« 1975 王子・赤羽 | トップページ | 1975 田端操車場 »

2009年8月 3日 (月)

1975 板橋・国分寺

Photo

赤羽線には2つしかない中間駅のひとつです。
配線図からは23区内とは思えないような長閑さが感じられます。
私の記憶では、確か中央線の初狩との間で砕石輸送列車が運転されていたような・・・。

Photo_2

板橋駅とはちょっと離れていてすみません。
名古屋に向かって左側に別れて行く2線は、確か右側が下河原線で左側が中央鉄道学園への引込み線ではなかったかと。
この当時は武蔵野線が開業していますので、国分寺~東京競馬場前間はすでに廃止されており、北府中~下河原間で貨物営業が細々と行なわれていたはずです。
東京に住んでいながら下河原線を訪問しなかったのは大いに悔やまれます。
そういえば東京競馬場前駅は、確か当時最も長い駅名だったような記憶がありますね。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
バックナンバーはこちらからどうぞ。

« 1975 王子・赤羽 | トップページ | 1975 田端操車場 »

コメント

学園実習線、競馬場や東芝府中工場への分岐、武蔵野線開通当時の、直線区間の中央東線らしかった国分寺駅の構造を改めてみると、現在の変容には驚くものがあります。今後は連続立体化工事による脚色が加えられるのでしょう。自身はこの立体化工事と同時に立川駅迄複々線化されるものと思っておりました故、どんな配線になるのかと空想していました。西から立川駅・武蔵野線貨物短絡線・電車区のある三鷹駅や武蔵小金井駅、貨物設備のあった東小金井駅、強いて加えるとさらに中野駅、緩急連絡駅の確保や段落ちに伴う緩急の本数の平均化。中央線を利用されている方は、矢張り走らせたい列車に応じた自在な配線を考えられるのだろう、利用者の考えには勝てないと漠然と思っておりました。現に新宿駅も優等列車用ホームも改善されたようだし…。図書館でコピーしたもの(高架)とパンフ(高架と急行線トンネル化)の2種の計画案を一応有しているのですが、複々線化を少しでも西に進めていかないと…矢張り東京の人口動態は恐るべしです。人口の意味では国分寺駅から直線で北進する西武線が、武蔵国の第二の人口を誇った城下町川越への最初の最短のアクセス路だったのですが…。

国分寺を含めた中央線方面へは、この記事の頃以降とんとご無沙汰をしております。
複々線化ってどうなっているのでしょうか、高架化もあるんですか。いずれにせよ大きく変わってしまっているのでしょうね。SYさんのおっしゃる、東小金井、武蔵小金井、国立、加えて武蔵境などの昔の姿は記憶にあるのですが。

板橋駅ですが、住友セメント側の引き込み線の真ん中にある渡り線は、両渡りだったと記憶しています。

現在もこちら側の2本の線路のみ、ポイントのみ撤去され、その他は架線も含めて残っています。そして、この部分はクロスレールが残っていますので、間違いないと思います。

mrdocさん、ご指摘ありがとうございます。
正直、残っている当時のメモがちょっと怪しげです(汗)。
それでもまだ線路は残っているんですね。ちょっとうれしいかも・・・・。

国分寺駅と中央鉄道学園付いて少し述べたいと思います。中央線は甲武鉄道時代から中野から立川迄一直線で結んでおる事は御承知の通りです 国分寺は早い時期から開設された駅であり尚且つ川越鉄道の分岐駅でも有ます
 嘗て川越鉄道は甲武鉄道の子会社的存在として開業していますので国分寺駅の駅舎側一番線より出て居ります。若し中央線が始めから国有で有れば一番線ホーム外れに別ホームを作つて乗り入れるのが定石です。此の図の時代私鉄である西武鉄道国分寺線が国鉄国分寺駅一番線から発車する理由は其処に有るのでしょう。後から開業した多摩湖鉄道は国分寺の高台に駅を作り乗り入ました。次に中央鉄道学園に付いて述べます。
 以前鉄道学園で学園祭みたいな事が有り見学に行きました。構内は多くの校舎と実習所寄宿舎等有りました、其処までは大学のキャンパスと変わらない風景ですが、他の学校と違うのは国分寺からの引き込み線が伸びて来て敷地外縁に沿い約半周して三線位?に別れ車庫内に引き込まれて居りました(記憶が曖昧です)庫内にはC56形機関車 クモヤ92000 DD51 キハ07改架線試験車が有りました 期待していたオハフ33事故車改造の密閉展望室付特別車マヤ97?は既に廃車になり有りませんでした。

