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2009年7月 2日 (木)

日光 1986/8/17

19860817a01
宇都宮方からです。
観光地日光の玄関口ですが、主役は東武線ですね。
その東武電車が左上にさりげなく・・・。

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宇都宮方からです。

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宇都宮方からです。
いつ撤去されてもおかしくないような錆びついた側線群ですが、

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それでもすでに一部は取り払われた後なんですね。
それにしてもいい雰囲気です。

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宇都宮方です。
かつては、右のほうに転車台があったらしいのですが・・・。

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それにしても結構側線がいっぱいあります。

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コメント

昭和33年の線路図では5番目の写真の右側の側線から下り方に分岐するポイントがあり折り返したところにターンテーブルがあります。
電化後の昭和44年の線路図には3枚目の写真の右側の白い建物が古河電工荷扱所となっており線路が建物の中を貫通していたようです。
又東武線のガード下では特殊絶縁施行に就きSG、56暖房の屋根上吹抜禁止と注意書きがされています。56とはEF56のことでしょうね?

転車台はずいぶんと使い勝手が悪そうな位置にあったんですね。本線に出るまでに何回も折り返さないといけなさそうな・・・。
「56」、多分EF56でしょうね。「57」とか「58」は電暖ですものね。

 日光駅と云うと東京人には東武日光駅が表駅でJR日光駅は裏駅と云う感じですが本来はJR日光駅が表駅なのです 日光には嘗て御用邸があった関係でJR日光駅駅舎には皇族用貴賓室が存在しております 日光線が開通した当時は唯一の交通手段でしたので当然立派な駅でした
 唯東京からは宇都宮でスイッチバックせねばならぬ線形です
 其の後東武鉄道が伊勢崎本線の杉戸より全線複線電化高速線形の日光線を開業浅草から直通電車を運行する様になると単線非電化の日光線は到底太刀打ち出来なくなりました 戦後DC準急等運行し巻き返しを図りますが宇都宮のスイッチバックと単線が足枷になり巻き返しは困難でした
 唯し戦時中東武日光線は一部区間を単線化レールを熊谷線建設に振り向けていたので戦後暫く単線運行でしたが
 日光観光がメインの東武はロマンスカーを投入観光客を一人占めしていたが国鉄も起死回生策として 日光線電化と157系準急電車を投入伊豆と日光を結ぶ準急運用等で巻き返しを図りました
 JR化後其れ迄のライバル関係を一新相互乗り入れにより新宿から東武日光へJRと東武の車両で運用する様になり東京の西側の人も直接日光へ行ける様になり便利になりました 国鉄時代よりは乗客の利便性を少しは考える様になったとおもいます

yyoshikawaさん、JRが東武線に乗り入れて東京と日光を結ぶなんて、ホントに以前では考えられなかったことですね。
逆にJR日光線は見捨てられてしまったようでちょっと寂しい気もしますが。

東武日光駅と国鉄日光駅との間に古川鉱業の倉庫が有ました 清滝の古川鉱業製錬所への貨物の搬出の為に戦時中東武日光軌道線に鐡道省の貨車を直接乗り入れする様に日光軌道線と省間に連絡線を設けました途中の神橋では車両限界に触るので隅柱を外して乗り入れする様になりました 其れ以前は日光軌道のテト1と云うL型電動貨車と無蓋のトレーラー
車が貨物を運んでました テトは片運転台ですので日光駅では古川の倉庫構内を一回りするループで元の方向へ向かう様配線されてました清滝にはデルタ線で対応してました 日光駅のループ線には車庫も有りました 1963年頃小学校の修学旅行で日光へ行くのに東武鉄道団体専用列車で行ました其の折東武日光駅到着直前に古川倉庫線にテト1が留置されておるのを見ました(此の時初めて東武鉄道に乗車したのですが駅の雰囲気は国鉄と何ら変わらないのが逆に不思議でした 業平橋のヤードや杉戸等に東武の貨車が多数見られました未だ明治時代の貨車等存在しておるしすれ違う貨物列車はピーテンやネルソン等の明治の機関車ばかりでした)

yyoshikawaさん、私も小学校の林間学校で、東武電車で日光に行っているのですが・・・、スミマセン、まったく記憶がありません。yyoshikawaさん、恐るべし、ですね(笑)。

yyoshikawaさんの投稿は実に面白いです。
私も東上線沿線に引っ越してから東武鉄道に興味を持ち始めましので、今後も昔の状況や所感など綴って頂ければ幸いです。
それにしても小学生でテト1の留置を認識されてたとは‥。
f54560zg さん、私も小学校の修学旅行は日光でしたが華厳の滝と東照宮しか記憶にありません。

