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2009年12月24日 (木)

東海道線東京周辺の貨物ルートの変遷

突然の突飛なタイトルでスミマセン。

昔、本か何かで「品鶴線」という文字を目にしました。
「品鶴線」? 「シナツルセン」? 時刻表には載ってない・・・。
というわけで、なんのことやらさっぱりわかりませんでした。
時私は東京の北東部に住んでおり、どちらかといえば東北線や高崎線、常磐線等がなじみの線区でして、東海道線についてはあまり縁のない線区でした。
「品鶴線」の存在を知り、後にそれが東京と東海道線方面を結ぶ貨物の大動脈であることを知って、東海道線の貨物列車がどのようなルートで東京に到達しているのかを理解することとなりました。

その後幾多の改良が行なわれ、現在では「品鶴線」も貨物線というよりは旅客輸送主体の線区へと変貌しました。

今回の記事ではそのあたりの変遷を辿ってみたいと思います。

どちらかというと自分の頭の中の整理のため、といった感じの記事なものですから、間違いやモレも多いかと思います。お気づきの点がありましたらご指摘をお願いします。

東海道線の貨物ルートが最初に大きく変わったは1929年の品鶴線開通かもしれませんが、ちょっと昔すぎますので、ここでは1964年3月25日の浜川崎~塩浜操間が開業した時点をスタートとします。

19640325

黒線は客貨共用、赤線は旅客専用、青線は貨物専用の線路のつもりですが、あまり厳密ではありません(荷物営業や通勤ライナー、カートレイン、レール輸送などややこしい話もありますので)。

下りの貨物列車で貨物のルートを説明します。

東京の東海道口の貨物ターミナルである汐留を出た貨物列車は、貨物専用線(通称汐留線)を通って品川に至ります。

品川で東海道旅客線とは別れ、山手線と並行する貨物専用の通称品鶴線となって大崎に至ります。

大崎はデルタ線を形成していて、まず目黒川(信)で山手貨物線が分岐し、次に蛇窪(信)で山手貨物線からの貨物線が合流します。つまり東北・常磐・中央線方面から東海道方面に向かう列車はここで品鶴線に入ります。
(目黒川(信)及び蛇窪(信)は1965年7月に大崎駅に統合)

品鶴線を西進し、南武線向河原付近で南に進路を変え、新鶴見(操)に至ります。

新鶴見(操)では高島方面に至る通称高島貨物線が分岐し、鶴見においては東海道旅客線を挟むように海側に高島貨物線、山側に東海道貨物線が並びます。

鶴見から先はそのまま東海道旅客線の山側を並行し、横浜を通って平塚へ、平塚で複々線から複線となって以降は旅客列車と同じ線路の上を走ることになります。

以上が貨物列車のメインルートになるかと思います。

従って汐留~平塚間において貨物専用(もしくは主体)の線路が存在し、このうち品川~鶴見間においては旅客線とは並行しない単独の貨物線を形成しています。

品川~川崎~鶴見の区間は貨物のメインルートからは外れますが、大森、蒲田、川崎において貨物営業が行なわれており、貨物列車の小運転が行なわれていた模様です。その関係でしょうか、川崎~小田(操)間の貨物線も存在していました。

また南武線向河原~新鶴見操間にも短絡線が存在しましたが、どうもこちらは本線ではなく側線扱いのようで、南武線の貨物列車を新鶴見(操)に入れるためのものではないようです。

次に1973年10月1日。

19731001

この日塩浜操~東京貨(タ)~浜松町間の貨物線が開業しました。
東京貨(タ)は後に東京の物流の拠点となる一大貨物駅ですが、この時点では直接東海道線に出ることができず、新鶴見(操)もしくは汐留で折り返していた模様です。

また同日武蔵野線も開業していますが、いわゆる武蔵野南線はまだ未開業ですので、東海道筋の貨物列車には大きな影響はありません。

川崎~小田(操)間の短絡線及び向河原~新鶴見操間の短絡線が同日付で廃止になっています。

その後1974年10月1日に大森、1976年2月14日に蒲田と川崎の貨物扱いが廃止(川崎の専用線貨物は残る)となり、この時点で品川~川崎~鶴見間の旅客線から貨物列車が消えたものと思われます(川崎の専用線貨物は南武線経由のため)。

