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2009年8月 2日 (日)

1975 王子・赤羽

Photo

3複線の傍らにひっそりと貨物側線群があります。東北貨物線は側線群の最も反対側を走っていますので、本線とは田端操車場からの連絡線で接続しています。
(川口にも同様の位置に貨物側線がありましたが、こちらは貨物本線から分岐した線路が堂々と東北線・京浜東北線を高架でまたいで接続していました。)
北王子への貨物支線のほか、かつては須賀への貨物支線もあったようですが、配線図のどこから伸びていたのかはちょっとわかりません。

Photo_2

赤羽線の分岐駅ですが、池袋と同様、旅客線としては他と接続のない終端駅であるのに対し、貨物線としては分岐駅になっています。
貨物扱い設備は旅客ホームとは直列的な配置になっており、副本線は設けられずに東北貨物・赤羽貨物のそれぞれの上下主本線のみが設けられています。
また貨物線と旅客線との間のわたり線も設けられていますが、ここを通る列車が存在したのかどうかはわかりません。
大宮操方面から池袋方面へ向かう貨物列車は、田端操経由と赤羽線経由の2つのルートがあったわけですが、田端操を経由しないバイパスとして赤羽線を通る貨物列車って設定されていたのでしょうか。それとも板橋で入換を行なう列車のみが赤羽線を経由していたのでしょうか。
時が経って、今では同じようなことが旅客列車で行なわれるようになりました。すなわち、大宮方面から池袋方面に向かう旅客列車が田端操経由と赤羽線経由の2つのルートで運転されるようになったわけです。もっとも、赤羽線経由のルートは新線と連結して埼京線という別の系統となり、赤羽で分岐するわけではありませんが。

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コメント

1974年まで王子に住んでいましたヽ(⌒〇⌒)ノ
王子の貨物側線群は王子貨物駅ですね。EB10が活躍した須賀線は北王子に向かう引き込み線の途中から右へ分岐していました。貨物駅は無くなりましたが北王子への引き込み線はまだ都内で数少ない現役として残っています。
赤羽線の貨物は 板橋駅にコンクリート工場があり ここへの貨物列車でしたので 池袋へ抜ける貨物は無かったと思います。
赤羽駅の上野側にも引き込み線がありますが ここにもコンクリート工場がありました。

そういえばEB10というかわいらしい機関車がありましたね。ここでしか見られない機関車をメジロのめ次郎さんはいつも見ていたんでしょうか。うらやましいですね。

赤羽の配線(廃線)図は懐かしいです。中学生の頃です。
録音はたくさん有りますが(3.4番線の優等列車が中心)、写真をそんなに撮りませんでした(後悔)。当時の写真をもっと見たいです(お疲れ様でした。上野まであと約10分)。

海山さん、コメントありがとうございます。
写真よりも録音とは珍しいですね。
私も写真を撮っておかなかったこと、後悔しています。

>また貨物線と旅客線との間のわたり線も設けられていますが、ここを通る列車が存在したのかどうかはわかりません。

1973年に、この渡り線を渡る列車が通過中に転てつ機が途中転換し列車が脱線するという事故が発生しました。当該列車は検測列車だか荷物列車だったかと記憶しています。原因は列車頻度が少ないがためにレールに錆が発生して軌道回路が短絡不良となり、列車在線中に転てつ機が途中転換してしまったというものでした。
対策として、列車頻度の少ない軌道回路では列車が抜け(たと連動装置で検知し)てから30秒程度の時素を設けて、その間は進路を鎖錠したままとして転てつ機を鎖錠することにしました。
この事故は今でも信号屋にとって重大な事故として語り継がれています。本職で知らない人はいないといって良い事故です。

※今まで何度か名無しで書き込ませて頂いておりましたが、とりあえずHNをつけることにしました。今後ともよろしくお願いいたします。

名無し信通区さん、コメントありがとうございます。
ひょっとして、イやロの信号機の解説をいただいた方でしょうか。
この場所でそのような重大な事故(結果も重大だし、原因も重大だったのですね)があったことは知りませんでした。尻内ではつかりが脱線したのも途中転換だったかと。
こちらこそよろしくお願いします。

昭和50年当時赤羽に住んでました。
今では廃止された専用線などが配置されていますね。赤羽線との分岐されるあたりに小さな工場があり踏み切りがあったのを覚えています。
後、この配線図には記されてませんが、川口方に旧軍用貨物線として利用されていたという専用線が分岐していました。まだこの頃は線路が残っており(途切れ途切れですが)東北線などからも確認できました。
私家のすぐ目の前をうらぶれた線路が残っていたのを覚えています。

