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2009年12月31日 (木)

新鶴見操車場配線図

品鶴線上に設けられた一大操車場、新鶴見操車場です。

(1957年以前の配線図はこちら。)

まずは1961年3月。

1961031

1961032

かなり想像が入りますが、多分こんな感じではないかと思うハンプにかかる貨車の流れは、
・品鶴線下り到着
到着線に入り、牽引機を逃がした後押上機が後ろからハンプにかけて分解。
・品鶴線・高島線上り到着
鶴見方で両者は合流し、上り本線1区~4区を経由して品川方のはずれの折返線へ、そして牽引機がそのまま推進で到着線へ。あとは押上機にチェンジしてハンプにかけて分解。
・品鶴線上り出発
組成後上り出発線に据付けられ、上り出発線1区~3区を経由して出発。
・品鶴線・高島線下り出発
組成後鶴見方のはずれの下り出発線に据付けられ、牽引機が連結されて出発。
・浜川崎方面からの到着
浜川崎到着線を経由して品川方のはずれの折返し線へ、そして牽引機がそのまま推進で到着線へ。あとは押上機にチェンジしてハンプにかけて分解。
ハンプにかからない場合は折返線をそのまま進んで出発。
・浜川崎方面への出発
組成後鶴見方のはずれの下り出発線に据付けられ、牽引機が推進で浜川崎押下線を経由して割畑1番線へ、そして浜川崎に向けて出発。
ハンプにかからない場合は下り本線1区から浜川崎支線へ。

折返線から到着線への推進の移動は信号機による「列車の運転」のようです。すなわちスイッチバックですね。
これに対し、下り出発線から割畑1番線への推進の移動は入換信号機による「車両の構内運転」のようです。すなわちスイッチバックではありませんね。

南武線の向河原駅とも線路でつながっていますが、こちらは列車が通る本線ではなく構内運転を行なう側線のようです。

続いて1967年3月。

1967031

1967032
基本的には大きな変化はありません。
品川方からの進入に際し、場内信号機1A/1Bの品川方の10.530km地点にさらに信号機が新たに設けられています。その先で同じく新たに設けられている左側に分岐する線路の役割が何なのかよくわかりません。
下り出発線から割畑1番線への移動には信号機が設けられたようで、構内運転から列車の運転になったようです。すなわちスイッチバックの仲間入りですね。

続いて1977年10月。

1977101

1977102

・武蔵野南線が開通し、品川方のメインルートは品鶴線から武蔵野線に移行しました。
・南武線鹿島田への線路はなくなりました。
・転車台の下方、鹿島田出発線は1961年3月時点では2線でしたが、ひそかに勢力を拡大してこの時点では4線になっています。ハンプにかけない継送とかに使用するのでしょうか。

最後に1986年3月。

1986031

1986032

ずいぶんと大きな変化がありました。
・横須賀線分離に伴い新川崎駅と横須賀線用の線路が設けられ、鶴見方では貨物列車は旧高島線方面のみの進路となって旧品鶴線の線路は横須賀線に明け渡しました。
・ヤード系の貨物輸送が廃止となり、名前も新鶴見信号場となって仕訳線群がほとんど撤去されてしまいました。
・到着線群も撤去されましたが、なぜか折返線は残っています。3番線以外は不要に思います。
・こうなってしまうと上り出発線と鹿島田出発線の違いがよくわかりませんね。

やはり現状をよく知らないのですが、この後抱き込み式で離れていた上下線は並ぶ位置に移設されるなど、不要な設備を廃止する合理化が進んだようです。
かつての一大操車場は、尻手貨物線の分岐と機関車基地だけが残っているといった感じでしょうか。

配線図は一部を除きT.Mさんよりご提供いただきました。
年表はJTB発行の停車場変遷大事典に基づきます。

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コメント

吹田 稲沢 新鶴見 やはり3大ヤードの貨物基地であり年末を飾るに相応しい配線図ですね。 宇都宮、高崎などよりのお二方の御尽力に感謝感激です。 たぶん新鶴見機関区も田端機関区や新小岩機関区と同じ日の訪問でしたが、同じく門前払いのようだったわりには通路の陸橋から見た転車台が印象的で機関区の規模も大きく貨物区としては東の横綱と言うところでしょうか。 ただ隆盛を誇った新鶴見機関区としては、もはや EF65-1000番台も衰退の時期が来ているようで、「シンツルのカマ」も死語になりつつあるようです…。

