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2009年7月30日 (木)

1975 北千住・馬橋・柏

だんだん叩き売り状態になってきたような・・・・。

Photo

国鉄側は島式ホーム1本に貨物の待避線が上下各1本づつ。緩行線は地下です。
貨物扱い設備への出入りのために日暮里側も岩沼側も上下本線を横断するようになっており、ちょっと怖い感じがします。
特徴があるのは東武側で、待避線が直列に配置されており、これらは浅草方の折り返しにも対応しています。

Photo_2

常磐線は複々線化の際に車扱貨物の取扱駅が集約され、綾瀬~我孫子間では金町、北柏とこの馬橋の3駅のみになりました。
流山電鉄線が接続するほか、馬橋・北小金・南流山で武蔵野線と三角形を形成しています。

Photo_3

国鉄線は快速線・緩行線に島式ホームが1本づつですが、確か快速線のホームは最初はなかったはず。
緩行線には引き上げ線があり、折り返し電車に対応しています。
東武線は頭端式ホームで、国鉄線との間に授受線が設けられています。
岩沼方にどう見ても安全側線にしか見えないような短い線路が2本も設けられているのが不思議でした。

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コメント

在京の方からコメントを頂いて、それを見ながらと思っておりましたが、まず口火をきって。旧営団と東武の構造には、眼にしていない者にとり驚いたものです。まあ近年3層化され、7線になりそれなりの納得はいったのですが。にも拘らず、鰻のような敷地故かこの構造を京急蒲田駅で利用されるとか・・・国鉄サイドは確かに本線を横断する貨物線への連絡と仕訳線群があったことは確かです。それも廃され、東武側と同時に整理され、筑波エキスプレス用の敷地が捻出されたようで、東京圏の人口動態は、恐るべし、です。何が契機で滑り傾いていくのか・・・自身は東武の栗橋工場への集中化に刮目してしまうのですが…

北千住を取り上げていただきありがとうございます。私にとって北千住は、東北線の赤羽と並んで、もっと観察しておけばよかったと悔やまれる駅です。

ともに国鉄線が荒川を渡る手前にある貨物扱い設備のある駅。そして、昭和50年代後半以降、あれよあれよという間に貨物関係の線路が整理されてしまった感のある駅です。

今回取り上げて下さった駅の中では、馬橋のみ、現在もJRと流鉄線との間に授受線が残っていますね。

北千住はJR線にも待避線が設けられたようで、記事に掲げた図からは相当の変化があったようですね。確か駅の日暮里寄りに簡素な陸橋があり、「この上からなら構内のいい写真が撮れそうだ」と思った記憶があります。
JRと民鉄間のレールはいたるところで撤去されてしまっているようですので、流鉄とはまだつながっているというのはちょっとオドロキです。

可也以前の話ですが北千住配線図で隅田川方向に伸びた引き上げ線の内東武側で無くもう一つの引き上げ線は図では車止めで切られているが以前は其の侭本線に暫く沿ってから外れ隅田川側に有った千住市場迄伸びて居ました

y yoshikawaさん、昔の空中写真を見てみましたが、おっしゃる通りカーブを描いて常磐線から離れていく線路が確認できますね。ありがとうございます。

馬橋駅には会社名は忘れましたが鉄道車両関係の会社が有り引き込み線が有りました 車両会社と云うものの実体は車両解体が主体の会社で有る 常磐線側から見ると建屋に引き込み線が入り込んで反対側に建屋を貫いて引かれていましたその先で貨車等解体して居ました 敷地の裏側は小川が有り其方には何時の頃から国鉄の丸屋根郵便車の廃車体が少し高い所に置かれ事務所として使われて居ました 他に明らかに元は有蓋車と思しき倉庫も有りました

y yoshikawaさん、私もその引き込み線は記憶にあります。解体屋さんとは知りませんでしたが。

 東武鉄道は久喜で貨車の授受を集約化する前は北千住も貨車の授受を行っていました1975年配線図東武鉄道線寄りの一本が授受線でした東武鉄道向け貨車は国鉄から此の授受線に一端押し込まれ東武鉄道の機関車が迎えに来て一端隣りの中千住ヤードに取り込みます(此の北千住と東武中千住間迄の間は東武鉄道の中千住貨物線と名前が付けられてました)業平橋発の貨物列車に連結され東武線内貨物扱い駅へ向かうのでした 逆に国鉄へ発送貨車は東武鉄道で中千住ヤード迄来てから解結されてから中千住貨物線へ推進で押し込まれた東武側には機廻し線が有りません
国鉄ばかりでなく貨物扱いしていた私鉄の配線図も面白いと思いますが如何でしょう

