« 1992天王寺2 | トップページ | 1992天王寺の信号機 »

2009年5月 4日 (月)

1992天王寺3

今回は高架の阪和線ホームを中心に。

19920510d076
高架の5番線です。

19920510d075
5番線の終端側です。

19920510d074
4番線です。

19920510d073
3番線です。

19920510d072
1番線です。

19920510d071
1番線の終端側です。

19920510d103
右が阪和線・和歌山方、中央が関西線・名古屋方です。

19920510d101
特急車両を引き上げる線も結構立派な構造です。

19920510d104
大阪環状線が左にカーブしていきます。

私の記録に以下の配線図があります。

Photo

1976年頃だと思うのですが、ちょっと怪しいんです。特に5番線の機回線あたり。
こんなの存在したんでしょうか。

以下は1976~1978年撮影です。

19760328a01
1976年3月です。70系が健在でした。

19770311g01
1977年3月です。
4番線から豪快に線路を横切って地平への連絡線へつながる線路があるのですが、車両が邪魔で線路がよく見えません。

19780316a04
1978年3月です。

19780316a01

19780311c02
半年後の新宮電化を控えての習熟運転でしょうか。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
バックナンバーはこちらからどうぞ。

« 1992天王寺2 | トップページ | 1992天王寺の信号機 »

コメント

小学館の掲載にはすでに消えていますが、仰る通り、機回し線がありました。それと短い引上げ線、ダブルスリップ、環状線との授受連絡坂線からの2番線への進入線、多分図示の通りと思います。雑誌等でダイヤグラムの稠密度を肌で知りながら滅多に阪和線は利用しなかったせいか、拝しながら分岐制限に驚かされました。ターミナルに着く私鉄のような。加えて、地平駅について、分岐側制限が85㌔の指示には驚かされました。何番なんだろうと思った次第です。

そうですか、機回線はあったのですか。自分で調べた配線図はあるのですがそれを裏付ける写真がなかったものですから(要するに自分を信用してないということですね)。
「阪和線」といえば「スピード」という印象は持っていましたが、分岐側で制限85km/hとはすごいですね。

最初投稿させて戴いた時、上野駅にしてしまいましたが、「ちょっと一休み〜」のような場所を知らなかった為で、東京駅があれば日本の総括の駅なのでそこに書き込むのは許されるかな、と思って東京駅を探していました。
ところが、東京駅は探してもなかったので、私の頭で考えつく日本第2の駅と思う上野駅を選んだ次第です。
あらためて考えますに、ここ天王寺駅を最初にした方がよかったのかと今思っているところです。
と言いますのは、上野駅のところで書いた急行「安芸」に乗って降りたところは大阪であり、その時まだ開園したばかりの天王寺動物園に来ているからです。(「おおありくい」を見た記憶があります。)
前置きが長くなり申し訳ありません。
この度、天王寺駅のコメントに阪和線85㎞/hがあるのを見て、そう言えば、阪和線・紀勢本線・関西本線を走っていた「はやたま」もかなりスピードを出していたなと思い出し、ここに紙面を裂かせて戴いた次第です。
「はやたま」については説明するまでもないと思いますが、天王寺・名古屋間を12時間もかけて走っていた阪和線内快速(もっと先までだったか)、紀勢本線・関西本線内普通の物凄い列車でした。
実は、私は2回も全区間乗ったことがあるんです。
これについては、何かの機会に「ちょっと一休み〜」で触れさせて戴こうかと思っています。

TOさん、確か、特に「鉄」ではない、とおっしゃっていませんでしたっけ?
でも「はやたま」全区間乗車2回ですか?・・・・。
私も「はやたま」は宿代わりに利用しましたが、その目的上利用区間は夜行となる西半分、しかも天王寺行きだけだったような・・・。
「はやたま」レポート是非お願いします。

キーワード「天王寺 配線」で飛んで来ました。
懐かしいですね。
113系の新快速。
381系の試運転。
願わくば、80系「くろしお」や、「はやたま(南紀)」も見たかったです。

河内のオッサンさん、コメントありがとうございます。
80系くろしおの写真もあることはあるのですが、ちょっと恥ずかしい出来なので遠慮しました。
はやたまは名古屋行きは夜、天王寺行きも早朝5時くらいの天王寺到着だったかと。残念ながら写真は撮れてません。でも撮っておきたかったですねぇ。

 阪和電鉄時代天王寺駅は今と違い下車専用ホームと乗車専用ホームが其々独立して居りました 関西私鉄ターミナルに良く有るパターンで大軌上本町や京阪天満橋三条等が該当します 当時は今と違い編成両数は短いのであの高架上の狭い所でも着発ホームの分離は可能でした 以前鉄道史料に阪和天王寺の遺構の記事が掲載されており下車地下道遺構に付いて述べられておりました 尚且つ阪和電鉄は天王寺にて貨車の授受を行っていました其れが件の高架と地平を結ぶ勾配線でした当時はまだ阪和貨物線は存在しておらず此の勾配線を使って授受しておりました 城東線と高架の間の狭い所の三本の側線は此の時の授受ヤードでした 然も阪和電鉄天王寺駅には貨物ホームも存在しておりました 間違えでなければ阪和唯一の凸形電気機関車ロコ1001が此処の入れ替えに使われていた筈です 