東京に住んでいながら新鶴見には一度も行ったことがなく・・・。配線図を見ると線路をまたぐ陸橋がいくつも描かれていますので、転車台やらハンプやらがけっこうよく見渡せたんでしょうね。後悔です。

年をまたいで、貴重なものを拝し賜り、寒さも心持ち和らぎました。さて新鶴見操車ですが、東京地区の三大操車を若い頃集めようと思ってみたところ、結果的には大宮を得ることは出来ず、新鶴見はよく集めえたと思っています。ただ、仕訳線が撤去された図は自身にはなく、いつも通り深謝致します(自身にはもう謝辞を表する語彙が皆無です!)。想像を逞しく曽てをふり返れば、貨車間のブレーキ管の解除、信号所での仕訳線分岐操作や、若い制動掛による減速貨車への飛び乗りと制動、難走車、出発線の入れ換えに関しては突放厳禁車等、、全国津々浦々からの雑多な貨車の仕訳を人海戦術で一手に引き受け、6000両を越え精緻で命懸けの作業を日々強いられたと思います(エライ人曰く「必殺仕訳…」)。同操車場に関し加えて言うなら、ハンプから直接貨車区へ送られる構造と機関区の大きさ、そして高島線の比重の大きさを推察されることでした(例えば「千若」って一体何処?)。ともかく機関区を含め文字通り東京の一大要衝であったことは明白です。

ハンプヤードと聞くと、おっしゃるとおりの「若い制動掛による減速貨車への飛び乗りと制動」が真っ先に頭に浮かびます。夜間、雨天、厳冬期など悪条件下での作業もあり、事故も多かったのではないでしょうか。命懸けで日本の貨物輸送を支えてくれた人々に感謝です。

拝啓
 私も幼児の頃,度々鶴見操車場を見物に行きました。その時の想い出を小生のホームページ「MC(モーターサイクル,オートバイ)についてのつれづれ」中の「国産MC)スクーター以外の二輪に就いて」の「余談Ⅲ 昭和30年代前半の神奈川県川崎市鶴見の国鉄貨物列車操車場小景」,「余談Ⅳ 花火見物」とに記してゐます。
 興味が有れば「MC モーターサイクル 国産トライアルバイク略史」と入力し,御一読下さい。
                          敬具

kazuさん、コメントありがとうございます。
子供のころは花形の優等列車への関心が強く、地味な貨物列車には興味が湧きませんでしたが、貨車の入れ換え作業は別でした。
入れ換え作業が始まるころになると自転車で近所の駅に向かい、行ったり来たりする機関車を眺めていたものです。

千若信号場は東高島の構内にありました。でも、千若常備の貨車があった覚えもあります。高島線には本線上の東高島や入江以外にも、新興や横浜市場など貨物駅がたくさんあっていつも入換えの機関車が貨車を入換えしてました。新鶴見操車場は96や86やD50がいた時代は知りませんが、末期のD51は日参したものです。鶴見駅出発の長大編成の下り貨物列車の吐く黒煙は圧巻でした。

D51791さん、コメントありがとうございます。高島線のサヨナラ列車の牽引機ですね。
私は高島線を訪れたことはないのですが、沿線には魅力的な貨物駅があったようですね。

