« 敦賀第二機関区 1979/10/2 | トップページ | 城端 1979/10/3 »

2009年1月29日 (木)

敦賀第一機関区 1979/10/2

金沢-(3336M~336M)→敦賀13:49着/16:32発-(207M「くずりゅう7号」)→金沢

19791002r_20200123164501

転車台と扇形機関庫を中心とした昔ながらの配置です。
「浴場」、「動労」、「鉄労」など、建物の配置も興味深いです。
10番線は庫を貫通していますが、何のためでしょうか。1979100201
直江津方です。新検修庫です。

1979100202
気動車を1両1両切り離して扇形庫に押し込むのも面倒な作業ですね。

1979100203

1979100204

C19791002b7
転車台中心の写真ばかりでスミマセン。

1979100205
比較的がらんとしています。

1979100206
17・18番線をつぶして事務所にしたのでしょうか。

1979100207
米原方です。

1979100209
米原方です。
気留1・2番線付近です。

1979100212
米原方からです。

1979100213
米原方からです。
炭水2番線付近です。

1979100214
米原方からです。
炭水3番線付近です。

1979100215
ディーゼル上屋です。

C19791002b8
17番線です。
こんな所までEF70の墓場になっていました。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
バックナンバーはこちらからどうぞ。

« 敦賀第二機関区 1979/10/2 | トップページ | 城端 1979/10/3 »

コメント

敦賀第一・第二両区を掲げて頂き多謝致します。柳ヶ瀬・山中越という難所を支え、交流電化の実際上の発祥地ですね。扇形庫は昭和50年の空撮と比べるとその後にDL一両分に西側が削られたのですね。庫10番については小生もその答えを伺いたい。記憶では梅小路も幡生方へと一線伸びていました。といっても一両分くらいの有効長しかないようで。昔雑誌で田村駅の超合理的な配線にため息をつき、ループ線にときめきを覚え、長ったらしい隧道が明けて今庄を通過したとき、ここが補機の基地だったんだと反芻していました。後年北陸道の杉津で休憩した時海原を含め広大な風景に心が吸い込まれました。ここが杉津駅なんだ。幾多の写真で見た蒸機の活躍とこの風景を重ねなければならないでしょう。今や扇形庫もなく、隧道側にデッドセクションが設けられ、屈曲した駅故の曲線制限等を緩和しようと線形がいじられたとか。幾多の分岐を重ねつつカーブしながら駅へ低速で進入して行くとき、間もなく降りるんだとか、ここまでやって来たんだ、と思うのは小生だけなんでしょうか。ともかく敦賀は前近代から現代までが交錯する地点です。

おっしゃるとおり柳ヶ瀬、山中、ループ線、北陸トンネルに交直接続と、敦賀周辺ではいろいろな技術が見られます。それだけ特異な地形に位置する駅なのでしょうね。

こんばんは。
北陸本線は自然との戦いの歴史だったのだろうと思いますが、そこにレールを通し、列車を走らせるのは、大変な労力が必要だったのだと実感します。
配線図を拝見し、こんなにも大規模な設備があったのだと、改めて感じ入るものがありました。
私がこの駅を訪ねたのは、直流電化された後、ホームから眺める鉄道の敷地には、何もなく、ただ広いばかりでした。
柳ヶ瀬経由、杉津経由の旧線だった頃には、さぞかし賑やかで活気があったのではないでしょうか。
往時を想像しながら、楽しく拝見しました。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/?pc

風旅記さん、昔は至る所に車両基地がありましたが、今では「名門」車両基地ですら廃止されてしまうほどのご時世になってしまいましたね。

ウェブサイト『敦賀の歴史』を制作・運営しております。貴ウェブサイトの画像を是非使用したくおもいます。ご許可頂きたくお願い申し上げます。

辻野清勝さん、このようなものでお役に立つのであればどうぞお使いください。よろしくお願いします。

ありがとうございます。

下記のページに画像数点を使用させてもらいました。
http://historia.justhpbs.jp/railway.html
ウェブサイト『敦賀の歴史』の「敦賀の鉄道」
ありがとうございました。

辻野清勝さん、お役に立てたのであればうれしい限りです。

北陸トンネル開業前に、 国鉄職員の伯父に連れて行ってもらい、 蒸気機関車の全盛期であった。ターンテーブルに載せて、 D51が向きを変えているところを見た。 昭和46年まで、小浜線のC58があった。 梅小路のDE101118は、小浜線のローカル客車で乗ったときが思い出す。
小浜線の他は、彦根~木ノ本間の区間運転で、坂田、河毛が停まり、越美北線でも運行していた。
湖西線の近江塩津から電車化され、 小浜線の電化によって電車化、越美北線は越前大野に配置されていたことで、 敦賀駅でディーゼルカーは見かけなくなった。 

ニッシーさん
かつて見られたSL、DL、DCが姿を消してしまったのはちょっと寂しいですね。

敦賀機関区とは、何かにかけて最初に配置されていた。 D511~2号機迷列車では、 扱いなれなかったのかもしれない?D51をデゴイチとは、86~90、 101以後の、標準型を差し煙突につけた集煙装置も、敦賀機関区から始まった。ナメクジ型は、城東貨物線で最初に見たときは、違和感を感じた。D51は山男のイメージがあった。が、ナメクジ型は山間部には適さないかもしれない。
DD50型本線用ディーゼル機関車、当時は試作段階であり、 基本したDF50も電気式でいろんな機器があって、 効率的も蒸気機関車に影響になるほどでもなく、丁度パンタグラフをつけた20系客車の電源車みたいなものであった。煙が出ない分トンネルの多い未電化の客車に使われていた。
交流電化は、新幹線の試験目的でED70は、0系電車の基本となった。 北陸トンネルに合わせて、EF70が配置されて、 福井以北のED74は推測で言えば、石川~富山の県境の俱利伽羅峠が、ネックとなって, EF70が使用されて富山のも配置された。
ED74は6両で終わり、原理はED75に引き継がれた。EF70が21両九州へ移ったが、線路規格と出力が必要ではなかった。
D52をD62に改造して、東北本線へ持っていったように

ニッシーさん
そうですね。敦賀は結構パイオニアかも。

あの頃、米原?あたりで私は先遣隊として窓から車内へ放り込まれていました。中にいた見知らぬ人が幼い私を受け止めて座らせてくれたような・・・北陸線の思い出忘れがたく、2022年、ついに愛知から敦賀に引っ越してきました。もっと早く帰りたかった・・・
小学校の修学旅行で行った梅小路の転車台もとてもおもしろかった記憶があります。

>先遣隊
話には聞いたことがありますが、昭和40年代ころぐらいの記憶です(汗)。
敦賀も随分と変わっていたのではないでしょうか。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 敦賀第一機関区 1979/10/2:

« 敦賀第二機関区 1979/10/2 | トップページ | 城端 1979/10/3 »

過去の記事

2023年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