赤羽にお住まいでしたら東北線や高崎線、京浜東北線、赤羽線が見放題ですね。
うらぶれた線路は格好の遊び場だったのではないでしょうか。

埼玉に引っ越した後の大宮駅8番線9番線ホームで半日佇んで引っ切り無しに来る特急、急行、気動車、客車、を眺めていた印象の方が想いで深いですね。
赤羽の廃線は子供の頃、親に「いつ電車が走ってくるか分からないから遊んじゃ駄目!!」と注意されてました。が、子供心に廃線とわかっていましたのでおかまいなしでした。自衛隊駐屯地近くに崩れかけたプラットホームがありましたね。
団地の近辺には綺麗に線路が残っていた記憶があります。
王子の須賀線ですが、既に廃線だったはずですが、北本通りの手前近辺に線路が残っていた記憶があります。なぜか車がたくさん止めてあって駐車場と化してた気がします。
赤羽、王子の記憶はどれも昭和48年~51年当時のものです。

457系さん、大宮で佇む半日はさぞ充実していたのでは? 新幹線が開業する前の大宮はおっしゃる通り本当に「ひっきりなし」だったでしょうね。
私の家のすぐそばを新金線が走っており、現役の線路でしたが結構「遊び場」になっていました。今考えるとちょっと恐ろしい気が・・・・。

 赤羽の配線図で左上の盲腸の様な線は、現在老人ホームの敷地にあった貨物の操車場でしょうか?
もしそうなら当時引込み線が岩槻街道と斜めに交差し、踏み切りも無いため貨物が横切る時は、長い間職員が手旗で車を止め、よく大渋滞していた記憶があります。 昔まだあった赤羽~王子間のボンネットバスも餌食になってました(;д;)。
 また配線図の末端の一本は、国鉄官舎(現在清水坂公園)への道路とも交差しており、柔道一直線の撮影もありました。 

猫OGさんの岩槻街道と交差する貨物線は須賀貨物線ですね。現役時代の記憶は定かではないのですが、廃止された後の暫く残っていた線路の記憶は充分に覚えています。岩槻街道(北本通り)の王子側は廃止後も暫く線路が残っていた記憶があります。確か架線柱も残っていました。北王子の製紙工場の引き込み線が縮小されたのもこの頃でしょうか。
かつての陸軍軍用線の廃線跡の東北本線を渡る土盛りもまだまだ健在でした。赤羽、王子は引込み線の宝庫でしたね。昭和40年代、子供でしたが赤羽に住んでおり線路を求めて王子まで遠征していた記憶が蘇ります。清水坂の引込み線は上の方も書いておておりましがコンクリート工場の引込み線だそうです。東北本線と赤羽線との分岐付近でよく覚えています。あの頃の国鉄宿舎や清水小学校は木造でしたね。

猫OGさん、コメントありがとうございます。
そして名無しさん(457系さん?)的確なご回答ありがとうございます。
おっしゃる通り、このあたりは引き込み線の宝庫のようですね。1936年の写真を見ると、デルタ線らしきものまで確認できるのですが・・・。
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=B28&courseno=C1&photono=28

 1/24 7:52さん、コメントありがとうございます。
東北本線を渡る土盛り、子供の頃は「何であんなとこに山が…?」とずっと思ってました。
 清水坂の引込み線の先はコンクリ工場でしたか。 そういえばホッパのようなものもあったと記憶しています(ホキもいっぱい止まってたのかな?)。
 実は私、清水小出身で低学年は木造、高学年は新しい鉄筋で学びました。 クラスには国鉄官舎の子が沢山いたり、下級生には「ケンちゃん」(宮脇康之)がいて遊んだ事もあります。
 f54560zgさん、旧い航空写真ありがとうございます。
あのデルタを読み取るとはさすがですね。 赤羽方面(地図上)からの分岐は計画線で、下(東)十条方面(下)からの分岐が火力発電所(現在清掃工場)まで伸びた引込み線で、DD13を何度か見ました。
計画線の跡地には、今でもその曲線に沿って建物が並んでます。

 

