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2010年1月14日 (木)

浜川崎配線図

京浜工業地帯の工場群への専用線が無数に存在した鶴見線の貨物の玄関口だったのが浜川崎駅で、かつては浜川崎機関区も設けられていました。
貨物取扱駅ではありますが、かなり昔の時点から専用線発着貨物のみに限定されていたようです。
その後塩浜操に至る貨物線が開業し地図上は当駅から分岐するような形態になっていますが、実態は「当駅をかすめて通過している」に近い状態のため駅本体部分には大きな変化はありません。
この貨物線は今では東海道線の貨物のメインルートに躍進しましたが、逆に従来の駅部分は専用線の廃止が相次ぎ、いつしか機関区も廃止されて斜陽化を感じざるを得ませんが、それでもまだまだ元気ですね。

 

まずは1961年7月。1961072

1961071・尻手方は複線に見えますが、電車線と貨物線の単線並列です。
・扇町方も同様に電車線と貨物線の単線並列です。
・浅野方は電車線の複線と貨物の単線の3線です。
・尻手方に昭和電線の専用線がありますが、分岐が場内信号機の外方となっており、「?」です。
・浜川崎支線の電車はホームの両側、南武1番、2番の両方に発着していたように見えます。
・本線関係は、信号機や列車停止標識から判断すると、2、7~11、14~17番線は列車の発着が可能なように見えます。本線と側線が入り乱れていますね。
・扇町方に、5本の線路を一気に横切る大胆な日本鋼管の専用線があります。

 

続いて1977年10月。197710_2・起点と終点が入れ替わりました。今までは川崎起点だったのが汐留起点に変わったためでしょうか。
・塩浜操方面への貨物線が開通していますが、先に記したとおり従来の浜川崎駅の部分の脇を通過しているだけの形態です。
・従ってそのままでは塩浜操方面発着の貨物列車は浜川崎駅に出入りできないため、尻手方に折返線が設けられています。すなわち浜川崎駅も立派なスイッチバック駅なんです。このあたりには品川、新鶴見操、浜川崎と、隠れたスイッチバック駅が結構あったんですね。
・扇町方は単線並列のままですが、尻手方の単線並列は普通の複線に変わりました。
・浅野方の貨物単線は浜川崎駅のすぐ先で電車線に合流する形となり、この点では3線区間ではなくなったのですが、代わって塩浜操方面と浅野方面を結ぶ単線の貨物短絡線が新たに設けられたため、結果としてはやはり3線区間のままです。
・本線は信号機や列車停止標識から判断すると、2、4、7~12、14~17番線のように見えます。ほとんどが本線のようです。

 

続いて1986年3月。198603・1977年3月と比べて大きな変化はありませんが、扇町方で一気に5線を横切っていた見事なクロスはなくなってしまいました。

 

塩浜操方面と浅野方面を結ぶ短絡線は南武支線のホーム上を通過する壮大な建造物ですが、現在では使用されていません。いつ頃できて、いつ頃使用されなくなったのかはわかりませんが、実際に使用された期間はかなり短いのではないでしょうか。

 

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。
年表はJTB発行の停車場変遷大事典に基づきます。

 

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コメント

f54560zg さん、T.Mさん、いつも貴重な配線図を公開していただきありがとうございます。今年もよろしくお願いします。

1961年7月の配線図はたいへん興味深く拝見させていただきました。

当時は、まだ塩浜操がなく、浜川崎から先、現在の塩浜操方面は、川崎市電に三線軌で乗り入れていたのですよね。

上から二番目の配線図の4番線の線路名称が、三線区間出発線?になっているところなどを拝見できて、個人的には感動的でさえありました。

川崎市電に至る部分がすでに点線で描かれているということは、塩浜操が開業する前の浜川崎から先の貨物線は、専用線または他社線扱いで、国鉄の線路図には含まれていないようですね。

“専用線好き”さん同様、お二方には深く篤謝申し上げます(もう言葉がありません)。「味の素・第一セメント」等仕訳線に手書きで仕分け内容が付され、積年の疑問をどうにかはらせそうな感じです。ここ数日間同駅を中心にした輸送体系の再現をすこしでも考え直してみます…現今貨物線を走るようなイベント列車があるようで、情報に疎い者とすれば残念至極です。

浜川崎から塩浜までの3線路。まだ残っているんですよね。特別列車の車窓から確認できました。
浅野駅方面への高架線路にも乗ってみたかったですぅ。高架の上にも一部線路は残っているのですが。
有名な5本線を一気通貫する専用線。
SLの写真はよく見るのですが、
あの線路を見る場所が当時はあったのでしょうか?

