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2009年8月 8日 (土)

1977 梅小路

Photo

梅小路駅については1992年当時のものを一度記事にしているのですが、写真がないので記事にするのをためらっていた1977年頃の配線図を、やっぱり記事にしちゃいました。

田端操、尾久と並んで最も「大変だった駅」にランクされます。
私自身にとっては苦労でも何でもないのですが、関係する方々に多大なご迷惑をおかけしたのではないかという申し訳なさが「大変だった」と感じるところです。

左上から右のほうに下がってくる2本の線路の1本が京都市場駅につながっているのではないかと思います。
「大宮北」「大宮南」などという線路名称には風情を感じてしまいます。

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コメント

梅小路操車場は東海道本線が繋がった20年後の、M44・2に開設された極めて古い貨物施設で、同時に常に東隣の京都駅との関連が付きまといます。次の大正前期に設けられた貨物操車場はハンプを擁した品川操(旧)と田端操ですが、山手線を介する、言わばスイッチバックの操車場で滞留貨車が多くあったと思え、直ちにスルーの構造を昭和初期に要請されたと思われます。さて掲げておられる図は、コンテナ用貨物駅になる前の図で、仔細を眺めた限りにおいて完全に正確であると言って良いと思いますし、よって極めて貴重でしょう。まあ以前記した一瞥しただけでは了解できない図はこれで、上り着線側と貨物駅側・貨車区、並びに梅小路機関区線のあり様が混み合っており(複雑交叉点!)、瞬時に合点がいかなかった図です。上り着線群は自体短く機能し得たのか疑問を持ち得、上り出発線群への通路区間は混み合っており、西側引き上げ線は確保されていないようで、しかも短く、結局京都駅側の東側引き上げ線だけが上り貨物の仕訳に使用されたのではないか、しかし短いような。山陰線関係は問題ないのですが、矢張り短い西側扱いのようで、また西側の上り着線群は区間内の小貨物車の到着や通路に使われたのかもしれません。例えば、草津~鷹取操車間に於いて貨物は外側線を余儀なくされ、反対方向は鷹取・吹田・梅小路に送られて初めて上下の転換を図る形で編成されたような。京阪神の複々線区間故の難儀な点で、その残滓が草津駅のオーバークロスの付帯設備です。もう少し古い図を見ると、北側では山陰本線と、デルタをなす貨物短絡線及び梅小路機関庫から伸びる三線が一線に扼され、地平で京都では大きな東西道である七条通りを交差する構造だったと判断できます。掲げておられる図では丹波口駅が既に高架化されており、地平の京都市場駅への連絡線だったと思えます。因みに同市場駅の開業は昭和51年ですから、かつては京都市場は丹波口駅扱いだったのでしょう。さらに南側の下りについては着発・仕訳線とも短く、加えて別個東側にゼブラ状の仕分線が並んでいたようです。結果的に上りの仕訳線や給炭・機待ち線をつぶして上り出発線群を設置し、下りの着発線・仕訳線の伸延化を図ったのであろうと思われ、それが結果的に東側に向いた上り仕訳線群に表れているのでしょう。結果一層混雑交叉点に理解に苦しむ形になったのであろうと思いますし、後年向日町操車場になり得る用地を確保する必要に迫られていたのでしょう…夕方京都駅まで徒歩で向かう途中の塩小路の貨物駅の寂寞感は、現今の貨タになった貨物駅とは質量共に違っていたことは確かです…何卒長文ですが、要を得ない寸足らずのコメントにて御容赦下さい。

SYさん、なにぶんにもここも少なくとも「孫コピー」なので、「原本」に比べると相当「画質」が劣化していると思われます、すみません。
コンテナ貨物対応の駅になってずいぶんと変わってしまったのでしょうが、「ひょっとしたら廃止されちゃうかも」とも思っていましたのでちょっと安心ですね。

はじめまして。

現在は梅小路駅の近所の住人です。
京都市場駅は丹波口駅高架後、梅小路駅から分岐する京都市場駅として独立したのですね?
てっきり、梅小路駅の側線かと思っていました。

ちなみに、現在、下京区役所1階ロビーに昔の写真が展示されているのですが、国鉄山陰本線の下をくぐる京都市電(山陰本線と七条通が平面交差する地点)の写真も見られます。

すみもとさん、はじめまして。うらやましいところにお住まいですね。
京都市場駅についてはおっしゃるとおりですが、おそらく貨車の出入りは列車としての発着ではなく入換作業であったと思われますので、見た目には梅小路の側線となんら変わらないものであったと思います。
写真、見たいですがちょっと無理かなぁ・・・。

