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2008年9月22日 (月)

粟生 1980/4/7

加古川-(729D)→粟生9:31着/10:10発-(627D)→北条町

東北シリーズをいったん終えて突然ですが加古川線シリーズ開始です。
手始めに加古川線と北条線の分岐駅であり、かつ神戸電鉄線が接続している粟生です。

Photo

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加古川方です。
一番左の線路は神戸電鉄線ですが、国鉄線とはつながっていません。

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加古川方からです。

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神戸電鉄線新開地方です。貨物側線の跡がありますので、昔は国鉄線と神戸電鉄線はつながっていたのでしょうか。

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右は加古川線谷川方、左は北条線北条町方です。
北条線の列車は大半が粟生折り返しでしたが、粟生で分割・併合して加古川に直通する列車や、一部には谷川方面からの直通列車(すなわち粟生でスイッチバック)もありました。

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谷川・北条町方です。

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谷川方からです。

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北条町方からです。

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粟生駅の連動装置は第一種機械丙でした。「こんなローカル線なのになんで第一種なの?」とも思いましたが、列車本数が結構多いせいでしょうか。
てこは16本並んでいますが、実際に使われていたのはそのうちの12本でした。
内訳は谷川方場内、北条町方場内、谷川方出発、北条町方出発×2、谷川・北条町方転てつ器×2、加古川方転てつ器×2、加古川方出発×2、加古川方場内です。

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コメント

私もよく知る駅ですが、未だに不思議なのは、北条線からの加古川行(粟生駅で加古川線の加古川行に併結)はどうやって1番線に入線していたのでしょう・・・。
北条方から1番線への渡り線はありませんし。

ちょっと自信がなかったので公開をためらっていた配線図を掲載してしまいました。
ついでに西脇も。
粟生の配線図は「下本」と「上本」の文字が逆ですね、多分。スミマセン。
おっしゃるとおり北条方からは1番線には入れません。北条線からの進路は「北条着発線」(3番線?)だけですので、おそらくいったんここに停車した後、入換で1番線に停車している加古川行きの先頭に連結していたのではないかと思います。

そうでもないと粟生駅で加古川線上り列車に北条線の列車を連結させられませんよね。

話は変わりますが、1980年前後のダイヤで西脇(もしくは谷川)発加古川行上り列車で、厄神駅で三木行列車を分割していたという運用があったのですが、この場合は厄神駅2番線(上り線)に入線し、三木行は後部車輌を分割し1番線もしくは3番線に入換して三木方に出発出発させていたのでしょうね。まさか手信号では出発させないでしょうね。
長年の謎なんです。

すみもとさん、ちょっと調べてみました。
(すみません、長くなります)

1980年頃で、谷川or鍛冶屋方面から三木方面に直通する列車はみつかりませんでしたが、北条町方面に直通する列車がありました。
谷川発と鍛冶屋発を野村駅で併結して、粟生駅で北条町行きを分割する加古川行きです(三木線以外はみんな走るという、妙な列車です)。
多分これのことではないでしょうか。

この列車が粟生駅に到着~発車する前後をちょっと詳しく書くと、
1)19:17、谷川・鍛冶屋発加古川・北条町行きが到着。多分1番線。
2)19:20、北条町発粟生行きが到着。多分3番線。
3)19:23、加古川発西脇行きが到着。多分2番線。
4)19:24、加古川行きが発車。
5)19:26、西脇行きが発車。
6)19:34、北条町行きが発車
となります。これらから考えると、
・北条町行きは加古川行きの後ろに連結
・加古川行きは北条町行きを残して発車
・残された北条町行きは入換で3番線に転線、北条町から来た粟生行きの加古川寄りに併結されて北条町に向かう・・・・・、などと思ってしまいます。

なおこの列車、1980年3月の時刻表には掲載されていますが、1978年7月、1981年4月の時刻表にはいずれも掲載されていません。53-10で誕生して、55-10で消滅、といったところでしょうか。

仮に三木行きが存在したとしても、同様に3番線に転線させた後に発車と思います。
おそらく手信号はないと思います。

実際に粟生駅で北条発の列車を連結する列車に
乗っていました。
北条線の列車は一旦加古川方面に進行してバック
して西脇からの列車に連結していました。
そのため、朝の通勤時間帯にもかかわらず、その作業のために10分以上も停車していました。

たきのさん、昔はのんびりしていましたね。今となっては貴重な体験ではないでしょうか。

ご無沙汰しております。
下記のサイトにて、粟生駅の貨物ホーム(こちらではレールは既に剝がされてしまっていますが)国鉄の貨車が留置されている姿が見られます。
http://www.nihonkai.com/onokoho/Sta28-3.htm
荷役のためでしょうか。この貨車が入換にて本線上へ移動するためには神戸電鉄の線路と交差する部分を越えていかねばなりません。当時の加古川線はタブレット閉塞、これに対して神戸電鉄は自動閉塞で、色灯式の出発信号機が建植されちます。
で、貨車の入換の際には、神戸電鉄線の出発信号機との関係はどうだったのか、また、神戸電鉄線の出発信号機は粟生駅(国鉄)が扱っていたのか、それとも神戸電鉄小野駅から遠隔操作で扱っていたのか(国鉄貨物廃止後は校舎、のちに出発信号機自体撤去され出発反応灯(?)が設置)、気になるところです。

【誤記】校舎
    ↓
【正当】後者

すみもとさん、お久しぶりです。
貨車の入換通路に社線が介在するといろいろ疑問が出てきますね。
あくまで想像ですが、粟生駅には神戸電鉄の信号扱所と運転従事員が配置されていて、そちらで信号機を扱っていたのでは?

f54560zg さま
コメント、ありがとうございます。私は貨物扱いがあった当時のことはほとんど知らないのですが、神戸電鉄粟生線の存廃が議論されており、そんな中気になる写真を見付け、ふと疑問に思いました。
閉塞方式が全く異なる社線を貨物側線が跨ぐ以上、神戸電鉄側の運転扱い要員が常駐した(出札は国鉄に委託)可能性は高いですね。ちなみに神戸電鉄がCTC化されたのは平成10年代になってからだと思います。

すみもとさん、このようなケースでは国社が緊密に連携をとって入換作業を行っていたんでしょうね。

粟生駅で調べていたらこのサイトを見つけました。
貨車の入れ替えについてですが、電鉄線の外側に引き上げ線が当時存在し、電鉄線をクロスしてその引き上げ線に一旦入線してから貨物ホームに入っていました。
私の母親の実家が丁度その引き上げ線の前で子供の頃に見た覚えがあります。
取り扱いがどうなっていたかはまだ子供だったので判りませんが、電鉄をクロスするのは入れ替えの最初と最後の2回だったと思います。

通りすがりの者ですさん
貴重な情報ありがとうございます。
社線を跨いでの入換作業が行われていたのですね。

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