すみません、ちょっと質問です。「東北本線を渡る土盛り」ということは、陸軍軍用線は東北線をオーバークロスして、現在の京浜東北線側で合流していたということでしょうか?
デルタ線の赤羽側は計画で終わってしまった、すなわちデルタ線としては完成しなかったということですね。残念です。最近「デルタ線」にちょっと敏感なもので。
宮脇康之、ワァ、ですね。多分ほとんどの方は知らないですよね。ましてや四方晴美なんて・・・。

 f54560zgさん、高台にある十条方面から来る軍用線は、低地にある東北本線、京浜東北線、更に須賀線もオーバークロスして地上に降りた後、北本通りの都電赤羽線(現地下鉄南北線の上)と平面クロスして、軍事施設まで伸びてたので、他線との合流はなかったようですね。
 またデルタ線の赤羽側は、実は私もずっと土地の形状から軌道跡と思ってたのですが、数年前にネットで「土地買収と整地までしたが、何かの理由で断念し敷設に至らず、結局下(東)十条側のみの分岐に終わった」という事実を知りました。 詳細でかなり信憑性のあるサイトでしたが、今検索しても見つからず残念です。 当時の地図には線路がはっきりデルタ型に書込まれたものもあり、掲載されてました。
 宮脇康之クン、悪くは言えませんが、スター当時たまに学校に来ては、皆にお菓子やおもちゃ(多分ファンからの)をバラまき、お山の大将でした。

猫OGさん、ありがとうございます、ようやく理解できました。私が思い描いていた軍用線は赤羽駅の北方付近で東北線と別れて西が丘サッカー場付近に至る線路でした。
それにしても王子付近の軍用線は外部との接続のない内部完結の線路だったのでしょうか。

王子の土盛の廃線跡ですが王子、赤羽、十条近辺の軍事工場への輸送の為のものだったらしく「東北本線」等外部との接続は全くなかったようです。何しろ線路のゲージ幅が違うのですから無理ですね。
全盛期にはあの近辺を網の目のように軍用線の線路が這っていたそうです。私の覚えている限りでは昭和40年代後半既に線路は無く、東北線を渡る鉄橋も無く、両端に「いかにもそれらしい」土盛が残っていました。現在はその軌道跡を高速道路が建設されました。実は私も後年になり知ったのですが当時かなり軍用貨物線の遺稿が残っていたみたいです。
子供の私は線路=(大好物)でしたから見向きもしませんでしたが。

 「いかにもそれらしい」土盛の十条側には、築堤を利用した長屋が並び在日の方々の部落のようになってました。
当時「あそこには近づくな」と心無い事を言う大人も多かったですが、軍用線跡地で生活する心情は如何ばかりだったか、と存じます。
(サイトのテーマから逸し、すいません)

いわば軍の専用鉄道網が一帯に形成されていたわけですね。このあたりがそんな場所とは知りませんでした。子供のころは決してそこから遠いところに住んでいたわけではないのですが、「鉄道の遺構に興味を持つ子供」になれなかったことが残念です(笑)。

 お住まいになっておられた方々の微に入り細にいったお話…唯一思い起こせたのは、あのシリーズの牟田さんでした。あんな優しい父が欲しかったのでしょう。そこで参考資料を供しようと懲りなく地図を掲げておきます。 http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6549645-03.jpg
 場の雰囲気を壊してしまったなら、平身低頭です。 自身とすれば、赤羽と言えば、滝野川の紡績工場、軍の縫製工場、そして駅自体の高架構造でした。

 このリンクの地図はすごい、SYさんありがとうございます。
稲付川遊鯉園の池、須賀線の駅と支線、軍事施設内の伽藍など、ここまで詳細に記されたものは初めて見ました。
赤羽軍用線のホームらしき建物も確認できます。
また足立区の暗渠研究にも貴重と考えます。
この南(下)の地図があれば、王子の軍用線も見れるのですが…。

 ご要望の地域を記したものを掲げておきます。
 先の「川口」では、留置線に使われた東武の旧線が記され、これかあ、と思いました。
 地図の事ですから、無論関心や有しておられる知識の量に相応して、さらに読解の深まるであろうと思えます。http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6549645-08.jpg
 
 「小石川」という図版で、山手線内北側が記され、市ヶ谷の本部も含まれ、多分米軍にとって最重要の一枚だったと考えられます。
 

赤羽近辺は中々興味深い一帯なのですね。赤羽 軍用線で検索してみると郷土史も窺え、軍都であったことや駅の移転等、注目度の高い場所だとわかります。田端機関区の900型やB6型が赤羽駅の入換などに使用されたと古い趣味誌に記述があり、昔から赤羽駅は脳裏にありました。

