« 飛騨古川 1979/10/6 | トップページ | 脇道15(鎖錠スイッチ) »

2009年2月24日 (火)

高山 1979/10/7

高山9:19発-(714D「のりくら4号」)→名古屋

714Dはキハ58731に乗車しました。

19791006

高山線の中心駅で高山機関区・高山客貨車区が設けられていますが、いずれも営業用車両の配置はなくなっていました。

19791007a01
機関区です。

19791007a02

19791007a03
扇形庫も残っていましたが、ほとんど扉が閉ざされています。
庫内は駐車場と化しているようです。

19791007a04

19791007a09
機関区から駅方向です。

19791007a10
下り13番線付近です。

19791007a11
下り14番線付近です。

19791007a06
客貨車区です。左はスエ3169です。
ちょっとゲテモノっぽい妻面ですね。

19791007a05
客貨車区から駅方向です。

すでにご案内の通り、1980年前後の駅の風景はこれで終了です。
今後は「脇道」シリーズと、1992年の関西地区の写真を細々と掲載していく予定です。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
バックナンバーはこちらからどうぞ。

« 飛騨古川 1979/10/6 | トップページ | 脇道15(鎖錠スイッチ) »

コメント

高山駅構内懐かしいです。ちょうどこのころ中学生でした。当時はよく機関区内に入れてもらって自由に見学させてもらいました。扇型庫は職員の車でいっぱいでした。スエには救援車と書かれていたと思います。踏切事故の時、一度だけ稼働したのを見たことがあります。高山駅構内図の上りホームと貨物ホームを結ぶ2本の線が描かれていますが、これは二軸貨車1両分のトラバーサーがあったところです。このような施設は他では見たことがなく、なぜ高山駅だけに設置されていたのか今となっては謎です。

kouさん、昔はおおらかでしたから特に子供の場合は結構許してもらえましたね、今では考えられないけど。
トラーバーサー、私も気づきませんでしたけど確かに配線図にも記載されていますね。やっぱり取り扱う貨物の量の関係でしょうか。

高山駅の構内図が残っているんですね。なかなか見つけられなかったので驚きました。
さし障りなければ出典教えて頂けると嬉しいです。

gifu-uさん、申し訳ありません、出典については一応ヒミツです。まあ、ご想像の通りとは思いますが(汗)。

 今年になって蒸気に興味を持ったので、昔の高山機関区の写真は撮影していません。
 そのため、こちらの写真は模型製作の参考になります。
 高山機関区の模型再現のためのブログを始めましたので、良かったら見てください。
 なお、築80年の旧高山駅本屋は2015年1月に取り壊されてしまい、ますます当時の面影が遠い物になってしまいました。

この高山機関区は意外と謎めいた存在ではないような感じで、ネット検索で高山機関区を探してみると、かなりの情報が得られるようです。
先ず、gifu-uさんの疑問点、これは約6年間に置けるblog内の膨大なコメント欄を精査していけば答えが得られそうな気もするのですが、まぁ365日中、360日くらいはf54560zgさんのblogを閲覧させていただいている立場から申し上げますと、キーポイントは トウテツショテン にあるのではとにらんでいるのですが、若しくは私の経験も踏まえれば、現場などでの職員の方々からの御配慮とかも…。
高山のキューロクさんの情報、高山駅の駅舎が改築されてしまったのですね。旧駅舎の高山駅は国鉄時代末期と数年前の2度の訪問だけでしたが、なぜか四季折々に訪問してみたいと感じさせられる駅だった印象でした。他所に負けず劣らず、駅舎の近代化は観光地の宿命のようですね。
この高山機関区は、私の中では最も印象的な機関区のひとつでして、当時の訪問時の様子は、いずれ項を改めお話できればと思います。

高山のキューロクさん、もし写真が模型のお役にたてれば幸いです。
E10さん、機会があれば高山機関区訪問記をお願いしますね。

北陸本線で上下それぞれに、‟こがね”、‟しろがね”と名古屋発名古屋行の準急のディーゼルカーがって、小学校の授業で、飛騨高山を習い高山本線が、岐阜~富山間で、思わず口に出そうであった。
‟こがね”は、名古屋発で米原~富山~岐阜~名古屋と、‟しろがね”は反対回りで、定期列車で北陸トンネルを1番最初に通過した。飛騨高山へは、大阪から急行“たかやま”で行き、名鉄から乗り入れの‟北アルプス”があった。
北陸トンネル開業前から、運行していてD51の客車の中に、ディーゼルカーが珍しくてか大桐で、列車交換待ちしていて、上りのディーゼルカーが通過して復刻版の時刻表を見て、‟しろがね”であり前の普通列車が、杉津周りの最後の列車になった。
JR東海の‟キハ85”系は、3両編成で富山から乗り1番前へ乗った。が、飛騨古川か高山で目の前に付属編成が増結された。

ニッシーさん
循環急行は各地にありましたが、しろがね・こがねはその中でもスケールの大きい列車だったように思います。

今から49年前、小学高4年生の夏休みに父親の故郷の高山に大阪駅から高山直通の急行「たかやま」で一人送り出され、不安のままに高山で下車すると迎えに来ているはずの祖母が連絡違いで迎えに来ておらず、途方に暮れていると駅員さんが声をかけてくれました。
その後駅事務所に連れて行っていただき父親に連絡をしてくれ、時間の都合がついた叔母が迎えに来てくれました。
あの時の改札や駅事務所の景色は今でもよく覚えています。

それはそれはさぞかし心細かったのではないでしょうか。私は小心者なので、すごく気持ちがわかります(汗)。駅員さんに感謝ですね。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 高山 1979/10/7:

« 飛騨古川 1979/10/6 | トップページ | 脇道15(鎖錠スイッチ) »

過去の記事

2025年1月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