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2009年7月31日 (金)

1975 上野

Photo

特に説明するまでもなく、東京の北への玄関口でした。
この当時は20番線までありましたが、今はいくつまであるのでしょう。

駅自体の写真はありませんが、上野駅付近での列車の写真を少々。
いずれも1977年1月3日撮影です。

19770103a01
鶯谷、というよりは日暮里ですね。
多分左は上野から1005M「ひばり3号」となる回1005Mまたは回1055M、右は勝田からの466M。

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どう見ても「あけぼの」なのですが、1号が6:46着、2号が6:52着ですから時間帯としては変ですね。雪で遅れたのかな?

19770103a03
これは鶯谷です。
8001レ「つばさ51号」秋田行き。

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1103D「ざおう1号・いいで」山形・新潟(磐西経由)行き。

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青森(奥羽線経由)からの404レ「津軽2号」。

19770103b01
404レが推進で尾久に引き上げます。
上の583系が不明。高架ホームに入る583系は「ゆうづる」しかないのですが、時間帯が変です。これも雪の影響かな?

19770103b03
電留線から据付けられる1007M「ひばり4号」。「ひばり」は13往復中下り4号と上り7号の1往復が583系で運用されていました。
雪のつきぐあいから見て、早朝に「ゆうづる」として到着した車両でしょうか。

19770103b04
その1007Mが発車していきます。

19770103b05
8401レ「ざおう51号・ばんだい51号」山形・会津若松行きです。

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コメント

この駅に関しては、当方が真剣で臨んでも刃がこぼれ落ち、身ぐるみを剥がされるような、形容詞に間違いがなければ、極めて重厚な駅です。東北・上越新幹線開業前の地平の20番線・・・、ホームでの滞留ダイヤも描いたのですが、懐かしさに圧倒されて了う、客車から電車までの優等列車の数知れぬの名称。この駅に関しては配線図ということより、ファンとすれば、実体験の記憶から来る、嘆息に近い喘ぎを覚えます、不思議にも何故か客観的に見直せないような・・・。

ちょうどブルトレブーム真っ只中の30年前の8月、水害で日本海が運休となり、初めての渡道は最終ひかりから上野駅で待たせてあった12系の十和田53号でした。乗り換えが慌ただしかったので、上野駅は、ただただ頭を打ちそうな通路の天井が低い駅だなぁ‥の印象でした。 その後、国鉄時代末期に初めてブルトレの中で迎えた新年の朝に瀬戸からひたちへ乗り継いだ時、特急列車で上野駅から旅立つ憧れを現実のものとした喜びはレールファン冥利に尽きるものでした。 JR化5年後くらいに上野駅を利用した時、初めて改札口を出たのですが、当時もまだ国鉄時代の雰囲気を残していたようで、見覚えのある写真の風景や、浅草への乗り換え口の階段に昭和の古きよき時代を感じさせる喫茶店があったり、その後テロ対策でコインロッカーが使えない時は、まだ昔ながらの手荷物預かり所を利用したりと、なにかと思い出のある駅です。 見栄を張って関西から見てみれば、天王寺に阪急梅田で上野に対抗をといきたいところですが、赤っ恥を晒すのがいいところですね。 私が初めて見た大型時刻表は昭和46年5月号で、大阪駅と上野駅の発着を見比べてしまったのですが、東北、常磐線を足しても、まだ大阪駅のほうが‥と、高崎線を勘定に入れていない自分がおり…。 やはり上野駅は別格で、東京駅同様、駅舎内の改装によりその後は利用時に迷子になったりの駅ですが、上野駅独特の行き止まり線ホームの醸し出す雰囲気をいつまでも残しつづけて欲しいものです。 それにしても、つばさ51号‥いいですね。こちらでは、しおじ51号でしょうか。過去にも現在でも、昼行客車特急ほど乗ってみたい気持ちにさせてくれる列車は他にありません…。

上野駅の配線図自体はおそらく多くの雑誌等で取り上げられていると思いますので、参考程度でご覧下さい。
個人的に上野駅の好きだったところは3つ。
ひとつは20番線。一番端っこで、かつ片面ホームのため、とってもうらぶれた(決して悪い意味ではないのですが)雰囲気が大好きでした。
ふたつ目は、高架と地平を結ぶ連絡線の跡。レールはありませんでしたが、赤茶けたバラストがまだ残っていました。
最後は客車の推進運転ですね。
客車列車は途中の機関車交換などの楽しみはあるのですが、臨時の客車特急は定期列車に比べると表定速度が恐ろしく低いのが難点で。この「つばさ51号」も、定期の電車と比べると秋田まで約1時間半くらい余分にかかっていましたから・・・。

