渡ってゆく形です。
(信号は記されてなく使用法は不明です。)
いいかえますと,S7には現在の常磐地平上り線に近い形のものがあったのが,一旦つぶされ,43-10でスケールアップして復活している,というようなことになりましょうか。

連絡線跡はいささか草むしていて,中には建て替えられた架線柱が屹立していますが,擁壁はそのままで,バラストもあったと思います。
坂を下っての合流点は「こんなところにポイントが挿入できるの?」というような狭苦しさですよね。
おかげさまで「本線跡か?」という小学生以来の勘違いが解けて感謝しております。反面,常磐線-地平の経路の切れたりつながったりには,眠れなくなってしまいそうです。

 “6181”さんの指摘されておられる通りに、S7年の上野駅平面図には、描かれておりました(ただもとの図が図書の中の小さな図で、それを拡大して視ただけですが)。鶯谷駅まで長さの揃った線で、西から常磐下りへ、常磐上りから、と繋がり、そして地平留置線の引上げ線と3線が並んでいます。ただ留置線脇辺りの構内の分岐器が少し疑問を持ってしまうような図でした。一体どのような使われ方をしたのか?

 昭和7年とは上野駅本屋改築工事がなった年のようで、その前、昭和3~6年には秋葉原貨物駅の高架化が為され、さらに遡れば大正14年に上野~東京駅間の開通(高架)となっています。なんらかの遺構の反映かなと思ってみたのですが、尾久操車場で記したように、機関車牽引列車の貫通化、東北高崎は品川へ、東海道は尾久へという、基本的な考え方で、錯綜するであろう上野駅列車高架部分の負担を減らすため、常磐線において鶯谷駅脇で平面交差して地平駅へ逃がす構造を設けたのではないでしょうか、例えば松戸からの電車や蒸気によって牽引される普通列車は上野地平駅に送り、秋葉原への貨物や優等列車は、上野駅高架駅を東京方へと抜けていく、そんな想定が描かれていたのではないでしょうか。
 従って品川・尾久の役割分担が当初の漠たる考え方ではなくなり、実際に果たして使われたのかも、若干疑問を持った次第です。
 深夜の起き抜けで、さらにその図が掲げられていた、守田・高島さんの『東京・上野間市街線の開通』という文を斜めに読んでみたのですが。

SEKKIさん、写真拝見しました。感激してしまいました。車両は変わっても、駅の雰囲気はそうは変わっていないように感じます。スロープが懐かしい!
16番線到着バージョンもお願いします(笑)。
6181さん、SYさん、S7年の図がないのでちょっと???な部分もあるのですが、SYさんのおっしゃる「常磐線を地平に逃がす」は説得力がありますね。43-10までは常磐線は高架オンリーだと思っていたのでびっくりです。

お世話になります。
>16番線到着バージョン
・・現在16番線は優等列車専用ホームとなっておりまして、撮影が不可能なため、2007年撮影ですが15番線→鶯谷までの後展望をサイト側でUPしました。
割と現在の地平配線がナナメからですが御覧いただけるかと思います。
また例のスロープはちょっと枯草が多いですが雰囲気は掴めるかと・・・。
↓枠のネームクリックしていただければ、
該当ページにアクセスできるようにURLを入れておきました。よろしくおねがいします。

