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2009年9月10日 (木)

作並 1987/6/6

仙山線は日本で初めて交流電化が行なわれた線区であり、短い線区ながら一時期は交流・直流・非電化が共存するという特徴ある線区でした。

作並駅はその仙山線の中核となる駅で、機関区が設けられていたほか、黒磯に先んじて交直地上切替が行なわれていました。
私が訪問したときはただの交流電化区間の一中間駅になっていましたが、機関区の遺構が残っており、当時の雰囲気を感じることができました。

ところで、作並機関区にはED14やED17の直流電機とED44やED45の交流電気の両方が配置されていたようですが、機関区構内の交直設備はいったいどうなっていたのでしょうか?

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仙台方からです。
列車は2827M折り返しの2828Mです。

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仙台方です。旧機関区が見えます。

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踏切を渡って2・3番線ホームです。

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仙台方です。

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仙台方からです。

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旧作並機関区です。

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保守基地になっています。

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傍らには転車台がありますが、線路はつながっていないようです。

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貨物列車がやってきました。5862レです。

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作並駅の全景です。

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バックナンバーはこちらからどうぞ。

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コメント

f54560zgさんが訪問された同じ年くらいに仙山線に乗りました。山形から仙台までの直行列車で車内が混雑しており、作並に転車台が在ることも知らず車窓から一瞬目撃して驚きましたが、通過時進行方向に車庫は見る事が出来ました。 交流電化の試験が行われた事や試作交流機の配置が有った事は知っていましたので、ほんのわずかな目撃でしたが交流電化発祥の歴史的な地を通過した事に胸の高鳴りを感じたのを覚えています。 写真のとおり車庫の側を通過する時、その高さに驚き、ED45などの試作交流機が車庫内いた姿を想像してしまいました。 同じ機関区に直流機と交流機の混在は興味深いところで、私も交直セクションなどの様子が気になっていました。 時は流れ2000年代になってから機関区跡が気になっていたので、近場の温泉地を訪れるため作並駅を2000年と2006年に2度利用しました。 ホーム上からの見学で草も生い茂り私の眼の錯覚でなければ、転車台はそのまま埋められてしまい支柱が地上に残っていたようで、その光景に複雑な心境となりました…。 f54560zgさんは作並駅山形寄りの小高い山から全景を写されたのですね。私が2006年にホーム中程から山形方を写した写真の右手にあり、ここを登られたのかと…。 今では草木が成長して同じ写真は無理かもしれませんね。  三年前の夏に作並を訪れた前日に米坂線から今泉、荒砥を訪れていました。旧白川信号場の建物がぽつんと残っていたように思います。 また、今泉駅の跨線橋から長井方を撮った写真に信号機が5基程写っていますが、私のレベルでは説明出来ないようで残念です…。

E10さん、あの機関庫はまだそのままなんでしょうか。積極的に「保存」しているようには思えませんでしたので、奇跡に近い気がしてしまいます。どうせなら転車台もセットにして欲しかったです。
今泉ですが、お願いがあります。私の今泉の記事の最初の写真に信号機が3基写っています。これをベースにした場合、5基の信号機がどのように配置されているのか教えてください。よろしくお願いします。

【作並】写真のED78重連のタキは蔵王の石油基地からのようですね。次の蔵王の項で知りました。機関士さんは小休止なんでしょうか、乗降扉が開いていますね。もしやf54560zgさんとお話とか? 保線に転用された機関庫は、06年夏の時点では健在でした。 私が86年頃作並機関区跡を初めて見た時は、すぐれない天候のせいでしょうか廃墟のように見え先行きが心配でしたが、近年までも生き延びてくれたのは嬉しい限りです。 最北の幌延、さらに上川、伊達紋別、木古内…。保線車両には贅沢な荒屋新町、小国、等々…。昔の機関区や駐泊所がまだまだ全国各地で保線車両の車庫に転用されて面影を残しているのが幸いです。

機関士さんとお話など、めっそうもございません。
蒸機がなくなって必然的に給炭・給水設備、転車台なども多くが消えてしまいましたが、機関庫が保線車両用として姿をとどめていてくれているのはうれしいですね。