 申し訳有りません阪和電鉄ロコ1000形は本線用箱型電気機関車で 凸形の方はロコ1100形でした
勾配対応で回生制動を保有1500V直接制御で天王寺入れ替え特化した機関車でした 以上

yyoshikawaさん、ホームを長手方向で乗降分離するという発想は関西特有のものでしょうか。関東ではあまりなじみがないような。

 阪和線は元々は大阪和歌山間を略直線で結んだ阪和電鐵と云う私鉄でした 先に同じ区間を開業した南海鐵道が明治初期に沿線の市街地を結び和歌山迄既に開業していた 後発路線ですので南海の山側を和歌山迄結びました高速運転で南海に対抗する為主要駅配線は高速直線退避分岐と云う高速式配線(新京阪や新幹線式)に外側に貨物設備を付け足す配線でした貨物側線はスルーにして何方からも取り扱える様に配線されてました 
 阪和電鐵が各地で戦時買収された私鉄でダントツトップレベルだったのは後発開業で速達輸送を主眼とした高速特化 その為強力な出力の電動機を装備した高性能電車で表定時速85kmh当時日本で一番高速運転でした 
 当時狭軌で最大出力150kw電動機東洋電機電動カム制御器を装備 更に鐵道省より大型の車体幅及び床高高い 其の為買收国電中最後迄国鉄形式を付けられていました 新形国電導入されると旧形国電は地方線区へ都落ちするのが通例でしたが阪和型電車は松尾鉱山に売却された2輌を除き都落ちせず略最後迄阪和線で活躍してました
形式上17m国電扱いでしたが車体重量が50tで有った為都落ち出来なかったのも理由の一つでした 又長々述べてしまいました

yyoshikawaさん、阪和電鉄は結局南海電鉄に買収されたわけですが、どのような思惑で南海は阪和を買収したのでしょうか。また阪和の高速化思想は南海にも引き継がれたのでしょうか。

沿線住民というだけですが1年近くほったらかしなので返答を試みます。
>ホームを長手方向で乗降分離するという発想は関西特有のものでしょうか。関東ではあまりなじみがないような。
大昔の近鉄上本町でも例があるようですが関西関東というより軌道鉄道の違いから出るものだと思います。
南海の鉄道線では乗車降車を直列に分けるということはおそらくしていないと思うのですが、軌道線では天王寺駅前、浜寺駅前で多客時(ラッシュ時でなく)に行っています。
>阪和電鉄は結局南海電鉄に買収されたわけですが、どのような思惑で南海は阪和を買収したのでしょうか。
それは当方が聞きたいくらいで合併条件は過分といってよい評価だと思います。
おそらくエリア固めができるというのはあるのでしょうが、それにしてはあまり固めきれていないですね。
その後の鉄道省の仕打ちは大変なもので現憲法下なら行政訴訟ものです。

>阪和の高速化思想は南海にも引き継がれたのでしょうか。
書き洩らしましたが多分答えは「引き継がれていない」だと思います。
鉄道史料という雑誌をかつて図書館で見ましたがそれには多少の人事交流はあったと書かれていたと思います。しかし戦後そこまで高速運転に走ったかといえばそうでもありません。「芽が出なかった」という考え方もできるかもしれません。
むしろ高速化思想を受け継いだのは天鉄局-JR西日本かもしれません。ちょっと危なっかしい気もしないこともありませんが。

たぬきぽんぽんさん、情報ありがとうございます。阪和・南海・鉄道省、それぞれに思惑があったんでしょうね。いずれにせよ阪和線っていろいろな面で「変わった」路線ですね。

戦前関東の私鉄ターミナル駅は関西のターミナル駅程広大なのは殆ど有りません例外は東武鉄道旧浅草駅(現東京スカイツリー駅)位です蒸気鉄道から発展した関係で頭端式旅客ホーム以外に貨物扱いホーム艀取り設備客車留置線機関庫車両工場が備えられていた総合駅でした其れ以外ターミナルはせいぜいホーム一面二線多くてホーム二面三~四線が最大でした乗車下車で停車位置を変える関西式のターミナルは玉電渋谷駅位でした(路面電車です)
阪急梅田近鉄上本町南海難波等のターミナル駅は六~九線一同に並ぶ壮観な駅が多い
(関東のファンにとって羨ましいい風景です)
何故広大なターミナル駅が存在する原因は殆どの私鉄でターミナルから数駅で路線が分岐する例が多いのも原因の一つと思うのです 
関東の私鉄ですと小田急だと相模大野迄路線分岐が無い東武本線系は杉戸迄路線分岐は有りません 他の私鉄線は路線長が短い為広大なターミナル駅を設ける必要が無かった
例外は京成電鉄ターミナル駅を上野と押上に設け青砥で両線が合流する線形(其々のターミナルはホーム二面四線駅でした)
関西私鉄で広大なターミナル駅が出来た背景にはターミナルから数駅で路線分岐する関係から路線別複線並列(複々線三複線等)で各線毎に急行用ホーム各停ホーム等設けると当然広大なターミナルとなる図式になる更に用地に余裕が有れば乗車ホームと下車ホームを完全に別に分けて乗客の流れが交わらぬ様にしたので有ろうと思います

yyoshikawaさん、おっしゃる通り関西の私鉄のターミナルは関東に比べると規模が大きいものが多い気がしますね。会社(路線)規模の違い、ということでしょうか。

機回り線の有効長の関係で、ED60の追加でED61が転属してきたけど、すぐに再配転したよ

と、2番線のポイント(地上線から連絡)はホームの中ほど(7両ぎりぎり)のところだったと思う

いっぺい55さん
制約の多い中で無理やり作り上げた配線、という感じですね。

機回し線ありましたよ。キハ58が時々休憩してました!

バッチリ写ってるサイト発見しました。
https://ameblo.jp/wing3863/entry-12505222297.html

阿倍野の鉄道少年さん、完璧です。
ありがとうございます。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 1992天王寺3:

« 1992天王寺2 | トップページ | 1992天王寺の信号機 »

過去の記事

2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