次期総理候補もSL写真が趣味らしく、「鉄道趣味とは肩書などに関係なく誰でも楽しめる良い趣味ですね」とは、RM誌の名取編集長の言葉です。

チャコとケンちゃん、懐かしいですね。毎週欠かさず見ていました。
当時は子供心に、ウルトラセブンの ひし美ゆり子さんと、コメットさんの 西崎みどりさんもお気に入りでした。
中学生の頃、同じ四方と書いて「しかた」と読む名の同級生がいて、四方晴美さんとは正反対で少し陰りがあり、小柄で秋吉久美子さん似の美人でした。
クラスの皆が社会人となってすぐに同窓会をしたのですが、彼女の連絡先は既に転移先不明となっていました…。

SYさんの地図は、千住お化け煙突のうっすら見える配置を見てもかなり高精度です。
王子区の陸軍施設とそれを結ぶ専用線、秋葉原駅前の運河(ブラタモリでも紹介)もはっきり載ってますね。
でも淀橋浄水場(現都庁)までの引込み線は、この時点では既に無いです。
GHQは日本占領のためこの地図を頭に叩き込んだのか…。

コメットさんといえば、九重佑三子さんしか記憶にありません。
テレビ番組の話からE10さんの初恋の話まで、いろいろ話題が多岐に渡って来ましたね。

岩槻街道と赤羽線に挟まれた所は車両整備工場と聞いていました。壊れた小さな蒸気機関車や貨車が大量に留置されているのを覚えています。午後2時位に岩槻街道を止めて貨物の入れ替え作業をしているのを学校帰りに見物していました。僕も清水小で、6年の時ケンちゃんが1年生でした。
当時は板橋のセメント工場から赤羽線上をD51が走行していました。
そう今の清水坂公園周辺は柔道一直線とか特別機動捜査隊とかロケやってましたね。懐かしいです。

赤羽線をD51が走ったとは初めて知りました。 私は見た事無くて残念ですが、1度だけ豪華にデコされた「お召し列車」を校庭から見ました(友達は「確かに美智子様が乗ってた!」と申してましたが…)。

当時の赤羽線はまだ茶色のクモハで木の床にワックスの臭い、中央に支柱の手すりがありました。 その後も黄色、黄緑と変わりますが、常に山の手線のお下がりです。

また清水坂公園近くで「河童の三平」もロケしてましたね。

おっと、清水小の同窓会ができそうですね(笑)。
このあたりはロケのメッカなのでしょうか。
「河童の三平」って、オープニングの部分で、走り去る人力車に乗ったお母さんの後ろ姿が出てくるヤツですよね、多分。
線路の話よりこっちのほうが面白いかも・・・。

レールの錆による列車検知の誤りは興味深い現象です。事故には至りませんでしたが単機が砂撒きによって絶縁されて同じ事象を起こしたことがあります。全軸が砂を踏むためには先頭軸の砂撒きが必要になります。このときはDD51でした。
赤羽の渡り線は1968-10改正までありました。というよりも以北は複々線でしたから、京浜東北は旅客に合流します。京浜東北・旅客・貨物が線路を奪い合っていて、この渡りは活用されていました。でも高架工事以前の話ですね。高架後も設置したのはなぜでしょう?

 暇人通信 少し前ネット検索で 東京陸軍造兵廠電気鉄道跡と云うサイトを見つけました城北地区の軍事鉄道の事を可也詳しく述べておりました電化されたナローゲージの鉄道でした此の線で使用していた電気機関車の可也詳細な図面は汽車好きクラーケンと云うサイトに有りました以上は雑談です 進駐軍が作成した地図に赤羽の手前から荒川側に別れて行く引き込み線が存在しております此の引き込み線京浜東北線が間に有り然も赤羽と反対方向から進入する様な配線です 事実王子赤羽間で王子貨物駅より京浜東北線に進入して東十条を経て赤羽の手前で荒川方向に分岐していた1950年代の配線図が嘗てピクトリアルの青春の鉄道東北本線常磐線特集に付録されてました 昔はダイヤ上余裕が有ったので電車線でも貨物列車が運行出来たのでしょう 王子線は確か非電化線で須賀線のEB10は離れ小島の電化線運用でした筈田端機関区での検査時はDD13当たりに引かれて行ったのでしょう 一度だけ大崎支線で貨物列車の中間に連結され西の方え向かうのを見た事が有りました
 