上野駅に関し若干の加筆を致します。常磐線が地平頭端ホームに着発できるようになったのは、43・10に備えた改良工事の結果で、それ以前は常磐線は高架ホームにだけ着発しておりました。現在東北・高崎線を地平・高架に振り分けるメカニックな井堀も43・10に備えた施設設置だったと思います。よって頭端ホームは東北線・高崎線関連の列車のホームでした。それ以前は日暮里駅が井堀の役割を受け持っていたようです。また常磐線の回送はとなると、日暮里駅にあったの渡り線を大きく渡って尾久に繋がる回送線へと転線していたのだろうと思います。そこでテーマになっている田端操車場から日暮里駅の貨物連絡線の意味が明瞭になるでしょう。上野駅高架部分しか通過できなかったのです。小学校の図鑑で驚きながらみた高架式の秋葉原貨物駅周辺には広い市場がありました。その市場の跡地はは文字通り「アキバ」と形容される文化の発信地、家電量販店の摩天楼に成りました・・・機械仕掛けの新たな市場なんでしょう。

そうそう、昔は常磐線は地平には入れなかったんですよね。SYさん、相変わらずのフォローありがとうございます。
そういえば、かすかな記憶ですが、日暮里駅の東北線の線路にホームの残骸のようなものがあったような・・・。

駅配線図大変興味深くみています。
私は所謂「鉄」ではありませんが、鉄道がものすごく好きな者の一人です。
というのも、多分初めて乗った優等列車がかの有名な急行「安芸」だったからでしょうか。
東京オリンピックの前年か前々年のことでした。もう50年近くも前のことですが、あの興奮はわすられません。
でも、呉線の蒸気機関車はあまり好きではありませんでした。
やはり遅かったらでしょう。
でも、私のところでも最低6両は牽き、広・広島間は10両くらいの編成でしたので、今にして思えばそのごっつい鉄の塊を何でカメラに収めなかったのかざんねんでなりません。やっぱり「鉄」ではなかったのでしょう。
話がだいぶんそれましたが、配線図のことです。当時私のところから広島まで呉線で行くと、広と呉が貨物の線路が10本くらいあり、その頃はあまり関心がなかったのですが、今になって思えばあんな単線でしかも引き込み線まであり、おまけに貨物の入れ替えまでしているところはそんなになかったのではないか?と思うようになりました。ここでも、写真の一つでもと思うとざんねんでなりません。
ぜひ、昭和30年代の広・呉駅の配線図をお願いいたします。
以前東京にいた頃帰る度に線路が剥がれ、呉駅なんかただの駅になりさがってしまい、今ではたった3本のごくありふれた駅なっています。


岡原達也
09057059367

駅配線図大変興味深くみています。
私は所謂「鉄」ではありませんが、鉄道がものすごく好きな者の一人です。
というのも、多分初めて乗った優等列車がかの有名な急行「安芸」だったからでしょうか。
東京オリンピックの前年か前々年のことでした。もう50年近くも前のことですが、あの興奮はわすられません。
でも、呉線の蒸気機関車はあまり好きではありませんでした。
やはり遅かったらでしょう。
でも、私のところでも最低6両は牽き、広・広島間は10両くらいの編成でしたので、今にして思えばそのごっつい鉄の塊を何でカメラに収めなかったのかざんねんでなりません。やっぱり「鉄」ではなかったのでしょう。
話がだいぶんそれましたが、配線図のことです。当時私のところから広島まで呉線で行くと、広と呉が貨物の線路が10本くらいあり、その頃はあまり関心がなかったのですが、今になって思えばあんな単線でしかも引き込み線まであり、おまけに貨物の入れ替えまでしているところはそんなになかったのではないか?と思うようになりました。ここでも、写真%

単線区間の呉・広駅のヤードは確かに機能し、取分け広駅は永らく指定駅であったのことは確かで、また広島~海田市駅間は早く複々線化され、広島・呉という軍都がもつ特殊性が反映しています。地理院の航空写真は必要上オトしているのですが、もう軍都だった片鱗を読み取れないようになって仕舞っているようです。呉線が電化する直前の大型蒸機に牽引されて海岸沿いのアップダウンと曲線の連続を失踪する姿、それらは視覚的にも、力動感をも刺激されます。海岸線を縫う煙を吐く疾走を思い重ね得る記憶の確かに、今一度の力を持ちたいと思って居ます。ここは上野駅でないのが聊か問題で…。