SEKKIさん、ありがとうございます。
SEKKIさんのサイトにコメントを投稿させていただきました。

 S7年の「上野駅平面図(建設概要)」についてですが、目に触れる限りでは、同駅の図は明治37年から、震災で焼失した上野駅本屋の竣工を描いた、S7年の同図にまで確かにとびます。同図には電車ホーム2面、列車ホーム2面、貨物線である秋葉原線となっておりますが、山手・京浜東北線分離以前ながら、すでに電車線ホーム2面の様を描いた図示です。T..Mさんからの資料では、1951年において、鶯谷駅は2面のホームの外側だけに線路が描かれ、上野駅高架部では電車線は1面、東北高崎・常磐線で3面で、逆に言うと常磐等の3本線でそれだけのホームの数を要していたのだと思えます。さらに言うと、地平留置線入区2線と常磐線を繋げば、S7年の図に酷似しましょう。やはりT..Mさんの正確な図が一つの出発点となります。
 従って、地図や航空写真などと比べると、S7年の図には、その段階で既に線路が敷設されているかのように錯覚させるような、計画予定の線路が実線で書き込まれていると判断されます。確かに鶯谷駅まで見た目にきれいな同心円構造の孤が並び、ファンならずとも図として誘惑的です。しかし決定的に疑問を持つのが地平留置線の引上げ線への亘り線が皆無であることです。多分駅舎の竣工が図の主眼なのでしょう。
 自身としてよく調べた限りにおいて、他の資料で鶯谷駅脇で、高架駅にのぼる常磐本線から分岐して上野地平駅へと結ぶ計画図が確かにありました。そして上野駅高架第5ホームの完成とともに抹消される計画で、逆に言うと、東北高崎・常磐線で3面は絶対必要であるという、計画者の判断だったのでしょう。列車を折り返すと言うことはそれだけホームを占有することに繋がります。やはり4面しかない構造で電車線2面が使われ出した際には常磐線を高架から一部の列車を逃そうという、戦前の想定だったと思えます。なお、山手・京浜東北線の複々線化は、上野駅方では当然のように思われますが、戦前の東京駅の東海道口の当初の計画は複雑を極めております。
 結局、電車線の複々線化は計画されながら、戦時になり、遅延を強いられ、戦後10年を経てからに形を成しました。田町・田端両駅の構造が決定要因と言えます。
 さて、問題の常磐線の高架部の使用は、秋葉原高架貨物駅の完成のS3年から始まり、本格的な使用はS4年4月となっていました。多分上野駅高架化では高架駅部と、東北線を跨ぐ架橋の橋台や擁壁の構築に時間がとられ、無論その工事空間が必要で、よって、東北線と運行している常磐線の間に、擁壁構築と盛り土をおこなう高架駅への登坂線の工事空間現場が最低3線分であり、その分を線路の移設で捻出した筈です。そして運行していた常磐上下線をS4年4月に付け替え、多分従来の2線を引き上げ扱いにし、第2ホームを電車に譲る等高架駅に余裕がなくなれば、鶯谷駅脇で亘りを設けようという心積もりを有していたのでしょう。しかし、戦時等で遅延化し計画されてはいたものの、実際に分岐器を挿入した可能性は極めて低いと思われます。なお、引上げ線になったと思える、地平駅へと結ぶ常磐線は、本来の線路であったのか、工事用に仮設されたのかは不詳です。『駅100史』などを繙くか、あとは工事レベルの図面となりましょう。
 なお、山手線をクロスする架橋についてのブログは参考になりました。
 変遷では例えば、goo地図昭和38年の精度の高い空撮では明瞭に3線とも鶯谷駅脇で車止めとなっております。
 1936年(昭和11年)では、
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=B29&courseno=C3&photono=61
にて見られ、道床が全体に白く何らかの改良があったように見え、民家の建ち様から国鉄用地の範囲が定まり、当該の2線が北方で常磐線に収斂していくように見えます。問題の箇所に分岐器の痕跡は窺い知れず、さらに鶯谷駅は外側だけの使用です。
 戦後間もなくでは、
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=M372&photono=47 の図も一応参考になろうかとも思います。
 以上、時間がかかりましたが、拙い管見です。

SYさん、ありがとうございます。
私もちょっと調べてみたのですが、『続鉄道路線変遷史探訪』を見ると、『この改良(電車線の高架化のこと)で常磐線の着発を高架にとることになり、昭和3年4月1日切換完了と同時に常磐線は高架に移った。』と記述されていました。
結論として、
・まだ高架ホームがなかった頃は当然常磐線は地平に発着
・高架ホーム完成時に常磐線は高架専用となり、地平には発着できなくなった。
・43-10で地平にも発着できるようになった。
というところでしょうか。
S7年の図が紛らわしかったわけですが、電車線が複々線で描かれているなど実際の図面ではなく計画案のような位置づけの図面だったようですね。
6181さん、いかがでしょう? これで熟睡できるのでは?