ぼんやり京都の鳥瞰図をさがいてところ
http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/yoshida-t.html
にて、梅小路駅を中心においた錦絵風の鳥瞰図を見付けました。駅内を入換えする蒸機が何故か可愛いような…

SYさん、なかなかおもしろい絵ですね、妙にリアルなところが。
これだけの絵を描くにはそれなりに梅小路駅の線路配線を調べないと描けないですよね。

【梅小路】 SYさんのコメントに、まだ健脚だった頃に初めて一人で梅小路機関車館を訪れた時、京都駅から出来るだけ線路沿いに梅小路を目指したら日通倉庫の線路群に行き着いたことを思い出したような‥。 梅小路機関区に関しては、現刊の豪華本など詳細な情報も豊富で主体設備が現存していますね。隆盛を誇った時代から観光施設となりましたが、これも梅小路の宿命だったのでしょうか。 施設場所選定時に後述されている小山との天秤となり、当時の関東のSLファンは落胆されたそうな‥。 今の梅小路は煙りは少なくとも豪華な顔触れに逢いたくなり何度も脚を運んでしまいます(近江長岡参照)。 ただ改装前の旧機関区時代の雰囲気を醸し出していた姿が無くなってしまったのが少し残念です。 あの木造事務所の体感こそ機関区に脚を踏み入れる第一歩であり、現役時代のSLの姿を求め全国を旅したであろう諸先輩方の経験されたことが過去の物となってしまったことは、機関区が機関車館となってしまった証なのでしょうか。  改装前のある日、注目のデルタ線に以前繋がっていたラウンドハウス後方へ延びた展示運転線での出来事。館長さんがC612の機関士さんとの掛け合いで、ハンドマイク片手に熱心にSLの構造などを説明されていた姿を思い起こされます。今日も来館して良かった‥そんな気持ちで帰路についたその日でした。  人間味あふれたSLが廃止されて久しくなりましたが、梅小路の今のSL達に人間味を求めるのは酷と言うものなのでしょうか‥。  もう少し紙面を頂けるなら、開館後早期にカマの火を落としたSLの象徴D51のトップナンバーにカマの火を絶やさず生き残ってもらい、京都-鳥取間に流麗なるその姿を食堂車やグリーン車を連結した旧客10系編成と共に現し、山陰観光へのいざない役として活躍し続けてほしかったです…。  名門中の名門、梅小路機関区。その言葉の響きは、かろうじて火の入ったSL達のドラフトの響きと共に永遠に残って欲しいものです……

おっしゃるとおり、計画段階では小山も候補でしたね。三角地帯の内側、と言う点では同じですね(笑)。
機関区には大小の建屋や細々とした諸設備がありましたから、機関車や機関庫だけではどうしても機関区の雰囲気を味わうのは難しいですね。
当初はいっぱいいた動態保存車もいつの間にか静態保存車ばっかりになってしまいましたから、せめて今残っている動態保存車にはいつまでも生き残ってほしいですね。

青春18きっぷの余りが有ったので本日、梅小路に行って来ました。
特に期待することもなく、ただ昨年の訪問時は修繕中だった明治の古典機 1080号がまともに見れるぐらいの気持ちで入館してみました。
早速にラウンドハウスを覗いてみますと、なにやらいつもと違って庫内がガランとしてます。
扇形庫の中ほどに 1080号がポツンとたたずんでいます。
庫外に眼を移すと、いつも仲良く庫内で顔を揃えていた 9633号と C1164号が C612号と D51200号と並んで千鳥線に引き出されています。
これは珍しい光景だと、職員の方に尋ねてみると、梅小路蒸気機関車館のホームページでもアナウンスされていますが、明日の4月10日に英国鉄道博物館との姉妹提携10周年記念式典が庫内で開催されるスペースのため、今朝に車両を庫外に出したそうです。
また。南側の展示線には、いつもは スワローエンゼルC622号と C621号の重連ですか、先月に D511号も連結され、三重連となっています。
あと、SLスチーム号は 8630号が就いており、運転終了後は検修線に収容されていて、SL達が構内各所に散らばっていて、まるで往年の機関区風景のようです。
なお、式典終了後は、9633号と C1164号は来週早々に庫内にしまわれるそうです。
また、検修線内にはボイラー修繕中の、山口線用 C571号の各種パーツが分解されて置いてあり、こちらも見応えのある風景です。
ですので、現在山口線のSLやまぐち号は C56160号が務めているようですね。
たった数日間ですが、梅小路では滅多に見られない光景のようです。

