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2009年6月 3日 (水)

2001陣原

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鹿児島線の旅客と貨物、それと筑豊線の分離と合流は黒崎駅と陣原駅の2駅にまたがって行なわれる形になっています。立体交差も設けられていますが、筑豊線の上りが鹿児島上り旅客線に合流する際(これは黒崎駅構内)と、鹿児島下り貨物が鹿児島下り旅客線に合流する際(こちらは陣原駅構内)に平面交差が発生しています。

鹿児島線の下り貨物列車は、1番線を通って鹿児島方で筑豊上り線を横切って鹿児島線に合流するようです。3番線がどのように利用されているのか不明で、ちょっと興味が湧きます。

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門司港方からです。
鹿児島線は右ですが、左側にはちょっと前に廃止された西鉄線の線路跡があります。
レール・枕木は撤去されていますが、バラストが残っています。

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筑豊・下り貨物線の下り場内信号機です。
黒崎駅と同様進路予告機が設けられています。

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門司港方です。

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門司港方からです。1・2番線です。
筑豊線用の1・2番ホームは短めです。

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門司港方からです。3・4番線です。

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門司港方です。

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鹿児島方です。

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鹿児島方からです。

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鹿児島方です。

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上り場内信号機です。

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鹿児島方からです。
陣原駅が開業する以前のこの場所には、東折尾という貨物駅か操車場があったようで、右側の空き地はその名残と思われます。

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コメント

高度成長期は液体燃料の石油を基盤にした社会形成であった時期で、それ以前は固体の燃料としての石炭が主体でした。長崎~福岡には炭坑に至る支線がどれほどあったか、です。そうした事情は石狩・夕張でも言えましょう。固体として輸送しなければならなかったわけで、その大動脈が、門司港~折尾です。よって発展史的に見ても興味は尽きない区間です。自身は東折尾操車って、どんな構造なのか、と長く思っておりました。さてさて、昔は門司で離されDLに牽引されこの筑豊連絡線を通って、原田方にぬけるような寝台特急すらあったのですが、今は本線においてすら。

多分このあたりはかなり石炭列車が優遇されていたのかなぁ、と思います。黒崎駅西方の立体交差はおそらくそのためのものではないかと思うのですが、東折尾の実態も含め、よくわかっていません。
筑豊線経由の特急列車があったなんて、今では信じられませんね。

その特急知ってます。
今、手許に昔の時刻表が無いので正確かどうか自信ありませんが、確か、寝台特急「あかつき」ではなかったでしょうか。
広島に帰った時、昔の時刻表がまだあれば、確かめてみます。
小倉?(折尾では別れていなかったような気がするので小倉としていますが。)で別れた「あかつき」は、鹿児島本線上を数分遅れで2本走り、また、長崎本線上を鹿児島本線の時よりさらに何分か引き離されて同名の列車(1号、2号といった識別無く。仮に、当該列車があかつき1号であったとすれば、両方ともあかつき1号。)が2本走るという、楽しくなるダイヤ編成でした。(上りはもちろん、その逆となりますが。)
別れても行き先が共に「長崎」行きだったのか、後の方は「佐世保」行きだったのか何処行きだったのか、よく覚えていませんが、その列車が存在した当時の時刻表で見たことは間違いありません。
何か、ミステリーのトリックに使えないかと考えたりした記憶もあります。
当時(より少し前)の筑豊の重要性が偲ばれる遺構とも言えるダイヤではなかったのでしょうか。
f54560zgさんは、列車名も、行き先も御存知のことと思います。是非とも正解をお教え下さい。
私ごとになりますが、「あかつき」に関しては、5年前、長崎県に出張した時、この列車に乗りたくて、個室寝台をとったことがありました。
発車寸前まで三原のスナックで同僚と飲んでいて、ぎりぎり間に合ったことが思い出されます。肥前山口までです。(そこから先は普通列車。)
下関、関門トンネル、北九州工業地帯の駅を見れる嬉しさから、うつらうつらしながらも、なんとか小倉まで起きていました。
山口県を越えるのがやたら長く感じられました。山口県は意外と横に長いのです。
岩国-徳山間を最短の岩徳線経由でなく大回りの海岸線の柳井、下松、光の各都市を経由するコースを辿る影響があるのかもしれません。
小倉では別な方面へ切り離しがあったような、なかったような、わりと長い停車がありましたが、今現在では、それがどうだったか調べる術がありません。
単なるねぼけと、妄想だった可能性が高かった気もしています。
「彗星」、「明星」、「なは」、「金星」等関西(名古屋)と九州を結ぶ夜行寝台はその時既に無く、この「あかつき」にも、もう乗ることは出来ません。

新幹線が博多まで開業する前は昼行の気動車特急「かもめ」が筑豊線経由でしたね。長崎・佐世保行きです。
博多開業で夜行寝台の「明星」熊本・佐世保行き、S53年10月以降は「あかつき」長崎・佐世保行き、それ以降は知りません(笑)。
TOさんはかなり寝台列車を利用されたことがあるんですね、うらやましい。私は1回だけ。それも急行。
今後も寝台車に乗る機会は、残念ながら・・・。

ご存知かもしれませんが・・・・・。
筑豊短絡線はもともと複線で、現在は折尾駅高架工事の関係で仮単線化されています。最後の写真の一番右側が筑豊短絡下り線、現在は草に埋もれた状態です。早ければ来年後半あたりには複線に戻って折尾(高架)経由のルートに変更される見込みです。

ところで、鹿児島上り貨物列車が黒崎からの貨物線に転線するルートは、陣原での「5番→4番→3番→筑短上り」ではなく、黒崎駅手前の鹿児島上りから直接分岐して入るルートが使用されており、陣原の亘り線は使われぬままの状態となっています。博多→竹下の回送列車が本線経由でなく小運転線経由なのと同様、やはり本線横断を避けたためと思いますが、黒崎駅手前の本線分岐は陣原駅が完成するずっと以前から存在していました。使用されない上記ルートの亘り線をわざわざ新設した理由が判らず、困惑しております。

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