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2009年7月29日 (水)

1975 千葉気動車区・蘇我

Photo

珍しい部類の車両基地「気動車区」です。でも1972年頃まではDD13も配置されていたようです。
訪問したのは50-3改正のちょっと後。すでに構内にはDCの姿は1両もなく、がらんとしていました(その分自由に構内を歩き回ることができましたが)。
ただ、線路が油で汚れていて油の臭いがぷんぷんしており、ついこの間までDCで賑わっていたであろうことが容易に想像できる状況でした。
稲毛・西千葉の両駅から進入できるようになっているのは便利ですね。
また転車台も設置されていますので、昔は蒸機も入ってきたんでしょうか。

Photo_2

またまた訂正です。最も木更津方に、貨物発着線から内房線下りに入るための渡り線がモレています。スミマセン。
配線図左下に向かっているのは、千葉貨物ターミナルへの線路です。確か仮線です。
1975年5月開業ですから、おそらく開業直後の訪問だと思います。
配線図右下に向かっているのは京葉臨海鉄道線です。

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コメント

間違いだらけのSYです。自身だけでなく多者からも間違われてしまうのはSY自身の言動の至らなさです。そこで千葉では「ゼット」は「エム」に、加えて横川では「連結器」に改めて頂きたいとお願い致します。齢を重ね頻度の低い名詞から欠落し出したと情けなくも正直自覚し始めた次第です。さて千葉気動車区の配線図は、謝しても尽きない感じで、自身が有している図は破線が目に付き、設置当初ないし計画図であったようです。南東側の半分しか描いておらず、航空者写真には転車台が有り図示通り納得に至りました。謝しても尽きません。村田操車や狭隘な現千葉機関区、京葉線関連等々、蘇我駅に関して言及できるほどの知識がないので…、京葉線への傾きは総武線の負荷を下げるということなんでしょう。こんな評しか表せない自身が…。

配線図から察して、見ることのなかった千葉気動区は亀山のような想像をしてしまいますが、千葉機関区は謎の機関区として埋没してしまうのでしょうか…。 局地的な出版物とか詳しい資料も有りそうな気もするのですが、かつてはシゴナナ、シゴハチのトップナンバーが在籍し、特にシゴハチは戦後の一時期、C586を除くC581〜7まで揃っており(6と8は横浜)誉れ高い機関区として位置付けしたいものです。  また、成田詣臨や海水浴臨を支えたであろう千葉機関区が廃止後のSL達の配置がどうなったかも興味深いところですね。 気動区の転車台は、一時期でも大垣のような電車区にSLを配した形態を採った為の転車台なのか、千葉-佐倉間にSLの重連がよく見られた為でしょうか?  房総地区は、SYさんのおっしゃる通り気動車王国であり、古くは常に30両程の数両を誇ったシゴハチ王国であったようですが、戦後暫く木更津、大原、銚子等にもSL配置があり、蘇我にも転車台があったり、房総地区は以外と転車台王国だったかもしれませんね。  以前ネットをパチパチしていたら、千葉機関区創設期の転車台の画像に行き着いたことがあります。 転車台のアップ写真でしたので、背景など詳しく分かりませんでしたが、扇形庫ではないように見受けられましたが…? 画像をアップされた方のコメントにも貴重な写真とあったのですが、しかし貴重な画像データはトラブルで飛んでしまい…。 ホントは私の名前と体型はE10ではなく C54 のようですね…。  SYさん、私は五条のことを五條、五條と連呼してましたよ…。

“E10”さんの仰せの疑問である旧千葉機関区に関しては、
http://raillinks.at.webry.info/200609/article_4.html
に掲載されているようです。

昔の千葉機関区も、現千葉機関区が存在することも知りませんでした。現千葉機関区ってどこにあるんですか?蘇我ですか?
私にとっても房総は気動車のイメージしかなく、蒸機とはあまり縁がない地域のように思っていましたが、気動車が投入される以前は当然蒸機王国だったんでしょうね。
館山あたりにも蒸機の配置があってもよさそうですね。都落ちのハドソンとか。
駅名は五条ですが、市名は五條ですから、あながち間違いでもないかと・・・。

