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2009年6月21日 (日)

2001鳥栖の遺構

Photo

貨物操車場が現役の頃の鳥栖駅は、おおよそこんな感じだったらしいんです。
目を引くのは鹿児島・長崎方。旅客と貨物を競合させないための立体交差がいくつも設けられていたんですね。
今回はこれらの遺構を中心に。
(ただ鹿児島・長崎方にこれだけ気を使っている割には、門司港方はフツーの平面交差です。こちらのほうが競合する頻度が高いような気がするのですが・・・。)

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これは前回の記事で掲げた写真ですが、このあたりにはかつては機関区や客貨車区があったようです。旅客列車は写真左側の線路を走っていたのですが、貨物列車は機関区・客貨車区をはさんで写真右側の少し離れた場所を走っていたようです。
この場所で右方向を向くと・・・

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こんな感じ。貨物列車は向こう側の道路が下をくぐっている上を走っていたんですね。

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鹿児島・長崎方です。貨物列車はこのあたりを通って鹿児島・長崎方向に向かっていたようです。
旅客線は右側の倉庫のさらに右側を走っています。

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鹿児島方からです。ガーダー橋がわずかな間隔をあけて2つ設けられています。
手前側のガーダーの下には鹿児島線の上り貨物線が、奥側のガーダーの下には長崎線の貨物の上下線が通っていたようです。

20010422b33
上の写真の奥側のガーダー橋です。土砂に埋もれかかっていますが、かつては2本の線路が下を通っていたようです。

20010422b32
これは手前側のガーダー橋です。右が鹿児島方です。
振り返ると、

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こんな感じです。鹿児島線の上り貨物列車はここを通って鳥栖の操車場に向かっていたんですね。

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上の写真の線路を挟んだ反対側です。鹿児島方です。
鹿児島線の下り貨物列車はここをまっすぐ進んで鹿児島線に合流していたんだと思います。

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今度は長崎線側です。長崎方です。
鹿児島線の下をくぐってきた2本の線路のうちの1本が長崎線の下をくぐります。
もう1本はくぐらずにそのまま進んで、

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こんな感じで長崎線と合流します。長崎方です。

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長崎方からです。もう1本の長崎線をくぐったほうの線路は、

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こんな感じになっています。長崎方です。
正直、「ここは平面交差で十分なのでは?」と思ってしまいますが。

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コメント

鳥栖駅の南方の、鹿児島・長崎本線の錯綜する立体交差は、大凡一箇所に集中した事例としては少ない事例なんでしょう。たとえて言うなら、大宮駅の北側で東北線・高崎線が立体交差し、さらにその北側でそれぞれ貨物線が上りも含め本線に立体交差している感じを首都圏ではイメージ的に重ね合わせればいいのでしょう。もう誰も言及しないのですが、正直東北線と高崎線ですら、かつては平面交差でした。その意味で鳥栖駅の錯綜した交差は合理的に早く設けられた事例なのでしょうが、それも雑草にまみれ、嘆息気味です。貨タとして各地で整理や再構築されていくことでかつての財産に輝きを与えていって貰いたいような・・・

初めまして。 昨年の春頃より必読させていただいております。私もSYさんが度々申されているように、ブログが更新される度に感謝の思いを深めております。自身、社会人となり、乏しい情報知識を基に機関区、転車台、扇形庫等を求めての全国行脚は、国鉄末期へ向かう頃より始まりました。当時、あかつきの車内で朝を迎え、鳥栖駅のかなり手前からの線路群を見ながら駅に着き、少し下り方に歩いて鳥栖機関区を尋ねてみると、本線から見渡せるように建つコンクリート製の扇形庫に、転車台から本線方向に長く延びたチドリ線が特徴的で、庫内を抜けヤード方へ顔を出すと、そこに2基目の転車台を発見し嬉しい驚きをしました。(恐らく現役最後の構内2基設備。過去に直方、金沢、稲沢等)SL全盛期はハドソンやパシフィックが九州要の基地としており、既に構内が閑散としていていた訪問時でも、特急牽引機乗務の特級機関士がいた頃の雰囲気を、なぜかまだ醸し出しているよう感じました。遺構といえば、2基目の転車台の周囲に煉瓦製の基礎跡が残っており、煉瓦製扇形庫の4線分だけは確認出来たように思います。実はこちらの転車台が1基目で、古くはドイツ製のロコがこの空間にたむろしていたのだと、その場で想い巡らせていました。話題の鳥栖駅でのブルトレの解結では、ED75の300番台を目撃したのが思い起こされます。これまでコメントを躊躇しておりましたが、鳥栖の出現となり拙文を書かせていただきました。内容に記憶違いがあればお許し下さい。 