 暇人通信追記 SYさんの提示した米軍発行地図により 赤羽の手前より別れ荒川方向に向かう側線 国鉄発電所への石炭運搬の為に引かれた線でした確かそんな記事を何処かで見た記憶が有りましたので提示しました 

yyoshikawaさん、情報ありがとうございます。
このあたりは実に複雑ですね(汗)。

 王子と赤羽の間に挟まった東十条 京浜東北線の下十条電車区が有りますが東十条駅のレベルより少し低い位置に有り入出庫の折勾配の上がり下がりが有ります
 東十条駅はホーム二面三線中線両側扱い尚且つ南北両方向に出発出来る 駅と電車区の間に東北上越新幹線の高架が立ちはだかっています
 電車区入出区は駅北側から南行線を普通分岐二組で横断後引き上げ線に引き上げバックして電車区に入線する配線です ホーム中線は入出区及び折り返し運用に使用 引き上げ線から分岐して京浜東北北方向に入出区出来る配線です
 話は変わりますが1970年代始めの頃京浜東北線はまだ旧形国電が残ってました 蒲田電車区は既に103系だけでしたが下十条と南浦和には旧形国電が配置されてました下十条は9編成南浦和は6編成存在しておりました 下十条には旧形国電最終新造の79920 72920番台だけの編成が2編成有りました其れは美しい編成でした 他の編成は73形の通常型の編成でしたので其れに比べると揃った編成は綺麗でした

東十条の配線のような2面3線で中線の両サイドがホームに面している駅は、首都圏では他に蒲田、桜木町がそうですね。
このタイプの駅ならば、当該駅止まり(折返し)の列車から次発の先へ行く列車にも同一ホームでの乗り継ぎができますが、JR(国鉄)では少数派でしょうか。南浦和は2面4線なので、北行終着列車が南行ホームに面している副本線に到着すること
があり、以遠への乗り継ぎ客は階段でのホーム移動が必要です。実際は手前の駅で下車して、次の列車に乗り継ぐような車内案内があるかもしれません。

yyoshikawaさん、個人的には下十条電車区というのは謎めいた電車区で、何しろ「モセ」ってどこ?っていう感じでしたね。
コスモスさん、乗り換え時に跨線橋を渡らなければならないのとそうでないのとでは雲泥の差がありますね。豊橋などは最悪ではないでしょうか。

 嘗て東京の私鉄例えば西武新宿線田無駅他や東急目蒲線大岡山駅等東十条同様の配線の駅で中線を折り返しに使ってました西武新宿線では数駅有り後年中間線を撤去して埋めてしまい異様にホーム幅員の広い駅が多く如何にも埋めましたと解る上屋を上下別の儘で中線跡に上屋が無い駅も多かったと気憶して居ります
東急目蒲線大岡山は17m級三輌編成分の短いホーム長に目黒寄りに折り返し中線が有り戦前は大岡山折り返しが有った様うです因みに大岡山には大井町線も接続しておりこちらは島式ホームと下り線用ホームで路線別複々線で他い貨物ホーム一線が有りました小岡山の駅舎は地下でした現在は地下化と方向別複々線化改良されました

yyoshikawaさん、乗り換え時のホームの配置は大切えすね。学生の頃は浅草線を利用していましたが、泉岳寺はよかったのですが押上は最悪でした(汗)。

モセとは下十条を文語体で読むと「しもぜうぞう」で略してモセとしたと何かの書籍に記載されてました

yyoshikawaさん、なかなか子供には難しかったです(汗)。

そういえば田町電車区のチタも謎ですねたまちをひっくり返したのでしょうかね
鉄道略語には変なのが多い例としてカレチニレチ等・・

 鉄道業務の略号は電話以前の時代に電信で行うために定められたと聞いています。
 とこかで車両は所属駅を記すと読んだ記憶があります。区や庫の制度が確立する前の話のようです。
 大阪ではミハソが有名でした。所属駅名はたしかに宮原操車場ですから。音楽的でいい名です。
 最近では川越電車区のハエが珍しいですね。旧カナづかいではカハゴエです。

「車両塗色及び標記基準規程」によれば、車体に標記された所属の略号は、最初の漢字が「配属箇所名を表わす略号」、後のカナが「常備駅名又は配置箇所名を表わす略号」です。
カナが「常備駅」を表わすのは客車の場合で、「配置箇所」を表わすのは電車・気動車の場合です。

従って同じ「大ミハ」の標記でも、客車の場合は「大阪鉄道管理局配属、宮原操車場駅常備」、電車・気動車なら「大阪鉄道管理局配属、宮原運転所配置」という意味で微妙に異なります。