 暇人通信 KASAさん有難う御座います貴下のホームページが更新され拝見しましたら北千住駅配線図がアップされており 漸く千住市場の構内配線が解明しました

KASAさん、今後も期待しています!

yyoshikawa さん、f54560zgさん、メッセージありがとうございます。

今後ともよろしくお願いします。

千住市場線は、東武の千住貨物駅とともに、あの近辺の気になる場所の一つでしたね・・・。

 東武鉄道千住貨物駅は二回程見に行きました昔は対岸の隅田川駅同様艀のドックも有った様ですが見に行った頃は既に有りませんでした京成電鉄の下をガードで潜り熊手状に線路が別れておる感じは墨田川駅を縮小した様でした 抑々千住貨物駅へ行ったのは1974年頃迄残っていた東武鉄道の貨車の内ワム1001形スム521形531形等が廃車になり千住貨物駅に押し込めたと云う情報を聞き飛んで行きました 此の時の写真はレールマガジンのトワイライトゾーンに昔投稿しておりました

KASAさん、次は新宿あたりなど・・・。
yyoshikawaさん、スキャナのほうはいかがでしょうか。

 KASAさん今度は複々線化前の柏駅をアップ有難う御座います 柏は北千住同様東武鉄道が連絡して居る駅です 東武の野田駅関係の貨物の授受が可也有りました 複線時代の柏駅は国鉄より東武の貨物関係のヤードの方が多かった様です それは取りも直さず東武鉄道が貨物主体の鉄道であっつた事です最盛期1700輌以上の貨車を保有ししていた事からも伺えます

>yyoshikawaさん、

メッセージありがとうございます。

東武野田線の前身の千葉県営軽便鉄道は、まさに野田の醤油を柏まで鉄道輸送するために建設されたのですよね。

年代揃いではないのですが、ただいま、東武側も準備中ですので、いましばらくお待ちいただければと思います。

>f54560zgさん、

直近につけていただいたコメントを読み逃しておりました。失礼しました。

年代は揃っておりませんが、ただいま、新宿駅を準備中ですので、いましばらくお待ちいただければと思います。

 KASA様北柏アップ有難う御座います 常磐線の複々線化のおり其れ迄柏等の貨物扱いを集約化と柏授受の東武向け貨物の仕分けヤード機能も持たせましたが其の後の貨物大合理化に伴い同じ頃作られた他の貨物駅同様廃止と云う運命を辿った 国鉄末期の頃の各種の計画の混乱の犠牲だったのでしょうか

KASAさん、北柏ありがとうございます。
yyoshikawaさん、貨物営業としては短命でしたね。悲運の貨物駅かもしれません。

>yyoshikawaさん、f54560zg さん、

メッセージありがとうございます。北柏は、本当にあっという間になくなってしまった印象がありますね。

総武・快速線の西船橋も貨物駅として類似の運命を辿ったような気がします。

>f54560zg さん、

飯田町と新宿を追加しました。昭和46年頃の配線図がないので申し訳ないのですが・・・。

 KASA様飯田町と新宿追加有難うございます飯田町は山手電環内唯一の貨物扱い駅つまり都中心部に存在していた貨物駅でした 甲武鉄道のターミナル駅迄遡る歴史有る駅でした然も構内には相鉄の砂利ホッパーや中央本線長距離客車列車整備を兼ねた客車区蒸気機関車用ターンテーブルの存在(都心部唯一)飯田町から本線への接続部カーブポイントとカーブクロスの見事さは美しささえ感じられました(お茶の水駅新宿方のカーブのダブルクロスも有名でした今は普通のダブルクロスに変更されてしまいました)都心部を貫く中央線はカーブが多い線形ですのでカーブポイントの使用が通例だったのでしょう 1980年頃でしたか東京都内を空撮したカラーの航空写真本が出版された事があり購入しましたが当時まだ飯田町のターンテーブルはきちんと写っておりました余談ですが

