紀伊勝浦 1980/3/14
紀伊田辺-(2336M)→紀伊勝浦14:35発/14:52発-(1302D「はまゆう4号」)→熊野市
2336Mは紀伊田辺発新宮行き、1302Dは紀伊勝浦発多気スイッチバックの鳥羽行きです。
2336Mはモハ113-82、1302Dはキハ58737に乗車しました。
名古屋方に対して優等列車を主体に始発・終着列車が設定されており、1番線はそういった列車の折り返し用のようです。寝台特急の「紀伊」のためでしょうか、機回しもできるようになっています。
亀山方です。
1番線の列車はこれから乗る1302Dです。
右側に分かれる側線の先には・・・・
○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
バックナンバーはこちらからどうぞ。
« 彦根 1980/2/29 | トップページ | 熊野市 1980/3/14 »
紀伊勝浦は観光地として有名ですが駅は意外に素気無い配線なのですねえ
投稿: yyoshikawa | 2014年10月19日 (日) 07時02分
紀伊勝浦配線を見ると良くあるNゲージのレイアウトの駅見たいである意味面白いかなと思います
投稿: yyoshikawa | 2014年10月19日 (日) 13時45分
yyoshikawaさん、橋本駅と違ってこちらはアタマに「紀伊」をつけていますね。
配線はシンプルで機能的な印象を受けますね。貨物営業が廃止される前まではもう少しややこしい状態だったのかもしれませんが。
投稿: f54560zg | 2014年10月19日 (日) 21時04分
紀伊勝浦駅1番線と駅本屋の間に側線が有った事は私も覚えています。
ところで、この駅に関しての永年の疑問が1つ有ります。
紀伊勝浦には新宮鉄道から引き継いだ国鉄紀伊勝浦桟橋が有りましたが、この桟橋と駅はどんな配線で繋がっていたのかと言う疑問です。
おそらくは駅の構内扱いで、3線ある側線の1本が港まで延びていたものと想像しますが。
紀勢中線が紀勢東線、紀勢西線どちらとも繋がらず独立していた時代はこの桟橋経由で機関車や客車、貨車が搬入されたと聞いています。
投稿: 海南市交通史研究家 | 2017年10月16日 (月) 20時06分
海南市交通史研究家さん、紀伊勝浦の3本の側線のうちの1本は港まで伸びていたんですか。この側線の配置はかなり風変わりですので、何らかの歴史があるのであろうとは思っていたのですが。
投稿: f54560zg | 2017年10月18日 (水) 22時19分
yyoshikawaさん、大森配線図追加項のコメント落とし失礼いたします。
戦前は新宮機関区の分庫か駐泊所だったのでしょうか、この那智勝浦駅のSL設備も謎めくところです。
紀勢中線の新宮の機関庫に配された数量のC11型が旧式の連結器姿でお目見えしたのはSLファンの間では有名です。
当時は鉄路の飛び地だっかからなのでしょう。
昔の航空写真を見ますと、USA-659-132 は不鮮明ながらいろんな情報を含んでいるようです。
本屋側から岸壁へと向かう曲線状部分、南紀 が停車している敷地の先端辺りは海(画像では埋め立ての途中に見えます)の真横。ホーム端の串本側の山側には矩形庫跡らしき建物が。
新宮の項でお話させていただいたように、早朝に新宮駅を発ち、ここ那智勝浦駅を車内から見たのですが、blog内の写真のように キハ80系の居る側線群の部分が、本線側からだと跨線橋に阻まれたように見えたこともあり、「なにこれ?機関区跡には狭すぎる」の印象でした。
新宮駅から開通後、長らく終着駅だったこともあり、その側線群辺りが、播但線の生野駅のような変遷がありそうかなと今となっては感じるのですが、いびつな構内配線なのは素人目にも明らかです。
航空写真で矩形庫跡に見える部分は、機関区設備には合致した形状と面積ですが、線路跡と見受けられる部分が無くて、これは機関区好きの妄想ですね。
ネット環境や自身の視力も良くなく、いろいろ調べたくても限界があり残念ですが、謎めく那智勝浦駅が少しでも解明されていけばと思います。
投稿: E10 | 2017年10月19日 (木) 01時03分
勝浦桟橋へ向かっていた線路については、微妙に曲がった近隣道路にわずかに面影を残すのみのようですね
投稿: 名無し | 2017年10月19日 (木) 15時20分
E10さん、名無しさん
紀伊勝浦駅は20年以上の間終端駅だったわけですから、何らかの蒸機にまつわる設備が存在したのでしょうね。ロマンです・・・。
投稿: f54560zg | 2017年10月22日 (日) 16時47分
度々の書き込みで失礼いたします。
前回書き込み時に言葉足らずの部分がありましたので再度書き込みます。
まず、南紀用車両が留置されているところがかつてのこの駅の本線です。
厳密に南紀車両の左側にプラットホームがあったのか、又は中線が本線で南紀車両が留置されている辺りに当時のプラットホームがあったのかまでは判りかねますが。
そもそも新宮鉄道は天然の良港だった勝浦港へ物資を輸送するための鉄道で、勝浦駅から順路で港へ向かって建設されました。
しかしながらこの線形では南下してくる紀勢西線との接続が出来ない為に現在の1~3番線を新たに作り、結果、現本線と側線が妙な角度を持つことになりました。
新宮鉄道時代の新宮駅が、現駅前広場付近にあり、現駅に対してほぼ直角に配置されていたものを改良したのと同じ理屈です。
投稿: 海南市交通史研究家 | 2017年11月26日 (日) 17時12分
海南市交通史研究家さん、なるほど、あの側線がかつては本線だったわけですね。情報ありがとうございます。
投稿: f54560zg | 2017年11月26日 (日) 21時46分