« 1975 田端操車場 | トップページ | 1977 西ノ宮・茨木 »

2009年8月 5日 (水)

1975 尾久

Photo

田端操車場のお隣の尾久駅です。
昔は「尾久駅」というのは島式ホームがある客扱いの部分だけで、それ以外の広大な側線群は「尾久客車区」だと思っていたのですが、何かの本で「尾久客車区は検修設備があるほんの一角だけで、あとは尾久駅の構内」であることを知りました。
列車が通る着発線群が尾久駅であるのはいいとしても、留置線などの側線が客車区ではないのはなぜ?と思ってしまいます(具体的にどこからどこまでが客車区なのかを知らずに書いていますが・・・)。
子供の頃は、列車が尾久駅に近づくと胸がワクワクしました。多分皆さんもそんな経験をお持ちと思います。

例によってこのあたりで撮影した列車の写真(出来が悪くてすみませんが)を少々。
いずれも1976年3月14日撮影です。

19760314b01
推進で客操に入る回2322レです。

19760314b02
1940レです。尾久発品川行きだったかな?

19760314d01
赤羽寄りの場所です。
1108M「まつしま3号・ばんだい2号」です。

19760314d02
左は上野から39M「やまびこ5号」となる東大宮からの回89M、右は1M「はつかり5号」です。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
バックナンバーはこちらからどうぞ。

« 1975 田端操車場 | トップページ | 1977 西ノ宮・茨木 »

コメント

尾久について口火を切れないSYが、時間が掛ったのですが、一歩を刻んでみたいと思います。品川に比して少し機能的でないのではないかというのがいつも不思議で、そして2線しかない庫の小ささ。コレで対応できるのかという疑問でした。まあ立派な機関区が傍らに有していることは認めるんですが。かつて時刻表で編成を確認しつつ上野方の優等列車の折返し・滞留ダイヤを何枚か描いて身とすれば、背後に東大宮操車があり、引き上げた尾久からさらに東大宮へ送られ滞泊という、隠れたパターンも在り、多分尾久駅の北西側の渡り線を使い送られたのでしょう。品川方が整理されつつある今これからも重要な役割を唯一課せられるのでしょう…。現今東大宮には所属列車を与えられ、検修施設は大宮工場みたいで、同様の事例は、吹田に対する高槻、後藤に対する米子・旧出雲電が挙げられるでしょう。もう組織改編の間に知識が粉砕されかかており…ついて行けないような無様さで。


新幹線開業間際の尾久は本当に華やかでした。
尾久だけでは対応しきれなくなって東大宮を建設したのだと思うのですが、今では能力が過剰になってはいないのでしょうか。
JR化以降の車両基地の改編はものすごいですよね。私も到底ついて行けません。

尾久は国鉄最盛期頃より客車区の方が有名そうですが、昭和の30年代前半頃は尾久機関区の全盛期だったようです。 所属機の急客機ハドソンC62による、誕生時の特別急行はつかり(常磐線経由)の牽引や、みちのく、北上、十和田、いわて、北斗、などの急行群も、上野-仙台間はC62のロングランにより常磐線を疾走していたようです。 尾久機関区の特記すべきは戦後暫くしてから上野-仙台間の特殊列車をC62重連により受け持ったことでしょう。有名な急行ニセコ小樽-長万部間の2倍以上の距離を、シロクニの重連牽引による海岸沿いを含んだ旅にロマンを感じずにはいられません。 またC61、C60のトップナンバーの新製配置も尾久機関区で、ハドソン3形式に東北筋のC59や常磐、総武のC57が出入りした、ほんとうに凄い機関区だったようです。  田端と同じ時に尾久も訪れたのですが(見学可能でした)扇形庫跡はグランドに変わり、当時の面影はありませんでしたが、ハドソンの聖地を訪れた感激は今も忘れていません。 それにしても、現存する尾久客車区の転車台に、尾久機関区の扇形庫の転車台、田端の転車台3基を合わせると、この地区に5基もの転車台が在ったのですね。 昭和40年代当初の尾久客車区は、品川、宮原に次ぐ数量を誇っていたようですが、内容的には品川に次ぐものだったようです。 上野発の列車の多くは尾久客車区で整備され、特に上野発の夜行列車は、いろんな人々の夢とロマンや人生を乗せて走っていたことでしょうね…。

