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2009年9月19日 (土)

水戸・勝田 1985/1/2

これも何かのついでの撮影です。ロクでもないものばかりですがご勘弁を。

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水戸です。日暮里方からです。

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転車台は押さえます。

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水郡線の出発信号機は2灯です。

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続いて勝田です。
常磐線の中電は昔はピンク色でしたが、こんな色になっていました。

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茨木交通線ののりばです。
機回線も押さえます。

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勝田電車区です。

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コメント

昔地形図を買ったところ、内原駅西方で線路表示が二本に分かれ一体どんな構造なのだろうか、と思いました。最近水戸駅から電留線が移設されたり、また夾まれた中に転車台跡が航空写真から読み取れ、戦時中の操車施設だったと30年経て確認できました。さて水戸駅ですが、RP雑誌の№758に、勝田電車区が開設された頃の昭和37年の同駅水戸機関区が掲載されており、庫を有する転車台の北にもう一基転車台があったと知りました。中電が蒸機や客車に代わり始めた頃の図なのでしょう。ただ時代の変化をこうむっても、狭くなった駅南西部の線群には何故か水郡線用のDCが場に馴染んでしまうような感じが。

勝田駅茨木交通線乗り場いいですねぇ。
昔は柵なんかなくて。

機回り線を写しておくのは当然ですね(笑)

SYさん、戦時中の操車施設というのは不思議ですね。どのような需要が予測されて、またそれがどのような理由で消滅したのでしょうか(というより、本当に機能した時期があったのでしょうか)。それに、本線抱き込み式の施設が廃止されると普通は線路を移設すると思うのですが、いまだにそれもなされていないというのも不思議ですね。

LUNさん、そうです、機回り線は基本中の基本です(笑)。

【水戸】 上野の項の、ブルトレ瀬戸から ひたち に乗り継いで降り立ったのが元日の水戸駅でした。 f54560zgさんの訪問されたちょうど二年後だったでしょうか、既にEF80は退役した後のようで見かけることもなく残念でした。 水戸機関区は山口線で活躍中のC57トップナンバーが新製配置された機関区であり、ハドソン、D51、C58、ハチロクなど多数配置されていた重要な機関区だったので駅から胸躍らせ機関区に向かったのを覚えています。 職員の方に構内を案内して頂いた後に事務所で少しお話が聞けたのですが、以前は旧来の3線式短形庫と、SYさんのおっしゃる転車台がもう一基あり、たぶん話題の内原駅西方の操車施設のことだと思うのですが、水戸機関区のSLを戦時中に空襲から疎開させていたと聞いたように思います。 また、EF75が廃車保留車か休車として留置されていて、転車台本線寄りのチドリ線に(ちょうど写真2枚目のDE10の辺り)ELが入線しているのが珍しかったのも覚えています。 写真右端に写っているゼブラ塗装された鉄柱は給水塔だったと思いますが、構内で写真を写していたら、3枚目の写真ように給水塔の影がちょうど転車台にかぶっていて、その光景が印象的な元日の水戸機関区でした…。 水戸機関区を後にした私はその後、小山、宇都宮、福島、米沢、山形、長町、会津若松より只見線と巡り、小出から普通列車で上野へ向かい、東京から寝台急行銀河で帰郷したようですが、まだ水戸にいる時に、そのまま常磐線で内郷、平、原ノ町へ向かうか、平より磐越東線の小野新町を経て、郡山へ出るか、水郡線で常陸大子、郡山へ向かうか迷っていましたが、平や原ノ町には転車台や扇形庫は既に無く、小山の転車台と宇都宮に扇形庫と転車台が有ると聞き、水戸線の乗客となったのですが……。

E10さんもいろいろ各地を巡り歩かれていたんですね(前にも書いたかもしれませんが、ぜひ拝見したい・・・)。
それにしても架線のないところに置かれた電機というのはかわいそうですね。

水戸機関区のSL甲組の肖像にはふたつのターンテーブルを持つと記されていましたが、1965年の配線図を見る限り一つしかありません。これはある機関助士が撮影された1963年時点であったのでしょうか不思議です。

1089さん、コメントありがとうございます。
1958年3月の水戸駅の配線図には2つの転車台が描かれていますので、この後1965年までの間に1つが撤去されたのではないかな?と思います。

最近のコメント欄に「水戸」の文字が躍っていますので、水戸・勝田の項を見返してみました。
改めて見てみますと 凄い 数両の EF80が水戸構内に集まっていますね。
正月期で貨物が運休だからでしょうか。

私が EF80に接したのは一度きりで、例の上野からの十和田53号の牽引機でした。
所属は内郷機関区。
深夜に通り掛かった12系客車の車窓から、薄明かりの照明に浮かぶ内郷機関区を一瞬垣間見たような記憶があります。
いずれ内郷配線図の出現も期待させていただきたいです。

こちらの以前の私のコメント内に、もっと 凄い ことがありますね。
「EF75型」
凄い 新型電気機関車です。
それも廃車されてしまっています。
凄く 電化網が進み、実際に就役していたなら、北海道の函館-釧路間辺りを走っていたのかも知れませんね。
いきなり西へ飛びますが、昔の山陽本線の機関車は、客車が EF58、貨物は EF60、EF65の0番台と EH10、EF15で、荷物列車は EF61だった頃がありました。(九州行きブルートレイン牽引機のEF65-500番台は深夜帯で見られませんでした)
それらを毎日のように見ていた私は、鉄道知識が深まるまで EF62から EF64までの番号がないのが不思議でたまりませんでした。
EF72からEF74まで飛ばしてしまったのは、なにか因果めいていますね。