岡原さん、コメントありがとうございます。
「鉄道がものすごく好きな者」であれば、十分「鉄」だと思います(笑)。
呉線については、私は訪れたことがなく、従って配線図もありません、ゴメンナサイ。
呉線に関する知識と言えば、電化に際し、C6215・16がはるばる北海道に渡ったことぐらいでしょうか。
SYさん、フォローいただいて感謝します。

SY様、f54560zg様 及びE10様、先日は上野駅のコメント欄にもかかわらず場違いな投稿をしたこと、大変申し訳ございませんでした。
心からお詫び申し上げます。
「聊か問題あり」どころか「大変問題あり」だと反省しています。恥ずかしいかぎりです。
今回投稿分も含め削除して戴くか、許されるなら別の場所へ移動して戴ければ有り難いのですが。日頃の思いをつい書き込んで、そのまま送信してしまった次第です。
遅くなりましが、SY様、f54560zg様、私のコメントへの返答、補足等本当にありがとうございました。
今後もよろしくお願いいたします。

岡原さんの文面から呉線へのその想いが伝わって来ます。優等列車急行「安芸」と呉線広駅。岡原さんの言葉の響きに私も興奮してしまいました。 呉線は、やはり大型蒸機の終焉の地とでも呼べるくらいの重要且つ華やかな路線で、その象徴が急行「安芸」だったのでしょう。 いわゆるSLブームになる頃の大型急客蒸機が牽引する優等列車は、関東方の常磐線特急「ゆうづる」に対する流れから関西方では呉線急行「安芸」がそのブームの役割や位置付けを担っていたように思います(安芸の後はニセコでしょうか)。呉線や急行「安芸」に関する情報は豊富なはずなのですが、中間駅の配線図となるとどうなんでしょうか‥。 広駅での朝から始発の通勤列車の大型蒸機がずらりと並んだ正面からの写真は有名で、私は長年ほぼ同じ位置に顔を揃えて並んだこの大型蒸機を横から狙った写真が見たいと熱望していました。それを実現させてくれたのは昭和50年代中頃に終刊となったキネマ旬報の蒸気機関車誌であり、後年その編集も務められた池田光雄さんの写真でした。 のちに古書として手に入れた同誌にその写真を発見した時も興奮してしまい、その後私は広駅の構内で被写体のSLは無くとも、どうしても同じアングルの写真を撮ってみたくなり今年の春に広駅を訪れていました…。 私が初めて呉線を利用してから15年も経ちませんが、やはり岡原さんのおっしゃるとうりで呉駅などは利用する度にレールが減って行き、ポイントから分岐してすぐに途切れたレールを暫く眺めていたのを思い出します。 f54560zgさんのコメントにSLファン心をくすぐる渡道した特定ナンバー機が出てきたり、以前の記事の、ちょっと一休みの項でf54560zgさんが当時訪れられた西端が鳥取辺りとお聞きしていましたので、呉線の話題や増してや私の生まれた頃の岡原さんの話に触れる事ができ、岡原さんのコメントに感謝しております。

調べてみたところ、少々観点はちがうのですが、http://www4.plala.or.jp/Panzer/htmls/kure3/hikikomisen/kurehikikomi.htm
に、昭和30年頃の呉駅の構内配線図が掲載されてます。あとは被害調査のための米軍の空撮や作成地図がありました。

岡原さん、全然OKですからお気になさらずに。
こちらこそこれからもよろしくお願いします。
E10さん、「大型蒸機」といえばE10さん、って感じが定着しましたね。小樽築港、青森、糸崎、熊本、鹿児島あたりがその終焉の地になるのでしょうか。
私にはほとんど縁のない土地ばかりでなかなか話題に参加できず申し訳ありません。
SYさん、呉って大きな駅だったんですね。ちょっとびっくり。転車台もあって興味深い駅です。

新鶴見操車場配線図の項での kazuさんのコメントによるサイト内のお話を大変興味深く拝見致しました。
跨線橋からのお話や花火見物の記述の少し後の部分に「昭和三十年代後半の、上野駅の帰省風景」と言う上野駅から酒田駅迄のお話にも興味をそそられ、差し出がましいですがこちらの上野の項にコメントさせていただきました。
私の中では、これまで趣味誌上等で様々な上野駅や帰省に纏わる記述でその情景を得て来ましたが、kazuさんの素晴らしい文章力に、上野駅からの帰省風景が新しくまた一つ加わりました。

f54560zgさん、未熟者の厚かましいコメント、申し訳ありません。

すごいですね、見事な描写と思います。私自身の経験と一致する部分が多々ありますので。
個人的には、
・冷凍ミカン
・高いアンテナ(多分高崎あたりでは?)
・便器の下を猛烈な速度で流れ行く線路の枕木
が最高でした。

