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2008年10月17日 (金)

紀伊田辺 1980/3/12

海南-(124レ)→紀伊田辺9:39着/12:08発-(1341M)→下津

紀伊田辺機関区が設けられていますが車両の配置はありません。
蒸機全盛時代には幹線の中間駅に機関区が設けられている例が多々ありましたが(紀伊田辺のほか上諏訪や木曽福島など)、そういった機関区は無煙化・合理化により車両の配置がなくなり、乗務員区として細々とその名を残しているだけになっていました。

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和歌山市方です。DD13は竜華の所属? どうやってここまで連れてこられたのでしょうか。

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亀山方です。

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亀山方です。かつては蒸機が休んでいたであろう場所には電車が休んでいます。

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亀山方からです。

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亀山方からです。

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亀山方からです。

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機関区の転車台です。扇形機関庫はありませんが、多数の放射状の線路は残っています。かつては大きな機関区だったのでしょう。

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救援車がありますが、これは和歌山貨車区の所属です。
EF58も見えますが、紀伊田辺始発・終着の客車列車は設定されていませんでしたので、貨物を牽引してきたのかな?

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コメント

管理人様のEF58の留置の疑問。
和歌山市から新宮までの客車列車の中で紀伊田辺で機関車を交換していました。この機関車は事故が起きた場合に緊急処置をするために24時間待機していました。この処置はEF58が引退するまで取られていました。

つるたまさん、情報ありがとうございます。なるほど、異常時対策なんですね。
異常時対策と言えば昭和50年ころの新前橋区の115系で、朝高崎線からやってきて昼間は上野(実際には御徒町付近)でじっとしていて夜になるとまた高崎線に帰っていく運用があったのを思い出します。

初めてコメントさせていただきます。疑問にされているEF58についてですが、当時EF58牽引の列車は、夜行を含めて上下各3本あったように思います。紀伊田辺駐機の本機は和歌山市駅を起点とし、午前7時台に和歌山駅を出発する列車をけん引して紀伊田辺到着後、前日の同一便で紀伊田辺駐機となったEF58に付け替えをしていました。EF58同士での付け替えだったので当時でも珍しかったと思います。さらに付け加えさせていただきますと、2枚目の写真右側に移っている荷物車ですが、和歌山市から午前7時台の列車でやってきた編成につながれていたもので、EF58の付け替え時にEF15が入れ替えを行い留置したものです。学生だった当時、週末に私的なことで田辺まで行く際にこのEF58牽引の列車をよく利用していたので覚えています。鉄道が好きなので、下車時この作業を見ていました。留置線のすぐ横を当時通り抜けることができたので、車両自体も間近で見ることが出来ました。今ではもうおそらくそんな近くを横切ることはできないでしょうね。懐かしいです。

やまさん、はじめまして。貴重な情報ありがとうございます。
EF58同士の付け替えに加えてEF15による入換とはなんとも贅沢ですね。もしご存知でしたらDD13についても教えて下さい。

こんにちは、やまです。DD13についていろいろと調べてみたのですが、「これだ!」という決定的なものを見つけることはできませんでした。推測ですが、電化前の亀山区のDF50から竜華のEL群に主力が移っていることから、車両管理を考えるとDLも竜華機関区所属機に移っていたのではないかと思います。下車時にDLがあったのは私も見ていますが、所属区までは見ていませんでした。本機はおそらく紀南地方の中核駅である紀伊田辺駅構内の入れ替え用に駐機されていたのではと考えます。手持ちで下車時にいくつか撮影した写真が出てきたので見てきましたが、ちょうどここにDLがいたのではと思うあたりで写真が切れていました。

やまさん、ご面倒をおかけしました(汗)。
私も多分竜華の所属ではないかと思います。貨物列車で電機の次位に連結されて連れてこられたのでしょうか。

53・10の頃DF50の機助士兼電助士でした。田区入機は竜華から。新区入機は亀山からでした。

竜機さん、コメントありがとうございます。DF50に乗務されていたとは羨ましい限りです。
入換機は結構遠くから連れてこられていたんですね。

 初投稿です。

 私は当時、紀伊田辺機関区でEF58機関車交換の誘導(構内運転係)係をしていました。冬場は駅構内でSGの水補給を昼夜していました。

 運転士として乗務した113系電車とEF58の並びは
若かりし当時を思い出すことができて懐かしく感じました。

キハ58 737さん、懐かしさを感じていただけてうれしく思います。

EF58の最後の活躍を実際にこの目で確かめるため埼玉から生まれて初めて青春18切符で全行程を走破しました。当時受験生で世はバブル期の端緒時期であった。天王寺の深夜、鉄道マニアで凄い賑わい。
先頭幾は66号機。予め調べたわけではないが幸運。新宮折り返しで和歌山昼着
途中駅で当時貴重な存在となっていたED
60やEF15等が頻繁に行き来してた
      

66号幾を先頭客車の車窓から眺望し続けた。現存する唯一の原形大窓幾。貫禄分
太公望列車の異名がある通り最終駅まで
乗車する人数が数える程。当時はなにげない光景でしたが今の自制からは高額な金銭を支払っても体験できなかったことは明白。15歳の重要時期でしたが半年後にはこの地にはEF60を中心とした新システムに変更されたため正にラストチャンスでした

165系の最終活躍場と知られる紀勢阪和線
は要するに余命がわずかな機関車や電車の最終落下点、見方を変えれば鉄道マニア
にとって聖地。当時と最新の時刻表を見て
普通列車の運用が壊滅的である点は歴史
であると言える

1985年の鉄道少年さん
旧はやたまに全区間乗車されたんですね。貴重な思い出ですね。
>最終落下点
確かに381系以外はお古の投入が多いですね。

子供の微かな記憶ですが、紀伊田辺駅1番ホーム横にある市営駐車場は昔、貨物車が停まってましたよね。

おそらくそのあたりで昔は貨物の積み下ろしが行われていたのではないでしょうか。

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