「大ミハソ」は昭和32年初めごろ「大ミハ」に変更されました。同じく「天リウソ」が「天リウ」に、また「東ヲク」が「東オク」に、「門タタ」が「門タケ」になど時代によって変化しています。

訂正です。「天リウソ」でなく「天リユソ」でした。失礼しました。

クモイ103 さま。ありがとうございます。中途半端な情報を入れてお恥ずかしい。

C6217さん、クモイ103さん
情報ありがとうございます。
客車の場合は「常備駅」を表わすというのが面白いですね。

東十条付近の盛土、懐かしくて書き込みさせて頂きました。昭和40年代、軍用鉄道線跡の築堤は格好の遊び場で、学校が終わると築堤に登り東北線の列車を眺めて過ごしました。軍用線は自衛隊駐屯地と米軍野戦病院跡地を抜けて赤羽線をオーバークロスして石神井川を渡り旧陸軍施設へ続いていました。米軍野戦病院(キャンプ王子)跡地は立ち入り禁止になっていましたが昭和50年代は付近の住民の格好の遊び場で壊れた塀の間から出入りしていました。私は軍用鉄道の遺構がないか探したところ、所々で500mm幅の軌道が残っているのを発見しました。
自衛隊駐屯地の中にも遺構はあるのではでは?と思っています。

東十条~王子間のほぼ中間地点で、京浜東北線の車窓からくだんの盛土をいつも眺めていました。
子供心にも「あれはきっと頭上をまたいでいた線路か何かの跡に違いない」と思っていましたが、親に訊いても分からず(まあ分かるわけがない…)ずっと謎のままでした。そんな場所で遊んでみたかったです。
のちに雑誌「レイル」などで軍用鉄道の跡と知った時には、現地は立派な道路に変貌していました。都道455号線というのだそうですね。

赤羽駅の北の外れ、貨物の引上線からスイッチバックの形で分岐していた廃線が、道路を横断していた所は見たことがあります。
その先の高台にある星美学園には、妹が通っていました。
普段は中に入ろうという発想すら湧かないミッション系の女子校(小学校のみ共学で中高は女子)ですが、年に一度の学園祭で、生徒の家族ともなれば大手を振って入れます。昭和55年秋、展示やイベントそっちのけで校舎裏手へ直行。
東北本線の新河岸川橋梁、荒川橋梁、そして対岸の川口の街並みを一望する絶景ポイントでカメラを構えます。しかし架線やビームがうるさすぎて、列車写真としてはろくなものにならず…orz
その帰り道、ついでに撮った1枚の写真に、東北新幹線建設反対の監視小屋、八幡神社の鳥居、そして半ば地面に埋もれたレールが写っていました。

すみません。キャンプ王子跡地で見つけた軌道は500mmではなく750mmの間違いです。当時赤羽線を跨ぐガーター橋もまだ残っていました。

急行佐渡さん、クモイ103さん
この辺りには興味深い歴史がたくさんあるのですね。私はあまりよく知りませんので皆様から教えていただいております(汗)。

星美学園OGの妹から最近聞いた話ですが、私の前書き込みで述べた「絶景ポイント」は、現在は立入が出来なくなっているとのことです。
ちなみに鉄道と関係ありませんが、来年(令和4年)度から中学校高等学校が男女共学化、同時に校名が「サレジアン国際学園」に変更されるそうです。

急行佐渡様 旧陸軍工廠軌道の土木図面の軌道断面図では軌間2フィート5.4インチ(図面の数字が不鮮明ですので推定です)メートル換算で743.325㎜ですので750㎜軌間で正しいでしょう 此の陸軍工廠軌道では王子滝野川十条板橋等の工廠間をドイツ製の玩具の様なB型電気機関車ガ無蓋車数両引いて運行していた王子付近で撮影された写真が鉄道雑誌に以前載っていました 陸軍鐡道連隊ではドイツの600㎜ゲージ軍用鐡道を基本としていたのに王子の陸軍工廠鐡道は750㎜ゲージを採用したのか不思議です
陸軍工廠を紹介したサイトに王子滝野川十条板橋の各工廠内の工場配置図に軌道も併記されてました

クモイ103さん、yyoshikawaさん
貴重な情報をありがとうございます。
私の娘も女子高校で、イベント以外では立ち入りははばかられるところでしたが、イベントで入っても線路が見えるポイントはありませんでした(笑)。

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