SYさん、お礼が遅くなり申しわけありません。上記書のS7の図は確かにご指摘の通りで、実態を反映していたとは考えにくい点納得いたしました。
(もう一つ、戦前の成書からの図が手元にありまして、これには留置線から引き上げ線へのポイントは書いてあるのですが鶯谷駅ホームまわりなどやはり計画図なのだと思います。)
結局、私たちの慣れ親しんだ上野駅の根幹は大正期の大改良計画と震災復興工事で決定されていたわけですね。
肝心のその頃の計画が断片的にしかわからないのが何とももどかしいですね…。
(たとえばそもそもなぜ常磐線を高架にもってきたかなども…常磐線電化のためにも山手・京浜線と接続したかったのかなど考えてみましたが…。)

先日現地を見てきました。
●常磐下り線の合流は曲線の間に両開き分岐が挿入してあり、しかもフログからすぐ上り方で勾配がはじまっている
●引き上げ線は14両しか有効長がない
など苦心のあとが見られます。
上記書収載の戦前の1万分の1地形図などを見ますと、鶯谷から立体交差付近にかけては、大正末年か昭和初年に谷側に新たに用地を確保したもののようです(市電線路の移設も行われています)。
当時すでにぎりぎりの面積しかとれず、当初の設計通りに施工するには困難もあったのか、とも考えました。

というわけで、f54560zgさん、やっぱり不眠の種は残りそうです。それに、国土変遷アーカイブ、戦前のものも収録されたのですね。こちらも寝不足の種になってしまいそうです。

6181さん、私も上野はだいぶご無沙汰です。最近の様子を見に行きたいですね。
寝不足の種に不眠の種、楽しそうでうらやましいです(笑)。上野の歴史、実にロマンですね。

はじめまして。
いつも楽しく拝見させていただいております。
さて、S7の「上野駅平面図(建設概要)」で描かれているという鶯谷付近で常磐線から分岐する地平へのルートですが、S9の東北本線線路図(東京鉄道局発行)では、S26の「入2」線につながり、線路の名称は「貨物着発線」となっています。
また、S26の図の右端にある常磐線の上1閉塞信号(図が切れていますが、4k844m地点に設置)は、当時は高架線への第1場内・貨物着発線への場内信号となっており、貨物着発線には4k589m地点に出発信号が設置されています。
ただ、貨物着発線の周囲の配線はS9とS26で変わりなく、貨物用の側線は見当たりません。
なお、貨物着発線の先は、S26の「入2」線のとおり、地平ホーム各線につながっていますが、本線扱いではないので、旅客列車の発着には用いられていなかったと読み取れます。

ruriiro310さん、初めまして。
貴重な情報ありがとうございます。
S3/4/1に常磐線は高架ホーム発着に切り替えられたわけですが、それ以降も地平ホームにつながる線路(切換前まで使われていた線路)が残されていた、ということなんでしょうね。いったいどんな使われ方をしていたんでしょうか。
なかなか悩ましい情報、ありがとうございます。

京浜東北線ホームドア設置工事が12月20日完成の予定ですのでどの様な様子か見て来ましたが10輌編成分のみホームドア工事されておる様です
と云う事は線路補修工事の折の線路相互使用は考えてないのか?
であれば山手線ホームドア化の折10号車の6扉車を変則4扉サハ23110-4000番代に置き換えた意味が無いのでは
或は私の見間違いかも知れませんので後日改めて確認に行こうと思います

yyoshikawaさん、ホームドアが10両分しかないのは不思議ですね。

京浜東北線・山手線併走区間(田町~西日暮里)の京浜東北線側の可動ホーム柵は、ホームドア10両分+手動開閉式の可動柵1両分となります。
使用頻度と設置コストを考えれば当然の措置かと。

↑ ×田町 ○浜松町 ですね。すみません。

明けましておめでとうございます 昨日用も無いのに上野駅へ行き京浜東北線ホームドアーの状況確認して来ました 既に完成して使用開始されてます さて問題のホームドアーはやはり10輌分しか設置されない11輌目はステンレス製の柵で仕切られてます
と云う事は山手と京浜東北の相互利用を考え無いののでしょうか 昔と違い最近は昼間の保線作業を省くからでしょうかであるなら何の為に山手線の231系235系の10輌目に投入した変則ドアー配置のサハ231 235は意味無いのではと思うのですが?