専用線好きさん、SYさん
「味の素行」「三線区間出発線」などと書かれているのは気づいたのですが、何のことやらわかりませんでした。川崎市電の三線軌ですか。配線図左上の「請願側線」と書かれたところでしょうか。
LUNさん、塩浜操までの「第三の線路」は塩浜操のハンプの到着線につながる線路のようでしたから、ハンプがなくなれば廃止かと思っていましたが、まだ現役なんですね。
このあたりは工場の敷地に囲まれていますから、多分一般の人は無理でしょうね。特殊な許可で撮影されているのではないでしょうか。

“f54560zg”さんの御指摘通り、配線図左上の「請願側線」から市電へと繋がる形で『発達史』の「川崎港平面略図」に描かれております。単線で描かれている市電の日本鋼管前電停先で合流し、桜本先では日立造船へ、塩浜駅手前では川崎市埠頭へと分岐して、塩浜駅から先は複線の京成大師線で、日本冶金へ分かれ、川崎大師駅から味の素へ至っていたようです。まだ考え直し始めた段階で筆をとり、申し訳ないとも思っております。、

f54560zg さん、SYさん、

件の貨物線ですが、当初は、配線図右上の日本鋼管側線から工場敷地内を通過して大師線方面へ繋がるルートだったようです。

しかし、上記工場の操業に支障をきたすという理由で、SYさんが書かれている新ルートへと変更がなされたようです。

RM LIBRARY43 「川崎市電の25年」を参考にさせていただきました。

浜川崎界隈は、専用線入れ換えのための蒸気機関車のメッカだったと聞きます。

三線軌区間を路面電車とSLに牽かれた貨物列車が行き交う風景には、たいへん心惹かれるものがあります。

上のコメントですが、投稿者の名前を入れ忘れました。失礼しました。

SYさん、専用線好きさん、貴重な情報ありがとうございます。皆さんよくご存知なのでちょっとびっくりです(汗)。
買収鉄道、工業地帯、専用線・・・と、これだけでも鶴見線沿線はゲテモノ(失礼)の宝庫のような気がするのですが、加えて三線軌にSLに路面電車、これはすごいですね。

先の記載について、お分かりのように新小岩井と京成大師線をそれぞれ「新小岩」と「京急大師線」に恥を以て改めさせて下さい。多分岩崎弥太郎がでる録画のドラマを見た後に筆を起こし(小野・岩崎・井上の名を戴いた牧場)、京急はどうも苦手で、逗子方に3線軌道があった筈、押上駅を介して、などと雑念が多かった所為とご理解たまわり、深く反省申し上げます、何分にも関西圏に身を置いており、実体験と日常と記憶が充分に構成していない所為です。そして先ずは、他社線を介してでも行われ、塩浜操車場から伸びる形で引き継がれた臨海線3路線それぞれの重要性をいま噛みしめているところです。その意味でも狭い浜川崎操車場の位置づけを再確認しました。ともかく悪しからず、です。

f54560zg様おはようございます。
尻手方の配線図ですが2k997の地点に第一場内信号機1がありまして昭和電線の引込み線の内方3k372地点にある2A、2Bの信号は第2場内信号機です。

T.Mさん、久しぶりのコメントありがとうございます。
「浜川崎 2009/12/12 その1」の記事の終わりから3枚目の写真の信号機に「本ニ場」「電ニ場」と表示されていますので、多分「一場」があるのだろうなあ、とは思っていましたが、確認できていませでした。
SYさん、大丈夫です。ちゃんと意味は通じてますから。私も誤記はしょっちゅうですし。
最近は関東の記事ばかりですね。T.Mさんの絶大なご協力をいただければ関西圏のご紹介もできるのではないかと・・・・、スミマセン、とりあえず独り言です。

