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2009年4月22日 (水)

1992吹田3

千里丘から電車に乗って岸辺へ、そこから歩いて吹田に戻ります。

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千里丘です。東京方です。
中央の線路は左が大阪貨(タ)方、右が東京方です。

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同じく千里丘・東京方です。
線路が一部撤去されています。

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神戸方です。剥がされた線路の跡は心が痛みます。

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神戸方です。
貨車があふれている頃に来たかったですね。

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千里丘のホームから東京方です。

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東京方からです。

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神戸方からです。

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神戸方です。

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岸辺です。東京方です。

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神戸方です。

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神戸方です。左側の線路は吹田工場の試運転線だと思います。

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吹田機関区や吹田工場への出入りは本線をくぐります。神戸方です。

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吹田機関区です。
こんな写真なら出さないほうがマシかも・・・。

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コメント

かつて『東洋一』という形容詞がいつも付されていた同操車場の姿をみてため息ばかりです。ハンプ方が取り払われ、残った仕訳線上に解体待ちの貨車や電車が据えられていたのを見たのを想起させます。新鶴見もこんな感じだったのでしょうね、一旦は更地。品鶴線駅前だけは再開発。大宮も本線は東に振られ高架化と再開発。何処も同じ・・・・・『東洋一』は中国の豊台や徐州に移ったのでしょうな。

まさか吹田や新鶴見がなくなるとは思ってもみませんでした。確かに非効率であることはわかるのですが、無数の貨車の間を動き回る入換機関車、大好きでした。

 吹田や新鶴見、三郷の操車場は、現役時代に僕も見ておきたかったです(いや、吹田だけはギリギリで現役時代末期に見たような気がしますが、記憶にありません)。
 それにしても、最後の写真が一部白抜きになっているのは、何か事情があってのことでしょうか?

私は例ビッグなど さんよりは現役時代の操車場を見てきたと思うのですが、記録の対象にしなかったのが残念でした。
白抜きは、ちょっと好ましくない物体が写っていたのでカットしました・・・・。

11枚目の写真「神戸方です。左側の線路は吹田工場の試運転線だと思います。」のちょうどこのあたり、岸辺駅下りホーム傍の試運転線に木造の職員用ホームがありました。ホームと言うより北海道で見られる乗降場みたいでした。吹田工場や機関区へ向かう職員の方が利用されていて、私も一度DD13牽引の列車を目撃しました。
私が持っている1973年の国鉄車両配置表によると、吹田貨車区に職員輸送車オヤ30・スヤ37の配置があります。
その後客車が旧型電車に替わったとも聞きましたが、それがいつまで続きこのホームがいつまであったのかは、知りません。気にかけていない間になくなっていました。

DD13の職員輸送列車ですか。
片道は牽引、片道は推進でしょうか。
・・・乗ってみたい・・・

9枚目の写真の左手にチラッと映っているのが、旧吹田操車場本部の建物ですね。比較的最近まで残っていましたが、残念ながら解体されてしまいました。替わりに吹田貨物ターミナル駅本屋が建設中です。またその横にある緑地は神社だと思います。小さな鳥居が見えていた記憶があります。
吹田を通る度に入れ換えをしていたデフなしD51や城東貨物線を行く蒸機は何度か見かけていましたので、それがなくなるとは思いもしませんでした。当時はまだ在来線の華やかな特急・急行列車や電車に夢中でした。
1971年3月城東貨物線無煙化により、吹田から蒸機が消えました。私がカメラを持つ頃には、もう消えていて撮影できなかった。あともう少し早く生まれていればなとよく思いました。蒸機の面影を求めて、この岸辺駅のホームを訪ねたこともありました。
ところが、無煙化後もD5125号機だけは第一種休車として扇形庫に残っており、撮影に行きました。25線あった扇形庫の21番にナンバープレートを外されて留置されていました。周りには頼もしき後輩のDD51や福知山から来ていたDD54も居て、皆に囲まれて静かに火を落とし休んでいるようでした。そしてその横には、かつて吹田機関区の機関助手さんが使用されたであろう投炭練習機がおかれており、ほろりとさせられました。
しばらくして扇形庫の一部が解体され、D5125号機の姿が車窓からもよく見えるようになりました。電車で通るたびにその姿を確かめ「ああ、まだ居るな」と安堵しておりました。ぜひ永久に吹田機関区に残して欲しいと思っていましたが、1976年に兵庫県三田市に保存されました。吹田第一機関区に来る前は福知山機関区所属でしたので25号機にはその方が良かったのかも知れません。その後、同じ三田市の別の場所に移ったのですが、非常に美しい状態で保存されているとのこと。機会を見つけて会いに行きたいと思います。

誰しもまずは華やかな優等列車から入りますよね。優等列車そっちのけで地味な貨物列車に夢中な子供は貴重な存在です。ただ、行ったり来たりを繰り返す入換作業は子供心にも魅力たっぷりですが。
D5125は5年あまりを吹田の扇形庫で過ごしたんですね。安住の地が見つかってホッとしたことでしょう。

幼少期、岸部南に住んでいました。
試運転線、岸辺駅を南側に出たところに簡易ホームがあり、通勤時に1編成だけ通勤車輌が引っ張られているのを見てました。
一旦駅を出て、道路側からのり面階段を登って簡易ホームに行ってました。
吹田側に駆動車がおり、朝(出勤時)は空車を推進してきて職員を乗せ、折り返しで牽引してたと思います。(オレンジの頭+貨車2両(?))
線路を千里丘側にいくと阪急電車の正雀工場に入っていってました。
小学校通学時に通るトンネルの高さが低く、車輪に手が届きそうな感覚で(大きな音もあり)少し怖かった記憶があります。
1974年頃に見なくなったように思います。参考まで。

カメオさん
情報ありがとうございます。
吹田を含め、各地の職員輸送列車についてはチラホラ耳にすることがありますが、通常の営業列車とは違う見応えのある編成だったようですね。

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