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2009年8月12日 (水)

ブルートレイン 1977/1/3

またしても列車ネタで申し訳ありません。
東京駅発着のかつての勇姿を少しばかりご覧下さい(後姿ばかりですが・・・)。
田町と品川での撮影です。

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8レ「富士」です。10時頃の通過です。

19770103e01
その20分後、4レ「はやぶさ」が通り過ぎます。

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「瀬戸」と「あさかぜ」は2時間半くらい前に着いていますので、品川の客操でお休みしています。

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さらに約30分後くらいに「みずほ」が着きます。
これはその回送です。

19770103f02
最後は2レ「さくら」です。
東京に着くのは11時30分です。もうお昼ですね。

19770103f03
おっと、これはブルートレインではありませんね。
この当時1往復だけ、なんと80系電車が東京駅に乗り入れていたんです。
たしか327M沼津行きだったと思います。

19790620a01
これも無理やりのブルートレインです。
1979年6月20日の品川です。
8114レ~9503レで、多分東海道方面からやってきて、品川でスイッチバックして東北方面に向かう団臨です。

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1979年6月28日の品川です。
8502レ~8107レです。上とは反対のルートで東海道に向かう団臨です。

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コメント

f54560zgさん、こんにちは。
ブルートレイン、なつかしいですね。テールマークがまだ絵入りではありません。機関車はEF65-500でしょうか。
私は山口県に住んでいましたので、朝早くに下りブルートレインをよく撮影しにいきました。はるか1000km離れた東京での姿と山口県での姿が結びついていると考えると感慨深いものがあります。
80系電車もEF58も山陽線を行き来してましたので、東京撮影なのに懐かしさを覚えるのが不思議です。

ashiwodiさん、こんにちは。
お尻ばっかりで機関車がわかりませんが、この当時は東京区(下関もあったのかな?)のEF65500ですね。客車も20系、14系、24系25形といろいろありました。
この時代に80系が東京駅に乗り入れているなんてことも結構信じられないようなことでした

 1970年代中頃御茶ノ水の各種学校の夜学に通っていた折丁度の時間に東京神田間の引き上げ線で待機しておるのを毎日中央線車窓よりみておりました其の頃の20系あさかぜ号はロネ車全車種ロザ車一輌食堂車も繋がり一番豪華な編成であり一度でいいから乗車してみたいと思ってましたが結局乗車の機会は有りませんでした後継の24系は何か物足りない唯寝て行けるだけの存在其れに比べ此の時代の20系あさかぜ号は美しさと絢爛さを兼ね備えた良き時代の豪華鉄道車両であったと思います 北斗星トワイライトエクスプレスが豪華と言われておりますが食堂車は特急電車用からの転用で編成美を壊しているのが残念でした北斗星トワイライト共に車両老朽化と云う事で廃止との事 JR九州の豪華寝台列車もチャチに見えるのは私だけでしょうか

yyoshikawaさん、多分ナロネが5両くらい(しかも一部は個室)とういのがなんとも豪華でしたね。
私の場合は高嶺の花過ぎて乗ってみたいという気持ちにすらなりませんでした(笑)。

 先日上り北斗星を撮影に行ったおり順光で24系寝台車を見ると製造後30年近い車齢外板の歪が可也発生しており やはりそろそろ寿命が来たと思いました 更新すればまだ使えるかもしれませんが夜行列車の運行其の物が近年利用者の減少だから其処迄経費を掛ける必要が有るか
 営業運転寝台列車用の客車製造がカシオペア用以外完全新造は無い事を考えるとやはりと思いました
 戦後日本の車両設計思想が軽量化方向に向かい 長期間使用前提から徒ねに新形車に変更早期廃車方向に向かいましたが それでも車齢30年を超えた車両も今だあります
 JREはどんどん車両交換で新車に変更JRWは車齢50年を超える車両を撤底更新して使用等JR化後各社の懐事情が垣間見られます
 