f54560zgさん、こんばんは。

 鳥栖駅関係、3回にもわたりましたね。スゴイ駅です。
 手元に1972年当時の鹿児島線配線図が載った部内資料があるのですが、鳥栖駅の部分はやはりスゴイ広さです。仕分け線が29本もあります。下り貨物の着発線は東(田代駅の部分)と鳥栖駅の部分とに分かれ、貨物列車がどのように到着して貨車がどのように組成され出発していくのかを考えると、夜も眠れなくなります。構内は鳥栖下り場内107k334~上り場内110k046の2700mの長きにわたり、複雑な立体交差を備えるジャンクションでした。
 確かにf54560zgさんの仰るように、下り方の立体交差に比べて上り方は平面交差でアンバランスだなぁと以前から思っておりました。将来、立体交差の予定があったのかとも思っております。つまり下り客本線を田代~鳥栖間で上に上げ、上り貨本線をくぐらせるのではないかと。そんな計画があったかどうかは定かではありませんが、鳥栖1の最後の画像の場所は以前から線路もまばらなところで用地として確保してあったとも受け取れる風景です。
 過去のように物流ターミナルとしての役割は終えた鳥栖駅ですが、旅客流動のジャンクションとしてはまだまだ健在です。九州新幹線開業で特急列車は少なくなるかもしれませんが、大都市の近くなので近郊輸送のターミナル、ジャンクションとしての存在が消えることはないでしょう。
 一方、古くからの駅舎、長いホーム、古レールの上屋、駅そばの匂いと、古き良き国鉄の雰囲気を残す数少ない駅でもあります。

SYさん、そうですね、鹿児島方の立体交差は、「先見の明」があったんですね、きっと。操車場がなくなるなんて、当時は誰も予測できなかったでしょうから。
E10さん、はじめまして。コメントありがとうございます。ホントに昔の鳥栖はすごかったんですね。その頃に来れなかったのが残念ですし、来れたE10さんがうらやましい限りです。扇形庫の遺構は保存物なのでしょうか。
ashiwodiさん、鳥栖駅の旅客ホームの雰囲気は最高ですよね!
貨物ターミナルの設置で、旅客ターミナルとしてだけでなく貨物扱い面でも今後発展してほしいと思います。(但し風情は残しつつ・・・)


f54560zgさん お返事恐縮です。うらやましい限りなんて私の方です。説明不足で申し訳ありませんでした。私はちょうどf54560zgさんの5〜6年後の昭和60年代を主に歩いたことになります。ですので59年2月や、60年3月ロクマルサンダイヤ改正以前の、まだ一般貨物や旧客が数多く残っていた、国鉄華やかなりし頃の残照をあまり感じることが出来ませんでした。もちろん訪問ヶ所などf54560zgさんの足元にも及びません。ただ、線路の尋ね歩きには気力、体力、時の運が必要だったことでしょうね。当時私なりにそれを痛感しました。   お尋ねの煉瓦庫の遺構ですが、保存物ではなく、庫を解体したのち基礎が地面に残っていた程度です。当時の写真を見つけ出し見てみると、解体後4線分の線路だけ留置線として残されており、煉瓦部分が地面に埋め込まれず見えています。跡形から察すると、どうやら隣接する2棟の扇形庫はイビツに背を向け合い、奥側の現存した新しい庫は本線方を向いているのに対して、古い煉瓦庫は駅ヤード方を向いていたようです。また転車台どうしの連絡線が煉瓦庫内から延び、新しい庫の修繕設備のある側の壁横を通り繋がっていたようで、連絡線上に庫内より延びた門型クレーンが跨いでいます。 その他の写真では、管理局並の建屋や別棟のEL庫などが規模の大きさを物語っています。   f54560zgさんの写真と当時の写真を見比べてみましたが、やはり激変です。f54560zgさんが写された2枚目の写真の、地下道路横の立派な車止が、機関区跡の墓碑のようで物悲しく感じます。            シリーズ内に見られる、ヤード跡地に建つ巨大な鳥の巣を連想させる競技場、その機関区跡寄りに建ち、見様によっては扇形に見える高層物が、二つも扇形車庫が在った街、鳥栖のモニュメントに見えてしまいます。