それから、帰りの車窓から吹田ヤード跡に設置中の新しい貨物ヤードが見えました。
吹田ヤードの象徴的な建物だったパンプ近くのヤード事務所は解体されて無くなり、新しい事務所が既に建てられていました。
余談ですが、往復の車中や梅小路にいる時、貨物列車を見る機会が有りました。
EF65の原色1000番台を見るに、はっ!とし、0番台の更新色やEF81の500番台でさえ注目してしまいます。
EF210やEF510が当たり前のようになって来て、我々の中では二度目から三度目の世代交代が確実に進んでいるようです。

いづれ、T.Mさんシリーズが関西にも押し寄せて来ることを期待して、帰りの車内から拙いリポートでした。

E10さんのSLに対する熱い想いのこもったレポートありがとうございます。それも帰りの車内から。
普段は庫内にいるSL達にとっては久々の転車台だったのでしょうか。
今でも吹田近辺で見られる貨物用電機はEF60、EF65(0番台)、EF66、EF81、それにEH10だけなんです、私の中では。
EF210?EF510?う~~ん、よくわからない・・・。

はじめまして。
当方鉄道には疎い物ですが、子供の時(1971生)梅小路でよく遊んだ者です。
素人表現しか出来ませんが、私の記憶に微かに残る当時の風景が思い出されまして、コメントさせていただいた次第です。

1
配線図?左中より真ん中下へと描かれている線は間違い無く山陰本線です。途中で線路を数本跨いでいますが、これは現在も遊覧蒸気機関車の線路をオーバーパスする為に使われている橋です。
免許取得後すぐオートバイで橋をバックに撮影した写真が残っております。
敷地内ですが境界もなく地元の人は普通に入って犬の散歩等しておりました。

2
市場駅へのレールはどこに繋がっていたのか判断出来ませんが、西大路駅方面から伸びてきていた地上線路に間違い無いです。
山陰本線より西側(配線図大阪側)に市場がありますし、立地的に他に線路を伸ばしてくる事は出来ませんので。
元々山陰本線が地上を走っていた時は、機関庫を中心に、京都方面と西大路方面から来た線路が丹波口方面に向いて七条通辺りで合流していた筈です。
高架化された後の高架線もその構図になっておりました。
京都方面、西大路方面よりの線路は高架化され、西大路方面からの線路のみ地上線路も残っている状態の記憶が御座います。
その線路が踏切で七条通りを横切り市場内に引き込まれていた筈です。
市場への入り口や踏切の風景の記憶は曖昧ですが、まず間違い無いです。

3
また機関庫の扇型中心辺りに建屋外に伸びている線路が一本ありまして、どこにも繋がっておらず行き止まりでしたが、元々は西大路方面からの地上線路に接続されていたと思われる感じでした。

4
配線図左下辺りから右へと弧を描いて行き止まりの三本線が見えますが、三本の内、左の線路は石油会社がありまして、毎朝ほぼ必ずタンク車ニ台をディーゼルが押し込んできて、夕方には引き上げてゆきました。
よく連結器を解放したりイタズラをしたものです。
褒められた事では無いですが悪ガキのした事ですのでお赦し下さい。
三本の内、中と右の線路は空き地のど真ん中に1.5メートルほどの高さのコンクリート築堤のように一段上がっており、コンクリートの土台のレール下が、くり抜いた斜面のようになっておりまして、砂利か石炭をガラガラと落とす設備の様に感じておりました。こちらはレールもボロボロで貨物等が入ってくる事は無かったです。
中と右の線路が合流する辺り、傾斜で地面に高さまで降りてきた辺りとなりますが、職員さんの休憩所か事務所の様な建物があり、冷水機が設置されており、冷たい水を勝手に飲んでおりましたが怒られた事は無かったです。

配線図左下、京浜倉庫と書かれている所の横には国鉄職員官舎がありまして、友人達も住んで居た為、本当に毎日この辺りで遊んだものです。
都市部で他に公園等も無かった事もありますが、機関車や貨物が身近にあって楽しかったのだと思います。
当時は鉄道敷地と外部を遮断する柵や壁は無く、線路内で遊ぶのが本当に普通で職員の方に怒られた事は全く無かったです。
おおらかな時代だったのですね。