 里山工房に作並機関区の1966年頃の様子が掲示されております 機関区建屋内に直流電化初期の輸入電気機関車ED17と試作交流電気ED90 91が共存して収まっておる姿何方も試鹸的に導入された経位の有る機関車同士が隣合う姿は微笑ましいものです 交直はセクションで切り替えて居た様で里山工房の主催者のコメントが有りました
 後何故か作並機関区ターンテーブル奥に収められたクモハ11122が略全方向で撮影されておられ参考になると思います 当時木造救援車ナエ17263も配置されておりましたあの当時未だ地方に行くと以外な車両との出会いが有ったと思うともっと早く生まれてればと思うのですが

yyoshikawaさん、私ももう少し早く生まれていればもっと蒸気機関車と接することができたのに、と思うことが多々あります。

 最後の全景写真を見ると、交直接続のときの架線の切換が気になります。架線をどのように区分してどのような入換をしたのか、どなたかご存じありませんか?
 どう考えても黒磯のスケールになるので、作並の配線では不可能です。もしかして着機関車が機関区に入ってから発機関車が出区するのなら構内全体を切り換えるだけですみます。
 眠れなくなりそう。

 重ねて恐縮ですが、先稿のつづき。

 下り列車が到着のとき、出発の直流機はどこに待機していたのか、到着の交流機はどの経路で逃げるのか、対向列車がいたときの競合は、と疑問が尽きません。
 自分で構内ダイヤをひいて見てもこの配線ではどうしても無理です。

> C6217さん、こんばんは。

鉄道ピクトリアル2013年6月876号「特集 交直接続」で、48ページと49ページの間の折り込みに、「作並駅交直乗入設備略図」なる資料があり、本文、写真ページにも簡単な解説があります。

解説によれば、構内を8区間に区分してセクションを設け、直流、交流を任意に加圧でき、信号機、標識は、架線電源と連動していたそうです。

上記「設備略図」に含まれる架線区分図をみますと、機関区よりつながる上り3、4番線は直流専用ですが、

下り本線、上り本線、上り1,2番線、上り安全側線、下り安全側線、仙台方本線の一定区間、
羽前千歳方本線の一定区間

がそれぞれ別区分となっており、交流、直流の加圧が任意にできるしくみだったようです。

したがって、「設備略図」に含まれます入換標識の進路(線路)図を参考にしますと、例えば、下り列車到着時、到着の交流機が、下り本線→羽前千歳方本線→上り2番線へと逃げた後、上り3番線に待機していた直流機が、上り3番線→羽前千歳方本線→下り本線と移動することなどが可能な設備になっていた模様です。

KASAさま、 ありがとうございます。
 このようにコマ切れ区分するとは思いつかず、思考力の低下に慨嘆しています。
 それにしても異電源への冒進防止は操車担当と機関士の入換標識確認に頼っていたのですね。現在なら実行できたか疑問です。
 今晩から熟睡できます(笑)。

C6217さんの疑問はまったく同感ですし、またこれに対するKASAさんの的確なご返事、誠にありがとうございます。

 KASAさんの説明を基にして区分表を勝手に作成して見ました。説明のとおり8区分になりました。やっと100%納得です。

 1 下り本線・下り安側線
 2 上り本線
 3 上り安全側線ブロック
     各線への分岐含む
 4 羽前千歳方面(下り方)の本線ブロック
     各線への分岐含む
 5 仙台方面(上り方)の本線 
 6 上り2番線
 7 上り3番線(交流機待機線)
 8 上り4番線(直流機待機線)

 以上は駅構内のみ、機関区構内は別途

 交直セクションは駅構内のみで11箇所(別に機関区構内にあり)
 セクション通過の入換標識は11箇所の両面として22基ヶ必要です。進路用ならばもっと少なくてすみますが、電源確認用は各線だとに必要でしょう
黒磯で見かけた電源確認標も同じ目的でしょうか?