yyoshikawaさん、長く使う方がよいのか、どんどん取り替えるのが良いのか、難しい問題ですね。

 日本での鉄道車両特に旅客車両の設計基準は戦後軽量化前提の基準に変更された 日本の国土の大半は山岳地帯殆どの鉄道は何等かの形で必ず山岳地帯を縦断せねばならぬ 勾配区間では列車牽引定数の関係で従来型の客車では一車輛辺りの重量が重い為編成輌数が長く出来なかった 国鉄技術人は同じ様な環境のスイス国鉄が戦前より造っていた軽量客車の設計思想を導入其れと戦時設計のモハ63000形電車で実祥済の外板や床梁の省略設計等を参考にナハ10系軽量客車を投入 さらに超豪華動くホテルと銘うった20系客車を登場させました 北斗星トワイライトエクスプレスが豪華といわれておりますが20系寝台列車は屋根高さが揃い窓高も全車揃い塗装も其れ迄のダサい塗装でなくブルーの美しいカラーとクリーム色のピンストライプを全車に渡り廻し美しものでした 然し軽量化は逆に車両寿命の面では戦前製車両よりは短命となった長年使い続けるか次々新車を作り続けるか現在のJR東日本とJR西日本の考え方に現れておるのでは

yyoshikawaさん、車とか家電製品で考えますと、長年使い続けるよりはある程度の時期で買い替えるほうが一般的かもしれませんね(笑)。

最近クルージング列車 JR九州七ツ星 JR西日本トワイライトエクスプレス瑞風 JR東日本夢空間 トランススィート四季島等が次々誕生しておりますが何故か心に来るものが有りません(齢のせいか?)見た目は凄く豪華そうですがチャラチャラしたうわべだけの薄ペラな感じがするのですが 其れに比べると20系寝台車は国鉄が作り出した車輛としては151系こだま82系DCと並ぶ三大結作だと思うのです
話しは遥か昔に戻りますが国有化以前九州鐵道がアメリカのブリル社に注文し国有化後日本に到着したプルマン型客車5輌は破格の出来であり然も当時のどの車輛よりも大型でした然し殆ど使われる機会が無く最期は事業車に格下げられた後の時代に或る列車と云われた車輛達でした 其の豪華さはまねの出来ないものでした
時代は下がり嘗てJR発足の折日本中を走り廻ったとある列車が有りました ワゴンリー社の車輛でしたヨーロッパより遥々シベリア鉄道経由香港迄運転され其れから下松迄航走され日立下松工場で改軌(台車交換)して国内を走りまわりました 恐らく日本一の超豪華列車だったと思うのは私だけでしょうか?ヨーロッパの標準軌の車輌でしたが車体幅は約2900㎜車体長は約21000mですので日本でも運行出来たのです 豪華というのは見た目でなく積み重ねられた歴史の上に花開くものと思うのですが 因みにヨーロッパ規格の車輌でしたのでデッキには三段のステップが有りましたが日立下松で切り取り一段ステップに改造日本の高ホームに対応しました 流石に連結器だけは改造されずバンファーと螺旋連結器を其の儘使用機関車との連結には片側にバンファーと螺旋連結器を付けたドローバーズ客車ナハネフ22と荷物車がワゴンリー客車を挟んで運行しました当時既に車齢70年位の元祖青列車と日本の20系ブルトレの競演は素晴らしいものでした 一応法規的には新車扱いで形式も付けられました運行終了後ヨーロッパへ返却時廃車扱いとなりました 因みに箱根のラリック美術館には現在もワゴンリーのプルマン車が保存されてます

yyoshikawaさん、オリエント・エクスプレスですよね。確かそのような名前の列車が日本を走ったという記憶はあるのですが、それ以上の記憶はありません(汗)。今にして思えば、なんという奇想天外な発想でしたね。

オリエント急行はJR発足記念にJR東日本と日立製作所フジテレビが共同で運行を計画当時欧州でワゴンリーの寝台列車を運行していた二社に打診イントラフログ社(呼び名は間違えてるかもしれません)が同意
パリから発車シベリア鉄道を経由香港迄とりあえず来て其の後改軌(台車をTR47に交換)国内をクルージング運行しました
此の折フジテレビは深夜枠で30分の特番を組みました海外鉄道研究会の会員三氏がオリエントエクスプレス及びワゴンリーに付いて語り合いました其の番組に少しだけ協力してくれないかと私に打診が有りましたワゴンリーの客車及びDB(ドイツ国鉄)01機関車模型を貸してくれとの事でした 番組のディレクターは番組中に其れを何処かで運転し撮影したいと彼方此方に打診結局当時の交通博物館のレイアウトで撮影することとなり閉館後撮影しましたお昼から語り合いの場面撮影其の後交博での撮影全てに立ち合う事が出来ました後日放送の折真夜中に視聴したら随分編集されていたことを思い出しました一応CM抜きのVTRテープと記念グッズを貰いましたがVTRは海外鉄道研究会会員の間に貸したら何処かで紛失行方知れずになりました