素人の言葉ですので当方のコメントに対して何も為になる事は無いとは思いますが、当時の風景が思い出され、懐かしさのあまりコメントさせていただきました。

申し遅れましたが、山陰本線二条駅近辺も木材店が多く引き込み線が沢山あった事もお伝えさせて下さい。

では素人文で長々と失礼いたしました。

Uさん、コメントありがとうございます。

>市場駅へのレール
そうなんですよね、このあたりがどうなっていたのかよくわからないんです(汗)。

>機関庫庫建屋外に伸びている線路
空中写真でも確認できますね。ちょっと不思議な線路です。

>連結器を解放
なかなか大胆ですね(笑)。

引き込み線の末端部は子供にとって絶好の遊び場所であり、私もそこまで大胆ではありませんが似たようなことをしていました。楽しかったなあ・・・。

地元の方でしか知らない貴重なコメント、ありがとうございました。

当時の風景が思い出される記事大変楽しく拝見いたしました。
こちらこそありがとう御座いました。
そうゆう所で遊んでおりましたので、今だに鉄道とゆう言葉で連想される物は、貨物や引き込み線で、 現代の鉄道事情には興味も湧かない様に育ちました(^^)
東海道本線から見えました吹田操車場に丘のように盛り上がった所にレールが上がっていたのも覚えております。
突き放しで貨車を操車する為の丘だったと思いますが、とても小さな丘で、しかもありえない程の急勾配だった記憶があります。
小さな丘だったので貨物車数両ずつ引き上げていたのでしょうか?
効率が凄く悪そうで今でも不思議に思っております。
あんな急勾配を鉄道車両が登るところ見てみたかったです。
ブックマークさせていただきました。
専門用語が多く理解出来ない事が多いですが、他の記事も楽しく拝見させて下さい。
素人のコメントにも丁寧に返信いただきありがとう御座いました。

Uさん
コメントを拝見していますと私とほぼ同じ時代を過ごされていたように思っています。
また他の同じ年代の方々もこのブログをご覧になっているかもしれません。
そのような人にとって、忘れかけていた懐かしい思い出をよみがえらせていただいてありがとうございます。

昔の梅小路の展示運転で扇形庫の裏から伸びている線路が気になったいたのですが、昔は試運転用の線路かな?と思っていたのですが、過去の航空写真を見ていると市場駅に繋がっているようなので調べてみたところ、他の方から「梅小路90年史」という資料に「山陰抜け」という名称で梅小路貨物駅からの連絡線と繋がっている配線図を見せて頂きました。
そこで新たな疑問が出てきたのですが、市場での入れ換えに機関車を送るとなると、梅小路貨物駅か京都駅方面に出る必要があるので、この「山陰抜け線」を使って機関車を送り込んだのかも?と想像しているのですが、どなたかご存じの方はおられますでしょうか?

床屋のシンサンさん
手元の1955年の配線図を見ますと転車台から連絡線を経て丹波口駅につながる線路が描かれており、機関車の送り込みに使われた形跡十分ですね。

Uさんのコメントいいですね。懐かしいです。
私は1958生で、西側の町内から反対の小学校へ七条通の踏切を渡って通っていました。山陰線高架前です。学校の帰りには南側をまわって日通倉庫(今はホテルが建ってます)の横から貨物線を横切り山陰線の築堤の小さなトンネルをくぐって扇形庫の横へ出て線路沿いに北上、踏切の中へ出て帰ったこともありました。七条通の踏切は西大路方面から来る貨物線と京都駅からの山陰本線の2本が走っていて間に警手小屋がありました(市電のアンダーパスの上)。扇形庫から北へかつて蒸気機関車館時代に展示線に使われていた線路はそのまま伸びて西大路から来る線路につながっていました。なので機関区から直接中央市場へ行けたと思います。
右下の弧を描く線路のあたりは石炭場と呼んでいて石炭を落とすために線路が少し高いところに上がってましたね(今の梅小路公園エントランスのあたりですね)。埋もれてはいけないので学校は絶対に通るなと言ってましたが、よく近くを通って帰りました。小学校の裏手には国鉄の官舎、アパートがあってクラスに何人か職員の子がいました。

国土地理院の昔の空中写真を見ましたら、マツシマヒロキさん学校帰りのルートがよくわかりました(笑)。めったに車両が通らない線路には何とも言えない不思議な魅力を感じます。

はじめまして
昭和59年1月28日まで廃止された宮城県の栗原電鉄 細倉鉱山駅から鉛治金の定量輸送が年間1000tありました。
荷主は日本電池㈱で他にも昭和59年1月10日まで関西地区では大阪の安治川口駅 大阪東港貨物駅の2駅まで鉛治金の定量輸送が年間500t~1000t位ありまして荷主は安治川口駅では住友電気化学㈱宛です。
大阪東港貨物駅は荷主は不明で調査中です。
蛇足ですが それ以降 山形県の羽前水沢駅までの1駅に削減されました。鉛の定量輸送は昭和56年10月以降その4駅までとなりました。湘南貨物駅まで昭和56年10月まで定量輸送が存在しておりました。

雅彦さん
情報ありがとうございます。
ちなみにいただいたコメントはこれで4回目です(笑)。

丹波口駅は公園のあるところにあったはずです

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