拝啓
 一昨年,母校の國學院大学,「フオイエルコール混声合唱団」の同窓会に行つた際,約三十一年ぶりで「鶴見操車場」を漸く探し当て,余りの変はりやうに思はず一驚しました。彼の活気に満ち,貨車で溢れ返つてゐた光景は一変し,三十本以上も有つた線路は全て消え果て,一本の線路を残すのみの広大な更地へと変はつてゐました。
 往年の夥しい貨車なぞも一台も無く,単なる通勤電車の為の線路へと変わり果てて居り,昔の姿なぞは,何所にも見る事は出来ませんでした。
 「十年ひと昔」と,よく言います。「三十一年の歳月の流れは,かくも懐かしの『鶴見操車場』を変へる物か」と,近くに見へた一棟の空色の超高層ビルを眺めながら,「時」と言ふ「万物の破壊者」の強大な威力に,暫し唖然と為せられました。
 小生が住む,広島県福山市の近くに有る,三原市「糸崎操車場」や,広島駅近くの「操車場」も,同様に一面の更地へと変はつてゐます。
 先日,長男の勤務する岡山県備前市を訪れた時,昼食を食べに乗用車で食堂をあちこち探しました。すると,彼の懐かしの「貨物列車最後尾」に有つた「車掌用貨客車」が,色は本来の黒色から青色へと塗り替へられた食堂として,哀れな姿を晒してゐました。「敢へて中に入つて幻滅を味合いたくない」と私は思つたので,其処での食事は止めに為ました。
 今後も,彼の懐かしの「国鉄鶴見操車場」を後世の世代に伝へるべく,本ホームページに期待して居ります。運営と調査,研究,頑張つて下さい。
                         敬具
2003年8月11日(木)         吉田和隆
 

kazuさん、コメントありがとうございます。
国鉄貨物輸送が盛んだった頃を知っている世代の人間にとっては、かつての貨物施設の変貌ぶりにはただただ驚かされ、そして少なからずショックを受けてしまいますね。
今後ともよろしくお願いします。

 昭和33年から35年頃,私達小路の遊び仲間は木造平屋の市営住宅近くの田圃でのザリガニ採りでさんざん遊び,飽きると決まって「ソーシャジョーにいこう」,「うん,ぼくもいく」と鶴見操車場の土手に向かった。
 臨港バスやトラック,オート三輪が通ると揺れる陸橋の上で,夥しい数の列車や,手旗を振り機関車の運転席の横の窓から頭を出した運転手に指示する国鉄の人達が忙しく働くさまを眺めて貨車や機関車の名前や種類を当てるのが楽しみだった。 当時の蒸気機関車は当然,排煙を減らす装置なぞ煙突には着いては居なかったから,数台が煙を吐き出すと物凄い黒煙が操車場の空を覆い青空を隠した。
 蒸気機関車が黒煙を吐きながらこちらに近づくのが見えると,私達子供は決まってわざと陸橋の真ん中まで走って行き,石炭の煤の匂ひの混じった濛々たる黒煙の中に入り,ソレットと土手まで競争して逃げては遊んだ。お互い煤だらけになった顔と服を見合わせては笑い合った。
 或る日の夕方,私と一才年上の姉とはオモチャの刀の鞘を自宅の板塀越しに投げて遊ぶ内,洋間のガラスにぶつけて割ってしまった。当時,電話が無いからガラスの修理はガラス屋さんまで頼みに行って来て貰い,結構その値段も高かったから母は大層怒り,「晩御飯は食べさせない。家にも帰らなくていいから,何処でも行っておしまい」と私達に言った。
 仕方無く小倉小学校や公会堂に行って時間を過ごす内に次第に日は暮れ,やがて真暗闇となった。当時の小倉では街路灯なぞほとんだ無く,闇への恐怖と空腹から,遠くで不夜城のように輝く鶴見操車場に行く事にした。
 陸橋の上に幼児二人で佇み,沢山の灯火の下,貨車の間で忙しく立ち働く国鉄職員や,連結器の繋がるガシャンと言う音,列車の接続を指示する木造瓦葺板張り二階建ての建物から,指示するマイクの声,汽笛の音などを聞く内,二人とも悲しくなりシクシク泣き出した。
 やがて父母が迎えに来てくれ,漸く自宅に戻り遅い夕食を食べてから,泣き疲れて寝た。この日の体験は,たかだか3,4才の姉弟には可也強烈な物で,未だに記憶は鮮明に残る。
 また,夏の多摩川河川敷での花火大会の晩は,鶴見操車場近辺の町内から来る,大勢の家族達で両側の土手は人並みで埋まった。東からは小倉の他,北加勢,南加勢などからも,お母さんは浴衣掛け,お父さんはランニングシャツにズボン,子供達は男の子は半ズボンにランニング,女の子達は吊りスカートに白いブラウス姿で,団扇でバタバタ扇ぎながら,暗い夜空に遠く輝く遠い花火の色とりどりの小さな輪を眺めて楽しんだ。
 私の自宅の風呂は未だ珍しい内風呂が有り,仕事帰りの父が国鉄の制帽を被った可愛い小熊の絵が描かれた石炭の袋から黒い小さな石炭をスコップですくっては燃やして沸かしていた。多分,鶴見操車場では多くの蒸気機関車が常時走るためか,黒煙や騒音で近隣に迷惑を掛ける事から,安いな値段で隣接する町内に,蒸気機関車に使う石炭を,お米屋さんに卸して売っていたのではないかと今にして思う。
 遠い昔話です。
 