 オリエント急行の運転は覚えています。日本で走るために交換したのは、台車とブレーキ制御弁一式と聞いています。
 内装が木製なので日本の防火規程に抵触し、監督官庁の特認を得るのが大変だったそうです。
 第一印象は、このショボくれた車体がオリエント急行? ということでした。食堂車の屋根からは煙がでていました。

yyoshikawaさん、テレビ局から協力を求められるとはスゴイですね。放映ではご自身も登場されたのでしょうか。それにしてもVTRは残念ですね。

C6217さん、昔のものは今のものとはマッチしない部分が多々あろうかと思いますが、歴史の重厚感は感じられますよね。

夜行寝台列車のエポックメイキングはやはり20系寝台車でしょう当時動くホテルと言われ美しい外観機能的なインテリア全車空調完備電化キッチン専用電源車どれを取っても国鉄技術陣が総力を注いで世に送り出した最高結作だと思います 但しシャワーや風呂設備は有りませんが当時此れだけの設備を持つ車輛を送り出したのは鉄道が陸の王者であった証だったのでしょう 其の後作り出された14系24系とは一線をかく車輛だと思います

20系客車、中でも ナロネ20 ナロネ22 このインバクトに勝るブルトレ系車両は今だに私の中ではに存在しないような気がします。
当時の時刻表末尾の編成表にある あさかぜ にズラリと並んだ 個ネ Aネ の表記。
小学生の頃、山陽本線の踏切を渡り通学していて、あるとき踏切待ちをしていたら、濃霧でダイヤが大きく乱れたのでしょう、霧の中から突然現れた 博多行20系特急寝台列車 あさかぜ 。
踏切から見上げる子供の私の目の前を、ゆっくりゆっくりと徐行する列車の最後尾の半室展望車にいたまだ若そうなビジネスマンと目が合うと、手を振る私に手を振り返してくれて、あさかぜ のテールマークと共に霧の彼方へと消え去りました。

20系寝台車が出現する迄日本でインパクトの有る客車用車輛は存在しなかった
戦前欧州のワゴンリー或はラインゴールド北米のエンパイアビルダーチーフシリーズフォーティーナイナーゼファー20世紀ブロードウエーリミテッド亜細亜等はインパクト大でした同じ時代の日本では富士や燕桜等モニタールーフや丸屋根の通常設計の寝台車や食堂車で編成された凸凹列車でした戦後も1960年代迄は戦前と同じ状況でしたが其れを打破したのが20系ブルートレインでした其れ迄の車輌とはまったく違う完全固定列車は車体の色とスマートな外見で当時の子供達にはこだま型と同様憧れの的でしたでも庶民には高値の花であったのも間違え無かったです

yyoshikawaさん、E10さん
時刻表を見ていて、A寝台がずらりと並ぶあさかぜの編成には驚かされた記憶があります。
それにしても山陽線を渡るのは、なんともうらやましい通学路ですね。

前出コメントの続きになるのですが、通学時に山陽本線の踏切を渡る時、定時ダイヤなら上りの 日南3号、下りの 瀬戸2号 をよく見かけました。(日南3号はグリーン車が印象的で、当時、日豊本線の一部ではSL牽引だとは知るよしもありませんでしたが)
ある時、踏切待ちをしていたら、いつものように下りの 瀬戸2号が近づいて来たのですが、なにやらいつもの編成と違う色合いで、なにか新幹線の青色っぽいような色をした車両が編成に含まれているのを発見しました。
その頃は何なのかは分からなかったのですが、のちにそれは当時最新鋭の14系寝台客車だったと分かり、なかなか貴重なシーンを目撃していたのだなと、ちょっぴり嬉しく思ったのを覚えています。
前出の 20系あさかぜ のような程ではありませんが、少しダイヤが乱れた時は、下りの 瀬戸1号 を見かける時がたまにあって、東北筋では 急行十和田 に連結してあった オシ16 を見かけたのも懐かしい思い出です。
また、記事内の湘南電車の80系電車も、当時は姫路−岡山 糸崎 間などを精力的に運行していて、網干駅手前で減速する時のブレーキの金属音が、当時まだ幼い子供だった私にはチュルチュルチュルーーと聞こえ、その頃は湘南色の80系電車をチューチュー電車と呼んでいました。

ブルトレブーム前の昭和40年代頃は、寝台車を連結した夜行列車の全盛期で、思えば稚内から鹿児島まで全国的に見ても、朝の通勤通学時にその姿が日常的な風景だった方々もけっこう多かったのではないかと思いますが、鉄道ファンの視点からでは、さまざまな理由があったにせよ、当時それらの列車に乗車されていた乗客のみなさんがうらやましいかぎりです。

