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2009年5月 2日 (土)

1992天王寺1

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大阪環状線に関西線・阪和線、それらを結ぶ連絡線が趣味的には興味をそそります。
阪和線の客車列車、臨港線の貨物列車、環状線~関西線~阪和線の特急など、列車の種類の多さも魅力でした。

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地平の1番線です。

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3枝分岐がありました。

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これは1977年です。廃車の旧国が留置されていました。

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2番線です。

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3番線です。

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これは1977年です。

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5番線です。

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6番線です。

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7番線です。

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要注意なのはほぼ中央に見える停止現示の信号機。用途がよくわかりません。単行出発用?

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8番線です。

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かつての南海天王寺支線です。

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まだホームの残骸が残っていました。
天王寺支線は少し先の暗闇のところから発着していたようです。

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1976年です。
阪和線ホーム上に跨線橋かテルファがあります。
関西線のホームもさびれた雰囲気です。

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コメント

天王寺駅の阪和線-環状線の連絡線が秀逸でした。あの坂を臨時列車で通ってみたかったですね。
後年できた連絡線は、どうも味気なくて・・・

上野駅にも高架と地平を結ぶ連絡線がありましたね。線路は撤去されても、しばらく残骸が残っていましたが、今はどうなっているのでしょうか。

阪和連絡線が図のように作られ、さらに上り方にも連絡線が造られ一層構造上すっきりした同駅ですが、かつて関西線が電化された際快速の運用ダイヤを描いてみたところ、4番線から環状折返し線へ引上げ大阪駅方へ各停運用を始めるのに気付かされました。3枝分岐線のある3線は当初からある阪和貨物授受で同様に4番線を使います。配給電車等もここを使い、よって電車の向きを指定しておりました。昔は南海方とも同駅で貨物授受を行い、新今宮駅が出来る迄同駅が南海の乗換駅でした。近代的構造の中の古くて生命線とも言えた授受・連絡坂です。 あのぉ、上野駅の連絡線ってどれを指すのでしょうか?

4番線を使用しての関西線電車の転線や高架・地平の連絡線の使われかたなどは神秘的な魅力がありましたね。
上野の連絡線の遺構は、常磐線の電車の西側(山手線側)の車窓からよく眺めました。上野を出て地平からの複線をまたぐと、高架からは下りの、地平からは上りの線路敷が残されていました。

天王寺は、国鉄時代は近畿南東部の鉄道管理局であった。基点となる亀山から紀勢本線全線が天王寺鉄道管理局であることで、三重県は近畿と習い、奈良県境の鈴鹿山脈によって、名古屋圏なっている。地元民でもハッキリしないと言う。
今、亀山から紀勢本線の三重県内が、JR東海になって特急‟南紀”が紀伊勝浦まで行っている。ブルドッグの愛称を持った、ボンネット型の‟キハ81系”ディーゼル特急‟くろしお”が名古屋~天王寺間を往復し、ブルドッグを前後にあった特急‟くろしお”に串本~天王寺に乗った。
天王寺から、紀勢本線周りの鈍行があった。新宮まで、‟EF58”で‟はやたま”の愛称名で寝台を繋いでいて、うおつり号と言われ、新宮でDF50に換わり寝台車が外されると、列車番号だけになって、亀山から、DD51に換わって進行方向が変わって関西本線に入って名古屋へ行きとなる。
伊勢鉄道は、国鉄伊勢線で始まり、独自の路線名のために廃止対象になった。第3セクターで残ったことで、周遊券で特急‟南紀”に乗った時も、青春18切符で快速みえでも別料金になる。
阪和線は、元南海電車であった。戦時中軍需輸送で国鉄に買収された。天王寺の駅前阿倍野橋から近鉄南大阪線も元南海電車で戦時中強制合併の後に、狭軌のまま近鉄線になった。ディーゼル急行‟きのくに”が運行していた時は、南海電車がディーゼルカーを所有し、和歌山で併結して白浜まで行っていて、今でも南海電車が希望してもJR西日本が拒否してる。国鉄阪和線になった時は、今の和歌山駅は、東和歌山と言っていた。
和歌山は、紀勢本線の終点になり、阪和線、和歌山線は関西本線の支線になって、和歌山へ入る3路線は下りになっているが、和歌山を出る紀勢本線の列車番号は奇数になっている。
関西本線の特に奈良県内は近鉄が並行して、普通列車しかない。が、関西本(大和路)線と阪和線の快速が、大阪環状線に乗り入れる様になって、JR線を利用する機会が多くて、大阪行とは言え外回り線は、大阪駅で折り返しが出来なくて、京橋で森ノ宮の車庫へ持って行ったり、天王寺まで一周して折り返す。