yyoshikawaさん
先日の名無しさんのコメントの通りかと思いますが・・・。

京浜東北線ホームドア改めて昨日上野駅迄行きどうなのか確認してみました
11両目に当るステンレス柵の部分ですが丁度ドア部分の柵は観音開き式の戸になっておりますホーム内側に開く様に蝶番がつけられてます山手線が京浜東北線を通折は柵扉の部分に駅員を配置するのか開けぱなしにするのかは山手線が京浜東北線に入線運転の折のお楽しみですね

>管理人さん

「過日の「上野東京ライン」で再登場」の 前。

「上野→東京」間では、
「東北新幹線への、用地に転用」で、
「上野=秋葉原が、残り」で、
「東京駅から、神田寄りの400mが、引き上げ線」で
使われていました ね。

その後に「東京→神田→秋葉原に、
神田駅ホームの「上」を線路が通るよう にして、
神田→秋葉原から先の区間につなげる=大工事」が
深夜間で始まり→見事、完成→供用開始 で、
「上野東京ライン」で、つながっています。

そのため、上野駅も、構内配線が変更されて、
「常磐線の 上野→東京→品川に、乗り入れ」が、
実現 できております。

東京上野間連絡線東北上越新幹線東京乗り入れ工事の折一旦休止撤去は御存知の事用地の余裕のある東京付近及び秋葉原付近は其の侭残されてましたが用地難の隘路である神田駅付近のみ新幹線直上に複層高架で連絡する事で工事を開始しました新幹線は其の侭旧連絡線路盤を使用で問題無く無事東京駅乗り入れを果たしました乗り入れに伴い神田付近では高架橋却を複層高架化出来る様準備されてましたが然し諸般の事情で東京上野間在来連絡線工事は凍結され此の侭廃止になるのではとまで言われる様になってました然し再び連絡線工事再開の話しが突然持ち上がります 其れは山手貨物線及び大崎支線品鶴線(横須賀総武線)利用した湘南新宿ライン運行による乗り換え無しで湘南地方と北関東を結ぶ運用が始まった事が再び東京上野連絡線工事再開へ向かう事となった 神田駅付近の複層高架工事を開始しました新幹線の運行に邪魔にならぬ様夜間に工事を集中して進め無事に開通の運びとなりました此れにより東海道本線対東北本線高崎線への直通ルートは湘南新宿ラインと上野東京ラインという二つの路線が東京都心を挟んであたかも路線別複々線の様相となるのでした

yyoshikawaさん
上野~東京間のスペースは新幹線でいっぱいいっぱいだと思っていたのですが、よく在来線も通したものですね。

あの重層化してる上野東京ラインの高架橋は活荷重がEA-17というEF65形重連に耐えうる基準で作られているんです(実際、EF65PFの重単が入線試験してます)。

ただ現実として、牽引するとなると34‰勾配での起動は貨物列車は500トン制限になります。まぁJR東日本が貨物列車を想定はしてないと思われますが、だとすればあえて客車列車を通す強度を持たせたのか疑問です。

北東航21さん
情報ありがとうございます。何かしらの設計上の基準があるのでしょうか。

工臨対策で電気機関車が通過出来る基準で設計したのでしょうか

高架橋や橋梁の設計は、どのぐらいの負荷がどのぐらいの頻度で通るかを想定して強度を設計しますが、このうち負荷は、上を通る最大軸重を用います(活荷重と言われます)。

かつての国鉄はKS荷重という蒸気機関車重連を基準にしていましたが、JR化後はEF65をモデルとした電気機関車重連のEA荷重と動力分散方式(電車)を想定したM荷重で設計するようになりました。

名古屋市長があおなみ線で蒸気機関車を走らせようとして、実験運行した際に名古屋貨タ以南に入線できなかったのは、金城ふ頭への高架橋がM荷重による設計で、機関車牽引列車が走る想定をしていなかったことによります。