kazuさん、大作をありがとうございます。
このブログをご覧になっている方は時代の差こそあれ、同じような経験をお持ちなのではないでしょうか。
ちなみに私の場合は近くの中規模の貨物取扱駅で、時期は昭和40年代後半でしたので入換はDD13でした。何度か見に行くうちに入換が行われる時間帯がわかってくると、その時間を狙って友人と見に行くようになりました。DD13が貨車を連結したり開放したりしながら行ったり来たりするさまを飽きることなくじっと眺めていました。私にとっての遠い昔話ですね。

f54560zg さんと同じ様な体験をこの時代に致しました。自分がいたとこは,第2京浜国道から東海道本線当たりをよく見ていました。遊びがつまらなくなると”ソウシャジョウに行こうが”仲間の合言葉でした。小さい自転車で陸橋の取り付け小山をいくつも乗り越え、機関区の陸橋の上でEH10をよく見ていました。たまに橋を降りて傍で見たりして、怒る人や、説明してくれる人などいろいろな体験を思い出しました。また貨車区ニ勝手に入って行きトラバーサーの貨車の移動を眺めたり、救援客車の中を見させてもらった等、帰りに線路団横断をする時にものすごい汽笛が、ちょうど9600型が次の入れ替えのために通過するところでした、一同びっくりしました。ハンプ仕訳時間を教えてもらい陸橋の上から見ていました。複線になっていて
同時に4つの点灯合図で、スピードを調節していました。下では連結器の開錠を行う人が、メモを見ながら忙しく動いてます。貨車はゆっくり動きながら、坂をいくつもの塊となって、降りていきます。
機関車は96だと思ったらD51で行っていました。
時は過ぎ、ある鉄道関係の紹介で、操車場の説明を受ける事となり、リターダ操作室や仕訳線のそばで見る事が出来ました。これらの車輛の半分はカラですよとの説明を受けました。当時は、そんなこととは、思い出しました新聞誌上等であと2ヶ月で国鉄貨車分離扱いは終了で地域間輸送に転換すると。そしてこの操車場も作業を停止する残るのは機関区だけ。仕訳線は廃車置き場になるとの事。このたびの操車場作業説明は、あなた方で最後、次からの来客者からは廃棄作業の説明を始めると担当者は話していました。少ししてから京浜急行の上りの車内から偶然鶴見駅を見たら通勤電車クモニ13の汚れた車両が止まっているのを見ました。京急鶴見ですぐに降りて、貨物駅構内を勝手に行きクモニ13のところまで行き、あいにくカメラが無かったのですが、電車を見ていたころ職員の方がそんなに電車が好きなのと話しかけてくれました。実は小さい時からこの通勤電車を見ていましたが、もう無くなるそうですねと話しました。
”時間が有りますかと”聞てきました。なぜですか、”もしよろしければ職員ということでこの車に乗りませんか。ほかの職員が一緒ですが、聞かれたら駅へ行くと話ってください”とのことで車中の人となりました。今まで見ていた線路の上を走りながら、いつもと違う角度から見ることが出来ました。鶴見から東海道本線をまたぎ、国道陸橋をくぐり、上り貨車データ入力所(小倉バス停付近国鉄社宅前)で停車、次は乗り越し鉄橋の下あたりで停車、ここに新鶴見操車場駅という小さいホームと駅名標がありました。ここを過ぎたら、スロー運転でハンプの下をくぐりいったん停止。方向変換のため運転席変更その時に職員の方が”いかがですか気に入られましたか”と聞いてきました。”これから鶴見に戻りますが、おそらく誰も乗らないと思いますので、仕切りとを開けてもよろしいですよ”と声をかけてくれました。おかげで添乗しているような感じで機関区前、下り到着線のあたりと停車しながら鶴見駅に戻りました。最上級のお礼の言葉を残して操車場のほうへもどっていきました。しばらくして新聞等の報道の通り、新鶴見は無くなってしまいました。街中に聞こえたあの96・D51のとてつもなく大きなブレーキ音、EH10の出発警笛音等の音や夜空をコウコウと照らす夜間照明、消えて町も活気が無くなっている感じがします。