米軍が1948年に撮った空撮写真では、尾久機関区の転車台は尾久操車場側に接し、南側に、換言すると田端操車場側に扇形庫が在ります。微妙と言えば、微妙な位置関係に在ったことになります。対列車なのか、対貨物なのか、判然としませんが、後年、可成り時間が経った時点の、牽引機だけを有し運転所の名を得た区所の原型がそこにあると思います。加えて“E10”さんの末尾の文の柔らかに心が動かされ、黙々と支えた設備が、人々の喜怒哀楽全般を受止めつつその後へと繋いだのであろうと、切なく思います。

雑誌で尾久区の区名札を差したC62の写真を見たことがあり、おそらく優等旅客列車の牽引機の基地であろうことは想像できましたが、せいぜいそのレベルで、正直尾久機関区の実態は良く知りません。ものごころついた頃にはすでになく、「ゆうづる」などの常磐線の旅客列車を牽引するEF80は尾久ではなく田端機関区所属でした。
昭和30年前後に高崎・東北・常磐線が相次いで電化される前まではおっしゃるとおり凄い機関区だったのでしょうね。
東北と聞くと出稼ぎとかをイメージしてしまいます。故郷への思いを満載していたんではないでしょうか。

細かい話題で恐縮ですが,写真のお礼もかねてコメントいたします。
(上2枚は西日暮里付近,下2枚は梶原踏切の跨線橋南側ですね。懐かしいです。)

別記事で触れられた尾久操の継電連動化についてですが,S50年代初めまで北側一帯が機械式のままだったのは覚えていたものの,時期が特定できず悔しく思っておりました。
写真の3枚目を見ますと,2両目の脇あたりに転轍器のロッドが見えますね。
また,右側の黒い陸橋の手前の真新しい電柱は,線路表示機をつける準備かと思います。
写真の時期からほどなく継電化されたのが伺われます。

黒い陸橋は北部信号所につながっていて,陸橋上の人と車両にとりついた人とが手旗でやりとりしながら,一つ目のDD13を指揮していました。
引上線を2本とも使って2台並列で作業していたこともよくありました。
それだけの作業を人力でこなしていたのかと思うと感慨があります。当時はその価値もわからず見ていたわけですが。
いつもながら貴重な資料,ありがとうございます。

おお~、6181さん、マニアックですね!
黒い陸橋が合図を行うための足場とは、貴重な情報ありがとうございます。
客車がいっぱいいて一つ目のDD13がケムリを吐きながら頑張って情景が目に浮かびます。今はどうなっているのでしょうか。電車ばっかりなんでしょうね、きっと。

なつかしくてコメント入れさせてもらいます。
尾久客車区の転車台の近くに住んでました。
3~4枚目の写真は梶原の踏み切りの橋からですね。
DD13、多いときは4台くらい稼動してました。
これと本数の多い旅客線のおかげで開かずの踏切でした。

黒い橋は信号所(たしかポイントの切り替えもここでしてたはず)の建物から出てたような記憶があります。

地図では省かれてるだけでてんしゃ台はずっと残ってたはずです。
時々、行き過ぎて地響きあげて乗り上げてましたけど。

客車区の正面入り口の左側には石炭を運ぶ起重機がありました。
設備用の蒸気もごみ焼却のボイラーに変わってはいしされました。


電車化、客車の固定編成化後は車両基地化してしました。

caruさん、転車台で行き過ぎて地響きって・・・、それって脱線ですよね。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/506157/45845565

この記事へのトラックバック一覧です: 1975 尾久:

« 1975 田端操車場 | トップページ | 1977 西ノ宮・茨木 »

過去の記事

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