E10さん、ホントにうらやましい通学路ですね。天下の山陽本線ですから。
寝台車を連結した旧客による夜行急行はよく乗りましたが、宿代わりの座席車利用でしたので、邪道です(汗)。

もはやブルートレインは昭和より平成ノスタルジーなのか、最近ブルートレインが懐かしく感じるようになるときがあります。
残業を終えホームで新快速を待っていると、先行するブルートレインが電源車の唸りを上げて滑り込んできて、しばらく停車しているのですが、なぜか発車時の様子が慌ただしく感じたものでした。
既に《明星》は退役していましたが、10数両を連ねた《なは》《あかつき》《彗星》が入線し発車していくシーンはやはり迫力があり、いずれの列車も個室車両を連結していたのが特徴的で、中でも《あかつき》の最後尾はレガート車両が印象的でした。

子供の頃の同級生が帰省時に当時の西鹿児島行き《あかつき》を利用していて、自分は公共交通機関を使っても1時間もかからない帰省先でしたので、羨ましさを通り越して妬ましい気持ちになっていたのを思い出します。

ダイヤ改正で新快速待ちをしていてもブルートレインが来なくなり、なんだか寂しい気持ちでしたが、平成時代半ばまで生き延びたブルートレインを平成最後の秋に思い出しコメントするのも、自身が時代の移り変わりについていけていないからなのでしょう。

E10さん
私は旅行等でブルートレインを利用したことがほとんどなく、まさに高嶺の花でした。
また都営地下鉄利用者だったもので通勤や通学などで日常的にブルートレインを見かけることもなく、E10さんはうらやましい限りです。

一度だけ24系二段B寝台車に乗車する機会が有りました 家族旅行で高知へ行く事になり行きは特急寝台列車瀬戸号に乗車しました然し思ったほど感動は無かったのが残念でした二段寝台の下段は両親が寝て私は上段寝台で寝ましたが結行ローリングするので良く眠れませんでした 其れより早朝乗船した宇高連絡船船内から見た早朝の瀬戸内海の風景の方が印象に残ってました

yyoshikawaさん
私だったら興奮して眠れなかったと思います(笑)。

半分は興奮していたのも確かです

鉄道少年の頃に、種村直樹さんの鉄道旅行入門書から、寝台車なら上段は揺れて下段なら両端あたりは台車の突き上げがあるので車両中ほどの下段がオススメだと学んでいました。
指定券の発券機の性能が上がって来ると座席指定も可能となっていましたが、子供の頃からの あまのじゃく な性格だったからでしょう、あるとき寝台車の座席指定券を上段で取りました。
窓口氏は下段が空いているのですすめてくれたのですが、いざ乗車してみると(国鉄時代末期の姫路〜下関間の《あかつき》でしたが)検札の車掌さんが、「今日は独占車両ですよ(笑)」
その時のひとけのない寝台車は味気ないものでした。

中途半端な地方に住んでいると、東京発のブルートレインに終着駅まで乗り通すのが憧れに感じます。
上野発や大阪発ではダメなんです。

E10さん
下のほうだと上からのぞきこまれるような気がして、私も上を選びましたね。
>東京発のブルートレイン
東京駅発着はまさに花形列車ですものね。

この当時
始発駅=東京駅 まで「推進運転」でしたっけ?

東京駅 は、
機関車付け替え での
11番線=ホームなし ありましたね。

嘗て20系ブルートレイン全盛時代東京発のブルートレイン寝台特急列車は品川客車区より東京駅へ機関車牽引で回送され一旦到着後神田方東京上野間連絡回送線へ移動留置線側へ入線一時留置後牽引機解放回送線を利用して機廻し列車最後部に連結後指定時間迄待機 (丁度ブルートレイン寝台特急列車発車時間は夕方の通勤ラツシュ時間帯が主でしたのでホームが開く迄待機しているのです)時間になると東京駅へ移動客扱後発車してましたが東北上越新幹線東京駅乗り入れ後東京上野間回送連絡線廃止された後も暫くは此の方法で回送運行していた其の後東北上越新幹線ホーム増設時東海道本線用ホーム数縮小で回送方法の変更回送時牽引して来た機関車は解結後部に別に回送されていた機関車が連結し発車牽引機は品川方引き上げ線で待機次の寝台特急列車に連結し発車を繰り返ししていた此の頃は14系24系客車とEF66の時代です 其の後客車寝台特急列車の運行廃止で此の様な運行方式も無くなり現在は電車寝台特急列車サンライズ出雲瀬戸だけです

yyoshikawaさん
ブルトレの回送方法はいろいろなパターンがありましたね。私の記憶では(EF65500の頃のみずほですが)普通に客車をホームに止めて機関車が機回ししていました。