次に1976年3月1日。

19760301

同日前述の武蔵野南線府中本町~梶ヶ谷貨(タ)~新鶴見(操)間が開業しました。
また、鶴見~川崎新町間の短絡線も同時に開業しています。

これにより東北・常磐・中央線方面から東海道線に向かう貨物列車は山手貨物線経由から武蔵野線経由に主体が移り、貨物線としての品鶴線のウェイトが下がりました。

鶴見~川崎新町間の短絡線は海側の高島貨物線からの分岐のため、東京貨(タ)から東海道線に直接に出られない状況に変化はありません。
T.Mさん情報では、新鶴見(操)と鶴見で2回方向を変える貨物列車も存在した模様です。

続いて1979年10月1日。

19791001

この日、東海道線の貨物輸送に大変革が起こりました。

鶴見で東海道線と分かれ、山側の横浜羽沢を経由して東戸塚付近で東海道線に合流する新貨物線が完成したのです。

この貨物線は鶴見の海側の高島貨物線から分岐する形となっており、これによりようやく東京貨(タ)から直接東海道線に出られるようになりました。

すなわち、東京貨(タ)~浜川崎~川崎新町~鶴見~横浜羽沢~大船が新しい貨物のメインルートになったわけです。横浜駅では貨物列車を見ることができなくなりました。

また、同日平塚までの複々線が小田原まで延長され、結果として浜川崎~川崎新町間を除いて東京貨(タ)~小田原間が貨物専用の線路でつながったことになります。
浜川崎~川崎新町の旅客列車はいわゆる南武浜川崎支線の電車ですから、この区間も実質的は貨物線のようなものですね。

続いて1980年10月1日。

19801001

従来の鶴見~横浜~大船の貨物線が旅客線に転用されたほか、貨物専用であった品鶴線品川~新鶴見(操)~鶴見間が旅客共用とされ、品川~新鶴見(操)~鶴見~横浜~大船間において新しい横須賀線ルートが形成されました。
正確に言うならば、この横須賀線ルートを形成するために新たな貨物線が設けられたわけですね。

最後に現在。

19861101

新しい貨物ルートはすでに一応の完成をみていますので、次の段階は不要なルートの廃止です。

1984年2月1日、ヤード系の貨物輸送が廃止され、新鶴見(操)は新鶴見(信)となる。

1986年11月1日、汐留駅が廃止となり、同時に汐留~浜松町間も廃止。

1987年4月1日、浜松町~東京貨(タ)間の貨物営業が廃止。旅客営業は存続。

1996年10月1日、汐留線の浜松町~品川間廃止。

1998年1月30日、浜松町~東京貨(タ)間の旅客営業を2003年3月31まで休止。その後どうなったのでしょう?

以上のように東海道線東京口の貨物ルートは、
・汐留から東京貨(タ)へ
・品鶴線から浜川崎経由へ
・横浜経由から横浜羽沢経由へ
・山手貨物線から武蔵野線へ
へと大きく変化をとげたわけです。

次回以降の記事では、関係する個別の駅の配線図をご紹介したいと思います。
(配線図は一部を除きT.Mさんからご提供いただいたものになる予定です。感謝にたえません。)

なお、この記事に記載した年表はJTB発行の停車場変遷大事典に基づきます。

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バックナンバーはこちらからどうぞ。

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コメント

大正後期の東京駅の開業と昭和初期の品鶴線並びに新鶴見操車場設置、丹那トンネル開通は、東海道線方の一大改革であったと思えます。次いで半世紀がたち5方面作戦(各線複々線化)と東京外環状線計画となり、東京貨タ駅の設置です。以降比較的短いスパンで各線が変容していった気がするのですが、今や一種品鶴線はフレキシブルに使われる花形となりました。自身の記憶では大船駅から北東への貨物新線が工事の真っ盛りであったことをふと思い出します。ともかく今後を牙を隠して心待ちにさせて頂きます(来年は寅年できつい図案ばかりから、柔らかな図案で何とか賀状を仕上げようと悩んでいる最中で)。

浜松町~東京貨物タまでの線路はなんとか残っているみたいですね。探検予定(笑)。
向河原駅や川崎駅の貨物は車窓から何度もみているのに、線路の写真を残さなかったのが残念です(泣)