現千葉機関区は、蘇我駅の南方500メートル位、おおよそ内房線と臨海線との分岐地点と蘇我駅の中間地点にあり、4線しかない基地で、地図でもなかなか見い出せないような狭隘なコンパクトな基地です。…同区の名称の経緯については佐倉に設けられたとか云々、という記事を眼にした覚えもあるのですが…現千葉貨タ(京葉線に沿った旧貨物駅ではありません)から蘇我駅を経て京葉・武蔵野線回りで貨物列車が走るという、京葉・武蔵野線の本来任務が課せられたため、蘇我駅の近傍の同区は高崎区等の電機が入区しているようです。

SYさん、貴重な資料へのご指南ありがとうございます。f54560zgさんのブログのお蔭様であり感謝しております。 教えて頂いたページを開いた瞬間、半円型が目に映り、思わず血が騒いでしまい、原ノ町や一戸に匹敵する感激でした。 図面通りの180度に展開する扇形庫であれば、20番線級の庫であったと推察されます。全体的な雰囲気は、小山をグレードアップしたものか、姫路の貨物ヤード部分を削った感じでしょうか…。ホームから解き放たれたSLが機関区に戻って行く様が目に浮かんできそうですが、いずれにせよ房総地区を代表する鉄道設備だったようですね。   房総地区の他のSL配置は、戦後には館山と勝浦にハチロクの配置が各10両程在ったようです。  房総半島にハドソン…、意外な盲点でした。即興ですが、しおさい、わかしおが早期に誕生して、C60の欠番なく108両出揃った一部が千葉機関区に配置されていれば、房総地区の鉄道シーンも、もっと華やかだったでしょうね。

SYさん、ありがとうございます。
ついでにもうひとつ。千葉貨(タ)にも「現」と「旧」があるのですか?
E10さん、すみません、つい銚子、ではなくて、調子に乗ってしまいました(これでは反省しているようには思えませんね(汗))。
姫路は知らないのですが、こんな感じだったのでしょうか。規模は違いますが、私は塩尻を思い浮かべてしまいました。

多分浮薄な自身がお答えすべきなんでしょう。まず加筆なんですが、現千葉区については改めて古い航空写真と照合し、図でお示しの転車台があった三角地であると思えます。なおよく判っていないのですが佐倉区の廃止云々で、自身も現千葉区の成立前後について詳らかな情報が整理出来ておりません。現千葉貨タについては千葉臨海線の旧村田操車場に相当致します。旧千葉貨タは国鉄が設置した、京葉線千葉みなと駅に接した空き地がそうでしょう(12万平米)。京葉工業地帯にあって、2000年の廃止によって、荷主・利用者が村田操車場にその機能をもとめたのであろう、と理解しております。従って現千葉貨タ(旧川鉄の南、旧村田操車、旧貨タ廃止に伴う改称)は臨海線上にあり、蘇我駅への進入は如何ともし難いことです。加えて、旧千葉駅の分岐の狭間の旧千葉機関区の規模ですが、“E10”さんの仰る通り千葉局の中核であって、塩尻の比ではないことは確かです。姫路操車に関しては南から、山陽下り、半ば抱き込み式の下り貨物線群、山陽上り、上り貨物線群並びに貨物駅、DC・蒸汽留置、転車台と扇形庫、そして播但線という構造で、別途新幹線の敷地になった第二区があり、山陽本線の中継基地として、誇るべき機関区でした。自身は図からは想像できないのですが、上記を踏まえれば旧千葉区が20線を擁した扇形庫であった可能性はあると思えます。地理上銚子や安房北条は重要でろうし、航空写真では実際我孫子駅にも転車台があったと判断でき、地図上どうであれ“E10”さんが仰る成田駅に区があったことも頷けます。こんなコメントで何卒平に御容赦下さるように…。

SYさん、ありがとうございます。
結局千葉機関区も千葉貨(タ)も京葉臨海沿いに移ってしまったのですね。
小学生の頃成田方面への遠足があり、常磐線電車で我孫子に着いた後乗り換えた成田線の列車が蒸機牽引の客車列車だったことをかすかに覚えています(あまりカンケイないですね、すみません)。

近刊の国鉄時代を扱った季刊誌を見ていたら、話題の両国駅や佐倉機関区の写真があり、その横にはロッドの位置も決まった走行中のE10が‥。さらに国鉄時代の写真に見入りながらページをめくって行くと、なんとそこには見慣れぬ扇形庫の写真があり記事に目を移すと‥。初めて目にする千葉機関区の扇形庫は独特のものであり、そこにはずらりと並んだC58、8620、C12と房総半島主役達の姿が15番線以上の庫にたたずんでおり…。 思えば鳥栖の時はSYさんの言われていたF誌に転車台の記事があり、品川の2連式の転車台と扇形庫に驚き、長年不明だった岡山などの扇形庫が判明したり、五条の時は、直後に五新線沿いを走るバスの紀行番組が放映され、五新線の雰囲気を感じさせてくれたり…。 こんなタイムリーな事が続くとは、楽天の野村監督の言葉をお借りすれば、f54560zgさんは強運のような何かを持たれているのでは?と感じ、更なる感謝の意を深めております。 