誤記してしまった ED75ですが、内郷機関区が出来るまでは、機関車ながら、この勝田電車区に160両くらいの電車(451系や401系)と共に配置されていました。
それも30両規模です。
一時的とはいえ、電車区に機関車30両は、これも 凄い ですね。

配線図音痴、線路音痴の私が線路を語るのは、線路を愛して止まない皆さんから見ればヒンシュクものですが、勝田電車区の出入り口のダブルクロスがいいですね。(当然 f54560zgさんのカメラ構図がいいからです)
線路の先の方が逆八の字に開いて続いて行き、見応えがあります。これが線路の美しさなのでしょうか。

本線上を去り行く電車も構図内におさめられ、この日の f54560zgさんの時の運を表しています。
まる二年後に水戸を訪問した私の時の運は概出のとおりですが、上野からの特急ひたちの車内で、少し前の席に座る30前後のサラリーマン風の男性が煙草の煙りを揺らしており、その煙りの煙たさがその後の私の時の運を暗示していたのでしょう。

勝田電車区の写真に戻り、ダブルクロスから更に奥へ目をやると、なんだかこじんまりとした敷地規模に電車区があることに気付かされます。
今は電車区の名を変え、600両以上の規模を有しているようで、これまた 凄い 凄い …。

私は子供のころは窓を開ければ新金線が見える家に住んでいましたので、EF80は正直見飽きる存在で、たまにEF15とかが通ると喜んだ記憶があります。でも逆に言えば、それくらいしかバラエティーがないわけでして、EF58・EF60・EF65の0番台・EH10、EF15・EF61、さらには幻のEF75までを日常的に見られるなんて、なんて恵まれた環境でしょう。
勝田電車区は小山や新前橋同様もともとは近郊型電車の基地というイメージだったのですが、いつのまにやら特急用車両が配置されるようになって個人的には雰囲気が変わったような気がします。

 常磐線友部内原間上下線が可也離れて敷設されてます 勾配線区で複線化の折緩勾配にする為上下別線敷設する事が有りますが常磐線は全線略平坦ですので緩勾配線とは関係無い 
 戦時輸送頻拍の為常磐線対水戸線関係の貨車操車場を設ける計画が持ち上がり用地買収したが戦後必要性が無くなりましたが今も上下線が別れたままの状態です 戦後すぐの頃一時的に日本中から当時未だ残っていた古典機の内でもマニアックな蒸気機関車を集めて置いて有ったそうです一説には第二次大戦の賠償の為に集めたとも或はRTOの将官の趣味で集めたとも言われていたそうです プレスアイゼンバーン発行のレイルと云う季刊誌に記事が有りました

内原のヤード跡に関する貴重な情報、ありがとうございます。
そのレイル誌に関してyyoshikawaさんにお尋ねしたいのですが、何号誌だったのでしょうか?
前出の私のコメントのように、この内原ヤードに関しては少なからずとも興味がありまして、もう四半世紀以上前になりますが常磐線の下り線から、この内原ヤード跡を目撃した微かな記憶があり、当時の思い違いでなければ、転車台跡のピットを見たような気がしております。
他項目でのyyoshikawaさんのコメントのように、マニアックな情報に接することができ、改めてf54560zgさんのblogに感謝しております。

 E10さん少し言葉が足りませんでした 内原は元々戦時中に用地は確保されましたが操車場其の物の建設には至らなかったのです ですから近年漸く水戸寄りに留置線が出来た事により当初の目的とは違いますが一応用地の一部が生かされた事になります 上下線間が整地されず畑や小さな藪が有るのは其の為です

内原-友部間の操車場ですが、いちおう終戦間際には線路などが設置されたようです。必要性がなくなって昭和21年に信号場に格下げされて、その後廃止されたようですね。E10さんが目撃された転車台跡のピットですが、私も昭和30年代に車窓から見たと記憶しています。場所は内原駅寄りで、現在は電留線が造られたところでした。内原の操車場についてはきちんとした記録がどこかに残っていればありがたいところです。鉄道史学学会あたりに発表論文でもあることを期待してしまいます。

ネットを探したら、内原の転車場跡の写真を載せているページがありました。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~c11325/10312318/」です。セイネンさんの「鉄路を求めて」というHPの廃線跡の中にありました。

内原~友部間の幻の操車場については皆さん関心が高いですね。また、コスモスさん、転車台の写真情報ありがとうございます。

yyoshikawaさん、コスモスさん、貴重な情報ありがとうございます。
前出の私のコメントのように、この内原ヤードに関しては水戸機関区の方から直接聞き及んだお話でして、機関区巡りをしていた当時の懐かしい思い出が込み上げてきて、なんともいたたまれないような気持ちになりました。
長年、謎の部分だったたけに、その謎解きが進み嬉しいかぎりです。
f54560zgさんが随所で掲げておられる航空写真をひもとくと、戦後すぐの内原ヤード辺りの航空写真では、水戸寄りに転車台と車庫が見受けられ、yyoshikawaさんやコスモスさんのお話に俄然興味がそそられます。
また、転車台跡のピットが画像で残されていたことは奇跡的であり、f54560zgさんのblogを通じ様々な情報が知り得たことに感謝申し上げます。
おそらく短期間で終焉を迎えたであろう、幻の内原ヤードの配線図の発掘に期待したいところです。

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