 機関車交換には最低10分を要すると推定します。疑問のはじまりは幹線のように整備された機待線を想像したからてす。
 おさがわせしました。

C6217 さん、こんにちは。

「8区分」について、私の説明不足でした。申し訳ありません。

拙ブログにアップしました図を御覧いただければと思います。私の作成した非常に雑な図であることはご容赦ください。

図中の101~108は原図そのままの付番ですが、この付番により、雑誌では「8区分」と解説されたと思います。

正確には構内9区分、機関区を含めれば10区分でしょうか。

なお、下り貨物線、上り本線と上り1番線間の側線(名称なし)も電化されていたようです。
 http://senrozu.blog17.fc2.com/img/20160919Z5HH1Z4V/

雑誌掲載図面上、「電源種別表示灯」なる記述がありました。ただ、設置は3カ所のみのようです。これが電源確認用でしょうか・・・。

電源確認について、補足です(汗)。

同一地点に交流用、直流用、別々に(進路用)入換標識が設備されていたようです。

KASA さま、ありがとうございます。

 安全側線を機待線に兼用しているのですね。これなら発機関車が本線に出て待機することができます。5分停車で機交換が可能です。

 場内信号機に添装(と思える)の電源種別表示灯は機関士に見せるためでしょうか? 入換がここまで来る事はないし・・・・。

>C6217様

>場内信号機に添装(と思える)の電源種別表示灯
>は機関士に見せるためでしょうか?

たぶんそうだと思われます。

上り安側の傍らにあるものは、線路挟んで左側ですが、入換標識反応灯もセクションのところに設備されていますので、入換標識の確認が困難のため、操車掛に対するものかと思われます。 

C6217さん、KASAさん、ありがとうございます(汗)。

磐越西線の‟ED77”に続いて‟ED78”の普通列車を乗りに行き、作並で交換の急行を待って、記念碑を駅の人に聞けば、目の前にあり写真撮り列車が発車して、強引に乗ろうとして当時の親みたいな駅員に怒鳴られたことを思い出せば懐かしいものである。駅の近くのコケシ売っている店で時間取らせてもらって、次の急行で山形へ出た。
山形市は、福島からの奥羽本線とこの仙山線の終点の合うことで、宮城県に隣接した盆地に県庁所在地になって、関西で京都市と大津市同様に、仙台市と全国で2カ所の県庁所在地が隣接していている。通常は、海に面した‟酒田市”か‟鶴市”に
県庁所在地になっているものである。
交流電化の試験されて、北陸本線で新幹線の試験目的で採用された。旧型直流電気機関車が運行していた写真雑誌であった。一時鉄道ジャーナルのタブレットで、北陸本線の直流化を簡単に言う者がいた。敦賀まで直流化するだけでどのくらいの負担があったか、糸魚川まで直流変電所の設置の負担や維持費がかかるか判っていたのか?直流電化の交流化みたいな訳には行かない。今は仙台~山形間の最短距離である。

今月発売された鉄道ピクトリアルアーカイブセレクション43国鉄情報1955~59のページ96に仙山線における交直接続方法という記事が掲載されてます 当時仙山線は全長5361mの仙山トンネル対応で既に当初作並山寺間が直流1500Vで電化されていた後に山形迄電化延長された 戦後国鉄は交流電化の研究実験に仙山線仙台作並間が選ばれ日本で初めての交流電化区間となりました
交流区間と直流区間の接点が作並駅となり交直切り替え方法の実験を作並駅で検証した アーカイブセレクションの記事では当時の作並駅の配線図が掲載され実線と併破線で表記       
実線は直流1500V破線は交流20000V 構内の主だった線は両者併用で構内を8に区分し架線に区分碍子を設け其々架線に直流交流を区間毎に切り替えスイッチで流す方式で対応 区間に何方の電気が流れているかを作業員が地上で解る様入れ替え信号器に併設した進路電源表示器で=~表示何方が架線に流れているか表示していたのです
   

yyoshikawaさん
注文しました。

きょう、作並を訪ねました。以前からいつか聖地の参拝をと念願していました。やっと実現してイスラム教徒のメッカ巡礼の気分。
 機関区構内を2時間ほどウロウロして、78年前の先達たちの苦労と偉業を偲びました。いま帰宅して興奮覚めやらぬまま記しています。
 写真とあまり変わっていませんが、樹木の生長はカメラアングルを狂わせてしまいます。
 転車台は健在。発祥の地の石碑は台座へ載せればずっと見栄えが良くなります。機関区事務所の跡地は自然林に還っています。

鉄道の歴史的には非常に重要な作並駅です。機関庫や転車台が聖地の象徴ですね。

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