 KASA様の新宿1950年代1960年代配線図見事なまでのダブルスリップシングルスリップの多用は日本の駅では新宿と上野位ではと思うのですが如何でしょうか 特に新宿は中央本線中長距離列車発駅で然も山手貨物と中央方面の貨物の遣り取りするヤードの機能も備えて居た駅でした其れが為複雑な配線となったのでしょう 1960年代末米軍タンク列車と山手の貨物列車が衝突しジェット燃料に引火大爆発を起こし山手貨物の牽引機EF10が丸焼けになった大事故が起きたのも新宿駅の複雑な配線が災いしたのでしょう 事故に遭遇したEF10は其の後10年位後迄証拠物件として新宿駅の貨物駅奥に保管されてました(後日廃車になる折写真撮影しましたがネガが見つかりません)新宿にも渋谷寄りにターンテーブルが存在して居ました 国鉄と小田原急行線とを結ぶ連絡線戦時中万が一東海道本線東京小田原間が破壊された折迂回線として小田原急行線に貨物列車振り向け及び国鉄駅の無い世田谷区に貨物を輸送する目的で連絡線を設けたとP誌小田急特集号に掲載されておりました 山手の折り返し中線1951年版配線図では内廻りと外廻りの渡り線を兼ねて居た事 電車線ホーム新大久保大久保側末端には荷物電車用ホームが其々存在していた等今とは違う新宿の姿を垣間見た気分です 新宿の長距離列車のホームは山貨の貨物列車観察にはうってつけの駅でした 1960年代末新宿駅ビルが開業する時西武新宿線が新宿に乗り入れる予定でしたが諸般の事情で沙汰やみになってしまい少し離れた青梅街道近くに西武新宿にターミナルを構え他の線からの乗り換えの不便を強いているのは残念な事です

KASAさん、飯田町と新宿、ありがとうございます。飯田町についてはyyoshikawaさんのコメントの通りですね。新宿については私の知らない世界が結構ありまして、じっくり拝見したいと思います。

yyoshikawaさん、長文でのメッセージをいただき恐縮しております。ありがとうございます。

あのカーブクロスは、特注品だったとどこかで読んだ記憶があります。緩行線の電車の車窓からあの複線カーブ分岐を眺めて、いつも幾何学的な美しさを感じておりました。

ただ、本当にお恥ずかしいのですが、私の場合、飯田町といいますと、昭和47年開業の紙流通センターの高架荷役線を思い出します。地上からですと写真を撮るのは難しかったと記憶しておりますが、首都高からよく見えたものです。

また、最近は鉄道施設が見渡せるホテルの部屋というのが人気を呼んでいるようですが、飯田町駅廃止前、一度は、ホテルメトロポリタンエドモントンの貨物駅側の部屋に宿泊し貨物駅を俯瞰する写真でも撮れればとおもっていたのですが、そんな機会もついに逸してしまいました。

y yoshikawaさん、

あのたくさんの特殊分岐器は新宿と上野ならではという感じでしたね。大規模駅の中でも特に新宿と上野は、電車の車窓から線路を追っているだけでは、線路配置が容易に掴みづらかったです。ですので、雑誌等に新宿や上野駅の配線図が掲載されると、それを食い入るように眺めたものでした。

1987年・88年頃だったと思うのですが、朝のラッシュ時限定でホームの混雑緩和のため、特急電車ホームであった当時の3番線に着発する埼京線電車がありました。

そして、あのたくさんの特殊分岐器を通過する電車に乗りたくて、一度、池袋新宿間に乗車したことがありました。

当時の線路配置上、山手貨物上り本線田端方から3番線へはポイントの分岐がすべて直線側だったと思うのですが、私の乗ったうぐいす色の103系電車は、第二場内信号機をすぎたあたりからガクンとスピードを落とし、まさにソロソロと3番線ホームに進入したことがいまでも懐かしく思い出されます。また、103系電車から降りる特急ホームというのも、当時は、新鮮に感じられました。

f54560zgさん、メッセージありがとうございます。

もしf54560zgさんが撮影された国鉄時代の新宿駅の写真があれば、是非、拝見したいと思います。よろしくお願いします。

KASAさん、おっしゃる通り新宿は手強かったですね(笑)。総武線の電車の車窓から食い入るように眺めても、山手貨物線のほうはなかなか・・・。

 KASA様武蔵野操車場掲載有難う御座います 武蔵野操車場は国鉄貨物操車場設計技術陣の集大成であり21世紀の貨物操車場を目指して建設されましたが完成した途端国鉄貨物合理化方針で無用の長物になってしまいました コンピューター制御の全自動操車場 矢羽根配線 機関車留置を一線一両留置方式にする等其れ迄の貨物操車場とはまったく違う次元の操車場でした こうなってしまったのも労組が自分等の主張の為順法闘争スト権スト等利用者無視の闘争を繰り返した結果通運業者にシフトが移り自分で自分の首を絞める事になってしまい国鉄自滅の原因となってしまった事は隠しようの無い事実でしょう どんな業種でも顧客無視な事をやれば必ず其のシッペ返しが有ると云う事を自覚しないとダメで有ると思うのですが 

ところでKASAさん、ブログのほうはコメント不可なのでしょうか?