SYさん、山手貨物線や東北線の貨物線、それに品鶴線などかつての貨物線が旅客用に有効に活用されていますね。大阪では城東貨物線など。今後をお楽しみに。
LUNさん、ということはまだ「休止」扱いのままなのでしょうか。レールも残っているのでしょうか。でももう列車が走ることはないのでしょうね。探検レポート期待しています!

f54560zgさん、みなさん、こんばんは。

昭和43年10月改正の貨物時刻表が復刻されるようです。

http://www.kotsu.co.jp/book/train/60.html

当時の「東海道線東京口の貨物ルート」にどんな貨物列車が走っていたのか、興味津々で、ちょっとページをめくってみたい気持ちです。

「東海道線東京口の貨物ルート」のブログ記事もついに小田原まで到達ですね。

数々の貴重な資料を拝見できて感謝の言葉もありません。一冊の本にして出版できるほどの、内容の濃さ・深さなのではと、生意気ながら思いました。

これからも楽しみに拝見させていただきます。

専用線好きさん、情報ありがとうございます。
早速購入しようとしたんですが、売り切れのようでした。
掲載している資料はT.Mさん所蔵のものですので、言ってみれば私は他人のフンドシで相撲をとっているようなものです。
T.Mさんに改めて感謝です!

それは、「しなずるせん」ではなく、「ひんかくせん」
です。
詳しくは、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%81%E9%B6%B4%E7%B7%9A
でどうぞ。

横須賀線さん、コメントありがとうございます。
大丈夫です、「シナツルセン」?と思った少しあとには「ヒンカクセン」であることを知りましたから(笑)。 

現在、東海道線の貨物列車は鶴見~小田原間は貨物線を走行していますが貨物線のリフレッシュ工事の時や、金曜日、日曜日の深夜は旅客線経由で運転されます。

旅客線経由さん、コメントありがとうございます。
京阪神地区ほどではないかもしれませんが、結構弾力的な使い方をしているんですね。昔はそれこそカタブツ的な使い方しかしていなかったように思うのですが。

 地元の人によってはしなつる線と言う人もおります 今は貨物列車は減りましたが貨物線時代にも可也フレキシブルに使われて居りました 新宿発伊豆方面行急行列車いこい号等はEF58が客車を牽引して大崎支線蛇窪から品鶴線に直通していました1969年頃全学連の羽田闘争で蒲田付近で東海道本線が使えなくなり品鶴線経由で寝台特急を運行した事も有ります叉今も品川戸塚間で東海道本殿に支障が有ると品鶴経由で東海道本線の列車が運行される時も有ります

yyoshikawaさん、貨物線は旅客線の別線線増線のようなものですから、その気になればいろいろと有効活用ができますね。

 直接は関係無いのですが遥か昔新幹線計画のおり有名なコンテナ貨物電車列車を走らす計画も有りました 静岡名古屋鳥飼に貨物駅を作るべく用地も確保されていました然し新幹線による貨物輸送計画は中止になり用地は静岡は操車場に転用後静岡貨物駅に名古屋は新幹線電留線に転用鳥飼は払下げられました 所で東京は何処に貨物駅を設けるつもりだったのでしょうか
 計画段階でのイラストでは汐留の一画に作られる様なのもありました コンテナ貨物電車計画は50年近くたって佐川急便コンテナ電車で実現しました 国鉄5000形6000形等初期標準コンテナは構想時新幹線輸送にも利用する計画だった模様で実現時在来線と90°向きを変えて積載するようでした 