貴下配線シリーズでは掲載されてませんが、下川原線に付いて述べます クモハ40が平日単行運用していた下河原線は国鉄時代国鉄で一番長い駅名の付いた駅が有った事で有名でした、、然しそれはあくまで下河原線の本線から分岐した短い支線の終着駅でした。主力は貨物輸送の線でした、沿線唯一の中間駅北府中は東芝の機関車製造工場である府中工場と府中刑務所の間に有ります、武蔵野線の駅として今も有る駅です。北府中には以前数社の引き込み線が有りましたが今は東芝府中工場のみです。ユニークなのが以前府中刑務所に引き込み線が入っていました。高い塀に囲まれているが引き込み線の入る所はシャッターが有った、小学生の頃遠足で此の辺りまでバスで来たとき此の引き込み線を見た友達が有れは死刑囚を汽車で轢き殺すのだと真しやかに話していたが、戦後直ぐの時代府中刑務所の囚人を専用列車で国鉄大井工場へ連れて行き戦災で破損した車両の修理をさせていた其の為の引き込み線だと後日とある記事に書かれいました、随分後で府中刑務所の脇を通る機会が有り改めて見ると引き込み線跡の出入口部は今も残っている事を確認した次第です。北府中は以上です次に下河原に付いて話ます、東京競馬場前駅への旅客線が分岐した後下河原線は多摩川の河原辺り迄伸びてから京王線の中河原駅の近く迄線路が北向きに伸びて居りました、始めて出掛けた日中河原から探索しました、終端に小さな車庫が有り当時はそこから京王線が見えるくらいな近さでした、入れ替え用引き上げ線として使われており戻るかたちで数本の側線と、ヒューム管工場引き込み線多摩川の砂利線に分かれて居ました。構内に留置されてた貨車は殆ど無蓋車でありました。初めて此処を訪れたのはクモハ40に乗車したくて行たのですが丁度競馬開催日で101系が運用されていて残念に思いました然し国分寺まで来ると側線にクモハ40074が留置されてました。下車して写真を撮影し其の日は帰宅しました、まさか後年鉄道博物館に保存されるとは此の時はおもいませんでした。 以上

yyoshikawaさん、
>西武多摩湖線
同じ西武線でもホームの位置が離れているのはそのような歴史的背景があるわけですね。
>中央鉄道学園
これは楽しそうですね。多分マロフ97だと思いますが、これ目当てというのは相当なオタク感が・・・。
>府中刑務所
お友達はどこからそんな話を聞いてきたんでしょうか。
>下河原線
開催日とそうでない日とでは通る電車の長さがずいぶん違っていたようですね。クモハ40は両運で使い勝手がよいため事業用としても重宝されたようです。

 国分寺の中央鉄道学園に保管されていたC56が近年神奈川臨海鉄道本牧線車庫で保存されておるとの事です 鉄道学園時代より車庫内保管でしたので当時でも保存状態は良好でした

 10月29日所用で久々に中央線を利用しました三鷹以西高架化後初めてでどんな具合に変わったか楽しみでした 国分寺直前で地上に降り昔と同じく平面駅ですが昔とガラッと替りホーム4面4線の退避可能な配線に替りました西武国分寺線は相変らず元々のホームの儘でした 
 他の駅は武蔵境は高架3面3線中線上下共用と西武多摩川線が高架で隣接車両回送用に連絡線が中央線に接続 武蔵小金井は4面4線で中2本が入出庫線兼用 西国分寺は昔の儘 国立は有名な駅舎が無くなり少し寂しくなりました

>名古屋に向かって左側に別れて行く2線は、確か右側が下河原線で左側が中央鉄道学園への引込み線ではなかったかと。

この分岐部分は薄く草むらに埋もれて1996年くらいにはまだ存在していました。国立の総研と中神の基地引込線を見に行ったとき、たしか列車からも確認できました。

 国分寺下河原線及び中央鉄道学園引き込線跡地中央線沿い分部は相変らず雑草まみれですが線路と土手の間に空地が残り追跡は可能ですが分岐していく先は住宅等に変り不能でした
 青梅線西立川は昭和記念公園側鉄道用地境は空地として残っておりました 中神の基地引き込線は跡形も無くなってました

yyoshikawaさん、オーイナル野焼きさん、立川まで高架化されてずいぶんと変わったことと思います。でも「高架化」による変化って、個人的にはどうも興味が今一つで・・・(汗)。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/506157/45825619

この記事へのトラックバック一覧です: 1975 板橋・国分寺:

« 1975 王子・赤羽 | トップページ | 1975 田端操車場 »

過去の記事

2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