1992高槻
私の中では今でも「高槻電車区」ですが、車両基地の名称はJR化前後でずいぶんと変わってしまっていますので、今はどうなっているのでしょうか。
東京方です。中央の坂を登っていく線路は高槻電車区への通路線です。
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私の中では今でも「高槻電車区」ですが、車両基地の名称はJR化前後でずいぶんと変わってしまっていますので、今はどうなっているのでしょうか。
東京方です。中央の坂を登っていく線路は高槻電車区への通路線です。
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曽て、向日町へ回送される優等車を2番で待避させている写真を観たことがあるのですが、複々線区間のモデルである高槻駅は、ホーム幅が狭いのが難点。多分大正期に作成されたとおぼしき『大阪附近鉄道復興計画略図』を見ると、上り2線をのっ越し電車区が計画されていて、結果同区が昭和31年に開区となりました。その図を見ると、北方貨物線も宮原より北西側の豊島地区に(客車)操車場を設け、福知山線塚口駅北側を通過して本線に合流する計画だったようです。塚口駅からは同貨物線へ合流する線も有り、旅客回送は大阪・神崎・塚口そして豊島を考えていたのでしょう。現宮原は低湿地だったからでしょう。ちなみに向日町操車は貨物操車場予定地で、乗っ越し線は山陰貨物・梅小路貨物に使い、梅小路操車は旅客基地にする予定でした。なお、向日町以東は現方向別でなく、旅客・貨物別複線で近江八幡まで複々線化する…少々壮大なプランだったみたいで。
投稿: SY | 2009年4月18日 (土) 00時52分
いつもいつも重みのある解説ありがとうございます。
なかなか壮大な計画がなされていたのですね。
向日町以東が旅客・貨物別複々線にならなくてよかったですね。
投稿: f54560zg | 2009年4月19日 (日) 20時08分
御無沙汰しております。
僕の中でも、高槻電車区は今でも大タツのままです。
ただ、現状は電留線のみが存在しているだけで、名称は「吹田工場高槻派出所」なのだとか。線路配置自体は、(先日所要で通過したときに見た限りでは)昔日と大同小異でした。
投稿: 例ビッグなど | 2009年6月16日 (火) 16時00分
京阪神緩行は103系、所属は大タツか大アカ・・・。私のイメージもそのあたりでストップしてしまっています。
それにしてもなんで「工場」の派出なんでしょう。
投稿: f54560zg | 2009年6月17日 (水) 20時48分
新幹線開業前に、大阪から北陸本線直通の普通列車で、京都まで停まらず間にないのかと思い、後で気が付くと、列車線の左側に座っていたことである。
帰りは、米原から乗り継ぎの電車で‟高槻”に停まり、北陸本線にも‟高月”があり、同じ駅名に不思議に感じた。後でツキの字の違いを見た。
2年後にも、大阪から富山行の普通列車で、新大阪に通過して右側へ行って、10カ所も駅があって改めて感じた。昭和40年から、111系電車になって米原まで、電車を感じた。
新幹線が岡山へ延びて、大阪を出る上りの長距離列車が新大阪に停まる様になり、富山からの大阪行の普通列車は、米原止まりになった。EF58の普通列車は、高槻、新大阪も停まらなかった。
京都から、快速は大阪までに高槻、新大阪に停まり、大阪の次は芦屋まで停まらなかった。高槻、芦屋は各駅停車と待ち合わせの退避線があったからで、高槻には電車区あることで、大阪~京都の等間隔でもあり、阪急電車の高槻市駅まで歩いても知れている。
今の新快速は、当時の快速と同じ停車駅となり、その分、電車のスピードも速くなり列車線を使用する様になった。153系電車までは、新大阪、高槻は電車線で、29分を維持するために通過してた。
今、朝夕の通勤時間帯を除いて、ロングシートの電車は、高槻止まりになった。同様に阪急電車の準急が高槻市から準急の表示のまま、各駅停車になっている。因みに京阪電車も萱島(寝屋川市)の複々線を過ぎて準急が各駅停車になっている。JR京都線同様に、阪急、京阪電車も快速運転は、大阪府の中である。
投稿: ニッシー | 2020年4月 5日 (日) 09時55分
ニッシーさん
懐かしいお話をありがとうございます。
投稿: f54560zg | 2020年4月 7日 (火) 20時09分