あさかぜの20系客車に始まり、最後部の2枚の大窓の下に‟あさかぜ”の表示が強調されて、東京~博多間で、関西は深夜で無視しているみたいなものであった。
オモチャでも、1両の両側を最後部の2枚の大窓の形でレールを繋いでゼンマイで走らせて、友達は2両の客車を繋いで、はずみ車の入った電車の様になっていた。
絵本でも、最後部が描かれて電化前の山陽本線の海岸線で、前の方で蒸気機関車の煙みたいな物が不思議に感じた。山陽本線が全線電化になったのは、昭和39年である。
小学校に入って、鉄道図鑑を見る様になって、客車と知った。茶色の旧型客車を見ていただけに、唯一一緒だったことは、扉が自動ではなかった。旧型客車より大型で、15両編成の列車をEF58と蒸気機関車で牽くことで、客車の型式が示す様に軽量に設計されていたかである。‟EF60”500番代に換わり、本来は旅客用の‟EF61”を使用するはずである。が、機関車からの暖房を必要とはなくて、‟EF60”の500番代は高速貨物用を意味してか、貨物用の‟EF60”が使用されて‟EF61”は、直流電化された所は、電車化が進み‟EF61”の旧型客車は、大阪駅で急行‟しろやま”と‟屋久島”で見た。12系客車を牽いていた。‟EF60”500番になって、セノハチの補機を必要としなくなった。HOゲージでも、20系客車は‟EF60”500番がセットになっていた。
東京~下関間が全線電化になり、‟EF65”500番になって、関西で20系客車を見かける様になったのは、ヨンサントーのダイヤ改正から、‟日本海”九州行の‟あかつき”である。
昭和45年頃に‟12系客車”から扉が自動になった。初めて20系客車に乗ったのは、鹿児島本線の出水~大阪間の‟あかつき”でED76の1000番代であり、その時は‟さくら”は14系になって、その年のダイヤ改正から、北陸本線の大阪発と九州行の新大阪始発がEF58になって、今でも事情を聞きたいぐらいである。
正直言って、私から言いたくないけど北陸トンネルの火災事故で、電源車が復活し20系客車は、急行‟銀河”に使用される様になった。軽量設計で20系客車は、寿命が短かった。‟EF65”500番の列車に乗りたくて、時間的に大阪から乗れる瀬戸に乗った。東京~九州行の列車は、横須賀へ行き、‟EF66”になって主に上り列車で乗り、瀬戸大橋を最初に渡ったのは、特急‟瀬戸”であり、青函トンネルを最初に通ったのは特急‟日本海”である
。国鉄時代と違って、今は営利目的となって豪華列車となって、好き者が乗って楽しむ機会がだんだんなくなってきた。電気機関車の好きな私にすれば、‟EF510”500番代が‟北斗星”及び‟カシオペア”を牽いている時に一度の乗って見たかっただけに、‟EF510”の貨物列車も赤い基本色を期待している。日本海従幹線用で‟EF70”が思い出し、‟EF70”の特急20系日本海で、九州へ行った列車に期待した。

ニッシーさんのコメントに胸躍らさせました。
乗り物好きだった私も小学校の頃に母から交通図鑑を与えられました。
急行しろやま は、東京から下ってくる 高千穂・桜島 を除けば、九州夜行のトップバッターで、冬季以外は編成にロネを含んだ昼行列車のような明るい時刻に見れる夜行列車で、まだ機関車の型式すら判らなかった頃に、よく 急行しろやま を目撃していた頃の牽引機が私の中では好感度の高い EF61 だったとは、懐かしく嬉しい限りです。
こちらに在住していると、EF65とEF60の500番台を目撃する機会に恵まれず残念でしたが、それが高じて、まだ20世紀の頃に、DF200型の500番台の北斗星色やトワイライトエクスプレス色が実現しないか熱望していたのを思い出します。
ニッシーさんの真骨頂のようなコメントに懐かしさを感じ得る事が出来、感謝いたします。

ニッシーさん、E10さん
東海道~山陽線沿線にお住まいの方にとってはブルトレをはじめとする夜行列車群及びその牽引機は、小さいころから目にする機会も多く、興味の対象になったのでしょうね。