グーグルのクロームで何となく当たりを付けていると自分の拙文に当たって仕舞い、コメントも検索対象になっているんだ!と初めて驚愕致しました。蓋し、しっかりきっちとした文を記さねば、です。ネタばらしになるのですが、自身府立図書館に近いと住んでいて図書館内の鉄道工学関係の古い図書を可成りコピーしました。先の高架新博多駅のP誌もそうですし、自身が有している鳥栖駅乃至操車場はF雑誌でも引用された『発達史』からのコピーです。九州地区も西日本新聞社の図書で幾多も集めました。もう10才若ければ不足分を弁天町へ赴き、手書きで写し取ることも多分可能だった筈で…さて、E10さんの記述と古い図を見ながら、北側の庫から奥の庫への連絡線は確かに有り、脇はまさしく研修設備です。ああそうやな、の嘆息です。自身全般に亘って視点を有し得ず、いつも通りの、そうか、の嘆息です。店先で眺めたのですが、なんかこの月のF誌は二連の転車台を特集しているようで、改めて考えてみる価値があるのでしょう。自身にとってはかつての客貨車区の一線なのですが、墓碑という響きは或る意味絶対で反論の余地はありません。歴史の残骸ないし刻みの印でしょう…とあれ、生き延びて貰いたい、だけです。E10さんも色々経験ないし収集されておられると思いますので、種々ご意見賜り、我々を学習させて下さい。

E10さん、私が各地を回り歩いた頃は、縮小方向とはいえまだ一般車扱貨物の営業がされていましたので、貨物側線を多くの駅で見かけることができました。ただ、これが数年後に消えてしまうなどとは、当時は全く思ってもみないことでした。
「気力、体力、時の運」、まさにおっしゃるとおりです。SYさんもおっしゃられている通り、機会がありましたら是非拝見したいです。
SYさん、ダメです。私の言いたいことを、先に言わないで下さいね(笑)。

f54560zgさん、SYさん、ありがとうございます。 SYさんの重厚な解説、いつも楽しみにしています。 弁天町、よく足を運びました。ある時、館内のイベント目的に訪れると、図書室を見つけ入ってみました。静まり返った室内で工学だの設計図だの何やら難しそうな本があるなぁ‥と。ところが30年代の車両配置表を見つけ、あっ!と驚く状態に。車両区の情報に小躍りし、片道2時間弱の道程を数回通い書き写したのですが、その後名古屋を訪れたついでに立ち寄った趣味店で同様書を格安で見つけ心中複雑に‥。資料収集も山アリ谷アリですね。           鳥栖を訪れた私は、その後、門司 熊本 香椎 直方を巡りましたが、時間が有ったにもかかわらず、転車台が撤去されたとかで後藤寺に行かなかったのが悔やまれます。

E10さん、SYさん、昔は情報収集が大変でしたけど、今は便利な世の中になりましたね。当時にこんなものがあったら、もっと有意義な訪問ができたんでしょうけど・・・。

私もE10さんとほぼ同時期に鳥栖機関区を訪問しています。50系がいた留置線を越え扇形庫を右手に見ながら庁舎の外の階段を2階に上がった事務所で撮影許可を快諾されたことを思いだしました。2基目の転車台があったとは・・・すぐ近くまで行きながら見られなかったなんて<三厩>以来のショックです。また当時、博多等の主要駅で鳥栖の扇形庫をバックにしたモデルさんの誘致ポスター?が掲示されていましが、国鉄も斬新なことをするなあと見入ってしまいました。

沼津区さん、貴重な記録、是非拝見したいです。
扇形庫に似合うモデルさんというのは、いったいどんな方なんでしょうね。

横レスですみません。
昔の鳥栖駅を知りたいなら国土画像情報のサイトが便利です。
カラーの航空写真ですので
引き込み線を始め機関車のターンテーブルの具合もはっきり解ります。

お役に立てればいいですが、

当方 佐賀県人です。
失礼いたしました。

佐賀県人のビッキーさん、コメントありがとうございます。
航空写真見ました。凄いですね。
このようなものが簡単に見ることのできなんて、ホントに便利な世の中になりましたね!
ありがとうございます。

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