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2008年11月22日 (土)

会津滝ノ原 1979/7/20

会津若松-(321D)→会津滝ノ原7:59着/8:27発-(326D)→西若松

またまた別の訪問時期になりますが、もう少し南東北シリーズが続きます。

321D、326Dともキハ25607に乗車しました。
321Dは会津若松発が5:33発で、会津若松~会津滝ノ原間は60.5kmですので、表定速度は25kmを下回ります。

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会津線の終点です。
一日5往復しか列車が発着しませんので2本の列車が同時に停車することはないと思いますが、本線は2本ある状態のままです。

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西若松方からです。
駅の周囲にはあまり人の気配が感じられません。

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西若松方です。

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出発信号機です。

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西若松方です。

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西若松方です。

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終端側からです。

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終端側からです。

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終端側です。

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終端側です。

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終端側からです。

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終端側の線路はまだまだ続いていましたが、途中であきらめました。
どこまで続いていたのでしょうか。

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ホームの傍らには転車台や給水タンクなど、蒸機時代の遺構がありました。

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コメント

会津線の線路の終端、美しいですねぇ。
私が行ったときは、すでにアノ工事線が開通直前で、あちらから保線列車が走ってきました。
ちょっとシラケ?(笑)

LUNさん、コメント3連発ですね。ありがとうございます。
あの線路はどこまで続いていたのでしょうか。ひょっとして夜な夜な何かが走っていたかもしれませんね。

はじめまして京島写真館館長です。
2011年12月29日に行きましたが
ターンテーブルがまだ残っています。

京島写真館館長さん、コメントありがとうございます。野岩鉄道開業時に会津高原駅に改称されたのは知っていたんですが、今ではさらに会津高原尾瀬口駅に改称されているんですね。
貴重な遺産だと思いますので、きちんと保存してほしいですね。

ここから南西の方に八総(やそ)と云う集落があり、そこに昭和40年代まで鉱山がありました。そこまでの約8キロ程線路が続いていました。

福島県人さん、コメントありがとうございます。
会津滝ノ原から鉱山鉄道が出ていたとは初めてしりました。情報ありがとうございます。

初めまして、高急グループの山内と申します。
1972年8月に会津滝ノ原駅の終端車止め標識を撮影しました。以下に掲載しています。
http://www.kokyu-gr.jp/krpp/kurumadome01.html

ヤマさん、私も車止めを求めてそこそこ歩いたのですが途中であきらめてしまいました。
ヤマさんのサイトを拝見しましたが、貴重な写真がいっぱいありますね。

こんばんは。
終着駅だった当時には、本当に山の中の何もないところだったのかと思います。
会津線がなぜこの駅までだったのか、本当はもっと先まで線路を延ばす意思があったのか、考えてみたくなる終着駅の情景です。
「赤字83線」など、採算の取れない路線の整理をしながらも、日本中がまだまだ鉄道を信じ、欲していた時代、今ならば、新藤原から会津滝ノ原までの新線を建設しようとのアイデアが生まれることもないでしょうし、それに着手することもないのではないでしょうか。
時代の変化の中で、新線は野岩鉄道として開業することになり、会津線は国鉄・JRから切り離されました。
この駅に新しい線路が到達した時に、人は何を感じたのでしょうか。
私は、野岩鉄道に乗り車窓を眺めていると、何故か北海道の未成線が脳裏によぎります。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/

確か会津線は国鉄時代日光線の今市迄結ぶ計画で会津滝ノ原迄を取り合えず開通したが其の後の情勢の変化で暫し終端駅として機能してきた
時代が変り首都圏から直接会津地方へのアクセスに野岩鉄道他が第三セクター方式で路線を延長し会津滝ノ原迄到達漸く終端駅から中間駅に変わりました
切格首都圏から線路が通じたが残念乍ら南側は電化北側は非電化の為起点である淺草からは直通する列車が無いのは寂しいです東武鉄道がDCを造ればと思うのですが・・

風旅記さん、yyoshikawaさん、
路線が計画されていてもその後の社会情勢の変化で凍結・頓挫するケースが多い中、野岩鉄道は例外的かもしれないですね。会津田島以北の非電化に中途半端感を感じてしまいますが。

全線電化されれば淺草から会津若松直通の東武ロマンスカーの運転も有りうるのではと思いますが 設備投資に巨額の出費が掛るのでしょうかね
直通用に東武でDCを建造するのも一案でしょうが今の東武は其処迄は考えていない様です
まあ態々淺草から会津田島乗り換えで会津若松へ向かう乗客は殆ど居ないでしょうが
私が以前勤めていた会社の人が故郷である会津へ戻るのに此の線を利用した話を聞きました 時間は掛ったけどと申してました

yyoshikawaさん、浅草からDCってのもちょっとどうなの?って気がしますし、おっしゃる通り需要は少ないでしょうね。

NHKBS2の番組に六角精児の呑み鉄本線で野岩鉄道会津鉄道を放送されてました(再放送)会津高原尾瀬口駅で下車した六角精児がターンテーブルが有るとレポート駅前の蕎麦屋では女将さんが八総銅山の話しをしていました地元の人にとって野岩鉄道が開通し東京へ行ける様になったのは悲願であったと女将は話していた 会津田島此の辺りの中心地で居酒屋が多いと造り酒屋が三軒あるとかレポートしていた
会津田島は野岩鉄道と会津鉄道との接続駅で今でも其れなりな構内である 東武鉄道の新形と区急リバティも田島迄乗り入れている会津鉄道の中間駅駅舎壁に淺草新宿と掲げられておるのを見ても地元にとって野岩鉄道東武鉄道経由で東京へ行けるのだという意志が感じた番組でした

最近東武鉄道が観光客誘致の為鬼怒川線にC11を運行してますがクルーズ列車的な車輛を用意してC11牽引で会津鉄道非電化区間に直通するのも面白いのではと思いますが 早く目的地へ行くのもいいですが列車旅を楽しむ列車でもいいのでは・・・

yyoshikawaさん
私が訪れたときは会津の山の中の終点でしたので、まさに大出世という感じですね。
C57が不調のようですが、会津若松駅で顔を合わせてほしいですね。

昭和53年頃の会津滝の原駅は、桧枝岐を経由して尾瀬沼への最短ルートととしての尾瀬沼山峠口への途中ルートとして、鬼怒川温泉から川治・五十里湖から中山峠の新藤原より先の、ずっと建築延伸中断で途中放棄された鉄道橋脚施設を見ながら(後の野岩鉄道)くねくねの悪路を通って、やっと会津西街道にT字交差して桧枝岐方向に少しいったところに、会津田島方向から来る国鉄会津線の終点として、のどかに所在していました。とにかく駅前はホーム以外何にもないところでしたね。春の水芭蕉の残雪シーズンから、冬の閉山を間近に迎える秋の紅葉シーズンまで、年4~5回は
尾瀬登山に通いました。

千葉市TAKさん
たかつえスキー場にはよく行ったのですが、会津滝ノ原駅の前を通っているとは当時はまったく気づいていませんでした(汗)。

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