>yyoshikawa さん、 f54560zgさん、

メッセージありがとうございます。下記URLに掲示板を開設しましたので、お越しいただければと思います。

http://senrozu.bbs.fc2.com/

> f54560zgさん、

いままでf54560zgさんのブログのコメント欄をお借りするような状態が続いてしまい申し訳ありませんでした。

私のブログのコメント欄ですが、記事毎にコメント機能をオンオフできるようですので、今後は活用していきたいと思っております。ありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。

 f5 4560zg様KASA様のブログへのコメンとを貴下のブログに記載して御迷惑かけ申し訳有りませんでした今後KASA様の分はKASA様のブログにコメント致します

> yyoshikawaさん、

私に準備不足があり申し訳ありませんでした。今後ともよろしくお願い申し上げます。

思えば昭和20年6月27日に東部83部隊に入隊するために柏駅で解しやしましたが、信号機が色灯式でも手動のおもりのついた信号テコで操作されていたのが印象的でした。
連日の空襲にもかかわらず、米軍が占領した時に鉄道が何とか運転されていたのに驚いたように最低限度で運転されていたことは日本人の誇りでしょうか。

KASAさん、yyoshikawaさん、決してそのようなつもりでは・・・(汗)。
KASAさんの記事に対する皆様からの貴重なコメントの所在が拙ブログでは何とも申し訳ありませんので。
早速掲示板に写真を1枚投稿させていただきました。これからもバンバン投稿させていただくかも。

湯山洋三さん、コメントありがとうございます。失礼ながらかなりご高齢の方でしょうか。戦中戦後の国鉄(正確には当時は鉄道省とか鉄道総局でしょうか)マンの熱意と誇りのたまものですね。

柏駅の東武側にある我孫子寄りの短い側線ですが、貨物輸送の連絡運輸があった時代に東武側の牽引機の機留線として使われていました。東武からの貨物列車は、国鉄機(当時)と機関車交換して、編成ごと常磐線下り線へ進出していました。貨物の連絡運輸は昭和59年2月の国鉄ヤード系貨物輸送の廃止と同時になくなりました。常磐線で通学・通勤していたときに、この側線で休んでいた東武のELをたびたび見ておりました。
記憶があいまいですが、貨車の行き先は取手駅から専用線でつながっていたキリンビール取手工場だったかもしれませんが、ビール工場の鉄道貨物利用は、出荷はビール製品、入荷はビール原料の麦芽が考えられます。これらが東武野田線と関係することは考えにくいので、違うかもしれません。野田線側ではキッコーマン野田工場でも原料の入荷、醤油製品の出荷も考えられます。

 東武野田線の貨物の主体となったのは野田における醤油関係の原材料搬入及び製品である醤油製品の搬出がメインでした常磐線の複々線化で柏駅の貨物扱いが北柏に統合 柏で扱っていた東武関係の貨物は隣の北柏扱いに変更され柏北柏間に連絡列車が設定されていた 発送は一端北柏に収容後武蔵野操車場他経由全国へ配送された搬入は北柏経由東武野田線へと云う輸送形態をとっておりました

コスモスさん、初めて現場を見たときは、「安全側線を2つも設けるなんて、ずいぶんと慎重な・・・」と思ったものでした(笑)。
yyoshikawaさん、野田線と言えばやっぱり醬油ですか。今となっては考えられない小運転列車ですね。

 配線略図と云うサイトに最近UPされた足立市場専用線跡と云うコーナーが有ります 足立市場は現在も盛業中です 足立市場への引き込線跡の現状を写真画像で掲載しておりました北千住寄り側は線路跡公園として整備 京成高架から先の住宅街は砂利道 市場構内は舗装され線路跡は完全に不明唯貨物扱いしていたとおぼしきホームはトラック荷扱い用に転用されて居るようです 

先日発売された鉄道ピクトリアル973(6月号・【特集】東急7000系(初代)の記録)P.11に、懐かしい写真が載っています。
1971年の北千住駅、東武の下りホームから春日部方を望んだ写真です。
当時の線路配置は、掲載頂いた1975年と変わらないと思います。
2本の電留線に東急7000系と営団3000系が並び、隣りの内側上り線には東武2000系が進入してくるところで、当時日比谷線を走っていた3社3系列の揃い踏みです。

ところで、浅草から来た東武の下り普通電車が複々線内側の緩行線に移るため、北千住駅の春日部方に外側線→内側線(上りは内側線→外側線)の片渡りがあったと記憶しているのですが、図には描かれていませんね。

クモイ103さん
渡り線、おっしゃる通り書き洩らしているかもです(汗)。

最近のKASAさんのサイトに馬橋駅の写真画像が掲載されてます JRと流鉄線間の連絡線は現存していますが線路上に枕木が置かれています 同じ構内の鉄道用品の引き込み線は剥ぎ取られています

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