20系PCとそれ以降の特急寝台客車のシリーズを比較すると、品格(というと大袈裟ですが)に差があるように感じます。車体の外見と窓の大きさのバランスが優雅さの違いなのか・・・。14系あたりまではまだ良かったのですが、寝台側の窓の天地が縮小されたタイプは見るに耐えません。
ともあれ時代の変化なのかと感じる昨今です。毎日通勤で乗る特急、わざわざ窓際に座ってブラインドを全閉するだけではなく、手を伸ばしてこちらのブラインドまで下ろす横着者、移動を楽しむという気は皆無。
20系登場の頃の大らかさは既に過去のものとになり、セチ辛い現在を嘆くばかりの還暦ジジイです🥲

キハ65さま。全面賛同します。
ブルートレインの進化の歴史は、いわばハネの接客設備の改善の歴史で、最後は個室ハネにまで行き着きますが、反面、デザイン性は劣化の一途をたどったように思えます。
20系の美しさは、仰るような品格とか気品とかの表現が相応しいように思えます。

ちなみに、私もようやく年金貰えるようになった爺・・・です。

20系寝台車は出現当時国鉄の威信を掛けた車輛でした其れ迄の寝台客車とは一線を隔く車輛で有りました 夜行優等列車であっても戦前型のモニター屋根のツーリストタイプやコンパートメントタイプ丸屋根の三段ベットタイプ戦後の切妻屋根冷房完備個室付きプルマンタイプ全プルマンタイプ等雑多客車で編成を組んでましたが其れでは何れサービス面で劣る様になると考えた国鉄本社では其れ迄に無い画期的な車輛の設計を始めた 其処いら辺の経緯は星晃著国鉄車輛誕生秘話に述べられてます 其れ迄の車輛とは違う完全新造車輛半固定編成冷暖房完備食堂の厨房も電化 動くホテルと言われる様な特別列車を作り出した 優等寝台車は二人個室(コンパートメント)一人用個室(ルーメント)オープンプルマン二等寝台三段寝台座席車輌美しい食堂車テーブルにはフルーツが飾られておりそれだけでも当時の男の子には151系こだま型共々憧れの車輛でした 展望車付きの青大将つばめはととも違う深い藍色の車体にクリーム色の帯大きなHゴム固定窓深い屋根トータルデザインで纏める其れ迄に無い車輛でした 20系比べ後の14系24系25系寝台車は一段落ちるのは否めない JR東が試作した夢空間は25系の延長ですが新しい寝台車への挑戦でしたが結局其れで御終いでした唯北海道方面への特急カシオペアが20系に対抗出来る寝台列車と言えたのでは 其の後各JRでのクルーズ列車は別です

ノスタルジーでしょうか20系が出現した時子供心に何てこんな凄い客車列車が国鉄に現れたのか 其れ迄青大将以外の客車は伝統的にマルーン2号塗装で世界的に見ても地味な塗装でした同じ頃の欧州ではダークグリーン主体ですが其れでも各国毎に独自のカラーリングでした DB(旧西ドイツ国鉄)では一等車はウルトラマリーン系のブルー一二等車は一等側がブルー二等側はグリーンの立て塗り分け二等車はグリーン食堂車は深い赤紅色 SBBCFF(スイス国鉄)は旅客車はダークグリーン一等車は窓上に黄色の帯で識別食堂車(パンタ付き)は濃いマルーン FS(イタリー国鉄)泥臭い茶色のツートンカラー BR(イギリス)では四大鉄道以来の伝統で各線毎に独自のカラーリングを施していました ワゴンリーは独特の深いブルーに金色のランニングプルマン車は深いブルーとホワイトのツートンカラー 大西洋を挟んでアメリカが合州国とカナダでは各私鉄が独自のカラーリングを施した優等列車を運行していた 其の辺りを考慮して20系をデザインした時恐らく国鉄技術者は大きな窓に深い屋根の統一された固定編成の客車にワゴンリーの深いブルーに細いクリーム色のランニングを施して国鉄の威信をかけて世に送りだしたのでしょう 結果20系ブルートレインは国民に受け入れられたのでした 其れは日本が第二次大戦で負けて十数年で復興し最早戦後では無いと言われた頃に現れた彗星の様なものでした 後の14系24系とは一線を画ものでした

皆さんおっしゃるように20系はそれ以降の14系や24系とは別格でしたね。ロネやロが5両以上も連結された列車って・・・。

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