E10さん、おそらく、「強運のような何か」を持っているのはE10さんだと思うのですが・・・。
私はただ昔の記録を少しづつ垂れ流しているだけですので。

 ▼また転車台も設置されていますので、昔は蒸機も入ってきたんでしょうか。

 気動車の主力は片運転台でしたから運用の都合で転向することは日常の行事だったそうです。車両交換では予備車をどう向けて組込むかに直面します。また運用線区によっては逆向きになって帰ってくるれいもあります。
 この不便をなくするため後期の気動車増備は両運転台が主になりました。伯備線で両運転台キハ20の6連という編成を見て慨嘆した記憶があります。なんという無駄をするのだろうと。

 稲毛方面へのルートがあるので、両国方面への運用があったのでしょうか?

 蒸気機関車の入区ははなかったと推定します。すぐそばの千葉駅(旧)に千葉機関区があったのですから。給炭水らしき設備も見当たりませんし。

 入出区は列車として? 入信で?

 電車と違い確か気動車はジャンパー栓は両栓の筈です其の為運用の都合で片運転台車をターンテーブルで方向転換ししていたのでは?電車と違い奇数偶数の方向性は余り無いので方転用として気動車庫にターンテーブルを備え付けていたのではと思います
 

こんばんは。
今の複々線の高架の線路を見ていると、西千葉に車庫があったとは想像もつきませんね。
千葉の各線がまだ非電化だった時代、きっと活気があったのでしょう。
国鉄時代の近郊型電車も既になく、非電化のまま残った久留里線にはステンレスの気動車が走るようになった今、遠い夢のように感じます。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/?pc

  yyoshikawaさん、そのとおりだと思います。気動車は両栓で転向自由なのですが、その線区の左右どちらを使用するのか統一するのが苦労だと聞きました。仰せのとおり気動車基地にとって転車台は必需品でした。千葉気動車区開設のとき新設されたのは当然かと思います。
 気動車は地方線区の機関区に配置されることが多く、転車台があるのは普通なので気に留めていませんでしたが、千葉は気動車基地の新設という珍しい例なので目立つのでしょう。

C6217さん、yyoshikawaさん、そうですよね、気動車って大抵機関区に配置されていましたから気動車と転車台の結びつきってあまり目立ちませんでしたね。ただ、千葉気動車区の転車台で蒸機の転向が行われていたことがあったのは確かなようです。もちろんそれを目的に設けられたものではないとは思いますが。
http://c59176.blog.so-net.ne.jp/2012-06-29

>稲毛方面へのルート
両国方面への回送列車とかでは?

>入出区は列車として? 入信で?
多分入信ではないかと思うのですが。

風旅記さん、ここに気動車区があったなんて、本当に信じられないような今の状況ですね。

懐かしくて読ませて頂きました。確か、小学校5・6年生まで転車場があったかと思います。小学生の頃は自宅が穴川でしたので、よく蒸気機関車を見に行ってました。現在の西千葉公園の脇の踏切に置き石をする様な悪ガキでした・・今も時々公園の脇を通ると車輪を見たりしてます。乗物オタクで鉄道ジャーナル・ファン、航空ジャーナル・ファンを父親に買ってもらっていたオタクで大学卒業後は、レーシングメカニックになってしまいました・・・(笑)

栗林聡一さん、コメントありがとうございます。レーシングメカニックとは、何とも高尚なご職業ですね。私は鉄道メカニックになりたかったのですが、残念ながらなれませんでした(汗)。

 国鉄時代動力近代化の模範として千葉鉄道管理局と四国支社が選ばれ気動車を優先的に集中配置されました 其の近代化の証が千葉気動車区でした 其れ迄は気動車は構造上機関区で検査等やっていたのを電車と同じく専用車両区で管理しようと云う事で発足したと50年位前の鉄道ピクトリアル誌に記事が有ったと気憶しております

yyoshikawaさん、そうですね、千葉局と四国は国鉄の中では近代化の進んだ気動車天国でしたね。

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