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2008年12月12日 (金)

伊賀上野 1980/3/16

加太-(239D)→伊賀上野11:41着/12:28発-(4204D「かすが4号」)→柘植

かすが4号は奈良始発で、亀山で紀伊勝浦から来る902D「紀州2号」に併結されて名古屋に向かいます。

以前加太駅だけポツンと記事にしたのですが、これはその続きです。

19800316r

近鉄伊賀線が接続していますが、基本的には昔ながらの機械連動の駅です。

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名古屋方です。

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名古屋方です。
さすが関西「本線」です、風格があります。

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湊町方です。

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湊町方です。
近鉄線のりばです。

19800316c03
湊町方です。
配線図では近鉄線の出発信号機は腕木式になっていますが、実際には色灯化されています。

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架線柱で線路が分断されてしまっていますが、どう見ても昔は機回線だったように思えます。

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湊町方からです。

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湊町方です。

19800316c02
配線図には記載されていませんが、下り貨物1~3番線にはトラバーサーがあります。

19800316c07
上から見るとこんな感じ。

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湊町方からです。

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湊町方からです。

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コメント

伊賀上野駅での貨車の授受は1975年に終了したと
思うのですがこのような配線だと国鉄と近鉄との
間で保安上のやり取りは続いていたのでしょうか、

ごもっともですね。国鉄が貨車の入換を行なう際には近鉄線の本線を横断しなければなりませんからね。
詳しいことはわかりませんが、貴生川などと違って近鉄線にも出発信号機が設けられていますから信号機と関係転てつ器の最低限の連鎖関係は保たれてるように思います。もちろん、事前の通告・連絡は必要でしょうけれど。

大変に懐かしい画像をありがとうございます。

当方、関西線を毎日見て育ちましたが、伊賀上野駅は小さい頃に貨物扱いがあったなという程度の記憶しかありませんでした。

往時の活気は、遠い昔の想い出です。

伊賀上野駅は長いホームに立派な駅舎、側線には貨車の姿と、まさに幹線の風格を感じさせる駅でした。今は短い編成の列車がちょこんと止まるだけになってしまったのでしょうか。
少し寂しい気もしますが、地域の足としてがんばって欲しいですね。

はじめまして。こんばんは。
自分がまだ生まれていないときの
鉄道風景がたくさんあり時間を忘れて
見入ってしまいました。
この様なサイトはとても素晴らしいですね。
また拝見させて頂きたいと思います。

八丁堀さん、コメントありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。

ブログ作成にあたり、当時の記憶を呼び起こし撮影位置の確認に、大変参考になりました。改めて、ありがとうございます。

無煙化前は、構内に架線が張られ、伊賀線の電機が構内入換に活躍していました。留1は無く、社1と社2は終端の車止め手前で合流していました。

架線が張られていたのは、伊賀線上と、
31ロと下貨1,2,3、社1,2、留2,3の終端の間。
上り本線の3番線は、上り場内信号機の東付近から34の間。
下り本線の1番線は、32と安全側線の終端、35ロの間。
中線の2番線は、32と駅本屋側ホームの東端の間。
4,5番線は、34と島式ホームの東端の間。

ブログ上では、社1と社2の終端手前の合流部分での機回しは謎。と、しましたが。車止めに接近する電機を見た微かな記憶を思い出し、配線図と架線の範囲から、ここで機回しが行われたとしか考えようが無いです。

moni5187さん
お役に立ててうれしく思います。
無煙化以前(=伊賀線貨物廃止前?)は国鉄の構内にまで架線が張られていたんですね。

35ロの転轍機の様子を撮ってあり、当方のブログで記事にしました。撮影当時、ポイントはレバーで動かして。腕木信号はワイヤーで引っ張って。という認識はあったのですが、連動装置については、つゆ知らずでした。こちら様のブログを興味深く読ませていただき、記事にすることが出来ました。

伊賀上野駅の転轍機
https://ict.easymyweb.jp/member/moni5187/default.asp?c_id=47339

moni5187さん
列車が来るたびに駅員さんが転てつ器のところまでテクテク歩いて向かっていたなんて、今では信じられませんね。

moni5187さん
列車が来るたびに駅員さんが転てつ器のところまでテクテク歩いて向かっていたなんて、今では信じられませんね。

線路の南側に車道があって、駅前から転てつ小屋まで(推定460m)は、CD125クラスの黒バイか実用車のチャリで野間R経由で通われていました。たまに何も止まってないこともあり、構内を徒歩だったのだと思います。

moni5187さん
そうですね、伊賀上野駅ぐらいの駅ですと徒歩はちょっときついですね。

その昔、伊賀上野駅前にもBARがありました。上野の市街地から離れてるのに何故に、という疑問はありましたが、店名について深く考えたことは無かったです。

時は流れて平成の半ば。天鉄局OBの親戚いわく、かつて駅には、特急あすかが止まって40人いたのに、今はたったの2人と嘆(なげ)いてました。お盆の宴席で、実は李香蘭は…。とかも言ってました。同じくらいの世代のオジさんでしたし。

最近、大和をはじめ夜行列車の華やかしき頃を知るにつれて。駅前のBAR銀河さんは、寝台急行銀河に肖(あやか)った店名で、それぐらい駅員さんがいた国鉄時代の全盛期には、連日、連夜大盛況だったのでは。と想像しています。

>40人→2人
寂しいですが時代の流れですね・・・。
>BAR銀河さん
駅員さんの憩いの場、だったのでしょうか。

>駅員さんの憩いの場、だったのでしょうか。
駅員さん向けなら、勤務中を思い出す鉄道部品は店内に置かず、ごく普通のホステスさん付きBARだったと思います。が、意外と急行銀河のサボやテールマークが有ったかも。当方は未成年でしたから入ったことは無く、あくまで想像です。

>鉄道部品は店内に置かず、ごく普通のホステスさん付き
>急行銀河のサボやテールマークが有った
想像にしては具体的ですね(笑)。

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