yyoshikawaさん、「新幹線で貨物輸送」と聞くと、大変失礼ながらちょっと滑稽な印象を受けてしまうほど、時代は変わってしまいましたね。

・「湘南新宿ライン」
・「大宮~国分寺方面」
・「湘南新宿ライナー(おはよう)」など、
貨物線を経由 が、増えましたね。

昔の「武蔵野線=貨物線 の構想 から、
全国で の=
短絡線が多く建設され 使用できていた事」が、
現在の
「ミステリー ではない、活用路線へ の変貌」で。

実際、「おおさか東線」も そう ですし。

今後に、
変化がある のが「横浜羽沢 貨物駅」周辺。

名無しさん
貨物の衰退で昔は考えられなかったようなところを旅客列車が走るようになりましたね。

昭和50年代前半、東海道本線の「貨物用」電気機関車の運用を熱心に?調べていました。
東海道本線から東京貨物ターミナルへ向う特急貨物列車は一旦新鶴見操に入っていて、そこから「品鶴線経由(汐留経由と書いてあった?)」「尻手経由」「鶴見経由」の3ルートがあったと思います。
品鶴線経由が一番多く、次に尻手経由で3本から5本ほど、鶴見経由は1本だけだった記憶です。この記事で3ルートが何処をどう通っていたかがつかめました。また、尻手を通すと品鶴線経由と機関車の向きが変わるので、東タでは来たルートで機関車を折り返していたと思います。古い記憶ゆえ間違っていたらすみません。有難うございました。

Lewaneさん
情報ありがとうございます。そう長い期間ではなかったと思うのですが、複雑と言いますか苦労の運転がなされていたのだと思います。

東京南部に於ける貨物輸送の変革に於いて先ず思い浮かべねばならいのは日本鐡道山手線から官設鐡道東海道本線への短絡線である大井支線を俎上に挙げねばならないのではと思うのです 時は日本と中国が朝鮮の覇権を争った日清戦争の折東北地方へ路線を伸ばした日本鐡道沿線より兵員を速やかに戦地へ送る為当時両者の連絡駅で有った品川駅を経由する手間を省く為に山手線の現大崎と東海道本線の現大井付近に信号場を設け短絡線を開通したのが皮切りであったと思うのは私だけでしょうか 其の後此の短絡線は横濱にやってきた外人観光客を関東の名勝地である日光へ送る専用列車の運行等で利用されていたりした 今日の湘南新宿ライン経由の伊豆方面への観光列車踊り子号と同じ事を明治の頃既にやっていたのは先見の明が有った 大崎の分岐信号場は其の後貨客駅大崎駅誕生の元となった 大井信号場は其の後京浜線電車運転時に旅客駅として現在に至る 大正時代になり第一次大戦後の経済発展で鐡道省は東海道本線対東北方面の輸送量の増大に伴う品川操車場建設其れでも捌き切れず更なる輸送量増大を見越して山手貨物線の目黒川で分岐し池上付近を通り丸子付近で多摩川を渡り川崎の鹿嶋田付近に品川操車場を上回る巨大操車場新鶴見操車場設け其の後鶴見で東海道本線に合流し平塚迄東海道本線に張り付く形で路線別複々線で新規の貨物線を建設する事を考え実行に移した品鶴線のアウトラインが出来た 更に大崎より新貨物線と連絡する短絡線を建設して東北方面からの貨物をストレートに東海道方面へ送るルートも建設此れにより目黒川大崎蛇窪一駅二信号場変形デルタ線が形成された其れは後々色々な面で役に立つ存在になった 品鶴線と大崎支線の完成で存在意義を失なった大井短絡線は品鶴線開業以前に大井付近の浅間台の大地より品川操車場埋め立て工事の土砂を搬出した跡に新橋から移転した車輛工場(大井工場現東京総合車輛所)の構内線に組み込まれ試運転線として機能した後に用地不足の品川電車区増設に大井工場の改善工事で空いた東海道本線側に立体電車区建設其の折電車区入出区線として変更され消滅した 品鶴線は目黒川信号場から分岐暫く築堤で目黒川の谷筋を越え大井工場線大崎支線を越え槍が崎で一端築堤が切れ其の先大崎支線と路線別複々線で合流する戸越台の住吉迄再び築堤で行き立会川の谷筋を再び築堤で越える辺りで大崎支線との合流分岐の蛇窪信号場(現西大井駅)其処から先暫く切通しで金子山付近を通り其の先暫く築堤と切通しが連続し上池上付近の呑川谷筋を築堤で越え御嶽山付近で再び切通しで抜け丸子で多摩川を越えて再び築堤で新鶴見北付近で平地へ降りる迄殆どの区間で一般道と立体交差する線形は当時としては異例の事でした・・

yyoshikawaさん
大井支線の歴史情報ありがとうございます。東海道~東北の連絡は、今では武蔵野線が主流ですが、その前は山手貨物線、さらにその前は大井支線がその役割を担っていたわけですね。

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