工臨想定の可能性もありますが、あの短い区間なら、仮にバラスト交換するにしても、列車として運転する工臨より保守用車の方が勝手が良さそうですが。

ちょっとバタバタしていてレス遅くなりすいません、

:北東航21様
ご指摘有難うございます 蒸気機関車の運行がほぼ無くなりKS荷重の必要がなくなりEF65重連を基準にしたEA荷重で高架橋を設計した おそらく連絡線再開の計画段階では尾久品川間の客車回送も視野にいれていたのではと思えなくもないですね 其の後の諸般の事情から客車列車其の物がJR東日本では壊滅的な状況になり過剰設計となったのでは(個人的見解ですが)唯非常時に機関車が通過できる状況を用意して置くのは良い事と思いますが
かなり以前鉄道友の会主催首都圏貨物線探査列車という企画に参加したおり最終区間は総武緩行線の秋葉原高架橋を通過しましたが牽引機はEF81でしたか車内のアナウンスで冗談半分に神田川を越えるトラスアーチ橋が機関車の重量に耐え切れず落下する可能性があるというとてもマニアックな話をしていました総武緩行線秋葉原高架区間は確か電車専用で設計されており機関車が通過するには荷重がかかりすぎるから其の様な放送を流したのでしょう 可也低速で高架橋区間を通過し鉄橋崩落もありませんでした

どのようなことを想定していたかはわかりませんが、「一応機関車も通れるようにしておくか」といったところでしょうか。

総武線の神田川のアーチ橋とそれに続く秋葉原の高架橋は戦前の設計なので、KS荷重という蒸気機関車が通過できる設計です。なので、電気機関車もほとんどは通過できます。

径間10mの橋と径間40mのアーチ橋では、設計が同じでも、かかる重量は全く異なります。ですが、車体重量は2t近く増えています。橋梁には逆に負荷が大きくなります。

すいません。後半が一部省略されて文意が通らなくなりました。

径間10mの橋と径間40mのアーチ橋では、設計が同じでも、かかる重量は全く異なります。つまり10mの橋では、機関車重量の約半分の負荷がかかりますが、40mだと丸々2両分の重量がかかります。
同じ設計でも後者の方が金属疲労なども発生しやすく、衝撃も大きいので、入線制限や速度制限がかかります。

神田川のアーチ橋はおそらくそんな状態と思われます。まぁ入線している以上、落ちることはないですが。

ただ軸重制限にもマジック要素があり、例えば、D51の従台車を二軸化して、軸重14t制限をクリアしたのがD61ですが、従台車を二軸台車にしたため、車体総重量は2t近く増えてしまっています。
なので、車体長を上回る長さの橋梁には逆にD61の方が負荷が大きくなります。

橋梁設計における負荷は最大軸重だけでなく車両総重量も考慮したほうが良い気が・・・。

 神田付近の重層化は新幹線を建設するときから前提事実とされて基礎関係は建設されています。部内では常識だったのに地元には伏せておく、という方針も示されました。二重高架の環境問題は当時からあったようです。

東北新幹線の東京~秋葉原間の高架線が出来た時、私はすぐ、その上にもう一層建設するための準備工事がしてあることに気付いていました。
「地元には伏せておく」方針ですか、う~ん…

バレバレということですね。

> そもそもなぜ常磐線を高架にもってきたかなども…常磐線電化のためにも山手・京浜線と接続したかったのかなど考えてみましたが…。
根拠となる資料が見つからない書き込みですが、「昭和ヒトケタ年代の頃、土浦にツェッペリン号の格納庫が設置されていて、20万人の見物人が押し寄せた」という記述をどこかの展示パネルか説明文でみかけたことがあります。
(将来は「土浦国際飛行船場」のようなものになることを見越して上野から先の路線への拡張を考えていたのかもしれない)

航空機格納庫(仮)さん
新説ありがとうございます。

上野駅をセミ高架化及び地上線の頭端式改良へ踏みきった居り恐らく東北本線高崎線を地上頭端ホームに常磐線を高架ホームに振り分けて集中する乗降客を分離する目的だったのでは思いますが如何でしょうか

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