甲府 1977/8/6
この当時甲府機関区には中央東線用のEF64・ED61、身延線用のEF10が合計50両あまり配置されていました。
甲府客貨車区にも少し前までは営業用客車の配置があったのですが、この時点では事業用車のみの配置でした。
車両基地に貨物設備と、すべてが集められた一昔前のタイプのターミナル駅でしたが、今ではそのどちらもなくなってしまっているのでしょうね。
甲府機関区です。ED61はほとんど絶滅寸前だったかと思います。
身延線からの625Mです。
折り返し中央線の運用に入るんでしょう、行き先表示が付け替えられています。
手前からクハ47007+クモハ60804+クハ47053+クモハ41850です(クハ47007しか見えませんが)。
甲府の写真はこの2枚しかありませんので、以下はオマケです。
上諏訪です。
飯田線・平岡発の239M折り返しの242M駒ヶ根行きです。
クモハ54106+クハ47155です。
反対側のクハ47155です。ちょっとゲテモノっぽい電車です。
同じく上諏訪で、新宿発松本行き427Mです。
クモユニ82002+クモハ115-323+モハ114-359+クハ115-408+サハ115-328+サハ115-329+クモハ115-324+モハ114-360+クハ115-410です。中間にサハを2両入れた中央東線独特の編成です。
これは1977年8月14日、スイッチバックの桑ノ原信号場です。
1003M「しなの2号」を待避する432M長野発新宿行きです。
○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
バックナンバーはこちらからどうぞ。
« 軽井沢 1977/3/25 | トップページ | 小淵沢 2002/8/16 »
コメント
トラックバック
この記事へのトラックバック一覧です: 甲府 1977/8/6:
» 山陰本線 115系 (クモハ114) [ぱふぅ家のホームページ]
クモハ114は、2001年に国鉄の115系電車を改造したものだ。2両編成・ワンマン運転対応で、正面貫通路を廃止している。 [続きを読む]
甲府駅を利用したのは一度だけ、身延線への乗込みです。視野に線路が在れば反射的に本数を数え、構造を把握できるような視点を探すのですが、そうした行動をした覚えがないほど疲れていて、身延線の車窓すら思い起こせません、要は奈落の底になった座席で爆睡したのでしょう。とあれ、低屋根タイプという語がどうしても想起します。機関庫も長さがあり、かつてはDCも扱っていたのでしょうね。さらに西部の留置線の配線を具体的に初めて知りました、航空写真で見ると結構な距離ですね。労に感謝したいと思います。
投稿: SY | 2009年7月16日 (木) 08時14分
私も航空写真見てみました。貨物設備も車両基地もきれいさっぱりなくなっていますね。身延線ホームも中央線寄りに移設されたんでしょうか。
西部の電留線だけは変わっていないみたいですね。あんなに駅から遠い施設ですから、機関区や客貨車区をなくすなら、その跡地に電留線を移設すればよかったのに、と思ってしまいます。
投稿: f54560zg | 2009年7月16日 (木) 20時53分
身延線は御存知の身延鐡道の買収路線である関係で建築限界が国有鐡道(鐡道省)より狭い断面でしたので沿線の隧道も断面が狭かった其の為大型の省線電車ではパンタグラフが限界から飛び出してしまう関係で低屋根化という形で収められた唯後のパンタ部のみ低屋根化でなく屋根の垂木全体を切り取り低屋根化した為電動車は不気味な風情でした(切妻低屋根)パンタの無いトレーラーとの凸凹編成は異様な事このうえない特に17mクラスのクモハ14低屋根化車と20mの高屋根車との編成はチグハグ感もろだしでした
同様な事が中央本線でも明治期に作られた隧道が小断面で有ったため甲府電化時は電気機関車牽引でしたが戦後電車運転が計画されたとき取り合えずクモハ41を使用して試験的に富士急行への直通運転をしたが定期運行を目指し低屋根設計のモハ71とモハ72800番台を制作して対応した後に101系や115系ではパンタ部を低屋根化した800番台を制作し運行してました(特急車は除く)201系制作のおりパンタ折り畳み高さを設計し直して通常の屋根高でも運行出来る事になり低屋根車はその後制作されなくなりました
投稿: yyoshikawa | 2020年6月30日 (火) 18時31分
yyoshikawaさん
身延線はPS23でも足りないくらい、他の線区よりも厳しい条件でしたね。
投稿: f54560zg | 2020年7月 1日 (水) 20時58分