 SYさま質問の上野の連絡線について

 「上野駅配線図」の項、1967-3の図において5番線を直進して行くと53Rがあります。ここから33Rまでのルートを連絡線と呼んでいました。
 入換用で列車が走ったとは思えませんが確信が持てません。どなたかお助けください。跡地は形を留めていますが電柱が建ったりしてイメージはありません。
 f54560zgさまの説明に屋上屋を重ねて申し訳ありません。

C6217様のご指摘の上野駅33Rから33R迄の連絡線ですが確か高架駅から尾久客車区への回送列車が地上駅からの線へ向かう為の線で其の為連絡線と称していたと思います 飽く迄個人的見解ですが

ニッシーさん
懐かしいお話をありがとうございます。

スレ違いですが・・・
「連絡線」の先を辿っていくと、そのまま東北下り本線ですね。
逆に現在高架ホームからの下り本線となっている線路の先は、当時は尾久操車場へ行く回送線だったのですね。
つまり、一見無理やり隙間に押し込まれたかに見える、今は無き「連絡線」が、実はかつてのメインルートだったのではないでしょうか。

上野駅の連絡線ですが、高架ホームと地平ホーム間で、機関車を回送する必要があった場合の入換運転用の通路線的な機能があったと想像します。機関車単機が通路線で止まっていたのを見たことのおぼろげながら記憶があります。33Rの入換信号機でここまで移動してきた車両に高架ホームなり地平ホームへ進出する信号を表示するために設けられたものと思います。

天王寺の阪和線ホームは上野みたいに感じるのか知れないけど、ここで上野駅のことを言うのか?
片町線と同じ、オレンジ色の旧型電車が運行していた頃に、阪和線ホームに特急、急行のディーゼルカーが停まっているのが不思議に感じた。紀勢本線乗り入れを知って、急行は‟きのくに”で、特急は‟くろしお”であった。急行‟きのくに”に乗り、和歌山まで停まらなかった。御坊までの乗車券を見れば、大阪~米原までの距離であった。
天王寺の駅ビルの前は阿倍野橋で、橋の下は川ではなくて電車である。

クモイ103さん、コスモスさん
私は荷物車の入換に使用する、というのをどこかで見たような・・・。

ニッシーさん
天王寺駅の高架ホームはその歴史から電車専用のように思ってしまいますので、特急や急行が止まっているとちょっと不思議に感じてしまいますね。

君は、阪和線の高架ホームからディーゼルカーの、特急‟くろしお”と、急行‟きのくに”がこのホームから出ていたことを知らないの?
同様に、急行電車の塗装を変えた。新快速が新大阪に停まらなかったことを知らない様に言うなら、~ですね。の「ね」は相手を見下すみたいで。文章読んで自分より年上に感じる者には、控える様にヨンサントーをハッキリしないと、言ってなかったか?
私も偉そうに言える程文章は上手くないけど、言葉には慎重にしなければならないね。

ニッシーさん
拙ブログではコメントをいただいた方のご年齢やお立場等にかかわらず、かしこまった文章ではなく平易な表現でご返事させていただいております。
ご理解お願いします。

「天王寺の高架駅」は、

「阪和電気鉄道→南海山手線→阪和線」の歴史。
高速で走れる路線なので、買収 されています。
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「大阪環状線=21.7km も、1961年=成立」で、
「大阪~西九条~桜島=西成線」と
「大阪~鶴橋~天王寺=城東線」に、
「新規の路線=西九条~天王寺」を、つなぎ、
同時に
「桜島~西九条=桜島線」として、分離しています。
(参考 「西成線、脱線+車両炎上 大事故」。)

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