 1970年代朝のラッシュ時間帯に京浜東北線北行電車に上野行きと云う電車が有りました 御承知の如く田町田端間は山手と京浜東北は方向別の複々線です 1975年上野駅構内配線図を見ると鶯谷駅側 山手内廻りと外廻りとの間に中線が有ります然も此の中線は山手京浜東北両線から入線出来ます(田町田端の中線も一応ダブルクロスで入線出来ますが)北行線から内廻りをシングルスリップで横断して中線へ中線から外廻りへ其の侭片渡り線で南行線に転線出来ます唯朝のラッシュ時間帯に上野止まりの電車が内廻り線横断したのか?其れより上野駅で乗客を降ろして東十条駅迄回送したのか 此の方が自然かでも其れなら東十条行にすれば良いと思うのですがまあ44年も前の話ですから さて上野の中線山手京浜の他に大横断して五番線迄繋がて居ります何故なのか おそらく松戸電車区所属車が大井工場に入出場する折と配給電車の転線の折の使われたのではと思いますが如何でしょうか 

はじめまして、大変懐かしく嬉しく拝読させて頂きました。
小生はこの配線の頃から民営化まで上野駅に勤務していた者ですが、職場(詰所)の奥にありました倉庫が旧常磐線改札口階段の一部で、面積の割に容積が小さくてごちゃごちゃしておりました。
基本的に各路線に横断乗入取り回しの利いた上野駅ですが、常磐線上り列車が高架第三ホーム5番線に直通することだけは出来なかった→しなかったもので、ダイヤが乱れた時には6番線発着の東北線列車を5番線に逃がし・・・などの要領があったそうです。
また、日暮里方の電車引上線は、毎日の京浜北行最終「上野止まり」と翌日の京浜南行始発の折り返し便に使われ、上野忍岡前に電車が「戻る」まで就寝出来ない改札遅寝さんの「愚痴」に台風や積雪やらの際に付き合った記憶がございます。
松戸区の車両やり取りは基本的に高架第三ホームでやりましたが、こちらは尾久方と神田方の荷物列車も行き来しておりました。
新幹線工事が始まってから多くの「遺跡」が消滅しましたが、地平第五ホーム20番線は「秘密通路」があったり、本当かどうか不明ですが戦時中に天皇など皇族の避難用に地平第一ホーム西隣団体待合室奥に京成上野駅(もとの博物館動物園)まで通路があったんだ、とか謎も多い駅でした。
個人的には民営化以降も取引業者として通った現場で、その頃関わっておりましたC623機復活運動の「隠れた」東京サイド拠点でもございまして、小生の青春そのものの「場」であります。
失礼致しました。

安房守さん、はじめまして。コメントありがとうございます。上野駅で勤務されていたとは、個人的には何とも羨ましいですね。
私は常磐線沿線に住んでいたのと、信越線沿線に住んでいた祖父母のところに遊びに行く関係で上野駅は小さいころから特別な駅でした。高架に地平にと珍しい構造と、何より全体的な雰囲気が何とも言えず好きでした。

 上野高架ホーム6番7番線間に今だに水タンク給水用給水栓が存在しております嘗て長距離列車には必要不可欠なアイテムでしたが近年在来線長距離列車の減少とトイレ付車両の減少で段々見られ無くなる鉄道絶滅危惧アイテムです
 他のホーム間に関してはまだ未調査です

yyoshikawaさん、そうですか、給水栓も消えゆく設備なんですね。

こんにちは。
お写真、大変興味深く、また楽しく拝見しました。
上野駅に発着する列車が、今では新しい世代の一般型車両(どの車両も同じデザインに見えます…)と、一部特急列車に集約されてしまいましたが、この当時のバリエーションの多さには圧倒されます。
駅の中も、今よりも地方の色合いが滲み出ていたのではないでしょうか。
機関車の牽く客車もさることながら、気動車が上野まで来ていたとは驚きました。
今の時代なりに、私は上野駅に行くと旅の気持ちに切り替わって好きなのですが、この頃ならばその想いも一層強かったのではないかと思います。
上野東京ラインの開通以降、常磐線方面の特急ホームが閑散としている様子を見て、寂しさを禁じ得ません。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/?pc

風旅記さん、昔の上野駅に出入りする列車にはちょっとうらぶれたところがあって、その雰囲気が好きだったのですが、今となってはその気配はなくなってしまいましたね。

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