はじめまして。
「鶴見線」で検索していてたどり着きました。
もうかなり前に川崎界隈を18きっぷで友人とまわった記憶があります。春・夏休みを利用してでしたから、日数や時間制限に追われましたが…この頃はまだクモハ12が大川支線で現役でした。貨物はヤード方式廃止が始まった頃?ではなかったかと。
さて、有名な5本線を一気通貫する専用線ですが、こちらのHPに写真が載っております。参考までに紹介させてもらいます。「東高円寺写真館」で検索してみて下さい。
=鉄道風景・せんろ その他>せんろ・線路設備>クロッシング( 轍 又 )>浜川崎の平面交差)=

3060F・1801F・2601F好きさん、なかなか貴重な記録のあるHPをご紹介いただきありがとうございます。
浜川崎のクロス、見事ですね。小諸のトラバーサなども感激しました。

昨年のダイヤ改正でとうとう浜川崎発着の貨物列車は全廃になりましたね。今は石炭列車の長時間停車だけです。
目いっぱい余剰設備になってしまいましたが、
そのかわり、平日の朝ラッシュ終わり頃の時間に、鶴見線の3連やら南武線の6連やらが電留線として小一時間あまり留まるようになったもようです。ただ、昼までには本来の寝場所に戻っていくみたいですが。
そのうち、弁天橋支区が浜川崎に移転してくるのでしょうか。弁天橋も住宅開発華々しく地価の上昇が激しいでしょうから。

Nさん、ということは浜川崎駅も貨物に限っては信号場ってことですね。あの浜川崎駅が・・・。

こんばんは。
浜川崎駅の配線、興味深く拝見しました。
この駅に着くといつも、主役の貨物の片隅に居候しているような電車の風情を楽しんでいますが、実際に大きな貨物列車用の設備をこうして拝見すると、確かに!と納得感があります。
専用線からの発送が多々あった時代はもっと賑やかだったのでしょうね。
楽しませて頂きました。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/?pc

風旅記さん、今ではかなり貨物が縮小されていしまいましたが、以前はホントに「旅客はオマケ」のような雰囲気でした。

浜川崎駅の南武線側の折り返し線ですが、元々南武線の本線だったものを単線並列から複線への切り替えの際に切り離して作ったものの様です。

名無しさん
線増の際はどれがもともとからあったものなのかわかりづらいですが、南武支線の場合は高圧線が目印になるんですね。

はじめまして、時々昔の線路図を拝見しています。
国鉄時代、浜川崎~扇町間の車掌省略区間を電気機関助士として、乗務していました。大昔に他界した父親は、浜川崎機関区でSLやDLの機関士をしていました。日本鋼管の溶けた鉄を運んだ話や、市電の線路や京急の味の素など当時語っていましたが、詳細は判りません。浜川崎は、1986年10月2日の電気機関士の登用試験で、浜川崎→扇町方をEF6020で試験を受けたのが最後でした。浜川崎駅の近くを通ると、夜間の照明も暗くなったような気がします。

jm1xsjさん、はじめまして。
このようなお話をお聞きすると毎度のことながら「うらやましい」と感じてしまいます(汗)。
試験を受けられた頃と比べると今の浜川崎駅界隈は寂しくなってしまったようですね。

こんばんわ 浜川崎駅の線路図 大変興味深く閲覧させてもらいました。
ただ 失礼で申し訳ございませんが1974年と1977年度の空中写真と比較するとかなり実際の配線が違うような気がします。具体的には東洋埠頭と第一セメントの専用線です。特に東洋埠頭の専用線では東武鉄道佐野線上白石や大叶貨物駅からドロマイトや石灰石が専用列車で輸送された事が有名です。もし仮に実際の物と違うようで可能でしたら訂正をお願いします。
又このホームページを絶対に閉鎖しないでください。新型コロナウイルスの非常事態宣言の影響で外出を自粛しておりなおかつ仕事が減って休日が多くなり自宅でインターネットの鉄道関連のhpを閲覧する機会が多くなり国鉄時代の線路配線には昔からかなり興味があり 更新される日を毎回楽しみにしております。特に1978年当時の全国鉄線の専用線を含めた線路図 ですから絶対にお願いいたします。

雅彦さん
>実際の配線との違い
もともとが本線の列車運転用の図面と思われますので、専用線を含む側線関係は簡略化されている箇所があろうかと思います。申し訳ありませんがご了承下さい。

>ホームページの閉鎖
ご支援ありがとうございます。可能な限り続けたいと思います。

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