私は操車場の近く(現・中原区木月)に住んでいました。小供の頃ばすで川崎に行くとき操車場の陸橋を渡る時貨車の海の上を渡っているようで、心ときめかせたのを思い出します。昭和40年代はまさに国鉄全盛期でD51(すでに9600は廃車後)やEH10.FF15.EF60.65など楽園でした。又陸橋の上からはんぷ押上のD51ヤ、ポイイト係の人が2人掛りで全身を使つて、切り換え操作をしていたのを興味深く見たのをなつかしく思い出します。あーあの時代にもう一度行けたらなー

コンノタカヨシさん、陸橋のように上から眺めることのできるポイントって鉄道好きにはたまらない場所ですよね。
>あーあの時代にもう一度行けたらなー
全く同感ですね。

私は、昭和39年4月から昭和59年まで新鶴見操車場の国鉄職員でした。本屋(駅本部)の自動車の運転手として(構内の物品搬送)や(朝夕の駅長さんの官舎への送迎)又、怪我人がでたときは労災病院まで救急車代わりでした。その後は構内の上り駅別に移動そして試験で配車係になり配車本部、予備の配車係、組成本部B番の担当と成り
生涯の転勤は3回でした。東京駅(小荷物)-新鶴見操車場駅-錦糸町駅。東京鉄道管理局--東京南鉄道管理局--千葉鉄道管理局/只今71歳---*
先輩に恵まれて良き時代を過ごしました。

 5535646様 国鉄貨物全盛時代に新鶴見操車場勤務されたとの話 私見たいな外の人間にはとては羨ましい話ですが 趣味人と実際に現場で勤務されていた方の勤務の大変さは我々には中々伝わらぬものです 国鉄は全国企業でしたので転勤で地方勤務等も有ったでしょうけれど関東地方から離れなかったのは異例なのではと思います
 私の叔父も国鉄大井工場に勤務しており其の侭定年迄転勤しませんでした(鉄道工場勤務者は例外だったのでしょうか?)

5535646さん、私もyyoshikawaさん同様うらやましい限りですね。確かに国鉄職員さんは転勤が多かったようですね。

こんにちは。
新鶴見操車場も実に大きな設備を有していたのですね。国鉄貨物の華やかなりし時代を想像することができました。
少し前に、新川崎駅を降りて辺りを眺めたことがありますが、最後の配線図にあります線路間の空白を埋めるように配線を変更したのでしょう、だいぶ小さくなって、近隣には高層のマンションなどが建ち並んでいました。
拠点間を直行するコンテナ貨物列車が中心になり、操車場の役割がなくなり、各所で消えて行きましたが、その痕跡さえももう見ることができなくなってきました。雑多な貨車が仕分けされてゆく様子は、きっと今見ても、興味深かったことだろうと想像しています。
楽しく記事を拝見しました。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/

風旅記さん、昔の人はまさか新鶴見操車場がこのような姿になるとは思ってもみなかったでしょうし、今の人はここに操車場があったなんて信じられないでしょうね。

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