猫OG様 私は子供の頃から鉄道好きで暇さえ有れば線路端で貨物列車を眺めていたし親父がやはり鉄道好きだった事も有り事自分が経験した鉄道関係の気憶は今でも覚えているのです(ボケ老人ですかね)
東武鉄道は元々蒸気鉄道から発展した鉄道ですので今でも其処彼処に蒸気時代の面影が残っています 同じ様な歴史有る南海鉄道や西武鉄道では蒸気時代の雰囲気は殆ど無い
流石に東京近郊は通勤輸送の関係から私鉄最長の複々線が存在したりして随分変わりましたが
業平橋の貨物駅は東京スカイツリーが立ち上がってます・・・ 
大手私鉄の中で車輛のバラエティーが豊富であったのは東武鉄道だと思うのですが特に一時期私鉄最大数を誇った貨車あれだけ有った東武の貨車も殆ど消え去りました 時代ですかね
今一応東武鉄道の貨車一覧表を作りつつ有りますが中々進みません

猫OGさん、yyoshikawaさん、私は旧国鉄以外は興味が湧かなかったのですが、東武は国鉄に近い雰囲気を持っていましたね。

古い東武鉄道の写真に大正半ば頃撮影された西新井付近を走行中のボールドウイン製20形(鐵道省5900同型)牽引長距離旅客列車写真東武形オープンデッキタイプボギー客車6両編成のまるで当時の鐡道院鐵道省の旅客列車を彷彿する列車写真です然も非電化複線です
同じ様な経歴の南海鐵道では既に此の頃全線電化されてます如何に東武鉄道が小国鉄と云われるゆえんなんでしょう 東武日光線は当初から全線電化高速規格線ですので多少雰囲気は違いますね 当時の東武のボギー客車の内全線電化後中型断面客車はジャンパー栓を装荷され電車の付随車として利用され後に鋼体化され可也後迄し使用されてました 物持ちが良い鉄道です

コメントで述べた東武鉄道の古い旅客列車写真は嘗て雑誌トレインに掲載されてました其の後東武鉄道博物館でも展示されてます

yyoshikawaさん
たまたま、訳あって古い鉄ピク誌をめくっています。それは2Bテンダ機特集で、東武のピーコックの写真が掲載されています。まさに小国鉄ですね。

旧新橋停車場鉄道歴史展示室以前の企画展カタログ日光道中江戸の旅近代の旅を見てカタログの26ページに黒岩保美撮影の電化直前頃(1958年)の写真が七枚掲載されております 眼を引くのは10輌編成のDC準急日光号(長い)当時如何にライバルの東武との間で旅客争奪戦を繰り広げていたかが解る写真です
日光駅の構内写真も三枚掲載されており駅の宇都宮よりから駅を望んだ写真n一番線から発車直前の上り旅客列車駅舎の反対側は古河電工の倉庫前に多数の貨車が留置されてます 宇都宮方構内向って左側には客車用留置線が四線 向って右側には機関車転換用ターンテーブルが設けられており宇都宮方引き上げ線から入線する配線です ターンテーブルのアップでは傍らに背の高い鉄骨(多分古レール製)の上に背が低いが異様に直径の大きい水タンクが鎮座してました
他には松鷹文庫の写真で大正初期頃の構内写真も掲載されてます当時日光線はB6が主力機で有った事が解る写真です

f54560zg様が撮影された頃は黒岩氏の撮影された時代と略同じ配線ですターンテーブルの有無だけでの違いです 貴下が宇都宮方を撮影した写真と黒岩氏の撮影した写真と略同じアングルなのが意外です
黒岩氏の同アングルでは右側にターンテーブルが端が写りこんでました

yyoshikawaさん
10両編成のDC列車、今では到底考えられない景色ですね。私が訪れたときは転車台も貨車の姿もなく、寂しい雰囲気でした。

フォトパブリッシング発行昭和30年~50年代地方私鉄を歩く(全部で32巻になるシリーズ本で現在3巻発行)第10巻北関東のローカル線72ページ見開きに日光市1954年朝日新聞撮影航空写真が掲載されており当時日光線は未だ非電化時代蒸気機関車転向のターンテーブルも映りこんでます当時の国鉄日光駅様子が解る写真です 此の本は各巻必ず航空写真を掲載しており第10巻にはほかに葛生高崎大田原等が掲載されてます 全館揃うのには数年掛かりそうです・・

日光駅の転車台、いつ頃まで残っていたのでしょうか。

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